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[読書]暗躍したコンサルタント、なぜかボクと同じ部署にいた(笑) - 西和彦『反省記』

東府屋ファミ坊こと塩崎剛三さんが『198Xのファミコン狂騒曲』と『199Xのウッドボール通信』を書いたきっかけは、「世間が小島文隆を悪者扱いにしていることが許せなかったから」だそうです。悪者扱いかな。少なくともゲーム業界ではリスペクトする人が多いし、ボクの目が届く範囲で悪く言う人はいない。だけどゴーゾーさんが言うには、Wikipediaの小島文隆を見ろよと。

小島文隆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/小島文隆

もう時間が経ってるから、ゴーゾーさんを怒らせた記述はないかもしれない。2026年5月24日現在、ネガティブなところは「人物」で、アスキー離脱の原因が

西は後年「興銀傘下のコンサルタント会社から出向でアスキーに来ていた人物が、みんなを焚きつけて造反させた」

Wikipedia~小島文隆

西のこの見解に立てば、小島の独立は結局この人物に踊らされていただけということになる

Wikipedia~小島文隆

こんな記述で、ボクはボーッと読んでいたけど、確かにこれでは小島さんがバカみたいに読めるよね。この記述の出典は西和彦さんが書いた『反省記』にあるという。

だからゴーゾーさんは小島一党の乱の真実について、「西さんが会社から10億円以上の個人融資を受ける稟議を出そうとしたから」、「稟議書に使途が書かれておらず、融資ではなく贈与だ」それ以前に「西さんが第2統括に対して大幅な増収を命じたけど、その使途が不明で納得できない」と暴露したわけだ。この詳細は『199Xのウッドボール通信』にある。

ゴーゾーさんは『198Xのファミコン狂騒曲』の目次のあとに「今は亡き小島文隆さんへ」と示し、この本ではゴーゾーさんだけではなく、ゴーゾーさんを引き立ててくれた小島さんの功績に触れた。そして『199Xのウッドボール通信』では、「もう一度、今は亡き小島文隆さんへ」と示し、いよいよ本丸に触れていく。詳しくは読んでください。

西和彦の栄光の歴史が語られる

さて、ゴーゾーさんの話を丸呑みすると西さんが悪者になってしまうので、ここはやっぱり出典となった『反省記』も読まなくちゃいけないよな。というわけだ。

あ、ここでボクが西さんと呼ぶ理由は友達だからじゃなくて、アスキーは上司をさん付けで呼ぶシキタリがあったから。これは新人研修で人事部の松田さんに教わった。最近、「上司さん付け」の会社が増えてきたと報じられているけれど、40年前のアスキーはいち早く取り入れていた。たぶん西さんがアメリカでビジネスをしてきたからだと思う。

そのおかげで、社内の風通しは良かったと思うんだよね。広告部はちょっとやりすぎて、米澤さんは大先輩の秋山さんを「あきやまちん」とか、ひどいときは「ちん!」とか呼んでたし、国士舘出身の秋山さんはそう呼ばれてニコニコしてた。ほかにも「○○やん」とか「○○ピー」とか呼ばれた上司もいたなあ。もっとも、隣の出版営業部は体育会系というか、そういうのが一切無かった。なんかかわいそうだった(笑)。

『反省記』は、西さんが自らの躍進を振り返るところから始まる。西さんは学生時代にコンピューターに興味を持った。当時のコンピューターは大型電算機にケーブル接続された端末がつながるタイプ。今で言うメインフレームマシンみたいな。大学に入学したばかりの西さんはそんなコンピューター業界でライターとして活躍。取材先の会社と懇意になり、アイデアを売り込んで周辺機器を販売する。のちに「パックスエレクトロニカ」という会社を設立してビジネスを始める。学生起業家です。

次に工学舎という出版社を作り、雑誌『I/O』を創刊。この雑誌は現在も続いてるんだけど、西さんは創業者なのに格下みたいな扱いを受けて立腹。自分のやりたい雑誌を作ろうと、仲間の郡司さんと塚本さんを連れて退社。アスキーを設立します。あれ、なんだか「小島一党の乱」と似てませんかこれ(笑)。

