【自己紹介】誰にも頼れず、一人で抱え込んだ日々を超えて。「弱さ」を「強さ」に変えた、私の31年間の記録。
はじめまして、メンタルコーチの杉村康之です。
あなたは今、「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないのか」と、一人で孤独を抱えていませんか?
「弱音を吐いてはいけない」
「人に頼るのは甘えだ」
そう自分を追い込み、誰にも理解されないまま、ギリギリの状態で戦っているかもしれません。
私自身、かつてはそうでした。
幼少期からの劣等感を埋めるために「完璧にやりきる」ことに執着し、不眠不休で働き続け、パワハラに耐え抜いた結果…。待っていたのは、新宿駅のベンチで動けなくなり、更に会社から2度も救急搬送されるという「心身の崩壊」でした。
そんなどん底を経験した私が、どのようにしてボロボロになった自分を立て直し、50歳にして「人生の景色」を劇的に変えることができたのか。
これは、私の恥ずかしい過去も、弱さも、情けなさも全てさらけ出した、31年間の泥臭い再生の記録です。
もしあなたが今、出口の見えないトンネルの中にいるなら、この物語が「自分を守り、人生を変える」ための小さな光となることを願っています。
「みんなと同じ」ができない恐怖と、家族の「無関心」
私は建設会社を経営する父、しっかり者の母、そして6歳上と4歳上の兄のもと、三男(末っ子)として生まれました 。
この「三男」という立ち位置が、その後の人生に色濃く影響を及ぼすことになりました 。
家の中で、私は常に一番下の扱いでした。兄たちからは日常的にプロレス技をかけられ、言葉で言い負かされる。反論しようものなら、「生意気だ」と上から抑えつけられる。体格でも、言葉でも、私は絶対的な弱者でした 。
「自分は認められていない」「何を言っても無駄だ」という無力感と、それを表に出せない「内向的な反骨心」が、私の中に深く刻み込まれていきました 。
しかし、それ以上に、苦しんだのが、二つの身体的な症状でした 。
一つは「牛乳が飲めない」ことでした 。
小学校入学前、「毎日、給食で牛乳が出る」という事実を知った時、泣き出してしまいそうな恐怖に苛まれました 。
「みんなが飲む牛乳を、自分だけ飲めなかったらどうしよう…。」
私は母と二人三脚で、牛乳を飲む「練習」を始めました 。
コップ一杯の白い液体を、息を止めて、吐きそうに、泣きそうになりながら飲み干す日々 。「人ができることが自分にはできない」という強烈な劣等感を、初めて深く認識しました 。
もう一つ、より深刻だったのが「外食時の過緊張」です 。
理由はわかりませんが、レストランなど「よそゆき」の場所に行くと、途端に胃が硬直し、喉が詰まって何も食べられなくなるのです 。
この時の家族の反応が、私をさらに追い詰めました。誰一人として、同情、心配することはなく、それどころか、「外で物が食べられない」ということが、家族の中で「笑いのネタ」になりました 。
ある日、父と二人で早稲田実業の試合を観に甲子園まで行きました 。その帰り道に、空腹の父にレストランに行こうと言われましたが、私は首を横に振りました 。
父は苛立ち、言いました 。「そんなことじゃ、誰もお前を誘わなくなるぞ。」
怒鳴られたわけでありません。だけど、この言葉は、私の胸に深く、冷たく突き刺さりました 。
人が当たり前にできることが自分にはできない…。できないことがバレると、周りから見放されるかもしれない… 。「本心を伝えること」の恐れは、こうしてつくられていきました 。
見放される恐怖に怯える日々
私は、普通の子供だったと思います。…いや、兄たちの影響からか、どちらかといえば、明るく、面白いキャラクターで、目立っていたと記憶しています。人を笑わせることが、大好きでした 。
だけど、その一方で、主張することへの恐れは、成長しても変わりませんでした 。
小学校2年生のテストの日、私は鉛筆を忘れました 。「先生、鉛筆を忘れました。」ただ一言、そう言えばよかったはずでした 。
だけど、「忘れ物は悪いことだ」「先生に言ったら、絶対に怒られる」「ダメな生徒だと思われる」
罪悪感と恐怖で頭が真っ白になった私は、誤った選択をします。机に入っていた色鉛筆で、名前だけを書き、あとは全て白紙で提出したのです 。
結果は0点。答案用紙を家に持ち帰り、解き直したら、全問正解できました 。0点の答案以上に、「なぜ、こんなことすら言えないんだ」という情けなさが、重く私にのしかかりました 。
