♯21 前田利長一代限りの名城・高岡城
地元の人に,「高岡城に行ってみたい」と言うと「何もないよー」という答えが返ってくる。だけど,巨大城郭の輪郭が今でもくっきりと残っている。しかも,その縄張りは,あの高山右近のものと伝わる。諸説あるらしいが,そうじゃなかったとしても,信長の娘・永姫の婿である前田利長の縄張りだ。どっちにしても,すごいじゃないか,高岡城。(富山県高岡市古城)
縄張りをしたのは誰か?
高岡城は,利家とまつの子,利長が築いた城だ。隠居城として最初に築いたのは富山城であったが,いろいろあって,慶長14年(1609)に,高岡の地に新たな隠居城を築いた。だが,既に病に侵されていたのか慶長19年(1614)に利長は没する。翌元和元年(1615)には廃城となっており,前田利長一代限りの城郭だったということだ。


国指定史跡 高岡城跡
高岡城は、加賀前田家二代当主前田利長が、自らの隠居城として、慶長十四年(1609)に築城した城であり、小矢部川と庄川に挟まれた高岡台地上に位置する。
慶長十四年利長は、居城である富山城が焼失したため、新たな居城として六ヶ月で高岡城を築造するとともに、城下を整備した。慶長十九年(1614)に利長が没し、翌元和元年(1615)一国一城令により高岡城は廃城となったが、その後も藩の米蔵や塩蔵等が置かれ、維持管理された。明治維新後は公園に整備されて今日に至った。
高岡城の縄張は、本丸の周囲に「馬出」と呼ばれる郭を配置し、この時期の特徴的な姿となっている。平成二十二年から二十四年の発掘調査によって、本丸から御殿のものと考えられる礎石や石積みを検出する等、地下に遺構が良好に残っていることが確認された。
市街地にありながら堀や郭がほぼ当時のまま良好に保存されており、近世初頭の政治・軍事の状況や築城技術を知る上で重要な史跡である。
高岡城は,馬出しの配置に工夫を凝らすなど,その縄張り(設計)が見事である。そのことが,築城の名手ともいわれた高山右近の存在と結びつき,高岡城の縄張りは右近の手によるものと言われてきた。金沢城も右近が縄張したのだから,そういう流れになるだろう。キリシタン大名として,かなりミステリアスな生涯を歩んだ右近は,利休門下という縁もあって前田家の客分として手厚く遇されていた。右近の縄張りだという話には,ロマンを感じる。

高山右近顕彰碑
高山右近(1552-1615)諱は長房・通称右近大夫・洗礼名はジュースト・茶道では南坊と号した。織田信長豊臣秀吉に抜擢されて明石十二万石の大名となり,切支丹禁令を拒否して追放されたが,細川忠興の斡旋により秀吉の内諾を得て,加賀藩に万石以上の高禄で迎えられた。前田利家・利長は茶聖千利休門下で南坊と相識り無二の知己であった。
高岡市の開祖利長公が引退後の慶長十四年に築いた高囲城は、築城術の名手右近が縄張りした独創遠大な構成で,江戸城大阪城に比肩すると評される名城である。公は天下の大勢を洞見し,徳川豊臣の抗争再燃を憂慮して,万々一の有事に備える深謀の築城であった。
徳川幕府の禁表令は愈々厳しく,慶長十九年正月右近は国外追放となり,在藩二十六年の恩遇を深謝して告別した。十一月呂宋に渡ると大歓迎を受け,令名はスペイン,ローマまで轟いたが,間もなく悪疫に冒されて翌元和元年正月数奇多難の生涯を終わった。
高岡市民は利長公と高山右近異体同心苦衷を偲び敬慕の至情は綿々子々孫々に及んで永遠不滅である。
高岡城の縄張りが誰の手によるものかということについては,富山市埋蔵文化財センターのwebページ「富山城研究コーナ」の「高岡城の縄張りは高山右近が行ったのか?」に考察が記されている。
結論から言うと,右近縄張り説は分が悪く,前田利長が自ら行ったものと考えられるようだ。だけど,碑文によれば,高岡市民は利長と右近を「異体同心」と思っているんだから,ロマン重視の右近説を否定しなくても良いような気がしてくる。
高岡城の構造
高岡城跡に建築物の遺構はない。けれども,築城当初の規模構造が確認できる状態で城跡が今に残されていて、城郭好きにはたまらなくうれしい。詳しいことは『特別展国史跡指定記念高岡城跡の魅力パンフレット』を読めば丸わかりという感じだ。
高岡城跡に足を運ぶと,巨大な土塁と幅の広い水堀に圧倒される。石垣を積まずとも,まさに堅城の存在感がある。そして,縄張りである。基本的には,富山城の縄張りを踏襲しているらしく,比べてみると,本丸を守る馬出しの配置など,設計思想が似ていることがよく分かる。
築城当時からの貴重な遺構といわれる土橋の石垣とか,川床から引き上げられた石垣の石とか,もっと見るべきものがあっったのに,見逃してしまったのが残念でならない。


