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蕎麦とグミ

 夫が蕎麦を打ち始めたのは、子どもたちが巣立って1年たった頃だった。手狭だと思っていた家のすみずみに、蕎麦をこねる音が広がっていく。キッチンを覗くと、首に手ぬぐいをかけた夫が、大きな木のこね鉢に向かい、えいえいと体を揺らしている。汗が蕎麦に入ったら嫌だなと思いながら、積まれた道具を見た。いくらしたのだろうか。

 声をかけようかと思ったが止めた。今日は、久しぶりに同級生とお茶をする約束がある。わたしは、気づかれぬよう、お気に入りの靴をひっぱりだし、駅前のカフェへ向かった。道すがら、バッグに入れておいたグミをとりだして、一粒、口へ放り込む。チープな甘さが口に広がった。夫婦生活は、地平線を捕まえるようなものだった。どこまでいったってゴールは見えない。走るのに疲れたとき、わたしはいつもグミを食べてきた。

 カフェで会った友人はちょっと疲れて見えた。わたしが「久しぶり!」とグミを渡すと、彼女は「おばちゃんか」と言いながら飴をくれた。私たちは話した。近況報告。昔のこと。誰それのその後。夫のこと。

「うちの人、高い道具そろえてさ、蕎麦を打ち始めたよ」
「デンジャラス。うちには先月買ったギターがホコリ被っておられる」
「そうなるよね」
「まだまだ増えるよ、蕎麦の道具。最初が肝心」
「帰ったら、ひとこと言わないとだね」

 気がつけば三時間。そろそろ夕食の支度をしないといけないと、私たちはカフェを後にした。帰り際、友達が「誕生日もうすぐでしょ。おめでと」と、飴をくれた。「ありがと。あなただけだよ、気遣ってくれるのは」と言ってグミをお返しした。

 帰り道、ポツポツと雨が降り出した。傘をさすと、骨が一本、折れていた。買い替えるかな、でも、まだ使えるしな。傘が雨をうける音を聞くと、いつも夫のプロポーズを思い出す。降り出した雨に傘を差し出して言ったのだ。

「ずっと、僕の傘に入っていてください」

 いろいろあったなと思う。折れた傘の骨を見ながら、わたしはグミを口へ放り込んだ。弱い雨が、パツパツと傘を打っていた。

 家に帰ると、夫はまだ台所で蕎麦を打っていた。食卓の上には、不揃いな蕎麦が並んでいる。まだまだ、やめる気配はなさそうだ。よほど楽しいのだろうか。片付けが大変そうだ。わたしはグミをもう一つ口へ放り込んだ。

 バッグを置くと、夫の手帳が目に入った。リビングの机の上だ。付箋がいくつかついている。わたしは、チラと台所を見た。そして、そっと手帳を開くと、グルグルと丸で囲まれたメモが目に入った。

「妻の誕生日。硬めの蕎麦が好き」

 手帳を机に戻し、台所へ向かった。夫の首にかかった手ぬぐいを取り、額で結び直す。これで汗が落ちることはないだろう。わたしは、まだ弾力のあるグミを飲み込んだ。かすかに蕎麦の香りを感じた


(了)


いつか「麦打ちさせない10の方法」を書こうと思いマス。
同じテーマの「餅のブログ 夜のドライブ」もどうぞ。


以下の企画に参加させていただきました。

■セリフ
「で、感想は?」
■三題
・傘
・グミ
・地平線

▼投稿ルール
投稿締切(任意):2026年6月25日(木)23:59

ハッシュタグ「 #せりふ三題噺 」「 #傘グミ地平線 」をつけて投稿

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