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中高生をかどわかす不埒な大人たち

― バンド、ZINE、そして少し怪しい大人の話 ―


楽器屋の無愛想なおやじ

中高生をかどわかす不埒な大人たちがいます。犯罪に引きずり込む悪い大人とは違います。もう少しありがたく、もう少し面倒臭い大人たちの話です。

たとえば、町の楽器屋にいるおじさんです。買うかどうかも分からない中高生が、安いギターを眺め、試奏だけして、弦を一本買っただけで長居する。店としては、たいして儲かる客ではありません。それでも追い払わない。文化祭前になると、アンプの調子を見てくれたり、ミキシングの手ほどきをしてくれたりします。

学校の先生から見れば、あきらかに警戒の対象です。放課後に生徒がたむろしている。勉強に関係なさそうな話をしている。何をしているのか、よく分からない。ところがいざ文化祭や地域イベントになると、機材のことではその店に頼っていたり、先生自身が、実は昔から顔見知りだったりします。

不埒な大人は、教育者として子どもに関わっているわけではありません。子どもを客としてだけ見ているわけでもない。むしろ、割に合わないところで子どもの企みに付き合ってしまう。そこに妙な味わいがあります。

楽器屋だけではありません。画材屋、古本屋、コピー屋、小さな本屋、喫茶店、ライブハウス、公民館や児童館の少し自由な職員。そういう場所には、子どもたちの「何かやりたい」を、学校とは違う「生暖かい」目つきで眺めている大人がいました。

彼らはやさしいというより、妙に現実的です。

「このまま刷ると端が切れるよ」 「音がデカすぎる」 「やるなら最後までやれ」 「これは人を傷つけるからやめときな」

ぶっきらぼうに現場の言葉で関わってくる。子ども扱いしないかわりに、大人扱いもしきらない。その中途半端な関係が、中高生にはちょうどよかったのかもしれません。

学校とロックな雑誌は相性が悪い

先日の研究会で、橘川幸夫氏がZINEづくりについて「バンドみたいなものなんだよ」と語っていました。五、六人で集まり、喧嘩しながらつくる。聞いた瞬間、具体的な情景はすぐに浮かんだのですが、同時に、なんだかつかみどころのない表現だ、と当惑もしました。

まあバンドは、だいたいろくでもないものです。
誰がリーダーなのか曖昧なまま始まり、誰かが急に仕切り、誰かが急に来なくなり、曲順でもめ、歌詞でもめ、練習場所でもめる。たいていは下手くそです。音も合わない。文化祭のステージでは、緊張してテンポが走る。それでも、本人たちは本気です。

ZINEも似たところがあります。文章を書き、編集し、紙面を組み立てる活動ですが、学校新聞や文集とは違います。きれいに整った発表物というより、自分たちの熱がまだ残留しているモノに近い。誰に読まれるのかも、はっきりしない。それでも、誰かに届いてほしい。そんな宙ぶらりんなところに置かれます。

ここで、学校文化との緊張が生まれます。
学校の活動には、ねらいがあり、手順があり、評価があり、成果物があります。この文化は必要です。子どもを守るためにも、学校は安定的でなければなりません。保護者や地域に説明できること、公平に参加できること、トラブルを避けることも大切です。

一方で、バンドやZINEは、こうした形式や安定を苦手にします。形を整えようとすればするほど、ロックな情熱は失われてしまう。年度計画にきれいに収まり、全員が同じ手順で進み、教師が添削し、保護者に見せやすい姿になった瞬間、ZINEはお行儀のよい小冊子になってしまいます。

学校でZINEを扱うなら、最初からこの緊張関係は前提に認めた方がよさそうです。ZINEやバンドの発想と、学校の安定した文化は、もともと相性がよくない。どちらかを否定する必要はありません。ただ、無理にすり合わせると、いちばん大事な温度が下がってしまいます。

バンドはだいたい卒業する

ろくでもないバンド活動は、だいたいの人が卒業します。進学や就職で忙しくなったり、メンバーの関係が変わったり、熱が冷めたりと、理由はいろいろです。ただ、卒業するということは、続けられなくなることだけではなく、その時期にしか鳴らせない音がある、ということでもあります。

その時期にしか書けない文章

高校生が作ったガコールを見たとき、私はそのことを強く感じました。
あの文章や紙面は、大学生になってからではおそらく作れない。大人になれば、なおさら難しい。技術的体裁的には、後からいくらでも上手くなりますが、その分だけ荒削りな味わいは失われます。

