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なぜ世界で「性別変更」の線引きが厳しくなっているのか?——エデン・ナイト、『完璧な男』、そして現場で生きる人々の「生存戦略」

2026年8月14日

2023年、サウジアラビア出身のトランス女性エデン・ナイト(Eden Knight氏(23)が自ら命を絶ちました。彼女の遺した告白と、社会側に捏造された「救済物語」の落差は、著者の小説『完璧な男』の構造と恐怖覚えるほどに合致していました。

2003年の日本における「GID特例法」の制定に研究者・当事者運動として深く関わった著者が、エジプト、サウジアラビア、インド、そして日本の現場を比較検証。なぜ世界で性別変更の線引きが硬直化しているのかを解き明かします。

宗教法の「主キー」としての性別、国家の管理欲望、伝統的利権の摩擦、そして昼の社会から身を守る「防具としての戸籍」。イデオロギーや国家の都合に晒される中で、外側の役割を演じつつも「内なる自分」は決して明け渡さない当事者たちの切実な『生存戦略』と、社会に求められる「矯正しない成熟」を問う論考です。


0. はじめに

2026年8月13日、お盆の日。
私はずっと着手できずに放置していた博士論文の作成作業を、ようやく始めようとしていました。

きっかけは、いま日本で再び持ち上がっている「性同一性障害特例法」の改正をめぐる動きです。

法改正の論理的背景が必要だという話を聞く中で、かつての故大島俊之教授(1947 - 2016)のように法学的なロジックを組み立てる立場がおらず、「そもそも2003年の特例法成立時、既存の家族法(民法の規定)との整合性をどう論理立ててクリアしたのか」という当時の背景がよく分からない、という話が耳に入ってきました。

かといって、現時点で私が誰かから特別に乞われているわけでもありません(今のところ)。ただ、立法にかかわったものとして放置していた自分の博士論文をふたたび形にするため、イスラム圏におけるいわゆるトランスジェンダーの法的な状況や、当時の法理論的背景をきちんと確認・整理しておこう——そう考えたのが、重い腰を上げた理由でした。

私は以前、性同一性障害・トランスジェンダーをめぐる研究や当事者活動にかなり深く関わっていましたが、2007年頃から当事者支援活動についてはいったん手を引きました。その後、2018年にこれまでの経過を整理して報告・発表する機会をいただくなど、必要なときに研究として振り返る形で関わってきました。

そのため中島みゆきの歌にある「食べていくための仕事にひと休みして」(歌詞:「4.2.3.」)という感覚に、少し近いのかもしれません。私の場合、日々の飯を食べるための仕事はITエンジニアです。仕事と、それ以外の活動に長く忙殺され、このテーマの研究は時々ニュースを確認する程度で、まとまった形では長く止まっていました。だから今、改めて過去の論文や発表を整理しながら、「この二十年ほどの間に何が変わったのか」を一つずつ確認しようとしてました。

私は日本の法制度のバックボーンを探るため、かつての自身の研究領域であった中東の最新動向を精査する作業に入りました。

その過程で出会ったのが、サウジアラビア出身のトランス女性、エデン・ナイト(Eden Knight)さんの悲劇でした。

最初は論文のために必要な法制度の確認をするだけのつもりだったのです。しかし、気づけば朝の6時からパソコンに向かい、過去の自分の研究資料、エジプトやサウジの法規の変化、そしてエデンさんの残した言葉を追い続け、そのまま昨日の深夜2時、3時近くまで一気呵成に資料を読み漁っていました。20年以上前の自分の発表や思考の糸が次々と手元でつながり、途中でやめられなくなってしまった、というのが正直なところです。

サウジアラビア出身のトランス女性、エデン・ナイト(Eden Knight)さんについての記事や資料を改めて読みました。

【エデン・ナイト(Eden Knight)さんに関する情報・一次資料の探し方】

2023年3月に起きたサウジアラビア出身のトランス女性エデン・ナイトさんの事件について、
彼女自身の言葉や詳細な追跡報道を確認したい方は、以下の方法で検索・閲覧が可能です。

1. X(旧Twitter)での遺書・関連投稿の検索
検索窓に以下のコマンドを入力(またはコピー)して検索してください。

・彼女の元アカウントに関連する投稿や有志によるアーカイブ
  "Eden Knight"

・当時の事件に関するX上の主な議論・証言
  "Eden Knight" Saudi Arabia

2. 詳細な調査報道・ジャーナリズム記事(英語検索推奨)
事件の経緯や、家族・私立探偵が関与したとされる手口、サウジ側の公式発表との食い違いについては、
以下の主要メディアが最も詳しく報じています。検索エンジンでそのまま検索できます。

・ Vice News(最も詳細な追跡報道とチャットログ・音声検証)
  "Eden Knight" Vice News

・ The Guardian(構造的な権利・国家による抑圧の観点)
  "Eden Knight" The Guardian

・ Middle East Eye / The Independent(サウジ側主張と遺書の比較検証)
  "Eden Knight" Middle East Eye

3. ウェブアーカイブ(Wayback Machine等)での確認
削除された彼女の最後の声明(Final Statement)の原文を確認したい場合は、
「Wayback Machine (web.archive.org)」にて以下を検索・参照してください。
  https://twitter.com/AhsokaEden
  ★404で検索不可、情報がでないですby伊東★

