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他人にも感情があるらしい

お盆シーズンのSNSは、昔の恋人が地元に帰省していることを教えてくれる。

17歳の頃、恋人が他の女の子と当時流行りのダンスボーカルグループのライブに出かけた。
私の嫉妬深い性格を知っていた女の子が、出かける前に「本当にただのライブだから、ファン同士なだけだから」と何度も何度も気を遣って伝えてくれていた。

ライブ後、恋人がお土産にライブのグッズをくれて、それでも私はずっと不機嫌にして、彼を困らせていた。
そうしていたとき、相手の女の子に、彼の気持ちも考えてあげて、レアなグッズなんだよそれ、と少し怒り気味に言われたのを覚えている。
彼の気持ちなど1つもわからなかったし、もっと言えば彼の気持ちに興味もなかったのだろう。

その後、そういうふうにいくつもの対人関係の失敗を経験した。恋愛関係が絡むこともあったし、全然絡まないこともあった。すべてがひとえに、他人に感情があるということへの理解のなさが原因だった。自分の感情は他人と完全に共鳴するものだと思い込んでいた。

世界は自分を中心に廻り、自分以外の存在は自分の感情を波立たせるか優しくさせるかのどちらかなのだと信じて疑っていなかったし、疑うどころか不思議にさえ思ったことはなく、当然に自分がまんなかだったのだ。そしてその意識もない。空気の存在に気づかないように。

そのまますくすくと育ってしまって、20歳まで、他人に感情があるということをあまり知らなかった。20歳で周囲から人が消えたから。
それまで当たり前のようにあった人間関係がいくつも途切れて、話す相手も、気持ちをぶつける相手もいなくなった。自分の感情だけが、行き場のないまま手元に残った。

恐ろしいことに、そういう時代においてすら、私は文学というものが好きだった。人に感情があることを知らないのに、人に感情があることが描かれる作品たちを好んで読んでいた。
あの現象はいったい何だったのか?
感情というもの、それ自体がフィクションだと思っていたのかもしれない。

20歳の頃に、いよいよ周りから人がいなくなって、時間制の労働と、いくつかの様々な媒体で描かれる物語のみが自分の手元に残された時に、ひょっとして人間の感情というものは現実に存在するのか、と思い知った。
鉛のような身体を抱えて這々の体で、4年きっかりぶんしか学費を払えないから単位を落とせない、その一心で大学に通いながら、他人の感情というものについて考えていた。

それまで私は、物語の中にいる人間の感情を、現実の人間の感情とは別のものとして見ていたのかもしれない。
物語の中では、誰かが傷つき、誰かを好きになり、誰かの幸福を願う。
それを私は読んで、面白いと思ったり、悲しいと思ったりしていた。けれど、それが自分の隣にいる人間にも同じように起きていることなのだとは考えていなかった。ほんとうに考えていなかったのだ。

いまだになぜ、他人の存在を知らない時代ですら、文学を読んでいたのかわからない。なぜ他人の心の揺れに感動できていたのかわからない。現実は見えなかったのに、フィクションの世界なら見えていた。私は文学を読んでいるあいだだけ、他人の感情を知っていたのだろう。現実の人間にはできなかったことを、物語の中の人間には、ずっとしていた。
それが現実に援用されるまで、ずいぶん、ほんとうにずいぶんかかってしまった。

お盆の季節になって、娘を連れて実家に帰省しているという17歳の頃の恋人のSNSを眺めながら、彼が幸福そうにしていることを嬉しく思う。私にライブグッズをくれた彼の気持ちを、15年越しに考える。

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