小学校6年生の時、登校中に自分の不注意でタクシーに跳ねられました。幸い、怪我はなかったのですが、駆け寄ってきた運転手に対し、私は咄嗟にこう言いました 。
「大丈夫です。お父さんに怒られるんで、学校の保健室に行きます」
父は私を怒鳴ったり、殴ったりしたことは一度もありません 。それなのに、咄嗟に出た言葉が「お父さんに怒られるから」でした 。それは、見放されることに対する恐れからだったのかもしれません 。
高まるコンプレックスと、たった一人の友人の救い
一般的に習い事は、できることを増やし、自己肯定感を高めるイメージがあります 。しかし、私にとっての習い事は、逆に、劣等感を強めるものになりました 。
水泳は1年通っても上達しませんでした。書道は6年間続けたものの、字は綺麗になりませんでした 。「自分は要領が悪い」「物事の修正が苦手だ」というセルフイメージが、日を追うごとに固まっていきました 。
さらに、小5の時には、クラスで目立っていたことが原因で、数ヶ月間にわたる無視や陰口といったいじめに遭いました 。
その最中、友人数人と遊んでいた時のことです 。「じゃあ、先に帰るね」と1人早く部屋を出ました。扉を閉めた直後、部屋に残った友人が「やったー!帰った!」と叫ぶ声が、聞こえてしまいました 。
「やっぱり嫌われてるんだな…」
学校がより苦痛な場所に変わった瞬間でした 。
だけど、このいじめは、もともと仲の良かった友人が「今日遊ばない?」と声をかけてくれたことがきっかけとなり、自然と収束していきました 。
「たった一人の理解者、行動してくれる友人がいれば、人は救われる」
と気付かされた出来事になりました 。
がんばっても、ダメな自分
家庭内で、最下位だった立場を挽回したかったのかもしれません 。中学に上がってから、自分なりに努力をするようになりました 。
サッカー部では努力し、技術を磨き、レギュラーにもなることができました。だけど、足が遅いせいで、チームに迷惑をかける時もあり、自信を持てずじまいでした 。
初めての定期考査、私は自分なりに頑張り、学年13番という結果を出しました 。誇らしい気持ちで母に報告しました 。しかし、母の口から出たのは「良かったね」「頑張ったね」という言葉ではありませんでした 。
「国語が70点じゃない。もっと頑張るように」
最も点数の低かった科目をピンポイントで指摘され、私は落胆しました 。
「自分は、がんばってもダメなんだ…。」
幼少期から続いていた、認められたいという願望は、ここでも満たされることはありませんでした 。さらに、成績はまあまあ良いが、運動神経は悪いという中途半端な立ち位置は、クラスで疎外感を感じることにも繋がりました 。
最初の大きな挫折と「やりきれなかった」後悔
私の劣等感を決定づけたのは、「高校受験」です 。
幼稚園に入る前からの幼馴染の友人は、早稲田大学高等学院、慶應義塾高等学校、慶應志木高等学校と全てに合格しました。彼は、早稲田大学高等学院を選び、進学しました 。
私も、地元の早稲田大学高等学院に強い憧れを持っていました。そして、何の根拠もなく「当然行ける」と思い込んでいました 。その根拠ない自信のせいで、私はほとんど勉強しませんでした 。
結果は、当然、不合格 。
「自業自得だ…。」やり切らなかった自分に対する激しい後悔に、苛まれました 。この「やりきれなかった」という強烈な後悔が、この後の私の人生を支配する「呪い」になっていきました 。
私は滑り止めの進学校へ進学することになりました 。行きたくない学校だったこともあって、入学前から、私の心は、ネガティブな感情で埋め尽くされました。そして、入学式当日、胃腸の調子も最悪で、トイレに駆け込み、一番後ろから入場しました 。
高校では、父の「理系が出世する」という言葉を信じ、理系コースを選択しました 。そこは、国立医学部や東大・京大にも合格者を出す超優秀なクラスでした。私は、そのクラスの、ビリから3番目でした 。
再び、劣等感に苛まれ、私は、再び居場所のなさを感じました 。私は勉強から逃げるようになりました 。そして、その分、エネルギーを注いだのが、「大学ラグビー観戦」でした 。
それが、早稲田大学へのさらなる憧れに変わっていきました 。当時の早稲田は、「小さくても速さで勝つ」スタイルでした。大男たちを、小柄な選手がスピードと戦術で打ち負かす 。幼少期から「チビ」と呼ばれ、体格で周りに劣っていた私にとって、その姿は、まさに自分の理想であり、希望でした 。
「受容」という奇跡の体験
16歳の時でした。学校帰りの電車の中、憧れの早稲田大学ラグビー部、さらに日本代表の監督まで務めた日比野先生が立っていたのです 。心臓が飛び出しそうになりました 。