留学先のアメリカで自分らしい姿で生きていた彼女は、家族との「和解」を持ちかけられ、その過程で生活基盤を失い、ホルモン治療を中断し、男性として振る舞うことを求められ、最終的にサウジアラビアへ帰国しました。そして2023年、自ら命を絶ちました。彼女は最期の文章に、自分に何が起きたのかを具体的に残しています。

一方、サウジ側では、以下のような本人の証言とは全く異なる物語まで流布しました。


  • 「家族が息子を救った」

  • 「父親が最高の医療を与えた」

  • 「本人は悔い改めた」

  • 「ウムラ(小巡礼)を行った」※

  • 「その後、交通事故で亡くなった」

本人から見れば、自分として生きる道を一つずつ奪われていった。家族側から見れば、「息子を取り戻し、正しい道へ戻す」という物語だったのかもしれない。

ここには、「愛している。取り戻したい。しかし、あなたがあなたであることは認められない」という、非常に重い矛盾があります。

私はこの記事を読みながら、「これは自分にとって全く新しい問題ではない」と気づきました。

※ウムラ(小巡礼)はイスラム教の聖地メッカを訪れる巡礼の一つで、 時期が定められた大巡礼(ハッジ)と異なり一年中行えます。 エデンさんのケースでの「ウムラを行った」という言葉を日本人に例えるなら、 「改心して伊勢神宮に参拝した」「お遍路巡りをして心を入れ替えた」と 家族側が喧伝するようなものです。 本人の意思とは無関係に、伝統的・宗教的な道徳に従って 「正しい道に戻り悔い改めた」という物語へ上書きするための象徴として使われています。


1. 研究史と日本のGID特例法成立への関わり

私自身について少しお話しします。私は伊東聰です。

1996年より性別、身体、医療、法制度の問題に関わり、2003年に成立した「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」についても、成立を求める活動をしてきました。

私は大学院で「医療とイスラーム法」を研究していました。日本で特例法を成立させるための活動と並行して、エジプト、イラン、トルコ、サウジアラビアなどで、「身体や社会生活を移行した人を、宗教法と国家法はどう扱うのか」を調べていました。

  • 2003年: エジプトのムハンマド・サリ事件を題材として、イスラーム法、医療、法的性別変更の問題について発表。

  • 2007年: 日本・韓国・トルコの性別変更法制を比較。

  • 2011年: イスラーム圏における性同一性障害と性別越境者について発表。

「日本の特例法はエジプト法をそのままモデルにした」とまで言えば言い過ぎでしょう。しかし、少なくとも私自身が日本の特例法をどう設計すべきか考えていた時期に、エジプトをはじめとするイスラーム圏の法制度から強い影響を受けていたことは間違いありません。

当初、私は日本で性別変更を認める法律を成立させるのは無理だと考えていました。既存の家族法や戸籍制度が、社会のあまりにも重要な根幹として根付いていたからです。

その認識が変わったのは、イラン、エジプト、トルコなどの法制度を研究する中でのことでした。「伝統的な家族法秩序と整合性を持たせながら法制化する途はあるのではないか」という着想を得たのです。

私はある活動家に「法改正を実現したいなら、論理を研ぎ澄まし、政治家を本格的に巻き込むべきだ」と考えを伝えました。1996年22歳の時です。そして自らは、当時誰も着手していなかった盲点——イスラム法圏における性同一性障害の法的手続きと実態についての研究へと足を踏み入れました。

求めるべきは「誰もが自由に戸籍を書き換える制度」ではなく、既存の家族法秩序をできるだけ壊さずに必要な人を反対側の法的性別へ移す「特例処理」である。このロジックの背景には、そうした比較法研究からの示唆がありました。

日本の特例法も、過去の家族関係を全部書き換える仕組みではありません。性別変更をした本人を新しい戸籍に切り出し、元の家族戸籍全体を大規模に組み替えることなく、その本人について、その後の法的性別を変更する。

つまり、

  1. 過去の家族関係は壊さない。

  2. 本人だけを新しい法的単位へ切り出す。

  3. その後の生活は変更後の性別で成立させる。

という制度設計です。

この考え方は、私が現在書いている小説『完璧な男』にも強く流れ込んでいます。

現在、本作は第13話まで公開していますが、続く第14話以降では、この「性別変更の法的処遇」が物語の重要な焦点となります。

主人公が「完璧な男」として生きてきた過去や、その中で背負った責任という「関係性」を遡って無効にするのではなく、本人の法的単位だけを新しい枠組みへと静かに「切り出す」こと。そして、その後の生活をいかに成立させるか。

現実の日本の特例法が持つ、冷徹で、かつ実務的な救済のシステム。それがフィクションという鏡の中でどのように駆動していくのか、今後の展開を通じて、その具体的なあり方を描いていきたいと考えています。


2. 小説『完璧な男』とエデン・ナイト——偶然にも同じ2023年

エデン・ナイトさんの事件を追っていて、私はかなり驚きました。自分が書いている『完璧な男』と、奇妙なほど構造が重なるからです。しかも年まで同じ、2023年です。

『完璧な男』の主人公・葛城立真は、もともと少女として生まれました。13歳の春、父・葛城顕臣の判断によって「完璧な男」を実現する国家計画に組み込まれ、身体、声、戸籍、社会的役割まで制度によって作り替えられます。