さて、Intelが世界初のマイクロプロセッサー「Intel4004」や「Intel8080」を出した頃。MicrosoftがMITS社のマイコン「アルテア8080」向けにBASICを開発し提供した。それ以前のマイコンは、プロセッサーに直接コマンドを命令する方式だったけど、BASICは英単語に似た言葉で命令できたから、マイコンの操作性がかなり良くなった。

MicrosoftはBASICをApple、コモドール、タンディなど、後に名を残すメーカーに売り込んでいく。Microsoftの社長、ビル・ゲイツは西さんの1つ年上、同学年だった。早稲田大学の3年生で、すでにアスキーの社長だった西さんは、ビル・ゲイツに直電して単身、アメリカに乗り込んでビルと意気投合する。そして西さんは日本のコンピューターメーカーにBASICやMS-DOSを売り込んで大成功する。

西さんは「パックスエレクトロニカ」の頃から「アイデアを機械で実現」が好きだったみたいで、BASICの販売も、「自分のアイデアが採用されたパソコン」を作りたかったから。機械を作りたかったんですね。それは後にMSXとなり、現在もMSX3の開発に携わってるわけですけども。しかし、MicrosoftはBASICやOSを販売していきたい。自らハードウェアを作る気がなかった。そこで西さんとビルの間に溝が生まれた。結局、2人は決別したわけです。

ここまでの成功の歴史は、1988年に刊行された書籍『アスキー新人類企業の誕生(那野 比古著)』でも詳しく紹介されています。この本はボクがアスキーに入社したいと思ったきっかけでした。那野比古さんは産経新聞を経て、ITジャーナリストの先駆者だったようです。ただ、本書は美談にまとめすぎたきらいがあって、まあボクはそこに感動したわけですけども。

後半は別れの歴史

西さんが工学舎を去ったとき、社長の星正明さんはどんなお気持ちだったのでしょうか。残念な、そして悲しい気持ちだったかもしれません。コンピューター黎明期の証人として自伝を望みたいところです。その星さんと同じ悲しさを、西さんは送り出す側として体験します。送り出すというより、取り残されたみたいな。

1度目はMicrosoftと決別後、古川享(ふるかわすすむ)さんがアスキーを離脱し、Microsoftの日本法人を立ち上げました。このときアスキーからOS部門を何人か連れて行っちゃいます。ビル・ゲイツに引き抜かれた感じですね。古川さんは自著「僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史」で本件に触れているようですけど、いけね。これ2015年に買ったまま積んであるわ。読まなきゃ。

2度目は、ボクがアスキーに入社後、1991年。西さんと創業者仲間のはずだった郡司明郎さん、塚本慶一郎さんがアスキーを退社。翌年にインプレスを設立しました。同期で出版技術開発をがんばってたKさんがインプレスに行ったなあ。月刊アスキーの土田編集長もインプレスへ。

ボクは下っ端だったからなあ。このときは何が起きたのかさっぱり分からなかった。郡司さんと塚本さんがアスキー株を売って出版社を作ったらしい。ボクはログインの広告担当で、取引先から問い合わせがたくさんあったけど、会社の行く末より広告ページを埋める仕事の方を優先した(笑)。

後にインプレスは雑誌「DOS/Vパワーレポート」や「インターネットマガジン」を創刊した。だからボクは「アスキーはPC-9801のNECとズブズブだし、パソコン通信アスキーネットからインターネットへの移行も熱心じゃ無かったから、郡司さん塚本さんは西さんと方針が合わなかったのかな」なんて思ってた。それは間違ってた。呑気ですな(笑)。その後、インプレスは、『PC Watch』を皮切りにネットマガジンを大成功させていくわけです。

平社員のボクにとって、西さん、郡司さん、塚本さんは雲の上の人だったから、たまーにエレベーターで乗り合わせて挨拶するくらいだった。普通の会社ならエレベーターに乗り合わせるなよ遠慮しろよって感じだけど、そこは「さん付け」の会社だから平気なわけ(笑)。西さんはいつも咳をしてる人だった。郡司さんはマツダ・ユーノスコスモに乗ってるイケオジって印象。塚本さんとはエレベーターで会話したことがある。アホなボクが「今日は良い天気ですね」って言ったら、「うーん、最近、空を見上げてないなあ」って、なんか寂しそうに言ってた。たぶん退社直前の時期だったかも。

