面倒くさいは、迎えに行け
「ああ、また報告書を書かないといけない…(面倒くさい…)」
「あの取引先に連絡しないといけない…(面倒くさい…)」
「決算の数字をまとめて、税理士にも確認して…(面倒くさい…)」
経営者、マネジメント層であれば、こうした呟きに心当たりがない者はいないだろう。
契約書の確認、資金繰りの調整、人事評価、取引先とのやり取り、社内の細かな調整事。数え上げればキリがないほど、経営という仕事は「面倒くさい」で埋め尽くされている。
だからだろうか。書店に並ぶビジネス書や自己啓発本には、「面倒くさい」を口にしない、心の中でも思わない、前向きな言葉に変換する、といった対処法が数多く紹介されている。
しかし、こうした方法にはあまり意味を感じない。本音でそう感じているのに、建前だけを変えても仕方がないからだ。むしろ無理やり思い込もうとすることで心が歪み、精神的に不安定になる者さえいるだろう。
結論から言えば、面倒くさいは消すものでも、言い換えるものでもない。人間である以上、一生つきまとうものである。だとすれば向き合い方はひとつしかない。
逃げるのではなく、迎えに行く。今日はその方法を、できる限り具体的に、そして少し科学的な視点も交えながら述べていきたい。
面倒くさいの正体
そもそも「面倒くさい」とは何か。突き詰めれば、答えはシンプルである。
手間暇がかかる、ということだ。
労力がかかる。時間がかかる。ただそれだけのことである。
であれば、なぜ人はそれを避けたがるのか。ここに、精神論では片付けられない理由がある。人間は本質的に、エネルギーを無駄遣いしないようにできている。脳も、体も、である。
狩猟採集の時代から、人間という生き物は限られたエネルギーをいかに温存し、生存に必要な場面で使うかという設計のもとに進化してきた。
だから、労力や時間がかかることに対して抵抗を感じるのは、意志が弱いからでも、怠けているからでもない。極めて自然な、生理的反応である。
この前提に立てば、世の中の「面倒くさいを感じないようにする」対処法がいかに的外れかがわかる。省エネという生物としての本能に、言葉だけで蓋をしようとしているにすぎないからだ。本能は言い換えでは黙らない。
一方で、厄介なことに世の中で本当に大事なことの大半は、この面倒くさいの中に埋まっている。
スタジオジブリの宮崎駿監督は、あるドキュメンタリーの中で「面倒くさい」を連発しながら、それでも仕事に向き合い続けていた。
誰もが認める仕事をしてきた人物であっても、面倒くさいと無縁ではいられない。むしろ、大事なことほど手間暇がかかり、手間暇がかかることほど、人はそこから目を逸らしたくなる。
つまり、面倒くさいを消そうとする努力は、そもそも方向が間違っている。消すのではなく、その正体を理解した上で、どう付き合うかを考えるべきなのである。
面倒くさいには3つの種類がある
ここまで、面倒くさいは消せるものではなく、正体は手間暇にすぎないと述べてきた。
しかし、すべての面倒くさいを同列に扱ってよいわけではない。同じ手間暇でも、その先にあるリターンはまったく異なるからだ。私はこれを、投資型、消費型、浪費型の三つに分けて考えている。

投資型の面倒くさいとは、手間暇を上回るリターンが、将来資産となって返ってくるものである。知識やノウハウの学習、読書、セミナーや研修、あるいはランニングや筋トレといった習慣もこれに含まれる。今日の手間暇そのものは小さくとも、積み重ねれば複利のように効いてくる。
消費型の面倒くさいとは、手間暇とリターンがほぼ釣り合うものである。税務や労務まわりの手続き、行政への各種申請、日々のメール対応、定例会議、契約書のチェック、経費精算といった業務がこれにあたる。やらなければ業務が回らないが、やったからといって特別な資産が積み上がるわけでもない。いわば、経営という船を沈めないための維持コストである。
浪費型の面倒くさいとは、手間暇だけがかかり、リターンがほとんどないものである。誰の目にも無駄とわかる仕事、いわゆるブルシットジョブはここに分類される。誰も内容を確認しない稟議書、返品確認のためだけに担当者を探し回って印鑑をもらう手続き、誰にも読まれない報告書、目的を失った定例の朝礼、資料のためだけの資料づくり。形骸化した儀式のような業務ほど、この型に当てはまりやすい。
私自身、アパレル経営という現場で、この三分類をもとに実践してきた。
会社員時代から独立するにあたり、まず手をつけたのは浪費型の廃止である。誰のためにもなっていない朝礼、読まれることのない報告書。独立を機に、そうしたものはすべてなくした。
