企業の中期経営計画は本当に必要か?
さて、記念すべき最初のトピックは何を書こうかと迷っていました。巷はW杯ブラジル戦の惜敗に興奮冷めやらぬ様子ですし、そちらの話題にしようかとも考えましたが、初回は少し真面目なビジネスの話を書いてみます。
日本企業の多くが年度末前後から来期の計画、さらには2、3年先の計画づくりに時間をかけ、それを決算発表や株主総会で披露し終えて少し落ち着いたいまが、振り返るにはちょうどいい時期だと思ったからです。
私ぐらいの歳になると、会社の来期見通しの策定に、その一端としてそれなりに関わることが多くなります。そこでは
「3年後に売上を20%増やす絵を描け」
「2年後の最終損益はこれでは物足りない、もう一声出せないか」
「2030年にはROE〇〇%を実現しなければいけない」
といった会話が、上層のさらに上層から漏れ聞こえてきます。
更には、目標年度の数字から逆算して積み上げた計画で、「この需要って、本当に根拠があるのだろうか」という素朴な疑問を口にしにくい空気——多くの上場企業に、案外こういう場面があるのではないかと想像しています。
ところで決算説明会や統合報告書に載るこうした数字を、いったい何人の投資家が本当に信じて読んでいるのでしょう。そもそも、読まれているのでしょうか。そして何より、その数字を作る側にいる私たち自身が、どこまで本気でそれを信じているのでしょうか。
世界は日々、目まぐるしく動いています。2026年初の時点で、アメリカのイラン攻撃を見通して計画を立てられた企業がどれだけあったでしょう。3年先どころか、半年先の為替や金利、地政学リスクを読み解くことすら至難の業です。コロナ禍、資源価格の急変、金融政策の急転換——ここ数年を振り返っても、「想定通り」に進んだことがどれだけあったでしょうか。
それでも、多くの上場企業は3年後、あるいは2030年、2040年という遠い未来に向けて、右肩上がりの数字を掲げた中期経営計画を作り、経営者は自分が主役でいる保証のない遠い未来のコミットメントをすることになります。
あるいは、作らざるを得ない事情があるのかもしれません。証券市場との対話、投資家からの期待、アナリストの評価——そうした様々な力が働いた結果として。
この記事では、「数字を作るための数字遊び」がどのように生まれてしまうのかを、計画づくりの現場に近いところから掘り下げてみようと思います。そのうえで、実際に精緻な数値目標を掲げる中期経営計画を出さずに、企業価値を高めている企業の実例もご紹介します。中期経営計画は本当に必要なのか——その問いに、自分なりの一つの答えを出してみたいと思います。
第1章:「読めない時代」に「読む」を強制される矛盾
中期経営計画の前提には、ひとつの静かなフィクションがあります。「3年後を、ある程度の精度で読むことができる」というフィクションです。
これは、当事者たちの能力不足を意味しているわけではありません。むしろ逆です。世界で最も優れた頭脳を集めた組織でさえ、数年先を読み違え続けている、という事実の話です。
たとえば、各国の中央銀行やIMFといった機関が出す経済見通しは、毎回のように修正されます。数か月前に出した「来年の成長率」の予測が、次の四半期には別の数字に置き換わる——これは失態ではなく、通常運転です。何百人ものエコノミストが、最新のデータと理論を総動員してもなお、数か月先の数字さえ度々外れる。だとすれば、一企業が3年後、5年後の売上や利益を「精度高く」言い当てられると考えるのは、そもそも無理な前提から出発していることになります。
つまり「読めない」のは、努力不足の結果ではなく、時代の性質なのです。
数字は、どこから「降ってくる」のか
にもかかわらず、中期経営計画には精緻な数字が並びます。ここで少し立ち止まって、その数字が実際にどうやって出来上がっていくのか、そのプロセス自体を分解してみたいと思います。
多くの中期経営計画は、次のような順序で作られます。
