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分光器の歴史――虹を作る道具から、原子と宇宙を読む装置へ

分光器の歴史は、光を色に分ける技術の歴史であると同時に、人間の視覚を超えて物質の内部を読み解こうとした歴史でもある。

プリズムを通した白色光は虹のような色帯へ分かれる。しかし、そこに現れる色は単なる美しい模様ではない。光源に含まれる元素、温度、密度、運動速度、磁場などの情報が、スペクトルのなかに記録されている。

ニュートンが17世紀に壁へ映した虹は、19世紀には元素の「指紋」となり、20世紀には原子内部と膨張宇宙を解読する暗号となった。そして現在では、遠方銀河の組成から太陽系外惑星の大気まで、光の分析によって調べられている。

分光器とは、いわば「光を読むための顕微鏡」である。

分光器・分光計・分光写真器の違い

歴史をたどる前に、用語を整理しておく必要がある。

「分光器」「分光計」「分光写真器」は密接に関係しているが、厳密には役割が異なる。

  • 分光器(spectroscope) 光を波長ごとに分け、主として人間の目で観察する装置。

  • 分光計(spectrometer) 分解した光の波長や強度を数値として測定する装置。

  • 分光写真器・分光器(spectrograph) スペクトルを写真乾板や電子検出器などへ記録する装置。

現在ではこれらを広く「分光器」と総称することも多い。歴史的には、肉眼で見る装置から、数値を測る装置、そして自動的に記録・解析する装置へと発展してきた。

基本構造は、現在も大きく変わっていない。

  1. 光を細いスリットへ通す

  2. レンズや鏡で平行光にする

  3. プリズムまたは回折格子で波長ごとに分ける

  4. 分離された光を目、写真乾板、電子検出器で記録する

現代の分光器も、原理的にはこの延長線上にある。

プリズム以前――虹を理解しようとした時代

光が色に分かれる現象は、古代から知られていた。

水晶や角度を持つガラスを通すと色彩が現れること、雨上がりの空に虹が生じることは、すでに古代の自然哲学者たちの関心を引いていた。

アリストテレス以来、白色光は純粋なものであり、色は光が物質や暗闇と混ざることで生じると考えられることが多かった。つまり、赤や青は白色光の内部に最初から含まれているのではなく、光が変質した結果だと理解されていたのである。

中世から17世紀にかけて、テオドリクス・フォン・フライベルク、デカルト、キルヒャー、グリマルディ、ボイルらが、ガラス球やプリズムを使って虹や色彩を研究した。

したがって、プリズムによる色の発見者がニュートンだったわけではない。ニュートン以前にも、多くの人がプリズムの虹を見ていた。

しかし、それを光の成分分析へ転換したのがニュートンだった。

ニュートン――プリズムを「分析装置」に変える

1666年、ペスト流行のためケンブリッジ大学が閉鎖されていた時期、アイザック・ニュートンは故郷ウールスソープで光学実験を行った。

部屋を暗くし、窓板に小さな穴を開け、そこから差し込む細い太陽光を三角プリズムに通す。すると、反対側の壁に赤から紫までの細長い色帯が現れた。

ニュートン以前の考え方に従えば、プリズムが光を変質させ、色を作ったことになる。しかしニュートンは、色帯が予想以上に細長くなる点に注目した。色によって屈折する角度が異なるのではないかと考えたのである。

そこで、最初のプリズムで分けた光から一色だけを取り出し、二つ目のプリズムへ通した。すると、その色はさらに屈折しても、別の色には変化しなかった。

さらに、分解した複数の色をレンズと逆向きのプリズムで重ね合わせると、再び白色光となった。

これによって、

  • 白色光は単純な光ではない

  • 異なる屈折率を持つ複数の色から構成されている

  • プリズムは色を作るのではなく、すでに含まれている色を分離する

ことが示された。

ニュートンは、この色帯をラテン語の spectrum――「像」「現れ」「幻影」――と呼んだ。現在の「スペクトル」という言葉の起源である。

ニュートンの装置はまだ精密な分光器ではなかったが、プリズムを珍しい色彩を作る道具から、光の内部構造を分析する装置へ変えた。ここに分光学の出発点がある。

ウォラストン――虹の中の暗い隙間

ニュートンのスペクトルは、赤から紫まで連続的につながる色帯として理解されていた。

その見方を変えたのが、イギリスの科学者ウィリアム・ハイド・ウォラストンである。

1802年、ウォラストンは太陽光を細いスリットへ通し、レンズで整えてからプリズムで分解した。小さな穴よりも細いスリットを使うことで、スペクトルの像が鮮明になった。