小学生の時、先生に鉛筆を忘れたことすら言い出せなかった私です。声をかけるなど、できるはずがありません。だけど、ラグビーへの狂信的な愛が、
私の恐怖心を上回りました 。
「日比野監督ですか?握手してください!」
大学の門までついていって、勇気を振り絞って声をかけると、日比野先生は、嫌な顔一つせず、にこやかに、私の手を強く握り返してくれました。先生の分厚い手のひらから伝わってきた、じんわりと身体中に広がる、温かい感覚。それは、劣等感まみれだった私という存在が、憧れの人に「受け入れてもらえた」何物にも代え難い感覚でした 。
この体験は、私の自己肯定感の核となり、生涯忘れることのない大切な思い出となりました 。
叶った夢と、それでも消えてくれない後悔
日比野先生との奇跡の出逢いは、私に力をくれました 。だけど、それでも、私は現実を変えることはできませんでした 。
ラグビー観戦に没頭し、勉強を放棄した結果、早稲田大学どころか、現役での大学受験は全て不合格 。一浪目、自分を律して勉強することができず、滑り止めのために受けた大学に合格 。
父に「二浪して京大か早稲田を目指したい」と訴えるも一蹴され、滑り止めの大学への進学を決定されます 。しかし、私は諦めきれず、父を説得し「仮面浪人」の許可を得ました。後期からは休学して受験勉強に専念 。
早稲田・慶應・京大のみを受験し、結果は、早稲田に補欠でギリギリ合格 。
憧れ続けていた早稲田大学での日々。しかし、ここでも私は、葛藤を抱えていました。父の言葉を律儀に守り、不向きな理系の学部に進んだため、高校時代と同じ居心地の悪さを感じる日々を送りました 。
しかし、私には「聖域」がありました。入部した「スポーツ新聞部」です 。そこは、私にとって初めて「心から馴染める場所」でした 。さらに、信じられないことに、あの憧れの日比野先生が、部の顧問として再び私の前に現れたのです 。
それまでの人生で、最も幸せな時間でした 。
しかし、また、ここでも、コンプレックスが消えることはありませんでした 。取材対象の大学ラグビー部には、高校受験の時に早稲田に進学し、劣等感を抱いた幼馴染が所属していました 。そして、取材対象であるラグビー部と、取材させてもらう側のスポーツ新聞部という立場の違いから一線を引かれ、ここでも、また劣等感を感じ続けました 。
「もし高校受験で、やりきっていたら、自分もあちら側にいられたのでは…」という後悔は、卒業後も長く私を苦しめました 。
就職活動と、人生最大の試練の始まり
就職活動時、勢いで受けたある鉄道会社に内定しました。「鉄道会社ならスポーツが自由に見に行ける」という下心から、鉄道会社を選びました 。
赴任先の地方へ向かう列車の中、憂鬱でした。しかし、この憂鬱なスタートは、意外な形で好転します 。研修での自己紹介。かっこつけることに疲れていたのもあり、等身大で自分を語りました。結果、会場は大ウケ。職場のあるエリアにおける寮生活は、私にとって心置ける「第二の居場所」となりました 。
「やりきる」執着が招いた崩壊
赴任から3年後、東京へ転勤となりました 。さらに、それから、2年が過ぎたころ、父の会社が倒産しました 。父たちを放ってはおけないと思い、会社に「東京にしばらくいさせてほしい」と願い出ました。結果、社内でも有名な厳しい部署へ配属されました 。
幼少期に形成された「権威への恐怖」と「自己主張の抑圧」パターンが、再び、発動し、私は幼い頃の自分に逆戻りしてしまいました 。
…いや、幼い頃よりも、より強く「耐えること」にこだわりました 。
その理由は、過去の後悔からでした 。高校受験、大学受験で「やりきれなかった」自分への後悔が、私を突き動かしていたからです。「この状況があるのは、やりきらなかったせいだ。」何百回、何千回も、襲われた後悔が、私に、耐えることを選ばせました 。
私は、結果ではなく、「やりきる」ことそのものに異常なまでに執着していました 。
「3日でやれ」と指示されたタスクを、私は「72時間」で考えました。寝るのは、72時間の合間に余った時間だけ。終電を逃し、会社でタスクをこなし、朝の始発で家に帰り、シャワーを浴びて1時間だけ寝て、また出社する。そんな日々を繰り返しました 。
もちろん、身体は悲鳴を上げていました。それを無視し、「べき論」でタスクを詰め込み、やり切る日々を送り続けました 。
その後も、異動先で会話が成立しない上司のもとで苦しみ、初めて「朝、体が動かない」といううつ症状を経験します 。
「うつ病になっている暇なんてない!」