まず、最終年度の「ゴール」が先に決まります。「3年後にROE〇〇%」「2030年に売上〇兆円」といった、いわば旗印です。時には、「社長の退任年には有終の美を飾りたい」といった、経営の内部事情がその旗印の色を決めてしまうことすらあるように思います。次に、その旗印から逆算して、2年目、1年目の数字が割り振られます。最後に、その数字がさらに事業部門ごと、部署ごとに配分され、現場の一人ひとりの「担当KPI」まで落ちていきます。
このプロセスの厄介なところは、数字が「上から下へ」流れていく一方で、その数字の"根拠"は「下から上へ」積み上げられていない、という点です。本来であれば、現場の実態から積み上げた数字が経営目標になるべきところ、順序が逆転してしまっている。ゴールが先に確定しているため、途中の数字は「そのゴールに矛盾しないように調整される」ものになりがちです。
もっと厄介なのは、一旦「下から上へ」現場に積み上げさせておきながら、「それでは期待値に届かない」という理由で何度も再提出を求めるパターンです。数字づくりを何往復も繰り返すことになり、途方もない時間と労力が費やされていきます。
結果として生まれるのが、精緻に見えて実は空洞化した数字です。小数点第一位まで書かれたエクセルのセルの奥に、明確な根拠がないまま「そう見えるように」調整された数字が眠っている——これは、決して珍しい光景ではないはずです。
「読めない」という前提を、誰が引き受けるのか
さて、ここで大事なのは、これを「経営者の理不尽さ」の問題として片づけないことです。経営者自身は、おそらく誰よりも「3年先なんてわからない」と、内心では理解しているのではないかと思います。
「読めない時代」であることに、異論を持つ人はほとんどいません。それなのに、私たちは「読めた体で、数字を出す」ことを、当たり前のように続けている。なぜこの矛盾が、当たり前として通り続けているのか——次章では、その構造に目を向けてみたいと思います。
第2章:誰が中計を「作らせて」いるのか
前章の最後に、こう書きました。経営者自身は、おそらく誰よりも「3年先なんてわからない」と分かっている。それでも精緻な数字を掲げ続けるのは、経営者個人の資質の問題ではない、と。
では、その数字を求めているのは、いったい誰なのでしょうか。
証券市場という「無言の圧力」
上場企業である以上、株式市場との対話は避けられません。証券市場、投資家、アナリスト——彼らは「この会社は、この先どこへ向かうのか」を知りたがります。そして、その問いに答える最も分かりやすい形式が、数値目標を伴う中期経営計画です。
「方向性は示しているが、数字は出していません」という説明は、対話の場では驚くほど頼りなく響きます。アナリストは数字がなければレポートを書きにくく、投資家は数字がなければ他社との比較ができません。証券市場という仕組みそのものが、「数字を出すこと」を暗黙のルールとして機能している、という側面は確かにあると思います。
これは、誰か一人の悪意によるものではありません。市場に参加する全員が、それぞれの立場で合理的に振る舞った結果、「数字を出すのが当然」という空気が、業界全体の慣性として積み重なっていった——そう捉えるほうが実態に近いのではないかと思います。
経営者の「自己防衛」としての数字
ここに、もう一つの力学が重なります。経営者自身の「自己防衛」です。
中期経営計画で弱気な数字、あるいは「数字は出さない」という選択をすれば、それは市場から「この経営者は自信がないのだろうか」「成長戦略を描けていないのではないか」と受け取られるリスクを伴います。株価は経営者自身の評価にも直結しますから、これは無視できないプレッシャーです。
だからこそ、多少無理をしてでも、それなりに立派に見える数字を掲げておく——という判断が生まれるのは、ある意味では自然なことだとも思います。問題は、この「自己防衛としての数字」が、いつのまにか「本当に実現を目指す数字」であるかのように扱われ、社内のあらゆる計画・予算・人員配置にまで浸透していってしまう、という点にあります。
守るためについた数字が、いつしか組織全体を縛る数字になる。ここに、この問題の一番厄介な部分があるように思います。
「意義のある計画」と「作業としての計画」の分かれ道
こうして出来上がった数字は、大きく二つの道をたどることになります。