次に消費型については、自分で抱え込まないことを選んだ。税務や労務といった専門性の高い分野は、専門家に任せる。自分がやっても専門家がやっても結果が大きく変わらないなら、時間を払ってでも任せたほうが理にかなっている。
そして浮いた時間と労力は、投資型に集中させた。組織づくりであり、セールスの型づくりである。ここだけは自分の手を動かし、面倒くさいと思いながらも邁進した。
大事なのは、この三分類が絶対的なものではないという点である。
ある人にとって投資型であることが、別の人にとっては消費型かもしれないし、同じ人でも立場やタイミングが変われば分類は移り変わる。若手のうちは投資型だった学習も、経営者になれば人に任せる消費型に変わることもある。だからこそ、一度分類して終わりではなく、その都度、今の自分にとってどの型なのかを問い直す必要がある。
また、浪費型だからといって、常に手放せるとは限らない。
組織のポジションによっては、慣習として残ってしまっている無駄な業務を、一存でなくすことができない場合もある。そうした時は、無理に抱え込むのではなく、改善の提案をする。なくす権限がないなら、変える提案をする。それもまた、面倒くさいとの一つの向き合い方である。
面倒くさいタスクの克服法
面倒くさいの正体と種類がわかったところで、次に問うべきは「では、どう手をつけるか」である。ここで多くの人がつまずくのは、やる気が出てから始めようとすることだ。
しかし、やる気というものは、そもそも先には存在しない。脳の仕組み上、やる気は行動を起こした後に生まれてくるものである。
精神科医クレペリンが見出した作業興奮という現象がこれにあたる。単純な作業であっても、いったん体を動かし始めると脳の側坐核が刺激され、後からやる気が追いついてくる。
つまり、やる気を待つのではなく、やる気を作りに行かなければならない。「始めたから」やる気になるのである。
であれば、最初にやるべきことは一つしかない。とにかく、小さく始めることだ。私自身、面倒くさいと感じた原稿や書類は、まず五分だけやると決めて手をつける。五分やってみて乗ってくればそのまま続ければいいし、乗らなければそこでやめてもいい。無理に続ける必要はない。五分やったという事実だけで十分である。
もう一つ、私がよく使うのは、着手する場所や手段のハードルを下げることだ。机に向かい、資料を揃え、環境を整えてから始めようとすると、その準備自体が新たな面倒くさいを生む。
だから私は、ベッドの上でスマホを使い、思いついたことから少しずつ手をつけることもある。完璧な体制を整えてから始めるのではなく、今いる場所、今持っている手段で始める。それだけで着手のコストは大きく下がる。
個人の工夫だけでは動けない時もある。そういう時は、外部の力を借りる。誰かと一緒にやる時間を強制的に設ける、あるいは誰かに見てもらうために期限を先に決めてしまう、というのも有効な手だ。
人と約束をすれば、簡単には投げ出せなくなる。期限を区切れば、先延ばしにする余地そのものがなくなる。いずれも、自分の意志力だけに頼らず、時間や他者という外部装置を味方につける発想である。
面倒くさいを乗り越える方法に、特別な精神論は要らない。やる気を待たず、五分だけ始め、場所や手段のハードルを下げ、時には人や期限という強制力を借りる。それだけで、多くの面倒くさいは動き出す。
「面倒くさい人」という存在
面倒くさいのはタスクだけではない。人間関係にも、同じ言葉が使われる。「あの人は面倒くさい」というやつである。
これも突き詰めれば、正体は同じく手間暇である。面倒くさい人とは、対応や説得に手間暇のかかる人のことだ。こだわりが強く、簡単には納得しない。執着があり、一度決めたことをなかなか譲らない。頑固で、説得には人一倍の時間がかかる。周囲からすれば、できることなら関わりたくない相手である。
しかし、経験上こうした人の多くは、単に頑固なだけではない。自分なりの信念やこだわりを持って行動している人であることが多い。周囲の意見に流されず、自分の考えを大事にしているからこそ、簡単には折れない。面倒くさいという評価の裏には、意外にも実力や実績が伴っていることが少なくない。
この面倒くさい人にも、タスクと同じ三分類が当てはまる。
投資型の面倒くさい人とは、対応に手間暇はかかるが、関係を築けば大きな資産になって返ってくる人である。信念があり、こだわりがあるからこそ、仕事の質が高い。
消費型の面倒くさい人とは、対応にかけた手間暇なりのリターンで収まる、いわば普通に気を遣うべき相手である。
そして浪費型の面倒くさい人も、確かに存在する。こだわりが単なる自己満足で空回りしているだけで、対応してもリターンがほとんどない人である。すべての面倒くさい人が信念の人だと美化するつもりはない。