すると、連続しているはずの太陽スペクトルの中に、いくつかの暗い線が見えた。

ただし、ウォラストンはこれを元素の痕跡とは考えず、色と色の自然な境界だと解釈した。現象は発見したものの、その物理的意味には到達しなかったのである。

それでも、スリット、レンズ、プリズムを組み合わせた彼の装置は、ニュートンの実験装置から近代的分光器へ向かう重要な一歩だった。

フラウンホーファー――光を「測量」する

太陽スペクトルの暗線を本格的に研究したのが、ドイツの光学技術者ヨーゼフ・フォン・フラウンホーファーである。

フラウンホーファーは学者というだけでなく、優れたレンズと光学ガラスを製造する職人・技術者だった。高品質な望遠鏡を作るには、ガラスが色ごとの光をどの程度屈折させるかを正確に測定する必要があった。

1814年頃、彼はスリット、プリズム、望遠鏡、角度測定機構を組み合わせた精密な装置で太陽光を観測した。その結果、スペクトル中に数百本の暗線を確認し、主要な線へA、B、C、Dなどの記号を付けた。

現在「フラウンホーファー線」と呼ばれる暗線である。

フラウンホーファーは、暗線が太陽の化学組成を示すことまでは理解していなかった。彼にとって暗線は、異なる種類のガラスの屈折特性を正確に比較するための固定目盛りだった。

しかし、これによってスペクトルは「眺める虹」から「位置を測定できる座標系」へ変わった。

フラウンホーファーの装置は、土地測量に使われる経緯儀を改造したものだった。土地の二地点間の角度を測る代わりに、色ごとの偏向角を測ったのである。ドイツ博物館は、この転換を「土地ではなく光を測量する装置」と説明している。

プリズムから回折格子へ

フラウンホーファーは、プリズムだけでなく回折格子の研究も行った。

回折格子とは、非常に細い平行線を多数並べた光学素子である。光が細い溝や隙間を通ると回折し、波長の違いによって異なる角度へ進む。プリズムが屈折率の違いを利用するのに対し、回折格子は光の波としての干渉を利用する。

フラウンホーファーは最初、細い針金や糸を規則正しく並べ、後にはダイヤモンドの先端でガラス板に1ミリメートル当たり300本を超える細い線を刻んだとされる。

回折格子には、波長と偏向角の関係を比較的明確な数式で表せるという利点がある。また、高密度の格子を作れば、近接したスペクトル線をプリズムより細かく分離できる。

現在の高性能分光器では、プリズムよりも回折格子が広く用いられている。フラウンホーファーは、その原型を19世紀初頭にすでに作っていたのである。

ブンゼンとキルヒホッフ――元素の「光の指紋」

分光器が物質分析装置へ変わった決定的な転機は、1859年、ハイデルベルク大学で訪れた。

化学者ロベルト・ブンゼンは、さまざまな塩を炎に入れたときに現れる色を研究していた。ナトリウムは黄色、カリウムは紫色というように、元素によって炎の色が異なることは知られていた。

しかし、肉眼で見た炎の色だけでは、似た色を出す物質を正確に識別できない。

物理学者グスタフ・キルヒホッフは、その炎の光をプリズムで分解することを提案した。

二人が最初に使用した分光器は、二本の望遠鏡と回転可能なプリズムを組み合わせた即席の装置だった。一方の望遠鏡が試料の光を細いスリットから導き、プリズムで分解する。もう一方の望遠鏡で、現れたスペクトル線を観察した。