一つは、経営陣が本気でその数字にコミットし、実行の優先順位づけや資源配分の判断軸として機能する道です。この場合、中期経営計画は組織にとって意味のある道具になります。
もう一つは、数字を作ること自体が目的化し、期初に発表された瞬間から「作業としての計画」に変わっていく道です。決算のたびに「計画との差異」が説明され、翌年また似たような数字が更新されて出てくる——その繰り返しの中で、計画は誰にとっても実質的な意味を持たなくなっていきます。
ここまで、後者——作業としての計画がどう生まれるか——を中心に見てきました。ですが、当然、前者の道を選んでいる企業も存在します。むしろ、精緻な数値目標を持つ中期経営計画そのものを手放し、それでも企業価値を高めている企業すらあります。
次章では、視点を切り替えて、「意義のある計画」とは実際にどういうものなのか、その実例に目を向けてみたいと思います。
第3章:中期経営計画の"本当の機能"とは何か
前章で、中期経営計画がたどる二つの道について書きました。一つは「作業としての計画」、もう一つは「意義のある計画」です。ここからは、後者に目を向けてみます。
実は、精緻な数値目標を伴う中期経営計画そのものを手放しながら、企業価値を高めている会社がいくつも存在します。
「3年先はわからない」と言い切った会社
信越化学工業は、1990年代の前半から中期経営計画を公表していません。中興の祖と言われる元会長は、企画部門が市場調査などに時間をかける様子を見て、「その時間があるなら顧客のところへ足を運べ」と、精緻な計画づくりよりも実際の事業活動を優先させたと伝えられています。同社の広報担当者は、「翌日の天気さえ分からないのに、将来の目標を出すのは難しい」と説明しています。
この会社の時価総額は、2020年3月末の4.5兆円ほどから、2024年3月末には13兆円を超える規模まで拡大しました。ROEは20%前後、PBRは3倍を超える水準で推移しています。数値目標を掲げない、という選択が、企業価値の低迷にはまったくつながっていないことがわかります。
「1年先すらわからないのに」と語った商社
伊藤忠商事は、2011年から5度にわたって中期経営計画を策定してきましたが、2024年にその公表を取りやめました。長期の経営方針と、単年度ごとの計画に切り替えたのです。
この決断について、同社のトップは「一つの前提が崩れれば全部崩れる」「1年先すら分からないのに、3年先が分かるはずがない」と語っています。廃止の理由として、同社が統合報告書で挙げているのは「企業価値に直結する経営への信頼」という言葉です。ここで語られているのは、「数字を当てること」ではなく、「約束したことをきちんと守ること」への信頼だという点が印象的です。
廃止後、株価は上場来高値を更新し、時価総額は商社首位級の規模に達しています。
「中計病」と名付けた会社
味の素は、2023年に精緻な数値目標型の中期経営計画を期中で廃止し、2030年に向けたロードマップへと切り替えました。売上高や利益の数字を明示する代わりに、ROEやROICといった指標を、ある程度の幅(レンジ)を持たせて示す形に変えたのです。
同社のトップは、この決断の理由を「計画を作ることに疲弊して、実行する余力が残らなくなってしまう。数値目標のみに執着する経営、いわば"中計病"に陥っていた」という言葉で説明しています。この「中計病」という言葉は、そのまま経済メディアに取り上げられ、一つの経営用語として広がっていきました。
この会社のPBRは、2023年の3倍前後から、2026年には5倍を超える水準まで一貫して上昇しています。
見えてくる共通点
三社に共通しているのは、「数字の精度」を追い求めることをやめ、「方向性」と「約束できる範囲」を分けて示すようになった、という点です。
不確実な部分は幅を持って示し、確実に実行できることだけをコミットメントとして掲げる。数字は、現場を縛るための"ノルマ"としてではなく、資本配分や優先順位づけの"軸"として使われている。
逆に、精緻な数値目標を掲げ続けた結果、その数字に振り回されてしまった実例も存在します。ある自動車会社は、大胆な数値目標を伴う中期経営計画を発表してからわずか8か月で、その計画を撤回しました。ある化粧品会社は、掲げた利益目標を繰り返し下方修正し、最終的に大きな赤字に転落しました。数字そのものの精緻さは、企業価値を守ってくれるわけではないのです。
