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女の犠牲が溝口映画の核 / 「残菊物語」

あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね

溝口健二

成瀬巳喜男監督の映画を「キンタマが有りません」と評した溝口健二監督といえば、女の犠牲ということが一貫したテーマだった。だらしない男がいて、女が尽くす姿を描くことで、この世の不合理をあぶり出していた。「祇園の姉妹」にせよ「雨月物語」にせよ、いつも女は不憫であった。

戦災による消失を免れた1939年の映画「残菊物語」もまた、二代目尾上菊之助の生涯を題材にしながら、お徳(森赫子)の犠牲が哀れに見えるよう撮影された作品だ。
こういう作品を今日の価値観から眺めると「女の犠牲によって成り立つ社会は不平等だ」などという平板な感想を偉そうに書く輩がいるものだが、では、たとえば僕の祖母(大正生まれ)が生きている時に、家事を男が分担しなければならないと主張したら、どんな目に遭うか分かっているのだろうか。価値観とは時代によって変わる。現代の価値観もまた、100年後の人たちには問題視されるものなのだ。
「残菊物語」の描く時代、あるいは1939年の観客の多くは、あのように女が男に尽くす姿ではなく、若くしておそらく結核で命を落とすことになってしまったお徳の不幸に涙した。男はいつの世もだらしないものだし、女が男の尻を蹴飛ばすことが一般的になっただけだ。たとえば、まだ平成になったばかりの頃、テレビのコマーシャルで妻の役の人物が夫に対してバカにするような態度をとったものがあった。僕の父親はそれを見て「なんだこれは」と怒り、母親も「テレビで堂々とこんなことを映すなんて、はしたない」と同意していた。では、今日の日本において何が「はしたない」のだろうか。「無作法」という単語は死語ではないだろうか。男尊女卑は時代遅れだと主張する現代の女は、では何を「はしたない」と考えているのか。現代の価値観で過去を断罪していい気になることは構わないが、では自らをどのように律しているというのか。僕は昔からいわゆるフェミニストだが、男のように女が振る舞うことを「はしたない」と感じるほどには昭和の男である。僕が紳士であろうとしているのに、女がやりたい放題では文化もヘッタクレもないのだ。
さて、「残菊物語」はいかにも日本である。血縁が重視され、男は役立たずで女が強い。イタリアと同じくカカァ天下そのものだ。溝口監督はこの世のなかで、女が女に対してえげつない態度をとること、そして男の前ではしきたりのように澄まし顔をして、歪んだ人間関係を編み出していることをじっと撮っている。陰影あるスクリーンのなかで登場人物をじっと撮っていることにより、その背景にあるしきたりの奇妙が浮かび上がってくる。このように女の犠牲に哀れを見出す手法は、溝口監督の生い立ちに関係するものだと思うが、しかし映画は映画なので、監督個人の話は避ける。
黒澤明監督が「社会悪」を批判するアーティストだとすれば、溝口健二監督とは男に尽くす女の姿に「犠牲」を見ていた。だから、犠牲(sacrifice)というテーマが主たるヨーロッパで特に評価が高いことも頷ける。男であれ、女であれ、自らを犠牲にすることで満足を得る人もいる。それもまた人性の真実であり、十把一絡げに「男尊女卑ひどい」なんて言えば超克されるようなものではない。お徳は満足して死んだ。だから観客の涙を誘うのだ。
本作は1939年、平沼騏一郎内閣が「複雑怪奇」という名言を遺して総辞職した年に公開されている。この約2年後に生まれた僕の父親は幼少期を思い出して「価値観なんてコロッと変わることを学んだ」とよく言っていた。現代のノータリンたちは、自らの価値観を正義にし過ぎていないだろうか。大人たちの言うことなんてすぐに変わるのだ。だからこそ、時の流れのなかで変わらないものを真正だと認めるべきだろう。本を読んだり、映画を観たりしながら、自分なりの真正を見出すことが教養である。ゆえに「男尊女卑の世界でお徳が可哀想」なんて感想を抱くようでは、おそらく死ぬまで世間に流され続けるだけである。

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