観測の結果、同じような炎の色に見えても、元素ごとに輝線の位置が異なることが分かった。

スペクトル線は、元素ごとに固有の「光の指紋」だったのである。

これによって、物質を大量に分離したり化学反応を起こしたりしなくても、わずかな試料が発する光から元素を識別できるようになった。

ブンゼンとキルヒホッフは、この方法によって新元素セシウムとルビジウムを発見した。セシウムは青いスペクトル線、ルビジウムは暗赤色の線にちなんで命名されている。

地上の元素と太陽の元素が同じだった

キルヒホッフはさらに、炎から出る明るい輝線と、太陽スペクトルに現れる暗いフラウンホーファー線が、同じ波長に位置することに気づいた。

熱い気体は特定の波長の光を放出する。一方、より低温の気体が背後から来る連続光を通すと、同じ波長を吸収する。その結果、明るい輝線と暗い吸収線が対応する。

この原理によって、太陽スペクトルの暗線から、太陽大気に存在する元素を同定できるようになった。

哲学者オーギュスト・コントは1835年、恒星の化学組成は人類には永遠に知り得ないと考えていた。しかし、それから四半世紀ほどで、分光器はその限界を突破した。

地球から一歩も離れることなく、太陽や恒星が何でできているかを調べられるようになったのである。ハイデルベルク大学は、ブンゼンとキルヒホッフの研究を、定量的な天体物理学の基礎を築いたものと位置づけている。

オングストローム――スペクトルに精密な物差しを与える

分光分析の原理が確立されると、次の課題はスペクトル線の波長を正確に測定することだった。

ここで登場したのが、スウェーデンのアンデルス・オングストロームである。

オングストロームは水素のスペクトルを研究し、1862年には太陽大気に水素が存在することを示した。さらに1867年、オーロラの光を初めて分光学的に分析し、特徴的な黄緑色の輝線を観測した。

1868年の『太陽スペクトルの研究』では、1000本以上のスペクトル線の波長を測定し、精密な太陽スペクトル地図を刊行した。

フラウンホーファーが暗線の「位置」を体系的に示し、キルヒホッフがその「意味」を解明したとすれば、オングストロームはそこへ精密な「数値」を与えたのである。

後に光の波長や原子間距離を表す単位、

1 A˚=10−10 m

が彼の名にちなみ「オングストローム」と呼ばれるようになった。

分光器から分光写真器へ

初期の分光器には、人間の目で観測しなければならないという限界があった。

暗い光源のスペクトルは見えにくく、長時間観測しても光を蓄積できない。また、観測者の記憶や手描きの記録には主観的誤差が入る。人間の目に見えない紫外線や赤外線も観測できない。

この問題を変えたのが写真技術だった。

写真乾板は、弱い光を長時間蓄積できる。スペクトルを写真へ記録すれば、後から繰り返し測定し、複数の研究者が同じ資料を検討できる。

1872年、アメリカの医師・天文学者ヘンリー・ドレイパーは、こと座のベガのスペクトルを写真撮影し、水素の吸収線を記録した。恒星スペクトルを明瞭な線とともに撮影した最初の成功例とされる。

ここから分光器は、人がその場で見る装置から、光を客観的な記録として保存する「分光写真器」へ変わった。

何十万個もの恒星を分類する

19世紀末、ハーバード大学天文台では、望遠鏡の対物レンズの前に大きなプリズムを置く「対物プリズム法」が採用された。

通常の分光器は一度に一つの天体を観測する。しかし対物プリズムを用いると、写真乾板に写る多数の恒星が、それぞれ小さなスペクトルとなって同時に記録される。

この方法によって、エドワード・ピッカリングの研究チームは膨大な恒星スペクトルを撮影した。

ウィリアミーナ・フレミング、アントニア・モーリ、アニー・ジャンプ・キャノンらは、それらを一本ずつ調べ、恒星をスペクトルの特徴によって分類した。現在も使用されるO・B・A・F・G・K・Mという恒星分類は、この仕事から成立した。

ヘンリー・ドレイパー・カタログには22万5000個を超える恒星スペクトルが収録された。

分光器はここで、一人の研究者が一つの光源を調べる装置から、宇宙を大規模に分類する調査装置へ変わったのである。

ローランド――回折格子の精度を飛躍させる

19世紀後半、アメリカの物理学者ヘンリー・オーガスタス・ローランドは、回折格子の製造技術を飛躍的に高めた。

回折格子の性能は、表面に刻まれる平行線の細かさと規則正しさによって決まる。一本でも位置がずれれば、スペクトル像がぼやけてしまう。

ローランドは1880年代、精密なねじ機構で線を刻む「刻線機」を開発した。これにより、それまでより大型で、はるかに高精度な回折格子を製作できるようになった。

さらに、光を分散させると同時に焦点を結ばせる凹面回折格子を発展させた。装置を簡略化しながら高い分解能を得られるため、物理学・化学・天文学の分光器に広く採用された。

