令和人文主義と出版ビジネスの瓦解
令和人文主義”教養ブーム”到来
キーワードは「知識のつまみ食い」
読者におもねる批評に未来はない。最近、巷で「令和人文主義」という言葉をよく耳にする。コロナ禍ぐらいから「知」とか「教養」みたいなのを語る若手文化人が増えてきているようだ。
朝日新聞は令和人文主義を以下のように解説する。
読書・出版界とビジネス界をまたいだ文化的潮流で、人文知の重要性を押しつけがましさ抜きに訴える姿勢に貫かれている。
クイズノック、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の著者の三宅香帆氏、「チ。」なんかが挙げられていて、出版業会にとっては救世主のような存在だ。
ニューアカブームのように語られているが、正直言って今回の教養ブームは、クオリティが極端に低い。「構造と力」を持ち歩いているだけのペダンチックな消費者が大量生産された80年代とは異なり、令和人文主義には作り手側のアウトプットにも問題がある。
ぼくは、令和人文主義にはある共通点があると考えている。それは「知識のつまみ食い」である点だ。最近の教養系コンテンツは何かを知った気にさせてくれる。まるで世界史の一問一答のように、視聴者に満足感を与え、教養が増えたように感じる。
しかし、これらのコンテンツにはまるで体系が備わっていない。体系の中でそれぞれの知識がどう位置付けられているのかの説明がないから、つまみ食いになってしまっている。その最たる例が、2024年に最も売れた新書「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」だ。以下に引用したこの本の目次を見てもらいたい。
「なぜ働いているとが読めなくなるのか」の目次
まえがき 本が読めなかったから、会社をやめました
序章 労働と読書は両立しない?
第一章 労働を煽る自己啓発書の誕生―明治時代
第二章 「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級―大正時代
第三章 戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか?―昭和戦前・戦中
第四章 「ビジネスマン」に読まれたベストセラー―1950~60年代
第五章 司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマン―1970年代
第六章 女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー―1980年代
第七章 行動と経済の時代への転換点―1990年代
第八章 仕事がアイデンティティになる社会―2000年代
第九章 読書は人生の「ノイズ」なのか?―2010年代
最終章 「全身全霊」をやめませんか
あとがき 働きながら本を読むコツをお伝えします
この本は第一章から第九章まで、読書と労働の関係性をテーマに歴史が語られており、最終章と後書きで「脱・全身全霊」という主張が述べられている。
読んでみるとわかるが、主張である「脱・全身全霊」(本文では「半身で働く」とパラフレーズされている)は第一章から第九章までの内容では導くことができない。読書と労働についての”知識”が羅列されているだけで、いきなり作者の私見が述べられる構造になっている。
無理やり「半身で働きたい」という主張を正当化させるために、それっぽい知識を前段で紹介しているだけ。言い換えれば、「調べ学習」みたくなっている卒業論文レベルのクオリティだ。
しかし、この本の興味深いポイントは、読み終わった後になんだか賢くなった気がしてくる点だ。読破感がすごくある。
ここに、令和人文主義の問題点がある。「知識のつまみ食い」で体系的に知識を得ないまま教養が増えた気分になる。これではドラマも見て感動したり、スポーツ鑑賞で熱くなったりするのと同じだ。教養コンテンツから体系がごっそり抜け落ちているのだ。
ではなぜ、令和人文主義はこのような欠陥を持っているのか。そこには、出版サイドの事情があるとぼくは推察している。
読者におもねって市場開拓
批評は「いいね」のツールではない
本来、批評や論文とは、差異化の道具だった。「こういう角度からAの作品を見てみると、同時代の作品群とは異なる。だからAは〇〇なんだ」「ある体系の中にBを位置付けようとしたら、▲▲の理由でイレギュラーになっていることがわかった」といった具合に論を展開するのが批評、もとい活字文化の役割だ。それゆえ膨大な知識と文章を必要とするのが特徴だった。
しかし、「出版不況」の現在では、出版社側にそれを発行し続けるだけの経営体力、読者側にもそんな知的体力は残っていない。「論壇」を形成する雑誌がどんどん減っている現実を見なくても、出版ビジネスの瓦解は誰の目に見ても明らかなはずだ。
