ひとところ黒く澄みたる柿の肉 岸本尚毅『雲は友』
柿を割ると、橙色の果肉のなかに、黒ずんで半透明に見える箇所がある。この句が捉えているのは、ただそれだけの事実である。にもかかわらず、その「ただそれだけ」が、読み終えたあとの目に鮮やかに残る。
まず「ひとところ」という書き出しが、対象を伏せたまま読者を句のなかへ引き入れる。「ひとところ黒く」と読み進めても、何の一ところなのかはまだわからない。「澄みたる」に至って、像はさらに不安定になる。「黒い」と「澄む」は、視覚についていえば、一見すると結びつきにくい性質だからだ。黒は不透明を、「澄む」は濁りや曇りのない明澄さを連想させる。ところが実際の柿の果肉には、黒ずみながら透明度を増したように見える部分が存在する。「黒く澄む」というわずかな撞着語法が、その質感を過不足なく言い当てている。
最後に「柿の肉」が置かれ、対象が明かされる。ここで、それまで宙に浮いていた「ひとところ」「黒く」「澄みたる」という情報が、一挙に柿の内部へ着地する。読者は句末で初めて一句の景を完成させ、同時に冒頭へ引き返して全句を読み直すことになる。
この遅延には仕掛けがある。もし「柿」が先に置かれていたら、読者はまず、自分がすでに持っている「柿」の像――黄みがかった赤い色の丸い果実――を思い浮かべたはずだ。その像は、以後の描写を受け止める容器として機能してしまう。
句はこの容器を用意しない。「柿」という既知の概念より先に、「ひとところ」という局所と、「黒く澄む」という未知の知覚を渡してくる。だから読者は、すでに知っている柿を確認するのではなく、最後に現れた「柿の肉」によって、それまで宙にあった知覚を初めて組み立てることになる。確認ではなく、構築である。
「肉」の一語も、この構築を完成させるうえで働いている。「果肉」であれば説明語であり、植物についての既成の語彙のなかに収まってしまう。「肉」と言い切ることで、湿り、柔らかさ、厚みという触覚的な情報が、視覚的な「黒く澄む」という把握のうえに重なる。読者のなかで完成する像は、見えるだけでなく、指先に感触を残すものになる。この視覚と触覚の重なりによって、既知の「柿」は、冒頭の「ひとところ」から見直されることになる。
写生とは、見た順序を忠実に報告することだと考えられがちだが、この句の語順は逆に人工的である。実際に柿を見る場合には、まず柿という対象があり、その果肉の一部が黒く澄んでいることに気づくだろう。
句はその順序を反転させ、「ひとところ」から書き起こして「柿の肉」を句末まで遅らせている。この反転によって、読者のなかでは知覚が概念に先行する。作者が経験した順序ではなく、読者が発見し直す順序が、句のなかに新しく作られている。
「写生」の巧さは、見た順序をなぞることではなく、対象との出会いによって生じた認識を、読者のなかでもう一度生起させるために、言葉を選び、並べ直すことにあるのだろう。この句が成立させているのは、柿の「ひとところ」を発見した作者の眼だけではない。その「ひとところ」を、私たち自身の発見として立ち上げ直す語順そのものである。
柿について何か深遠なことが語られているわけではない。柿の肉の、ほんの一ところである。しかし、その一ところを書くために、句は「柿」を最後まで言わない。
既知の「柿」をいったん読者から奪わなければ、この一ところは現れない。「写生」が「移す」のは、すでに知られている対象ではなく、知っているつもりでいた対象が、ふたたび未知になる瞬間なのではないだろうか。
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