病院にも行かず、うつ症状を隠し続け、その部署で3年間勤めあげました 。
次の部署で、中間管理職になった私は、ここでも上司は怒鳴り続ける人で、24時間勤務で心身は消耗しました 。
しかし、そこでもどうにか1年半、耐え続けました 。
二度の救急搬送
私の心を完全に破壊したのが、次に任命された管理職でした。着任早々、悪名高い上司から、私の全てを否定する言葉を浴びせ続けられました 。
「お前は、何をやってもダメだね」
幼少期、母に褒められなかった記憶。受験に失敗した記憶。「要領が悪い」と思い込んできた過去の全てが、その一言で呼び覚まされました 。
「もう2度と後悔しないように、やり抜いてきたはずなのに…。」
10数年のがんばりを、私という存在を内側から破壊していきました 。
着任から、わずか4ヶ月。通勤中の新宿駅で貧血を起こし、ベンチに座り込みました 。「もう、ダメだ」 。
その足で心療内科へ行き、「うつ症状」と即日診断され、2ヶ月の休職を命じられました 。
休職後、別部署に、そして、関西へ転勤を命じられました 。
しかし、試練は終わりませんでした 。大きなプロジェクトを部下とたった二人で任せられました 。
激務の中、電話で、必死で考えた提案を強く否定された瞬間、プツンと糸が切れ、私は意識を失いました。貧血による失神。救急搬送されました 。
その後も、会議中にトラウマを抱えている上司から意見を否定された瞬間、目の前が真っ暗になり、再び倒れました 。2回目の救急搬送になりました 。
限界はとっくに超えていました。私は会社に「このままでは、また倒れてしまう」と助けを求めました。しかし、会社は「あいつは昔倒れたからビビってるだけだ」と判断し、私の訴えは聞き入れられませんでした 。
絶望しました。会社は、私を守ってくれない 。
「自分を自分で守ること」の重要性を、私は、文字通り、血を吐き、倒れながら、骨の髄まで痛感したのです 。
「結婚」と、両親の「死」
そんな絶望の淵にいた私に、大きな転機が訪れます。40歳を過ぎて始めた婚活で、私は現在の妻と出会います 。
しかし、ここでも関係は破綻しかけました 。これまでの人生で形成された「普通は、こうだ」という「べき論」に固執し、それを彼女に押し付けるような言動をとってしまったのです 。
その時、初めて私は気付くことができました 。「やり遂げなければいけない」私は、過去に縛られ、2度と後悔しないために、耐え続け、がんばり続けてきました。そして、そうできている「自分は正しい」と思っていました 。
だけど、「自分が正しい」という囚われこそが、相手を傷つけ、物事を悪い方向へ導いてしまうことに、ようやく気付くことができたのです 。
私は、間違いを認め、心から妻に謝罪しました 。幸いにも、妻はその謝罪を受け入れてくれました。この大きな危機を乗り越えたこともあって、その後、結婚に至ることができました 。
結婚の翌年、父が死去。翌々年、母が死去しました 。
幼い頃、家族の中で、私は常に一番下の扱いでした 。牛乳が飲めず、外食ができず、家族の笑いのネタにされていました 。家族を、父を、母を恨んだこともありました 。
だけど、二人は、ずっと家族に尽くしてくれました 。
二人が亡くなった時、兄たちは頼ることができませんでした 。葬儀社の選定と連絡、打ち合わせ、近親者への連絡、私が取り仕切りました 。家の整理・売却、相続も行いました 。父が信用で残した会社の債務整理も、私が一人で行いました 。
全てが終わった時、私は、自分の人生について、初めて向き合うことができました 。父と母が亡くなった年齢と、自分の年齢を思いました 。
「残り、あと30年か…」
私の中に、一つの、しかし、力強い決意が生まれました 。
「これからの人生、本当にやりたいことをやりたい」
両親の死が、自分の足で立つ勇気を与えてくれたのです 。
「心」を学ぶ
私の「やりたいこと」は、明確でした 。私自身がずっと苦しみ、だけど、目を逸らし続けてきた「心」を学ぶことでした 。
幼少期から私を支えてくれた「スポーツ」と、私自身が地獄の苦しみを味わった「メンタル」を結びつけること 。「スポーツメンタルコーチ」の学びを開始しました 。
知れば知るほど、それは、私が会社で苦しみながら、心のどこかで求め続けていた「心を整える技術」そのものでした。私は没頭しました。そして、そのスキルを認められ、団体の最高レベルコーチに認定されました 。
コンプレックスを抱え、人格否定され続けた私が、専門家として「認められた」のです 。この喜びは、心の底から湧き上がるような、確かな自己肯定感を与えてくれました 。
