【ジニのパズル/崔実】何を「見えないもの」にしているのか
オレゴン州の高校を退学になりかけている女の子・ジニ。ホームステイ先でステファニーと出会ったことで、ジニは5年前の東京での出来事を告白し始める。
ジニは日本の小学校に通った後、中学から朝鮮学校に通うことになった。学校で一人だけ朝鮮語ができず、なかなか居場所が見つけられない。特に納得がいかないのは、教室で自分たちを見下ろす金親子の肖像画だ。
1998年の夏休み最後の日、テポドンが発射された。翌日、チマ・チョゴリ姿で町を歩いていたジニは、警察を名乗る男たちに取り囲まれ……。
『ジニのパズル』を読んで
何人(なにじん)であろうが、まず第一に同じ人間で、同じように生きてきて、同じように日本社会で生活しているんだ——。
ジニは、見えない、あるいは見ようとしていない残酷な日本社会の有様を、自分の人生をもって教えてくれている。
「子どもになる」という選択
ジニがモップを持って「子供になる」ことを選択した姿は、何よりかっこよかった。
子どもが「子どもらしく」あることは、案外、いや、かなり難しい。私が彼女と同じ歳の頃は、どれほど大人ぶろうとしていたか、と思い返す。
ジニが眩しく見えた。けれど、その眩しさの背景は複雑だ。一人の少女が子どもらしくなることで抗おうとしているもの、その背景にある理由は、あまりにも巨大だ。子どもひとりの力で変えられるものなのか? 小説の中でジニが投げかけられる言葉とリンクしてしまう。
それでも、ジニの乱暴ともとれる闘い方は美しさも感じた
小さい頃は、上(大人)がいうことが何故だか正しいような、正しいように聞かされてきて、何も疑問に思わず生きてしまってきた。
本当は自分の中で「でもそれって違うんじゃないか」なんて思いがあったとしても、考えるまでもなく大人の「ただしさ」に塗り替えられていた。
私はジニになれるのか?なれたのか?
なれない、なれなかっただろう。
朝鮮学校内部についての描写が小説の中で出てくる。小説の中では描かれにくいところだけれど、著者のチェ・ソンジャ(崔実)が実際に朝鮮学校にいたという背景からわかるように、その描写はやけに鮮明だ。
落ちてくる空
一つのキーワードでもある「落ちてくる空」を、私はどう受け止められるか?
ジニは「受け止める」ことで自分を救おうとした。
果たして「落ちてくる空」は何なのだろうか。それは「暗い自分の過去」だけなのだろうか。空は移り変わる。空は常に上にある。ジニにとって、空とは何なのか?
考えがまとまらない。
宙ぶらりんのまま
ジニは最後、
ステファニーの言葉で自分を許してあげることができたかもしれない。
だけれど、ジニが争いたかった「大きなもの」は宙ぶらりんのままだ。
そんな「やるせなさ」も含めて、
落ちてくる空(変わらない現実、変えられない過去)を受け止めたと暗示しているのだろうか?
そう考えるとジニが「受け止める」ことを選んだのは、
やはり逃げないこと、否認しないことを意味しているのではないか
変えられないかもしれない。でも、それを自分のものとして受け入れる。自分の過去も、自分を取り巻く不条理な現実も、すべて引き受けて生きていく。
南北の分断、朝鮮学校、組織団体……。
在日コリアンを取り巻く環境はあまりにも複雑で、
日本社会はこの問題とどう向き合っていけるのだろうか
日本社会が「見えないもの」として排除しようとしている存在・過去。
『ジニのパズル』という作品は、目を背けようとしている社会の残酷さを教えてくれている。
それと同時に、ここで描かれている葛藤や問題を「特別」なものだと思ってはならないだろう。これは在日コリアンだけの問題ではない。日本社会に普遍的に内在している差別構造、非可視化される存在や問題——それらがジニという一人の少女を通して、鮮烈に浮かび上がっているのだ。
何を「見えないもの」にしているのか。
誰を「いないこと」にしているのか。
ジニの問いは、一人ひとりへの問いでもあるんじゃないのか、
『ジニのパズル』は芥川賞の候補作品でもあった。
大好きな作家さんの一人でもある、山田詠美先生の評言が目を引いた
「文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化?」「欠点は山程あるのだ。しかし、パワーもすごくある。書かざるを得ない作者の熱が伝わって来る」
文章の技術的なことは正直ど素人すぎてわからないというか、「読みやすいな」という感想だった。(小並感)
ただ、「しかし、パワーもすごくある。書かざるを得ない作者の熱が伝わって来る」という言葉にはとても共感したし、
この作品は書かれるべきして書かれたのだと思う。
次は『pray human』(崔 実)|講談社』を読もっと。