2022年、立真は性別変更に抵抗して、タカ(高橋孝)と逃亡します。しかし2023年に捕縛され、タカを失い、「再構成」と呼ばれる徹底的な処置を受けます。

その後、制度側から与えられた説明は、

  • 「交通事故でした」

  • 「半年間、意識不明でしたが、回復されました」

というものでした。

本人は知っています。事故ではない。捕縛され、壊され、直され、また壊された。タカの死も、自分の抵抗も、全部「交通事故」という公式物語に変えられた。そして父は、回復した「息子」を抱きしめ、「……私を悲しませないでくれ、息子よ」と言います。

エデンさんについてサウジ側で流布した「悔い改めた」「ウムラへ行った」「父が救った」「交通事故で亡くなった」という物語を知ったとき、私はかなりぞっとしました。

当然この記事を書いている前日にエデンさんの悲劇を知ったので、『完璧な男』はエデンさんをモデルに書いた作品ではありません。しかもある種私の自伝的経験が『完璧な男』のベースです。だからこそ、この一致が怖かった。

両方に共通するのは、「本人の経験そのものを消すのではなく、社会が理解しやすい『救済物語』で上書きする」という構造です。

事故だった。治療だった。回復した。息子が帰ってきた。
外から見れば「救われた」。本人から見れば「自分が消された」。

ただし、ここには決定的な分岐があります。

  • エデンさんは2023年に命を絶った。

  • 立真は2023年を生き延びた。

そして立真は、生き延びたあと、父親が自分を支配するために与えた能力を全部、自分の武器として利用します。教育、組織運営能力、人脈、情報、権限、男性として与えられた社会的立場。正面からもう一度逃げるのではなく、自分を閉じ込めているシステムの管理者になる。そして最後には、そのシステムそのものを内側から変えていきます。

立真にとって「男」は、やがて自己同一性ではなく、生存と反撃のための装備になっていく。顕臣は「完璧な息子」を作ったつもりだった。しかし、作り上げた人間が優秀すぎた。結果として、自分を攻略できる人間を、自分自身で作ってしまった。

この小説は1984年から、1985年のどこかで見た夢は元ネタです。当時私は10歳から11歳。その40年後の2024年5月からかきはじめました。私はこの小説を書きながら、子供の時からの問い、ずっと「人間は、自分の内面だけは最後まで守ることができるのか」ということを考えていたのだと思います。


3. イスラーム社会の構造的リスクと、2010年代以降の急変

イスラーム社会の性別問題を考えていて、最近かなり腑に落ちたことがあります。単純に「トランスジェンダーが嫌われているから性別変更を認めない」だけではないということです。

イスラーム家族法では、男性と女性で適用される規則がかなり違います。婚姻、相続、扶養、親族関係、男女別空間、宗教上の役割。つまり性別は、単なる身分証の表示項目ではありません。システムエンジニア的に言えば、家族法全体の「主キー」に近い。

途中で性別を変更すると、「誰と結婚できるのか」「夫なのか妻なのか」「相続分はどうなるのか」「息子なのか娘なのか」「親族関係をどう整理するのか」という問題が一斉に動きます。だから制度側には、「一つ変更したら、全部の参照整合性が崩れるのではないか」という恐怖がある。

逆に、インターセックスなどについて「性別を変更した」のではなく、「最初の性別判定が間違っていたので、本来の性へ訂正した」と処理する方が受け入れられやすいのも、このためです。

2010年代以降の変容

今回、過去の論文や発表を整理するため、20年以上前に調べていた国々の「その後」を確認しました。そこで驚いたのが、2010年代以降の変化です。

  • サウジアラビア: 2014年の段階では、保健省を中心に、医学・法学・司法などが関わりながら「どのケースが医学的な性別修正として認められるのか」を審査する制度的な動きがありました。「全否定」ではなく、「許される性別修正と、許されない性別変更をどう区別するか」を制度化しようとしていたのです。

  • エジプト: 逆方向の動きが進みます。2000年代には、医師会の審査や精神医学的な評価など、非常に厳しい条件ではあっても当事者を審査する余地が残されていました。しかし2014年前後から入口が狭まり、「身体的・インターセックス的な理由による『性別修正』は認めても、ジェンダーアイデンティティを理由とする『性別変更』は認めない」という線が、より明確になっていきます。

そして2023年、サウジアラビア・ジェッダで開催された国際イスラーム法学アカデミー第25回会期で、性別移行について明確な線引きが示されました。
通常の「gender transformation」は原則として認めず、さらに、外見や身体を移行したとしても、相続、扶養、親権などの宗教上・民事上の権利義務については「移行前の性別で扱う」という考え方です。

ここまで来ると、「どうやって移行した人を家族法の中へ戻すか」ではなく、「そもそも法的性別カテゴリーを動かさない」方向へ大きく傾いていることが分かります。私が2000年代に見ていた世界と、2020年代の世界は同じではありませんでした。


4. 日本法の国際的比較と相互参照の往復

私自身の研究史で面白いのは、海外法を調べて日本へ持ち込むだけでは終わらなかったことです。

2003年に日本で性同一性障害特例法が成立すると、今度は「日本はどのようにして法律で性別変更を認めたのか」について知りたい韓国の研究者からお声がけいただき、現地へ渡ることになりました。