高校生の言葉には、その時の不安や葛藤、混沌と衝突がそのまま現れます。だから危なっかしい。だから読みにくい。だから、妙に刺さる。大人はそれを「未熟」と呼びたくなりますが、未熟であることと、力がないことは同じではありません。むしろ、成熟してしまうと二度と書けない文章があります。

卒業とは、あることができなくなることでもある。バンドもZINEも、その時期にしか持ち得ない声を、たまたま形にしてしまうようなところがあります。

ここに、不埒な大人が欠かせない

中高生のZINEづくりには、その時にしかできない稀少性があります。もっと整ってから、もっと文章が上手くなってから、もっと企画が明確になってから、と待っているうちに、その時期の声は捉えられずに失われてしまいます。一方で、荒削りをそのまま表出させればよいという訳でもありません。了解可能な形に言い換えたり、人を傷つけない配慮も必要です。ただし、手を入れすぎれば、いちばん肝心な熱が逃げてしまう。

不埒な大人は、この時限性をよく知っています。子どもの言葉を立派な文章に仕上げようとはしません。ただし、雑誌になるところまでは付き合う。音になって観客の前に届くところまでは面倒を見る。何を残し、何を直し、何をそのまま活かすか。その手前で、少し離れて眺めています。

彼らがいなければ、その時期の声はただ消えていく。文化祭の準備期間が終わる前に、バンドが解散する前に、何かが形になるかどうか。そこに、不埒な大人の役割があります。

大人は少し退いているくらいでいい

難しいのは、学校がこの活動にどう関わるかです。

授業、行事、発表会、文集、探究成果報告。これらは学校が得意とする場所です。ねらいを定め、手順を組み、時間を確保し、成果を共有する。学校は、子どもの活動を安全に整える力を持っています。

ただ、子どもたちが「これは自分たちのものだ」と感じる、はみ出した場所は、学校が真正面から設計しようとするほど逃げていきます。教師が用意した手順に沿い、教師が読者となり、教師が整えた紙面になると、もはやZINEとはいえません。

ZINEづくりは、学校の内と外の境界にあります。学校の中で扱える。けれど、学校の中に収めすぎると温度が下がる。完全に外へ出せばもっと自由かもしれませんが、学校が関わる以上、責任を手放すことはできません。

だから必要なのは、子どもの熱を真ん中に置きながら、学校が最低限の足場をかけることです。ただし、足場が強すぎれば、子どもたちは自分たちのものだと思えなくなる。この厄介な位置に、学校ZINEの面白さがあります。

読者を決めすぎない

学校ZINEは、自由に何でも書けばよい雑誌ではありません。かといって、正解をきれいにまとめる文集でもない。ライブな声を、身近な誰かに手渡す小さなメディアです。

届け先の誰かとは、先生だけではありません。保護者や地域住民としてはっきり定義された読者でもないかもしれません。同じ学校にいるけれど、まだ話したことのない誰か。来年この学校に入ってくる人。かつて同じことで悩んでいた自分。となりのクラスの、少し似た誰かだったり。

そして、あなたの言葉は、きっと誰かに届きます。

清書ではなく編集

中高生には、確実に「自分たちだけでやっている」と思える時間が必要です。
大人の支援があからさまだと、急に冷めてしまいます。だから、不埒な大人はグイグイと引っ張る事をしません。無愛想に場所や道具を貸す。紙の選び方を教える。コピー機の癖を教える。ライブの持ち時間を告げる。読みにくいところを指摘する。人を傷つけそうな言葉には眉をひそめる。ただし、子どもの言葉を自分の言葉にはけっして置き換えません。

いわば清書ではなく編集に近い関わりです。誤りを消して整えるのではなく、何を残し、何を前に出すかを子どもたち自身が選べるところまで支える。

不埒な大人とは、子どもを壊す大人ではありません。子どもの中にある、まだ名前のついていないモノを、うっかり外の世界へ連れ出してしまう人です。その時期にしか現れないモノがあると知っている。火をつけるというより、消えそうな火に風を送る。

学校ZINEを作り出す前に検討しておきたいのは、作り方の手順だけではありません。中高生の表現には、その時期にしか形にならない熱があります。その熱を、学校文化の中でどう冷ましすぎずに紙へ移すのか。街の不埒な大人たちは、たぶんその境目にいるのです。学校の中でZINEを扱うなら、私たちはその退き方から学ぶ必要があるのだと思います。


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