そして西さんの反省というか、孤独な日々が始まる。郡司さん、塚本さんがアスキー株を売っちゃうから、アスキーの株価はどんどん下がる。そこにやってきたバブル崩壊。金策に走る日々。だけどモノ作りの情熱はあるから、松下電器のえらい人やCSKの大川会長が助けてくれたわけです。ソフトバンクの孫さんか、大川さんもアスキーに来た。ボクは会ってないけれど、「そういう人が来るからふだんみたいにはしゃぐなよ」って言われた(笑)。

暗躍したコンサルタントって?

そこにやってくる第3の別れ。そう、小島一党の乱です。きっかけは前出の通り、使途不明金とそれに伴う会社から西さん個人への巨額融資。さらにいうと、そのためか全社的に売り上げ増進と経費節減の号令がかかった。ボクら広告部にはとうてい達成不可能なノルマが課せられ、接待費会議費も制限がかかった。まあバブルのツケかもしれないけど。

そして小島さん率いる第2統括に対するノルマや経費削減もかなり重かったらしい。ボクが覚えてるのは、編集部に対するタクシー禁止。深夜まで働く編集者、スタッフライターは、自腹でタクシーに乗るか、朝まで働いて始発電車に乗るハメになった。

そんななかで悲しい出来事があった。ログインの海外ソフト担当だったひらえもんこと平林誠さんが、バイクで帰宅中に事故死。新婚だから帰りたかったんだと思う。経費節約の被害者です。ボクは事故直前に彼とやりとりすることがあったし、広告部員だけどログイン担当として、彼の葬儀に行った。キリスト教式の葬儀は初めてだった。奥さんがとても気の毒だった。

小島さんたちが怒った理由の背景には、稼いでる部署なのに、スタッフの処遇が改悪されたこともあったと思うんだよね。平林さんの件はゴーゾーさんの本にハッキリと書かれていない。ましてや西さんも書いてない。知らなかったかもしれない。

そして小島一党の乱で暗躍した「興銀傘下のコンサルタント会社から出向でアスキーに来ていた人物が、みんなを焚きつけて造反させた」。この人は知ってます。『199Xのウッドボール通信』では実名で登場します。アスキーを立て直しに来たはずなのに、どんな動きをしているかわからない人。そうかコイツが黒幕だったのか(笑)。

この人のデスクは広告部にありました。たぶん、売上の立つ部署だから、広告部で抱えてくれってことなんでしょう。ボクらの仕事にちょっかい出してくるんだけどピントが外れてたんだよな。そうかこの人、アスキーを助けに来ておきながら、ゴーゾーさんに助言してたのか。そりゃ西さん怒るよ(笑)。西さんによれば、彼は結局、この件で銀行から叱責を受けたのね。小島さんたちが作った会社、アクセラにいた。転職したのかな。それなのにアクセラはあんなにことなっちゃって……。まあとにかく、ボクがコンサルタントって職業を良く思わなくなった原因のひとつはこの人でした。

ちなみにコンサルタントでもちゃんとした人もいます。2019年に知り合った別府さん。彼は学生時代に「九州新幹線西九州ルート」について、ゲーム理論で佐賀県の応益負担を算出した人。関係各方面に取材して、複雑な数式を書いて計算する。優秀な人で、のちに大手コンサルタント会社に就職しました。こういう仕事がコンサルタントだよなあと見識をあらためました。

本書に話を戻すと、日本のコンピューター産業史で西さんの功績は大きかったし、彼が「反省記」で書いたことも、彼の視点では正しかったと思います。ボク自身は西さんが好き。MSX3、がんばってください。

しかし、小島さんたちがコンサルタントに踊らされていたというのは間違い。きっかけはもっと根深く、経営面で社内に混乱を招いたこと、とくに第2統括編集部にノルマと経費節減の圧力をかけたこと。その禍の中で有能な編集者を失ったことなどでした。そこだけは指摘しておきたいと思います。

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