韓国では当時、日本のような性別変更の特別法はありませんでした。しかし2006年、韓国の大法院が、性別移行した人について家族登録上の性別訂正を認める判断を示します。

私はその前後、日本の特例法を参考にしようとする韓国側の制度議論や現地研究者との交流を深め、2007年には「GID特例法―日本、韓国、トルコ法の比較考察」を発表しました。

つまり自分の中では、

  1. 海外の制度を調べる

  2. 日本で特例法を成立させるために動く(2003年成立)

  3. 今度は日本の事例を持って韓国へ渡り、制度議論に接する

  4. 韓国大法院の判断なども含め、再び比較法研究へ戻る

という往復がありました。だから今回のエデン・ナイトさんの事件も、突然見つけた海外ニュースではありません。20年以上前から自分が研究していた世界が、その後どう変わったのかを確認していたところで出会った事件なのです。


5. 静かなる「生存戦略」と当事者のリアリズム

では、制度がすぐには変わらない社会で、本人はどう生きればいいのか。ここで私は、「外側の役割を一時的に演じることと、内なる性別を明け渡すことは別ではないか」と考えるようになりました。

危険な社会で、今すぐ全面対決することが必ず正しいとは限りません。生命や安全のために、外側では一時的に要求された役割を演じる。しかし、自分が誰であるかという内面だけは渡さない。

その間に、仕事を得る、お金を貯める、自分名義の口座を持つ、身分証を確保する、教育を受ける、別の都市へ行く、国外勤務や研究・留学の機会を作る、信頼できる仲間を作る。そして次に、安全に出られる機会を待つ。

これは屈服ではありません。「今回は出られない。しかし私は私である。次の機会まで生きる」という長期戦です。

トランス女性とトランス男性における戦略の違い

  • トランス女性(出生時男性): 保守的社会では逆に、「男性」という社会的立場を一時的な装備として使える可能性があります。「まだ結婚する金がない」「仕事が忙しい」「研究が終わってから」「海外勤務が終わってから」と結婚を延期することができる。一人で働く、金を管理する、遠くへ行くといった男性側の社会的自由を、女性としての自己を守るために利用することができます。

  • トランス男性(出生時女性): 非常に困難です。「結婚しなさい」「妻になりなさい」「子どもを産みなさい」という役割が具体的に迫ってくるからです。だから、大学、就職、研究、転勤、出稼ぎなどを理由に、まず出生家族の生活圏から出ることが重要になります。別の街へ行き、そこで最初から男性として生活を始める。何年も経てば、その街では本人を男性としてしか知らない人間関係が積み重なります。10年、20年、30年。成功すればするほど「トランス男性の事例」としては見えなくなります。周囲にとっては、ただの「昔からこの街にいる男性」になるからです。

男性社会における「受け皿」の不可欠性

ただし、トランス男性を「はい、今日から男性です」と男性社会へ放り込むだけでは危険だと思います。出生時女性として育ってきた人には、男性集団特有の距離感、上下関係、競争、危険回避、暗黙の了解など、経験していない部分があるかもしれないからです。

そこには、「男性社会の中で、その人を受け入れる側の男性」が必要です。「分からないことは教える」「変な絡まれ方をしたら間に入る」「男らしさを証明させない」「こいつは俺たちの仲間だ」と言ってくれる人たちです。

『完璧な男』で、岩村、松村、日下部たちが立真の周囲にいるのも、実はそういう意味があります。

立真は一人で「男」を演じているのではありません。男性社会の内部に、立真を受け止める安全網がある。

岩村は、現場や対人関係の中で立真を支える。
松村は、表面では静かでも、システムや構造を読み、危険を先回りして潰していく。
日下部は、もっと日常的な男性集団の中で、立真がどう振る舞い、どう距離を取ればいいのかという部分を支えている。
彼らは立真を「女性扱いして守る」のではありません。男性として仲間に入れた上で、男性社会の中に足場を作っている。

そしてやがて本人が力をつけ、その人たちを率いる側へ回る。

最初は、彼らから男性社会の中で生きるための足場を受け取る。その後、自分自身が能力と権限を獲得し、逆に彼らを率いるところまで行く。

だから立真が生き延びた理由は、本人が異常に強かったからだけでもありません。男性社会の内部に、彼を排除せず、仲間として扱う人間たちがいた。

これは現実にも必要な仕組みなのではないかと思います。

「男性として認める」ことと、
「男性の共同体の中に居場所を与える」こと
は違う。ここは非常に大きな問題だと思います。
自立は大切ですが、「自立=孤立」ではない。ここは非常に重要だと思います。

