当協会に松井須磨子の遺書が寄贈されました
先日、①松井須磨子が実兄・米山益三に宛てた遺書(米山遺書)、②坪内逍遥が米山益三に宛てた返書(坪内返書)、③松井須磨子が坪内逍遥に宛てた遺書の写し(坪内遺書写し)の3点が、松井須磨子協会に寄贈されました。本件を松井須磨子の107回目の命日である2026年1月5日の信濃毎日新聞朝刊にご掲載いただきました。本件及び記事化は、故人に捧げる最上位の供養だと考えます。信濃毎日新聞の皆様、担当記者の井口様、早稲田大学演劇博物館館長の児玉教授、そして何よりもこの度遺書をご寄贈くださった米山家の皆様に厚く御礼を申し上げます。
松井須磨子が残した3通の遺書
松井須磨子は、大正7年(1918)11月5日にスペイン風邪により逝去した島村抱月の後を追う形で、大正8年(1919)1月5日に逝去しました。死の間際、坪内逍遥、伊原青々園、米山益三の3名に遺書を残しました。全てに共通する内容は、島村抱月先生と同じ雑司ヶ谷霊園のお墓に埋めていただきたいということです(関連記事:都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい)。現在、坪内遺書と伊原遺書は、早稲田大学演劇博物館に所蔵されています。米山遺書及び他2点は、代々米山家当主が金融機関の貸金庫で厳重に保管を行って参りました。
坪内返書と坪内遺書写し
今回、米山遺書に加え、坪内返書及び坪内遺書写しも発見されました。この2点は、新発見と言えます。坪内返書とは、須磨子逝去翌日である大正8年(1919)1月6日に、坪内逍遥が米山益三に宛てた返書のことです。坪内遺書写しとは、坪内遺書の内容を米山家(及び小林家)も把握していた方が良いとの判断から、米山家(及び小林家)のために坪内逍遥自らが写した坪内遺書の写しのことです。また、坪内返書の翻刻は、早稲田大学演劇博物館館長・児玉竜一教授のご協力を賜りました。
米山益三とは?
米山益三とは、松井須磨子の実兄で、「赤坂鳳月堂」という菓子店の創業者です。益三は、長野凬月堂(七澤三右衛門家時代)の支店だった麻布飯倉凬月堂(七澤康太郎経営、現在は閉業)で修業し、赤坂鳳月堂(現在は閉業)を創業しました(関連記事:麻布飯倉凮月堂推定地の解明)。小林姓ではなく米山姓であるのは、米山家の養子になったためです。須磨子は四男五女の九人兄弟であり、須磨子逝去時は母親も存命中でした。それでは何故、須磨子は益三に遺書を残したのでしょうか?
松井須磨子が益三に遺書を残した理由
七澤康太郎(麻布飯倉凬月堂経営者)の妻・峰子は、益三と須磨子(正子)の実姉になります。麻布飯倉凬月堂は、須磨子が初めて上京し、身を寄せた場所でもあり、初婚・離縁・自殺未遂の舞台にもなった場所です。康太郎、峰子、益三、須磨子の全員が長野市出身で、上京後の苦楽を共に支えあったかけがえのない家族なのです。峰子と須磨子は歳の差が10歳、益三と須磨子は歳の差が2歳ですので、益三の方がより距離が近かったのです。
また、須摩子が唯一残した自伝『牡丹刷毛』は、「店の人」というお話から始まります。登場人物の「久江」は須磨子のことで、「諭吉」は益三のことです。須磨子が益三の独立を心から楽しみにしていたことが伝わる温かいエピソードです。
つまり、須磨子にとって益三は、上京後の苦楽を共にし、辛い時にそばで支えてくれた、最も信頼のおける最愛の兄だったのです。
今後につきまして
寄贈品は米山家方式を踏襲し、金融機関の貸金庫で厳重に保管致します。その上で、しかるべき時、しかるべき場所で、皆様に観ていただけるように展示の機会を慎重に検討したいと思います。
短編アニメーション『カチューシャの誕生』
『カチューシャの唄』生誕110年を記念し、松井須磨子協会が製作した短編アニメーションです。ナレーションは長野市出身で元宝塚歌劇団星組男役の朱紫令真さんです。約15分で松井須磨子達の功績を学べます。
プロフィール
堀川健仁
松井須磨子研究者。松井須磨子の功績を次世代に伝えていきたいという想いから、2022年より神楽坂で松井須磨子の研究及び顕彰活動を開始し、2023年に「松井須磨子協会」を設立。また、曽祖母の大叔父は松井須磨子の養父・長谷川友助でもある。