ローランドの回折格子は、一世代にわたって世界の精密分光学を支えた。

スペクトル線から量子論へ

19世紀の分光学は、元素ごとに固有の線が現れることを明らかにした。しかし、なぜ原子が特定の波長だけを放出・吸収するのかは説明できなかった。

水素スペクトルの線が規則的に並ぶことについて、1885年、ヨハン・バルマーが経験的な数式を発見した。

その後、マックス・プランクの量子仮説、アインシュタインの光量子論を経て、1913年、ニールス・ボーアが水素原子模型を提示した。

原子内の電子は、どのようなエネルギーでも自由に取れるのではなく、特定のエネルギー準位にしか存在できない。電子が準位間を移動すると、その差に対応する光を放出または吸収する。

ΔE=hν

スペクトル線とは、原子内部のエネルギー構造が光として現れたものだった。

分光器は、物質の種類を判別する道具であるだけでなく、目に見えない原子内部を調べる装置となった。量子力学は、分光学が集めた膨大な「光の暗号」を説明する理論として誕生したともいえる。

宇宙の運動を測る装置へ

スペクトル線は元素だけでなく、光源の運動も教える。

光源が遠ざかるとスペクトル線は長波長側、すなわち赤い方向へ移動する。近づくと短波長側、青い方向へ移動する。光のドップラー効果である。

この現象に最初に理論的基礎を与えたのは、オーストリアの物理学者クリスティアン・ドップラーだった。1842年、ドップラーは音と光の双方について、波源と観測者の相対運動が観測される振動数を変化させることを示した。ただし、ドップラー自身の想定はやや不正確で、彼は恒星の色そのものが運動によって直接変化して見えると考えていた。1848年、フランスの物理学者アルマン・フィゾーは、この効果を天体の色の変化としてではなく、スペクトル線の位置のわずかなずれとして捉え直した。ドップラーが予言した効果は、連続的な色の変化として肉眼で見えるものではなく、フラウンホーファー線のような精密な波長の目盛りを基準にして初めて検出できる現象だったのである。この修正によって、ドップラー効果は「星の色」をめぐる理論から、「スペクトル線のわずかな移動を測る」実用的な観測手法へと生まれ変わった。ヨーロッパでは、この現象を「ドップラー=フィゾー効果」と呼ぶこともある。

天文学者はこの移動量から、恒星や銀河が地球に対してどの程度の速度で運動しているかを計算できるようになった。

20世紀初頭、ヴェスト・スライファーは銀河のスペクトルを撮影し、多くが大きな赤方偏移を示すことを発見した。その後、エドウィン・ハッブルらの距離測定と組み合わされ、宇宙膨張の発見へつながった。

光を色に分ける装置が、宇宙全体の歴史と構造を測る装置になったのである。

電子検出器――光を数値へ変える

20世紀になると、写真乾板は光電管、光電子増倍管、半導体検出器へ置き換えられていった。

写真乾板には、

  • 光に対する感度が低い

  • 明るさと黒化度の関係が単純でない

  • 現像が必要

  • 数値化に手間がかかる

という問題があった。

光電子増倍管は、入射した光子を電子へ変換し、その電子を連鎖的に増幅する。極めて弱い光も電気信号として測定できるようになった。

さらに1980年代頃から、天文学用分光器にもCCDが本格的に導入された。CCDはスペクトルの各位置に届いた光を電子として蓄積し、波長と強度を直接デジタルデータに変換する。

写真乾板では長時間露光と現像を経て初めて確認できたスペクトルが、CCDでは観測直後に画面へ表示される。感度、定量性、解析速度はいずれも大幅に向上した。

分光器は「光を見る装置」から、「光をデータへ変換する装置」になったのである。

大気圏を越える分光器

地球の大気は、宇宙から届く光の多くを吸収する。

可視光や一部の電波は地上まで届くが、紫外線、X線、遠赤外線の多くは大気によって遮られる。このため、地上の分光器だけでは宇宙の全波長域を観測できない。

ロケット、人工衛星、宇宙望遠鏡の登場によって、分光器は大気圏外へ運ばれた。

ハッブル宇宙望遠鏡などの観測装置は、遠方天体から来る光をスリットへ通し、回折格子で波長ごとに分け、電子検出器で記録する。原理そのものは、ウォラストンやフラウンホーファーの装置と連続している。