一人で稼げる。
一人で決められる。
一人で移動できる。

しかし困ったときには、

「そこは俺がやる」
「それは危ない」
「ここではこうした方がいい」

と言ってくれる仲間がいる。その両方が揃って初めて、本人は新しい社会の中で安定して生きられるのではないかと思います。


6. 「性別役割」の拒否と「結婚しない大人」という選択

ここまで考えていて、私の中でかなり重要になってきたのが、「内なる性別は守る。しかし、性別によって強制される役割は拒否する」という考え方です。

自分が何者であるのかということと、その性別に社会が結びつけている役割は、本来は別の問題です。

  • 「男だから妻を持て」

  • 「女だから夫を持て」

  • 「男だから家を継げ」

  • 「女だから子どもを産め」

——これはアイデンティティではなく、社会的役割です。この二つを切り離して考える。

家族に自分のジェンダーアイデンティティを完全に理解してもらえなくても、

  • 「この人は結婚しない」

  • 「この人は研究を続ける」

  • 「この人は仕事に生きる」

  • 「この人は海外に住む」

  • 「この人は遠くで暮らす」

というところまで受け入れてもらえれば、実生活上の衝突はかなり減ります。

つまり、必ずしも「私を完全に理解してください」まで求めなくてもいい。それよりも、「私の人生に、それ以上介入しないでください」という境界を作る。

本人も家族の価値観を全部変えようとしない。家族も本人の内面を全部説明させようとしない。

  • 「この人はどうも普通の結婚には向かないらしい」

  • 「仕事をしているから、それでいいのではないか」

  • 「研究を続けたい人なのだろう」

  • 「海外にいる方が本人には合っているのだろう」

という程度の、戦略的な曖昧さを残す。完全な相互理解ではありません。しかし、その曖昧さが人を救うこともあるのではないかと思います。

私は今回、サウジアラビアの事例をいろいろ見ながら、この「曖昧さ」が案外重要なのではないかと思うようになりました。

本人が「私はこういう人間だから、あなたたちの価値観を全部変えてください」と家族に要求する必要もない。逆に家族も、「なぜ結婚しないのか」「なぜこの役割を嫌がるのか」「本当は何者なのか」と最後まで問い詰めなくてもいい。

ある程度まで察して、「この人はそういう人生を送る人なのだ」というところで止まる。そういう折り合い方もあるのではないかと思います。

結婚しない大人として生きる

ここからもう一つ重要になるのが、「結婚しない大人として生きる」という第三の道です。

イスラム社会では結婚が非常に重要視されます。しかし、「結婚が宗教的に推奨される」ということと、「結婚して初めて成人男性・成人女性として完成する」ということは同じではありません。

後者には、宗教だけではなく、

  • 地域社会

  • 親族集団

  • 家族観

  • 階層

  • 経済状況

  • 社会的な男女役割

など、さまざまな要素が入っています。

現実には、男性であれば、

  • 「まだ結婚するためのお金がない」

  • 「婚資を用意できない」

  • 「家を準備できない」

  • 「仕事が安定してから」

  • 「海外勤務が終わってから」

  • 「研究が終わってから」

などの理由で、結婚を何年も延期することがあります。

これは、出生時男性として扱われているトランス女性にとっては、逆に一つの時間稼ぎにもなり得ます。

「男性として生きること」を自分そのものとして受け入れるのではなく、男性として与えられている社会的自由を、一時的な生存装備として利用する。

一人で働く。お金を管理する。海外へ行く。研究する。結婚を延期する。そうした社会的な余地を使いながら、内面だけは守る。

一方、出生時女性として扱われているトランス男性の場合は、「結婚しなさい」「妻になりなさい」「子どもを産みなさい」という役割が、本人の意思とは別に具体化してしまう可能性があります。

だから大学、就職、研究、転勤、出稼ぎなどを理由に、まず家族の生活圏から距離を取ることが重要になる場合がある。

  • 裕福な家庭なら: 大学・大学院・留学・専門職。

  • 普通の家庭なら: 就職・転勤・別都市勤務。

  • 経済的に厳しい家庭なら: むしろ「遠くへ働きに行って家へ送金する」という理由の方が、家族にも説明しやすいかもしれない。

家族から見れば、「遠くで働いている娘」。しかし、本人が暮らしている別の街では、「普通に男性として働いている人」。その二つの世界を無理に統合しない。

結婚以外に人生の中心を持つ

そして、結婚しない。子どもを持たない。

  • 研究に生きる

  • 仕事に生きる

  • 宗教に生きる

  • 地域に生きる

そういう成人の生き方を社会がもっと認めるだけでも、多くの人の生存空間は広がります。

これはトランスジェンダーだけの問題ではありません。同性愛者、無性愛者、経済的に結婚できない人、結婚を望まない人、家庭形成より仕事や学問を優先したい人、一人で生きることを選ぶ人。

  • 「夫になること」

  • 「妻になること」

  • 「父になること」

  • 「母になること」

だけが、大人の完成形ではない。この部分を少し緩めるだけでも、性別をめぐる衝突のかなりの部分を避けられるのではないかと思います。

歴史上にも、婚姻家族を人生の中心にしなかった人は数多くいます。たとえば、エジプトのアビドスを生涯にわたり研究し、守り続けたドロシー・イーディ(Omm Sety)。

彼女は結婚して息子もいましたが、夫とは別れ、最終的にはアビドスを自分の居場所として選びました。老後だから息子のところへ戻る、母親なのだから家族のもとへ戻る、そういう人生を選ばなかった。

仕事、研究、宗教、地域社会。その中に、自分自身の人生を作ったのです。これは非常に重要なモデルだと思います。

家族を持つことだけが、人間の完成形ではない。そして、家族に完全に理解されることだけが、生存の条件でもない。


7. インドの事例と、日本の夜の世界に見る「戸籍=防具」

この「締め付け」の問題は、中東だけに留まりません。インドの事例を見ると、さらに多層的な問題が絡み合っていることが分かります。

インドには古くから「ヒジュラ」と呼ばれる、第三の性の伝統的共同体があります。しかしヒジュラは単に「昔から第三の性が認められてきた」というだけの存在ではありません。

