ゴールデンカムイが描かなかった場所~旭川に残った七師団の元兵士たち(1
文・五月書房 編集長 杉原修
第1回 図工のY先生のこと
ゴールデンカムイの向こう側
ゴールデンカムイは、帝国陸軍第七師団という、陸軍史上最強と言われた部隊を描いた。
寒冷地戦に特に力を発揮し、猛者が集められた北の軍団。
その強さと鉄壁の組織力は、漫画に描かれている通りだったのだと思う。
七師団が置かれた旭川という町について触れてみたい。
今や旭山動物園が有名になり、観光で訪れる人も多い。
しかし旭川は、もともと軍都としてつくられた町だった。
北方の守りを宿命として与えられ、ロシアを仮想敵として睨んでいた。
いわば「人が住むより先に、兵が集められた町」である。
冬は長く、雪は深い。
この地で生きるには、強さよりも寒さに耐える力が必要だった。
七師団は、戦後解体された。
だが、消えたわけではなかった。
旭川という町に、沈殿したのだ。
あまり学校へ行かない子どもだった
私は、あまり学校へ行かない子どもだった。
気が向いた時にしか登校しない。
理由はうまく説明できないが、そういう子どもだった。
それでも図工のある日は、比較的よく学校へ行ったと思う。
それはY先生の授業があるからだ。
しゃべらない図工の先生
Y先生は、ほとんどしゃべらなかった。
授業が始まり、必要最低限のことだけを伝えると、
あとは静かに自分のスケッチブックに絵を描いていた。
あまり注意もしなければ、
指示もしない。
ただ、ひたすら鉛筆を走らせていた。
描かれていたのは、生徒の顔だった
ある日、私は気づいた。
Y先生が描いているのは、風景でも静物でもなかった。
生徒の肖像だった。
一人ずつ。
順番に。
黙々と。
そのデッサンは、抜群にうまかった。
ハッとするほど正確で、しかも生命力があった。
子どもたちの顔が、まるで生きているかのように描きこまれていた。
私は、自分が描かれていると気づいた時、
少々バツが悪かった。
だから気づかないふりをした。
「戦うより、食い物だった」
この先生の授業は、何を教わったのか? 殆ど記憶がない。
しかし、こういう言葉を発したのは鮮明に覚えている。
「満州ではな、
戦うことより、食い物を確保する方が大変だった。
だからいつも腹がへっていた」と
帝国陸軍第七師団
日露戦争の時代は、二〇三高地を落とし、その後も数々の武勲を挙げた。
第二次大戦ではガダルカナルでアメリカ海兵隊を震え上がらせた。
「最強部隊」言われる由縁である。この様子は「シン・レッド・ライン」というアメリカ映画にもなっている。
まさにゴールデンカムイに描かれている通りの部隊である。
Y先生も、その部隊の元兵士だった。
だが、Y先生は英雄譚を語っていない。
そもそも戦闘の話をしなかった。
ただ、「腹が減った話」をした。
私たちは、それを繰り返し何度も聞いた。
戦争で生き延びるには、
「食い物を確保しなくっちゃ」と
生きている顔を描くということ
今になって思う。
Y先生がスケッチブックに描いていたのは、
単なる子どもの顔ではなかったような気がする。
満州で、
多くの生命が失われた場所を通り抜け、
それでも生きて帰ってきた一人の兵士。
この人は次の世代の命を、黙々と記録していたのではないか。
ゴールデンカムイが描かなかった兵士
ゴールデンカムイは、戦う兵士を描いた。
だが、私の知っている七師団の兵士は、
小学校で子どもたちに図工を教え、その教え子たちの肖像を描いていた。
子どもたちは、Y先生が好きだった。
この先生と一緒にいると、なぜか心が落ち着いた。
だから子どもたちも、静かに黙々と絵を描いていた。
Y先生は結局、戦争を語らなかった。
平和の大切さも語らなかった。
ただ満州の地で、「腹が減った話」だけをした。
これが私の知る、旭川七師団の元兵士である。