それらのメンタルの学びは、予想外に、会社でも発揮されるようになりました 。
当時、私が所長として出向した会社には、古い労使対立文化が色濃く残っていました。着任早々、組合の分会長が「敵対的な人物」として私の前に現れ、怒鳴り込んできました 。
しかし、私は、学びのおかげもあって、彼と対立することを選びませんでした。ただひたすら彼の言葉に耳を傾け、その立場に共感を示し続けました 。
対話を重ねるうち、あれほど敵対的だった分会長の態度は劇的に軟化し、やがて彼は所長室に世間話をしに来るようになりました。そしてある時、ポロリと本音を漏らしてくれたのです。
「組合員の手前、ずっと言えなかったが、本当は家族のために昇進したい」と 。
彼は「頼られる」立場でなければならず、誰にも「頼れない」という孤独を抱えていました 。それは、過去の私と同じでした 。
私と一緒に、その葛藤を感じ、整理し、本当の望みに向き合い続けました。その結果、彼はついに決断。管理職試験を受けて合格し、新しい道へと進んでいきました 。
報われていく過去
2024年4月、私は鉄道会社を退社し、メンタルコーチとして起業しました 。
なぜ、私がメンタルコーチの道を選んだのか?
私自身が「頑張っても報われなかった」人間だからです 。あんなに身を粉にして「やりきった」のに、待っていたのはうつ症状と二度の救急搬送でした。だからこそ、「頑張った人が報われてほしい」。心の底からそう願っているからです 。
メンタルコーチという選択は、会社員時代には決して得られなかった「貢献の実感」と「心の底からの喜び」を、私にもたらしてくれました 。
それは、あれだけ脱したかった過去の苦悩が、クライアントの未来を照らす光へと変わっていったからです 。
そして、独立後の私にとって、最も象徴的な出来事が起こります 。古巣である会社の野球部から、メンタルセミナーの依頼が来たのです 。
連絡をくれたのは、私が退職する時の送別会で20年ぶりに再会した、尊敬する先輩でした 。その先輩は、私が東京でうつ症状に苦しみ、心身ともにボロボロだった「一番の暗黒時代」を、同じ部署の担当として知っている人でした 。
その先輩が、今や野球部長として「チーム強化のために、専門家として」私を頼ってくれたのです 。
それは、私の過去の苦しみが報われ、古巣に「凱旋」できた瞬間でした 。
「会社は自分をわかってくれなかった」という思いが、尊敬するたった一人の先輩からの「承認」によって、昇華されていくのを感じました 。
弱さを、寄り添うための強さへ
私の人生は、劣等感と挫折、不適応と抑圧の連続でした 。そして、「やりきれなかった」後悔を埋めるために、「やりきる」ことに異常なまでに執着し、心身を壊しました 。
しかし、その全ての経験が、私をここに導いてくれました 。
あの地獄のような日々、うつ症状に苦しんだ経験、人格否定に耐えた時間、二度も救急搬送された無力感…その「弱さ」と「苦悩」のすべてが、今、同じように苦しんでいる人の痛みに寄り添うための「強さ」になっています 。
私のミッションは、「頼ることができなかった人に、安心して頼ってもらえる存在になること」です 。そして、「頑張った人が、正しく報われる世界」をつくるお手伝いをすることです 。
もし今、あなたが理不尽さや人間関係に悩み、「こんなに頑張っているのに報われない」と自分らしさを見失いそうになっているなら…。もし、あなたが「人に迷惑をかけたくない」「自己責任だ」と、誰にも「頼れない」まま、一人ですべてを抱え込んでいるなら…
私は心から力になりたいと願っています 。
抱え込んだものを、ひとつずつ下ろしていきましょう 。置いていくもの、持ち続けていくもの、新しく抱きしめていくもの、一緒に、整理していきましょう 。
そうしたら、きっとまた、笑顔で歩き出せるはずです 。
安心して心を委ねてもらえる、共に未来を考える仲間にしてもらえれば、心から幸せです 。
メンタルコーチ杉村康之
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■ プロフィール
メンタルコーチすぎやす(杉村康之)|思考リニューアルの専門家
31年間の会社員生活で、組織の理不尽さ、中間管理職の孤独、そして挫折を経験。
「心のあり方」ひとつで見える景色が変わることを確信し、脳科学と心理学をベースにしたメンタルコーチとして活動中。
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