独自の共同体があります。グル(師)とチェラ(弟子)という師弟関係があり、その集団が地域ごとにまとまり、さらにガラーナと呼ばれる系統や縄張りを形成してきました。そして結婚式や出産祝いなどに出向き、歌い、踊り、祝福を与え、その対価として金銭を受け取る。

この「祝福する力」には宗教的・文化的な意味があり、それが長い年月をかけて、彼ら固有の仕事と収入源になっています。

つまりヒジュラ共同体には、アイデンティティだけではなく、共同体、師弟制度、縄張り、仕事、収入源、そして経済的な権益があります。ここが重要です。

外から見ると、「インドでは昔から第三の性が認められてきた。進歩的ではないか」に見えるかもしれません。しかし内部を見ると、それほど単純ではありません。

伝統的なヒジュラ共同体は、社会から排除された人々に、

  • 居場所

  • 仲間

  • 仕事

  • 生活の方法

  • 場合によっては家族の代わりになる人間関係

を与えてきました。一方、その共同体に入れば、独自の上下関係や師弟制度、縄張りのルールにも従う必要があります。

つまり、社会から排除された人を受け入れるセーフティネットであると同時に、その人を強く包み込む共同体でもあるのです。

そこへ2010年代以降、新しい動きが入ってきました。2014年、インド最高裁はNALSA判決によって第三の性を法的に承認します。そして2019年には、トランスジェンダー保護法が成立しました。

一見すると「トランスジェンダーの権利が拡大した」ように見えます。しかし現場では、むしろ新しい衝突が始まります。ここには、大きく三つの力があります。

① 伝統的ヒジュラ集団

伝統的なヒジュラ集団からすれば、自分たちが長い年月をかけて維持してきた共同体、師弟関係、ガラーナ、縄張り、祝福という仕事、そこから得られる収入を守りたい。

もし若いトランス当事者たちが、

  • 「私はヒジュラ共同体には入りません」

  • 「グルも必要ありません」

  • 「ガラーナにも属しません」

  • 「祝福や路上での集金を仕事にしません」

  • 「普通に大学へ行き、普通の会社で働きます」

と言うようになれば、ヒジュラという共同体そのものの基盤が揺らぎます。

しかもこれは文化だけの問題ではありません。誰がどの地域の結婚式へ行くのか、誰が出産祝いへ行くのか、誰がそこで祝福を行い、金銭を受け取るのか。そこには長い歴史の中で作られた、経済的な縄張りや権益があります。

だから、「本人の自由な意思だけで性別を決め、共同体から独立して生活する」という現代的な個人主義は、伝統的ヒジュラ集団にとって必ずしも歓迎できるものではありません。自分たちが長年維持してきた文化と生活基盤を崩す可能性があるからです。

② 現代的な個人のトランス当事者

一方、若いトランス当事者からすると、「なぜトランスジェンダーとして生きるために、ヒジュラにならなければならないのか」という疑問があります。

なぜグルを持たなければならないのか。なぜ共同体の上下関係に入らなければならないのか。なぜ祝福や路上での集金を仕事にしなければならないのか。

普通に大学へ行きたい。普通の会社に勤めたい。専門職につきたい。自分で部屋を借りたい。自分の給料で生活したい。

つまり求めているのは、「第三の性として特別な共同体に保護される権利」ではなく、「普通の個人として社会に参加する権利」です。ここで伝統的ヒジュラ社会と、現代的なトランスジェンダーの個人主義が衝突します。

③ 国家

そして第三に、インド政府という国家権力があります。国家から見ても、伝統的ヒジュラ社会は扱いやすい存在ではありません。

独自の師弟制度がある。独自の縄張りがある。行政の外側に共同体がある。結婚式や出産祝いなどで独自に金銭を得る経済活動がある。国家が完全には把握できない社会システムが存在している。

国家としては、これを行政制度の中へ取り込みたい。しかし一方、「本人がそう言えば誰でも自由に性別を決められる」という制度にすると、今度は国家の身分管理が難しくなる。

そこで、「誰が本当にトランスジェンダーなのかを国家自身が認定する」という仕組みが出てきます。行政官(District Magistrate)が証明書を発行する。

つまり非常に皮肉なのですが、伝統的共同体による認定から自由になろうとしたら、今度は国家による認定を受けなければならなくなった。グルに「お前は仲間だ」と認めてもらう必要はなくなった。しかし今度は行政から「お前は本物なのか」と問われる。

伝統的ヒジュラ集団は、自分たちの文化、共同体、縄張り、経済的権益を守ろうとする。現代的な個人のトランス当事者は、そこから離れて普通の個人として働きたい。国家は、その両方を行政管理の中へ取り込もうとする。

つまりインドでは、

  • 「伝統的共同体の保全」

  • 「個人としての自由」

  • 「国家による身分管理」

という三つの論理が衝突している。そして面白いのは、ときに「伝統を守りたい既存勢力」と「国家が管理したいという欲求」が、結果として同じ方向を向いてしまうことです。

どちらから見ても、「共同体にも国家にも依存せず、個人の判断で性別を決めて自由に生活する人」は扱いにくい。その結果、どちらの文脈からもあふれ出した個人が、一番生きづらくなる。