瑞龍寺と前田家・織田家の石廟
前田といえば利家なんだろうけど,息子の利長もなかなかの人物だったのだろう。おそらくは,幼い頃から信長の側近くで薫陶を受け,見込まれて信長の娘・永姫を妻にしている。その,前田利長の菩提寺が国宝・瑞龍寺だ。伽藍は壮大で,仏殿の屋根が鉛瓦で葺かれている。金沢城と同じだ。この寺は,利長の菩提を弔うために加賀藩三代藩主の利常によって建立された。造営には,正保年間から寛文3年(1663)までの約20年の歳月を要したという。墓所は別にあり,八丁道という道で瑞龍寺と結ばれている。



瑞龍寺の境内には,前田家と織田家の石廟がある。最も大きいものが利長,その隣が利家,さらにその隣が織田信長,小さな石廟を挟んで織田信忠。小さいのは,利長夫人・永姫の母のものだという。そして,信長,信忠の廟には,2人の分骨が埋葬されていると伝わるのだが,果たして本当か。髪の毛一本残さずにこの世から消え去った親子の骨があったものなのか,謎である。謎と言えば,この石廟を建てたのは誰なのかが瑞龍寺のwebページを見てもわからない。自分で自分の石廟を建てるのは変だから,利長から譲られて加賀藩を継いだ弟の利常が瑞龍寺建立時に建てたのかもしれない。しかし、本人を除く4名については,利長がその霊を篤く弔いたいと思った4名であり,利長の思いで建てられるのが自然だろう。とすると,そもそも,ここには利長の生前から4名の石廟が利長によって祀られており,利長の分については,瑞龍寺建立の際に4名の石廟に倣って,一際大きく立派なものが建てられた,そんな仮説も立つのではないだろうか。いずれにせよ,父の利家はもちろん,信長親子に対しても格別の思いを持っていたことが分かる。

信長の娘・永姫(玉泉院)と利長
利長の正室は,織田信長の娘,永姫である。2人の中は睦まじかったらしいが,子はできなかった。そのため,異母弟の利常が利長の跡を継いで3代藩主となった。
利長が没してのち,利常は,永姫=玉泉院を金沢城に迎え,城内に屋敷を造って住まわせた。元和9年(1620)に玉泉院が逝去すると,その屋敷は撤去されて玉泉院丸となり,見事な庭園が作られた。庭園は再現されていて,かつての様子を知ることができるが,永姫=玉泉院がこの庭を眺めて暮らしていたわけではないというのが,ちょっと残念だ。

城下町の風情を引き継ぐ山町筋の建造物群
山町筋には,国選定伝統的建造物群の指定を受けた蔵造りの建物が軒を連ねる。高岡城下の家並みが残っているのかと思ってしまうが,1900年に大火があり,その後防火構造を強化した蔵が造られ,現在に至っているらしい。そのため,和を感じる意匠だけでなく,洋風の意匠が随所に取り入れられ,オシャレ感が増している。和洋入り乱れた古建築が並ぶ様は壮観である。そして,山町ヴァレーのような町屋の奥まで活用した複合商業施設もある。利長が築いた城下町の繁栄は,城が廃城となってのちも長く続き,現在のまちづくりにもつながっている。



山町筋伝統的建造物群保存地区
1609年の高岡開町後、高岡の商業の中心地として栄えた通り。1900年の高岡大火の後、防火構造の土蔵造り建造物が立ち並ぶ。
山町筋伝統的建造物群保存地区は、全体的に建造物の規模が大きく、鋳物の鉄柱や防火壁、黒漆喰の壁や観音開きの土扉など、重厚な外観を有しながらも鋳物の鉄柱やレンガの防火壁など洋風建築の意匠を取り入れている。一方、内部は対照的に、贅を凝らした銘木の使用や数寄屋風の繊細な造りである。また、主屋と土蔵の間に設けられた中庭は、建物と調和し、市街地でありながら緑の多い静謐な空間を作り出している。
土蔵造りの一つ一つが伝統的建造物として存在感があるだけでなく、洋風の外観を持つ町家やレンガ造りの建物などが軒を連ねる様子は都市の変遷や近代化の歴史をうかがわせるこの地区ならではの歴史的な風致を形成している
かぶき者・前田利家の息子であり,信長の薫陶を受けた利長が基礎を築いた高岡の街は素敵で,魅力にあふれている。
高岡市のマスコットキャラクター「利長くん」も,高岡城の設計図を描いた高山右近のイメージキャラクター「うこんたん」も,この街の魅力アップに一役買っている。