こうして並べてみると、「意義のある計画」と「作業としての計画」を分けているのは、数字の細かさではなく、「その数字に、どこまで責任を持てるか」という、たった一点にあるように思えてきます。
では、私たちは、この分かれ道を前に、具体的に何を変えていけばいいのでしょうか。最終章では、その問いに向き合ってみたいと思います。
第4章:では、私たちはどうすればいいのか
ここまで、3つの章を通して見てきたことを、一度整理しておきます。
読めない時代に、読めた体で数字を出さざるを得ない構造があること。その数字が、しばしば逆算というプロセスを通じて、根拠の薄いまま精緻な形に仕立て上げられていくこと。そして、その数字を求めているのは、誰か一人の悪意ではなく、市場との対話や経営者自身の自己防衛が積み重なった結果であること。そのうえで、精緻な数値目標そのものを手放しながら、企業価値を高めている会社が確かに存在すること。
分かれ道を分けているのは、数字の細かさではなく、「その数字にどこまで責任を持てるか」だという仮説にたどり着きました。ここからは、その仮説を前提に、具体的に何を変えられそうか、という話に進んでみます。
「当てる数字」と「守る数字」を分ける
一つ目の提案は、計画の中に混在している二種類の数字を、意識的に分けて示すということです。
一つは、環境変化の影響を強く受け、精度を求めても意味が薄い数字——売上高や、外部環境に左右されやすい利益の絶対額など。もう一つは、自社の努力や資本配分の結果として、ある程度コントロールできる数字——資本コストを上回るROEの水準や、株主還元の方針など。
前者は、幅を持ったレンジやシナリオとして示し、後者だけを「守る数字」としてコミットメントにする。この区別をつけないまま、すべてを同じ精度の数字として並べてしまうことが、そもそもの空洞化の始まりだったように思います。
「計画をつくる時間」を、「市場と向き合う時間」に置き換える
二つ目の提案は、時間と労力の使い先そのものを見直すということです。
精緻な計画を作るには、驚くほどの人的資本が投じられます。何度も往復する数字の再提出、部門間の調整、根拠資料の作成——その多くは、実際の事業を1ミリも動かしません。前章で触れた信越化学工業の元会長の「その時間があるなら、顧客のところへ足を運べ」という言葉は、時代が変わった今でも、むしろ一層核心を突いているように思います。
これは、計画づくりそのものを否定する話ではありません。ただ、根拠の薄い数字を精緻に見せるための往復に費やされている時間を、顧客と話す時間、現場の変化を肌で感じる時間に置き換えられないか、という問いです。
数字を"つくり込む"ことに投じている労力の何割かを、数字の"材料"そのものを集めることに振り向ける。遠回りに見えて、実際にはこのほうが、次の計画の根拠を強くする一番の近道なのではないかと思います。
数字よりも、「判断の軸」を語る
三つ目は、少し抽象的ですが、一番大事な提案です。
前章で見た会社に共通していたのは、数字の代わりに、「何を優先するか」「どこにお金を使うか」という判断の軸そのものを、丁寧に語っていたという点です。数字はその軸の"結果"であって、"目的"ではない。この順序を取り戻すことができれば、数字が多少粗くても、その計画は組織にとって意味を持ち続けられるのではないかと思います。
最後に
この記事を書きながら、自分自身が計画づくりの現場で、まさに「逆算された数字」を前に、根拠を問うことを飲み込んできた場面を、何度も思い出していました。おそらく、同じような経験をしている方は多いでしょうね。
中期経営計画そのものをやめるべきだ、とまでは思いません。ただ、精緻に見える数字の裏側に、どれだけの根拠と責任が本当に伴っているのか——それを問い直す機会は、もう少しあってよいはずだと思っています。
もしあなたの会社にも、「守れない約束のような数字」が眠っているとしたら、それはどこから生まれた数字でしょうか。一度、逆算の起点まで、静かに遡ってみる価値があるかもしれません。