私はここに、中東とはまた違った形の「国家と伝統の狭間」という問題を見るようになりました。

日本の現場におけるリアリズム

日本の現場を見ると、性別変更の意味はさらに現実的です。

昭和から平成初期、一般企業などの昼の社会で生きることが難しかったトランス女性にとって、ニューハーフバーなどの夜の世界は重要な受け皿でした。単なる娯楽産業ではありません。仕事を得る場所、情報を交換する場所、先輩から医療や生活について教えてもらう場所、社会から排除されたときに生きていくための相互扶助の場でもありました。

現在では、コンカフェ、男の娘文化、SNS、Vtuber、オンライン上の仕事など、戸籍上の性別や出生時の性別を前面に出さなくても生きられる場所は増えています。旧来のニューハーフバーだけが唯一の受け皿、という時代ではなくなっています。

しかし、ここで非常に興味深いのは、夜の世界で「ニューハーフ」という看板を堂々と掲げて働いている人自身が、戸籍上の性別変更については非常にシビアであるということです。

外から見ると、「ニューハーフとして普通に働けているなら、戸籍まで変えなくてもいいのではないか」と思うかもしれません。しかし当事者側の判断は、もっと現実的です。

夜の世界でどれだけ人気者になっても、

  • 家を借りる

  • 銀行口座を作る

  • 病院へ行く

  • 保険を使う

  • 警察に身分証を見せる

  • ホテルに泊まる

  • 飛行機に乗る

  • 福祉を利用する

  • 年を取って介護を受ける

こうした社会インフラは、「昼の社会」の法律とIDで動いています。

見た目も名前も女性として生活しているのに、身分証だけが男性なら、そのたびに説明を求められる。

  • 「これはあなたですか?」

  • 「なぜ性別が違うのですか?」

  • 「どういう事情なのですか?」

本人が望んでもいないのに、社会生活のたびに自分の過去を説明しなければならなくなる。これは事実上、日常生活のたびにアウティングされ続ける状態です。

だから、

  • 戸籍=社会制度から身を守るための防具

  • 「ニューハーフ」という看板=夜の仕事の世界で使う武器、商品名

と、完全に使い分ける。これは理念ではありません。生活防衛です。

戸籍やIDを変更したいという要求も、「国家に私のアイデンティティを承認してほしい」という象徴的な話だけではありません。もっと切実です。

「普通に働くたびに説明させないでほしい」 「ホテルに泊まるたびに説明させないでほしい」 「病院で身分証を出すたびに出生時性別を説明させないでほしい」 「銀行や不動産の契約のたびに、自分の過去を開示させないでほしい」

ということです。つまり、IDは理念ではなく、生活インフラです。

若いうちは夜の世界で生きられるかもしれない。しかし年齢を重ねる。病気になる。仕事を辞める。介護が必要になる。そうなったとき、最後に本人を支えるのは社会制度です。だから若くて稼げるうちに、戸籍まで整えておこうとする。

私はそこに、当事者の非常にシビアな現実感覚を見るのです。


8. 運動の拡大、構造的差別、犯罪・排除の蓄積、そして「矯正しない」成熟

では、なぜトランスジェンダーをめぐる運動は、ここまで大きくなったのか。私は、その根底にはやはり、迫害と排除の蓄積があると思います。

多くの人が求めていることは、案外単純なのではないでしょうか。

普通に働きたい。殴られたくない。家を借りたい。病院へ行きたい。IDを出すたびに説明したくない。家族から追い出されても生きていけるようにしたい。自分が自分だと思う姿で、静かに暮らしたい。

ところが、その「普通」を実現しようとすると、ID、医療、婚姻、学校、スポーツ、公共施設、刑務所、相続と、既存制度に次々ぶつかります。

そこで権利運動が生まれる。「普通に生活させてほしい」という要求を法律にしようとすると、既存制度を変更しなければならない。すると社会側は、「制度全体を変更させられるのではないか」と警戒する。反対運動が生まれる。さらに当事者側も、「このままでは生きられない」と政治化する。

こうして、「迫害 → 権利要求 → 制度改革 → 反発 → さらに政治化」という循環が生まれているように思います。

だから、現在の大きなトランスジェンダー運動だけを見て、「なぜこんなに大騒ぎしているのか」と考えると、原因と結果が逆になってしまう場合があります。

最初から社会制度全部を変えたいと思っていたのではなく、普通に生きようとしたら、制度の方に次々ぶつかった。その結果、制度変更を求めざるを得なくなった。という側面があります。

成功した当事者ほど見えなくなる

ただし、ここにはもう一つ重要な問題があります。それは、サンプルバイアスです。

トランスジェンダーの人すべてが、大規模な運動をしているわけではありません。

一方、IDで困った人、差別された人、医療を拒否された人、仕事を失った人、暴力を受けた人。そういう人は声を上げざるを得ません。

その結果、社会から見える「トランスジェンダー像」は、困難を抱えて運動している人の比率が非常に高くなる。そこだけを見て、「トランスジェンダーの人はみんなこう考えている」と判断するのは危険だと思います。

本当は、別の土地へ行った人、静かに仕事をしている人、家族とは適度な距離を取った人、一生結婚しなかった人、自分の過去を話さず、普通に男性や女性として暮らした人。そういう「見えない成功例」もかなり存在しているのではないかと思います。