アパレル経営の現場では、これを痛感する場面が何度もあった。どの店でも敬遠される「面倒くさいお客様」というのがいる。要求が細かく、対応に時間がかかり、担当者を悩ませる客である。
しかし、こういう客ほど、実はこだわりがあり、購買力の高い上客であることが多い。売れる店は、こうした客を避けるのではなく、むしろ顧客として大事に育てる。これは接客業に限った話ではない。専門家と呼ばれる人たちにも同じ傾向がある。
周囲の大半から面倒くさいと言われている人が、それでも仕事を任され続けているとしたら、それは実績があるからだ。避けていれば見えない。
だが、五分でも話を聞いてみれば、周囲が思っているよりずっと考え抜かれた意見を持っていることに気づくことがある。
では、具体的にどう向き合えばよいか。
まず入り口は、タスクと同じく五分でいい。避ける前に、五分だけ話を聞いてみる。それだけで、周囲が「面倒くさい」の一言で片付けていた相手の輪郭が、少し違って見えてくることがある。こだわりの背景にある考えや、譲れない理由が見えてくれば、対応の仕方は自然と定まってくる。
もちろん、話を聞いた上でなお、噛み合わない相手もいる。信念ではなく、単なる思い込みや自己満足で頑なになっている人もいるだろう。それならそれで構わない。大事なのは、話を聞く前から「面倒くさいから」と切り捨てないことである。理解しようとする手間暇を惜しまなければ、見えてくるものがある。それだけで十分なのだ。
一生つきまとう面倒くさいとどう付き合うか
ここまで、面倒くさいタスクの分類と克服法、面倒くさい人との向き合い方について述べてきた。だが、正直に言えば、こうした工夫を重ねたところで、面倒くさいがなくなることはない。
私自身、コラムの執筆を十年以上、アパレル経営を二十年以上続けてきた。振り返れば、面倒くさいことだらけの日々である。
原稿に向かいたくない日もあれば、経営判断として気の重い交渉に臨まなければならない日もある。それでも続けてこられたのは、面倒くさいをなくそうとするのではなく、面倒くさいと付き合い続けてきたからだと思う。
そして、続けてきたことそのものが、今では資産になっている。十年続けたコラムには、その年月でしか積み上がらない読者との信頼がある。二十年続けた経営には、その年月でしか築けない組織とノウハウがある。面倒くさいを避けずに積み重ねた時間は、後から振り返ると、確かな資産に変わっている。
ただし、ここで一つ注意しておきたいことがある。面倒くさいことを克服しようと意気込むあまり、やるべきことを事細かにリストアップしすぎると、かえって心に毒が回る。
すべてを可視化し、すべてに手をつけようとすれば、その量に押しつぶされてしまう。大事なのは、全部を一度にやろうとしないことだ。その時々で、本当に重要なものにだけフォーカスする。それ以外は、後回しにしていい。焦って全部を抱え込む必要はない。
結局のところ、面倒くさいは一生つきまとう。今日ある面倒くさいを一つ片づけても、明日にはまた別の面倒くさいがやってくる。逃げても、それは消えてなくならない。
むしろ、逃げれば逃げるほど、後になって形を変えて追いかけてくる。先延ばしにした報告書は締切間際に何倍もの重さでのしかかってくるし、避け続けた相手との関係は、いずれどこかで清算を迫られる。
であれば、逃げるという選択肢は、実は選択肢になっていない。ならば、自分から迎えに行く。面倒くさいと感じた瞬間、それこそが、大事なことに手をつける合図だと思えばいい。
面倒くさがりながらも、実践する人であれ
最後に、明日から使える問いを一つ、置いておきたい。
面倒くさいと感じたら、まず立ち止まって、こう自問してほしい。これは投資型か、消費型か、浪費型か。そして、自分でやるべきか、任せるべきか、なくすべきか。それだけで、目の前の面倒くさいへの向き合い方は、驚くほど変わってくる。
すべてを一人で抱え込む必要はない。すべてを我慢して続ける必要もない。分類し、選び、時には手放す。それだけで十分である。
面倒くさいは、消えない。工夫を重ねても、経験を積んでも、一生つきまとう。それでいい。むしろ、それでいいのだと割り切ることから、すべては始まる。
面倒くさいものはどうやっても面倒くさい。それでも手を動かし、それでも人と向き合い、それでもやり続ける自分を、私はなかなかすごいやつだと思うようにしている。
面倒くさがりながらも、やることはやる。逃げるのではなく、迎えに行く。経営者としての価値観は、日々の小さな面倒くさいへの向き合い方にこそ表れているのだと思う。