しかし現在では、可視光だけでなく、赤外線、紫外線、X線など、広い波長領域のスペクトルが観測される。

これにより、

  • 恒星や銀河の元素組成

  • 星間物質の温度と密度

  • ブラックホール周辺の高速ガス

  • 初期宇宙の銀河

  • 太陽系外惑星の大気成分

などを調べられるようになった。

たとえば2022年、打ち上げ直後のジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は、地球から約700光年離れた系外惑星ウォスプ39bが恒星の前を横切る際の光を、搭載した分光器(NIRSpec)でスリットへ通し、波長ごとに分解した。惑星の大気を透過した光のスペクトルの中に、二酸化炭素による吸収の痕跡が現れた。太陽系外惑星の大気中に二酸化炭素が確認されたのは、これが初めてだった。続く観測では、水、一酸化炭素、そして大気中の光化学反応でしか生じ得ない二酸化硫黄までもが同定されている。恒星から700光年離れた惑星に着陸機を送ることなく、その大気の組成を知ることができる。分光器が到達した現在地を示す一例である。

一度に数百、数千の天体を測る

現代の大規模天文観測では、一つの天体だけを測る分光器では不十分である。

スローン・デジタル・スカイサーベイでは、観測したい天体の位置に合わせて金属板へ多数の穴を開け、それぞれに光ファイバーを差し込む方式が用いられた。

各ファイバーは、異なる恒星や銀河の光を同時に分光器へ導く。一枚の金属板で最大640天体のスペクトルを一度に記録できた。

この方式はその後も拡張され続けている。2000年代末には後継のBOSS分光器が、一枚のプレートに1000本の光ファイバーを収めるようになった。さらに2021年から本格観測を始めたダーク・エネルギー分光装置(DESI)では、5000台のロボットアームがそれぞれ独立に光ファイバーの先端を動かし、一度の露光で最大5000天体のスペクトルを同時に取得する。DESIは5年間で数千万個の銀河とクエーサーの分光を目指しており、これは初期のSDSSのおよそ十倍の規模にあたる。

19世紀のオングストロームがスペクトル線を一本ずつ肉眼で読み取ったのに対し、現代の分光観測は何百万もの銀河や恒星を自動的に測定し、コンピューターが分類・解析する規模へ達している。

分光器が読み取るもの

現代の分光器は、スペクトルから驚くほど多くの情報を引き出す。

 

プリズムが生み出す虹の中には、光源の「身元」「状態」「運動」が同時に記録されているのである。

結び――光は宇宙から届く手紙である

分光器の歴史は、いくつもの段階を経てきた。

ニュートンは、白色光が複数の色から成ることを示した。

ウォラストンは、太陽の虹の中に暗い隙間を見つけた。

フラウンホーファーは、その暗線を精密に測定した。

ブンゼンとキルヒホッフは、スペクトル線が元素の指紋であることを明らかにした。

オングストロームは、太陽スペクトルに精密な波長の物差しを与えた。

ドレイパーらは、スペクトルを写真に記録した。

ローランドは高精度の回折格子を作り、分解能を飛躍させた。

ドップラーとフィゾーは、スペクトル線のわずかな移動から、天体そのものの運動を読み取る方法を示した。

そして電子検出器とコンピューターは、光を膨大な数値データへ変えた。

ニュートンがプリズムを通して壁に映したものは、一見すると単なる虹だった。しかし、その色帯には原子のエネルギー構造、恒星の化学組成、銀河の運動、宇宙の膨張までが潜んでいた。

分光器は、遠く離れた物質を手元へ持ち帰ることなく分析する。太陽に触れずに太陽の成分を知り、銀河へ行かずにその速度を測り、惑星へ着陸せずに大気の分子を探す。

光は、物質と宇宙が送り続ける手紙である。

分光器の歴史とは、その手紙を色に分け、一行ずつ読み解く方法を獲得してきた歴史なのである。

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