理解できなくても、矯正しない

私は、この問題を考えていて、障害者差別との共通性も感じています。人間は自分と違うものを見ると、「普通に戻してあげよう」としてしまうことがあります。

車椅子の人を無理に立たせて歩かせようとする。聞こえない人に、聞こえるふりを求める。発達障害の人に、定型的な振る舞いだけを強制する。本人が困っていることを解決するのではなく、自分たちが理解できる形へ本人を戻そうとする。

トランスジェンダーについても、同じことが起きているように思います。

本人が安定して生活できているか。本人が何に困っているのか。何をすれば安全になるのか。そこを見るよりも、「男なのか女なのか」「どうすれば元に戻るのか」「どうすれば普通になるのか」の方へ意識が向いてしまう。

私は、「なぜそう感じるの?」「どういう感覚なの?」と聞くこと自体は悪いことだと思いません。むしろ、人間は自分と違う相手を理解したいと思うものです。好奇心はあっていい。質問もしていい。

ただし、「分からない」と「だからあなたを変える」の間には、大きな境界があります。本人には答えない自由もある。

手続きや生命、他者の権利などに具体的な害を与えていない限り、「あなたはそういう人なのですね」と、その人をそのまま生活させる。私は、これが一番大切なのではないかと思います。

全員がトランスジェンダーについて同じ思想を持つ必要はありません。完全に理解できなくてもいい。違和感が残っていてもいい。

しかし、その違和感を理由に、本人の仕事を奪う、住居を奪う、医療を奪う、家族から引き離す、無理に別の性別役割を演じさせる、というところまで介入しない。「理解できないこと」と「相手の人生を壊すこと」は全く別です。それが成熟した社会なのではないかと思います。


おわりに——エデンさんの記憶と、生き延びるということ

エデンさんが最後に残した文章を読んで、私が強く感じたことがあります。

彼女は、自分が生き延びられなかったということだけを書いて終わってはいません。自分と同じような人たちが年を取ること、子どもたちが成長すること、次の世代が生き延びること、世界が少しでも良くなることを願っていました。

そして、誰が近づいてきたのか、どういう言葉で近づいてきたのか、どうやって生活を依存させられたのか、どこで逃げ道がなくなったのか、ホルモン治療をどう止めることになったのか、どうやって家族と再接触したのか、何が自分に起きたのかを、自分自身の言葉で世界に残しました。

これは単なる遺書ではなく、次に同じ状況に置かれる人への記録でもあると思います。

次の誰かが、「この人たちは自分を助けようとしている」と思って近づいたとき、エデンさんの記録を知っていれば、「これは和解ではなく、囲い込みかもしれない」と気づくことができるかもしれない。その一点だけでも、彼女が言葉を残した意味は非常に大きいと思います。

家族側では、「息子は悔い改めた」「ウムラを行った」「父親が救った」「交通事故で亡くなった」という別の物語が流布しました。しかし、その物語だけにはならなかった。なぜなら、本人自身が先に、「私には何が起きたのか」を世界へ残していたからです。

自分の人生についての説明権を、最後まで他人に渡さなかった。私はそこに、非常に大きな意味を感じます。

全面対決だけが抵抗ではない

現実の人すべてに、何十年も耐えて制度を解体・改変するような長期戦を要求することはできません。

しかし、

  • その場で勝てなくても、生き延びること

  • 内なる自分を渡さないこと

  • 今回は逃げられなくても、次の機会を待つこと

  • 必要なら距離を取ること

  • 仕事を持つこと

  • お金を持つこと

  • 移動できる力を持つこと

  • 仲間を持つこと

  • 自分の拠点を作ること

これらもまた、抵抗なのだと思います。全面対決だけが抵抗ではありません。

何十年も役割を演じながら内面を守る人もいる。別の街へ移る人もいる。仕事や研究を理由に、家族や故郷から距離を取る人もいる。結婚しない人生を選ぶ人もいる。男性や女性として与えられた社会的立場を、一時的な「装備」として利用する人もいる。旅を続けることで、固定された役割から距離を取る人もいる。仲間に守られながら、新しい社会の中へ入っていく人もいる。

そして何年も暮らしていけば、周囲の方が先に慣れてしまうこともあります。

最初は「何なんだろう、この人は」と思っていた人が、一緒に仕事をする、近所付き合いをする、助けてもらう、冗談を言う、何年も同じ場所で暮らす。そうすると、理論的にジェンダーを理解していなくても、「まあ、この人はこういう人だから」というところへ着地することがあります。

思想として完全に理解したわけではない。性別についての考え方が全部変わったわけでもない。それでも、「この人はこの人だ」という日常の方が先に成立してしまう。私は、そこにもかなり大きな希望があると思っています。制度より、人間の日常の方が柔らかいこともあります。

「LGBTQ+」という大きな言葉だけでは見えなくなる、政治の暗部、伝統の複雑さ、国家の都合、家族の都合、制度を守ろうとする側の恐怖。

そして何より、たくましく、かつシビアに社会の隙間を生き抜く当事者たちのリアリズム。

私は、ここをもっと見たいと思っています。エデンさんの記憶を胸に刻みながら。

そして、自分が20年以上前から研究し、制度形成の中で考え、小説『完璧な男』の中でも問い続けてきた問題が、現在どこまで来ているのかを確認しながら。

これからも、社会の線引きと、人間の生存戦略の関係を見続けていきたいと思います。

(了)

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