文明の免疫異常 ー自己批判という免疫、自己否定という病
生命は、数十億年の時間をかけて免疫という仕組みを磨いてきた。
その長い歳月の中で、生き残れなかった無数の命がある。
今日この地球上に存在する生命はすべて、その淘汰を生き延びたものだけである。
免疫は、その生存の記録として備わっている。
外から侵入するものを見分ける。
危険なものを攻撃する。
無害なものとは共存する。
自分自身の組織は守る。
必要以上に反応しすぎないように抑制する。
免疫とは、単なる戦闘システムではない。
それは、生命が「何を敵と見なし、何を自分の一部として許容するか」を判断する仕組みである。
数十億年の淘汰に耐えた、精緻な識別の力である。
もし免疫が弱ければ、生命は外敵に侵される。
しかし、免疫が過剰に働けば、炎症が起きる。
さらにその識別が狂えば、本来守るべき自分自身を攻撃してしまう。
自己免疫疾患である。
私は最近、現代の西洋社会を見ていて、これに似たものを感じる。
もちろん、これは医学の話ではない。
文明の話である。
文明にも、免疫に似た仕組みがある。
社会の内部にある不正義を見つける。
権力の暴走を検出する。
差別や排除を修正する。
過去の失敗を記憶し、同じ過ちを繰り返さない。
この意味で、自己批判は文明の免疫である。
西洋が強かった理由の一つも、実はここにあった。
王権を批判し、教会を批判し、奴隷制を批判し、専制を批判し、差別を批判してきた。
その自己修正能力が、西洋を柔軟にし、強くしてきた。
欧州が掲げる人権、民主主義、法の支配。
米国で広がったDEIやwoke思想。
出発点においては、どれも間違っていない。
それらは、社会が自らの欠陥を修正しようとする、正当な衝動から生まれた。
だから、批判そのものが問題なのではない。
問題は、批判が歪む時である。
批判が歪む経路は、おそらく二つある。
一つは、感情的な思考である。
怒りや罪悪感が先行すると、批判は論理的な識別より感情的な勢いで広がる。
不正義への怒りは正当だ。
しかし、怒りが強くなりすぎると、識別よりも断罪が先に来る。
「誰が悪いか」を問うことが、
「何が問題か」を問うことより重要になる。
そうなると、批判は問題を解決するための道具ではなく、感情を発散させるための儀式に変わる。
もう一つは、短絡的な思考である。
「制度に問題があった、だから制度そのものが悪だ」
「歴史に暴力があった、だからその文明の継承は罪だ」
という飛躍がそれである。
複雑な因果関係を単純化しすぎる。
部分の問題を、全体の否定へと一気に結びつける。
そしてその飛躍に、当人はしばしば気づいていない。
正しいことをしているという確信を持ったまま、土台を掘り崩している
そして、感情的な思考と短絡的な思考は、互いを強化する。
感情が短絡を加速し、短絡が感情を正当化する。
その結果として、何が起きているか。
差別を批判することは必要だ。
だが、能力そのものを差別の道具と見なし始めると、能力による評価を公正に行う仕組みまで壊れる。
過去の植民地主義を批判することは必要だ。
だが、近代科学や合理主義そのものを西洋中心主義として疑い始めると、知識を積み上げる共通の土台が揺らぐ。
国家権力を監視することは必要だ。
だが、国境、警察、法秩序まですべて排除と暴力の装置として扱うと、社会の安全を支える仕組みが機能しなくなる。
市場経済の弊害を批判することは必要だ。
だが、競争、勤勉、責任、成果という概念まで疑わしいものとして退けると、社会を動かす活力の根拠が失われる。
環境問題への危機感は正当だ。
だが、効果の検証より「やっている感」が優先され、紙ストローやポリ袋有料化のような実効性の薄い対策が、感情的な支持を集める。
問題の本質より、問題に向き合っている姿勢のシグナルが重視される。
そこでは、批判は課題を解決する力ではなく、自分が正しい側にいることを示す記章になっている。
批判はもはや病巣だけを攻撃していない。
自分を支えてきた骨格まで攻撃し始めている。
ここで立ち止まって考えたいのは、批判には二種類あるということだ。
一つは、制度をより良くするための批判。
もう一つは、制度の正統性そのものを解体するための批判。
前者は改革である。
後者は解体である。
「我々の社会には問題があった」という認識は健全である。
しかし「我々の社会そのものが加害の構造である」という認識にまで進むと、社会を修正する意志ではなく、社会を解体する衝動が生まれる。
批判が自己否定に変わる瞬間は、この転換点にある。
私が危惧しているのは、この転換が静かに、しかし着実に進んでいることである。
社会科学が合理性を疑い始める。
大学が知的厳密さよりも感情的安全を優先し始める。
企業が成果よりも属性を重視し始める。
言論空間で特定の問いを立てること自体が危険視され始める。
それぞれは小さな変化に見える。
しかし積み重なると、社会が自らを支えてきた土台を、静かに、自ら掘り崩していく。
外から攻撃されているのではない。
内側から崩れていく。
免疫は、外部から来たものをすべて排除するわけではない。
生命は外部と共生してきた。
腸内細菌のように、外から来たものを自分の生命活動の一部として取り込んできた。
閉じた純粋性ではなく、外部と接し、取り込み、共生しながら、自分自身を維持する。
それが健全な免疫の姿である。
そしてその精緻さもまた、数十億年の淘汰が磨き上げたものだ。
識別を失った時、免疫は自己を攻撃し始める。
数十億年かけて作られた仕組みが、狂う。
文明の自己批判もまた、識別を失った時、自己否定に変わる。
西洋は、自己批判によって強くなった。
しかし今、私はその自己批判が歪み始めているように感じている。
感情的な思考が識別を曇らせ、短絡的な思考が部分の問題を全体の否定へと接続する。
その結果、批判の矛先は病巣を超え、自分を生かしてきた土台にまで及んでいるように見える。
これは、外からの侵略ではない。
自己免疫異常である。
生命は、数十億年の淘汰を生き延びた末に、免疫という識別の力を手に入れた。
しかしその免疫が自己を敵と見なす時、生命は内側から壊れる。
文明もまた、自己批判が自己否定に変わる時、内側から崩れ始める。
現代の世界は、おそらくその岐路に立っている。
