見出し画像

2602金剛山【第004回】全然進まないアプリ作成日記〜休日だし、山登るか。。。

日本語は約50万語あるそうです。
最大級の国語辞典に収録されている語数がその目安とされています。

ですが、私たちが日常で使う言葉は、そのほんの一部です。
挨拶や仕事のやり取り、家族との会話みたいな常用言語。

それらを差し引いた残りの語彙——
その「差分」こそが、自分を形作っているのではないか。

そんなことを、山を登りながら考えていました。

昨日、映画『剣岳 点の記』を観ました。

明治39年、日本地図最後の空白を埋めるために剱岳へ挑んだ測量手の物語です。

山は、言葉を必要としません。
登ったら感じるままに美しいし、
道中はあきらかにしんどいのです。

それなのに私達は、下山するやいなや、言葉にしようとします。
地図に描き、記録に残し、物語にする。

その営みが、どこか自分のアプリ構想と重なっていました。

朝4時の金剛山

いても立ってもいられず、朝4時に家を出て、
登山口へ向かいました。

いろんな山を登ってみましたが、
金剛山は、やはり少し特殊な山です。
整地された登山道を、毎日のように大勢の登山者が行き交います。

山頂。雪が溶けて地面は凍っていた。

大阪特有の陽気さをまとったおっちゃんやおばちゃんがいて、
一合目で立ち止まろうものなら、

「なにしてんねんな、まだまだ先は長いでぇ〜」

と声をかけられたりします。
「ははは、ほんまですね。」と応えながら

(おばちゃん誰やねん!)と、心の中でつっこみながら静寂だけではない山で、
人間の温度を含んだ山やなぁと、また金剛山を好きになってしまいます。

何度も登る理由

ここ1年で何度も金剛山に登ってみました。
山は変わらないのに、登る自分は少しずつ変わっています。

語彙も同じです。

50万語のうち、日常会話を差し引いて、自分があえて選ぶ言葉。
その選択の積み重ねが、人格や性格をにじませるのではないでしょうか。

言葉はいらないのに

山に行けば、言葉なんて要りません。

好きな不動明王

不動明王に挨拶をし、神社に賽銭を投げ、
頂上の売店でおにぎりを食べ、持参したカップラーメンにお湯を注ぐ。

けっこう人とすれ違ったのに、山頂売店前には誰もいませんでした。
気温は5度を下回ってる。

朝食たべて、、、
それで十分なはずなのに、私はまた言葉を探しています。
山のことを日記に綴ろうとしています。

身体の違和感と、それでも登る理由

ふくらはぎの調子が少し悪い。
左腕の痺れも、ここ最近ずっと違和感として残っています。

それでも登るのは、なぜでしょう。

きっと私は、山そのものよりも、
山に登る「自分の状態」を観察したいのかもしれません。

今日の登山は、アプリ開発のヒントを求めての山行でした。

人の語彙には、その人が滲む。

ならば、日常語を差し引いた「残りの言葉」を可視化できたらどうだろう。

その人だけの未使用語彙の輪郭。
選び取った言葉の偏り。
繰り返し使ってしまう概念。

それは、現代版の「測量」なのかもしれません。山を測った人がいたように、
私は言葉を測ろうとしているのかもしれません。

抽象理解が高い国で、私は言葉を測ろうとしている

日本人は抽象理解が高いと言われています。

国際学力調査であるOECDのPIAAC や
PISA の結果を見ると、
読解力や問題解決能力で日本は常に上位に位置しています。

複雑な文章を読み、前提を整理し、暗黙の構造を掴み取る。
それは確かに、日本人の得意分野なのかもしれません。

抽象が得意なのに、なぜ言葉にできないのか

けれど私は、違和感も覚えます。

私は「なんとなく分かる」ことは多い。
空気を読むこともできる。と思っている(笑)

しかしそれを、自分の言葉で定義できてるか?と言われると、そんな事ないのです。

抽象理解が高いことと、
抽象を言語化できることは、同じ事ではないのかもしれません。

未使用語彙という可能性

日本語には約50万語あると言われています。
そのうち、私たちが日常で使う語彙は数万語程度だそうです。

では、残りの語彙はどこにあるのでしょう。

私は思います。
まだ出会っていない言葉がそうなんじゃないでしょうか。

まだ自分の内面と接続していない言葉です。。

それが「未使用語彙」なのではないかと。

未使用語彙とは、辞書に載っているが使っていない言葉、という意味ではなくって、

本当は感じているのに、
まだ名前を与えていない感覚のことです。

抽象と未使用語彙は両立するのか

ここで問いが生まれました。

抽象的な感覚を私は大切にしながら、
それを言語化しようとすることは両立するのでしょうか。

山にいるとき、言葉は要りません。
けれど山から帰ると、私はそれを文章にします。

これは矛盾でしょうか。

私は、そうは思いません。

抽象とは、輪郭がまだ曖昧な状態のこと。
言語化とは、その輪郭をなぞる行為です。

完全に固定することではなく、
暫定的に線を引くみたいな感じでしょうか。

そう考えれば、両立は可能どころか、
むしろ往復運動なのではないでしょうか。

日本人の抽象力と、私のアプリ構想

もし日本人が抽象理解に長けているなら、
それを自覚的に扱うツールがあってもいい。
そんなふうに考えて

  • 自分がよく使う言葉

  • まだ使っていない言葉

  • 感じているのに表現できていない感覚

それらを可視化するアプリ。

それは語彙を増やすためのツールではなく、
自分の輪郭を測量する装置です。

かつて山を測った人がいたように、
私は言葉を測ろうとしているのかもしれません。

言葉は人格を作るのか

私は思います。

人は、使う語彙の傾向によって、
少しずつ人格が形成されるのではないでしょうか。

怒りの語彙が多い人。
諦観の語彙が多い人。
希望の語彙が多い人。

語彙は思考の通り道です。

ならば、未使用語彙に触れることは、
まだ通っていない思考の道を歩くことでもあります。
(登山に似てるようだ、、、。)

結論:両立は「緊張関係」として成立する

抽象を大切にすることと、
それを言語化することは、完全に溶け合うわけではありません。

むしろ、少しの緊張を孕んだまま共存します。

山にいる私は、沈黙です。
山を降りた私は、言葉を探します。

その往復運動こそが、
私の創作であって、
私の思索であり、
私の人格を作っているのだと思います。

相変わらず、ブルーシールで汚い山頂(笑)テーブルも、反ってるし。
帰り道、5合目のトイレ
不動さんは、ワンカップがお好き
下山したらまだ10時だった

いいなと思ったら応援しよう!

S/J/B よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!