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性の解放に戸惑う男と、フランスの危機 / 「ママと娼婦」

フランスの戦後は、1968年に臨界に達した。
フランス語で Mai 68 といえば、当年の5月に発生した五月革命(五月危機)を指す。ド・ゴール大統領の樹立した第五共和政において繁栄していくフランス国内では、諸国から流入してくるカウンターカルチャーや性の革命、あるいは毛沢東主義などに感化された学生や労働者たちの不満が渦巻いていた。この前年に映画「中国女」を発表し、政治的な姿勢を露わにしたジャン=リュック・ゴダール監督は、フランソワ・トリュフォー監督らと連帯し、1968年5月19日、開催中だったカンヌ国際映画祭に乗り込み、国内で発生していたデモや暴動に対処する政府や警察への抗議として、映画祭を中止するよう主張した。この際、審査員を務めていた女優モニカ・ヴィッティやロマン・ポランスキー監督、ルイ・マル監督たちはゴダール監督らの要請に応じて審査を放棄し、この年のカンヌ国際映画祭は中止された。
翌月に行われた選挙によってド・ゴール大統領への多数の支持が明らかになると収束していった五月革命は、フランスのインテリたちや文化に大きな影響を及ぼした。戦後のフランス映画のなかでも特に重要な作品であると評価されているジャン・ユスターシュ監督の1973年の映画「ママと娼婦」は、こうした経緯のなかで生まれた作品であり、五月革命後のフランスの文化の漂流をよく表している。
219分もの長さにわたって描かれているものは、1人の男と、2人の女の奇妙な関係である。フランス語ではこれをメナージュ・ア・トロワ(ménage à trois)と表現する。かつての日本でも妻妾同居という言葉があった。三角関係という言葉もあるが、本作では二人の女がともに男を愛して同衾もするため、これはメナージュ・ア・トロワだ。
主人公であるアレクサンドル(ジャン=ピエール・レオ)は、細菌学を教えているジルベルトに別れを切り出される。ジルベルトはまるで放浪しているようなアレクサンドルの生き方を非難し、他の男と結婚すると言う。ところがアレクサンドルはマリーという女と同居している。服飾に関わる仕事をしているマリーはアレクサンドルの保護者のように振る舞っている。
ある日のこと、アレクサンドルは自由な性生活を楽しんでいるヴェロニカと知り合い、マリーと一緒に住んでいる部屋にヴェロニカを呼ぶ。メナージュ・ア・トロワも束の間、マリーとヴェロニカは互いに心の内をアレクサンドルに明かし、3人の奇妙な関係が変化していくーー。
この平凡な筋書きのどこが「重要」なのかと言えば、登場人物の造形である。ユスターシュ監督が必死に書き上げたという脚本によって、アレクサンドルはとにかく独り言のように大量の台詞を語る。目の前のマリーやヴェロニカに対して話しかけているというより、ほとんど独白である。
これが「屁理屈」に留まるのであれば、ユスターシュ監督を絶賛していたゴダール監督の作品に登場するような、奇天烈な男の独り言に過ぎないのだが、映画「ママと娼婦」のアレクサンドルの台詞はことごとく、1973年当時のフランスのインテリを代弁するような、「思想の迷子」と言いたくなるような状況をうまく表している。あまりにも現実に即した脚本であり、ゴダール監督はこのような脚本を書けるほど素直な人間ではなかった。
だから本作を観るにあたって、フランスの戦後や当時の思想について不案内であれば、アレクサンドルの発言が何を指しているのか分からないだろう。フランス人や西洋思想に明るい方なら理解できるだろうが、日本では本作の「観客」は限られるだろう。
ボルヘスの小説を語り、五月革命の意義を論じるアレクサンドルを通して、当時のパリの根無草のような雰囲気が伝わってくる。ヴェロニカを連れてビストロへ行き、ヴァルター・ベンヤミンの著した『パサージュ論』に言及するなんて、およそ映画の登場人物らしくない造形なのだが、しかしそのことによって余計に、当時のフランスのインテリがカフェなどで空論に明け暮れていた姿が目に浮かぶ。「フランス的」であることをここまで見せつける作品も珍しいだろう。劇中に何度も登場するカフェ「ドゥ・マゴ」や「ド・フロール」は、今日でもフランス文化にかぶれた観光客が殺到している人気店だ。
なお、字幕の担当者はもちろん『パサージュ論』なんて知らないだろうから「道」と訳していた。あれはパサージュで構わない。
本作を観ると、ゴダール監督に欠けていたものがよく分かる。現実をそのまま見せる、という姿勢だ。ジョン・カサヴェテス監督の態度である。ヌーヴェルヴァーグを僕がほとんど評価しない理由はここにある。顔を青く塗った男が海岸で吹き飛ぼうが、パリの街中で「ヘドが出るぜ」と倒れようが、観客の心を動かすものでなければ、一体何のためのヌーヴェルなのか。奇天烈な人物たちがピョンピョン飛び跳ねている光景を観るくらいなら、僕はフランソワ・トリュフォー監督やルイ・マル監督の作品を鑑賞する。ゴダール監督を絶賛している記事を読んでも、まるで説得力が感じられない。「ママと娼婦」のアレクサンドルみたいなものだ。
劇中に名前が登場する俳優ジャン=ポール・ベルモンドはヌーヴェルヴァーグで有名になったものの、五月革命の前に運動を離脱し、1972年の映画「ラ・スクムーン」など、観客が楽しめる映画に鞍替えしている。
フランス共産党について直接語られている訳ではないものの、当時は冷戦の真っ最中であり、フランスでは核開発の議論が盛んな時代だった。1人のインテリの男が女の本音や本性に圧倒される姿は、理屈より「真に迫る」ものは何かということを観客に赤裸々に提示しているようで味わい深い。
ちなみに、本作の原題は La maman et la putain であり、通常であれば同居しているマリーが「ママ」であり、ヴェロニカが「娼婦」として理解されるはずだ。しかし僕にとって本作は、本当のママがヴェロニカであり、マリーこそが娼婦だった、という物語である。なぜなら性の解放とは、女(ママ)が男の面倒を見る、という常識の超克であるはずだからだ。

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