それでも出版社は知的なもの、書かれたものでビジネスをやっていかなければいけない。そこで編み出されたのが、「知識のつまみ食い」ができる令和人文主義的コンテンツだ。裏返せば、これは出版社側の苦肉の策だとも言える。
24年度の大学・短大の進学率は統計史上最高の62.3%を記録した。大学入学レベルの日本語を読める層は幸いにも増加傾向にある。つまり、知識に触れる層はかつてより格段に増えている。
だからこそ学問の体系は理解できなくても、知識を得たい人々の数は広がている。このマーケットに出版社・令和人文主義のクリエイターたちは目を向けた。批評のターゲット層を一段下げることで読者数を増やし、教養ブームが起きた。いわば、令和人文主義はマーケットインの結果なのだ。
言い換えれば、批評が読者におもねったとも解釈できる。「こんなことも知らないのかね?」と知的挑発をしてくるマッチョイズム的な旧来の批評の時代は終わり、三宅のように言えば「推しの素晴らしさを語る」ツールとしての時代が到来したのだ。
だからこそ令和人文主義のフィールドには「推し活」のような消費者の営為がフィットしている。コンテンツの良さを「共感」するための批評、知識、そこに体系は必要ない。むしろライブやスポーツで得られる種類の”一体感”を批評・書評によって得られるようになるのだ。
ここで、批評の前提を思い出してもらいたい。批評とは差異化のツールだったはずだ。「差異化」のツールが、果たして「共感」の道具になることは許されるのだろうか。批評は、SNSの「いいね」ではない。誰かと感想を言い合ったり、考察するためのツールではない。徹底した差異化の道具のはずだ。
出版社のマーケットインの結果、体系のない「知識のつまみ食い」に成り下がった批評。「推しにいいねを送る」現状の肯定にとどまっていては、新たな革新や概念は生まれてこない。ましてや、知識をつまみ食いして、知った気になるだけだったらAIにもできてしまうだろう。
読者の認知負荷を下げる文体
”お気持ち表明”に成り下がった批評
なぜ「知識のつまみ食い」は止まらないのか。令和人文主義の旗手である三宅は、noteの記事「批評の文体をひらきたいー2025年から考える」の中で、以下のように語っている。
まあ、要は批評が評価されるには、文体が必要なのだ。それっぽく見える、文体が。私は一読者として、そう思っている。
一部の人にだけ書いていますよ、アカデミックから零れ落ちた話をここで説明しましょう、きみたちにだけ、と語りかける文体が。
男性からすると「そんなん男女の問題じゃないでしょ」と思われるかもしれない。文体のジェンダー差なんて言われても、論証してみろよ、と困惑されているかもしれない。だから今ここでは、書き手としてというより、批評ジャンルの一読者として「そう感じるんだ」と駄々をこねるしかない。だってそう感じるのだ。いやいや、きみたち私を読者に入れてないだろう、ばかやろう、と。
私は批評の文体を変えたい。それはつまり、読者をひらくことだ。
同氏は読者をひらくために、文体を変えていきたいと主張する。だが、その結果として批評が「知識のつまみ食い」になるのは果たして許容されるべきことなのか。
文章によって、求められる文体は明確に異なる。卑近な例で言うと、社会学の論文には社会学スタイルガイドに基づいた文体が求められるし、新聞記者には新聞の文体、雑誌には雑誌の文体というものが明確に存在している。
アカデミアでも新聞社でも出版社でも、そうした「文体」を先輩や指導教官、デスクから脈々と受け継いで、活字文化は成立してきた。ある日一人の天才によって生み出されたものではない。
確かに批評にはある種の知的挑発(「こんなことも知らないのかね?」「勘の良い読者なら気づいていると〜」とか)がある。それはマッチョイズム、あるいは東大話法と言えるかもしれない。しかしその「文体」こそ共に賢くなろうとしてきた人々の競争の跡であり、出版、もっと言えば活字文化を信奉するリベラル者たちが目指す”理性的な社会”の取るべき姿勢のはずだ(そもそも「半身で働く」という三宅の主張自体が脱・競争原理感は否めないが)。
それをたやすく捨象して「知識のつまみ食い」を許容し、批評を共感の道具にすることで読者層を拡大できたとして、そこに儲かる以外のなんの意味があるのか。
批評家の東浩紀は「観客を作った」点において、それができていない旧来の批評サークルと比較して三宅を評価していたが、読者層の認知負荷を下げたコンテンツは果たして批評と言えるのだろうか。
体系なき知識が「推し」を分析することは、差異化のツールである批評は一線を画す。それでも「推し」について語りたいのなら、エッセイでも感想文でも書いていればいい。読者におもねる批評に未来はない。
