長靴さんの一手
マニュアルぐらい用意してくれればいいのに。
入社して一か月、GWを前に美緒はPCの前で悪戦苦闘していた。
まわりの先輩たちはとっくに仕事を終え、すでに休日モードだ。
要領よく仕事を終わらせるには、どうすればいいのだろう。
その答えを、美緒はまだ知らなかった。
「その入力はね、こうすると早く終わりますよ」
そう言って声をかけてくれたのは、長靴さんだった。
ネモフィラのような美人で、いつも的確に教えてくれる。
雨の日には作業用の黒い長靴を履いてくるので、そう呼ばれている。
融通は効かないと、先輩方が休憩室で噂しているのを何度か聞いた。
でも美緒に知っている。
困ったときには、みんな、長靴さんに聞きにいくことを。
「おい、100万円の犬がいたぞ!」
ドアを開けるなり、帰ってきた営業の人が大きな声で言った。
ここ数日SNSで話題の犬のことだ。
とあるお金持ちの飼い犬が脱走した。
病気なので早急に薬の投与が必要だ。
捕まえた人には100万円の謝礼が出るのだという。
SNSでは骨ばった犬の写真が痛々しい。
「仕事も終わってるし、探しにいかないか?」
営業の人がそう言うと、全員の視線が課長に集まった。
「まだ、就業時間中だぞ」
「GW前だし、仕事終わってるじゃないですか」
「山分けしましょう」
「なんなら今から有給をとってでも……」
課長は渋い顔のまま、答えを出せずにいた。
普通に考えれば、就業中に私用で抜け出すなどもってのほかだ。
しかし、誰も困らないのも事実だ。
場の空気はじわじわと「100万円」に傾いていた。
美緒は長靴さんに目をやった。
静かに耳を傾けている。
騒ぎに加わるでもなく、たしなめるでもなく、ただ聞いている。
美緒は思った。この人は、どう動くんだろう。
長靴さんはスクっと立ち上がり、何も言わず部屋を出ていった。
「まさか、ひとりで公園に?」
「いや、社長に告げ口じゃ……」
課長の顔色が青くなった。
美緒も、一瞬そう思った。
でも、すぐに打ち消した。
長靴さんは、そういう人じゃない気がした。
じゃあ、何をしに行ったんだろう。
数分後、社長がやってきた。
「おまえら、何してる! 犬を探しに行くぞ!」
「行きましょう、社長! 100万円ですもんね」
課長が調子よく答えた。しかし、社長は顔をしかめた。
「何を言ってる? 犬は病気なんだろう? 早く見つけないと駄目だろうが!」
入口で、長靴さんがそれを見ていた。
長靴さんは、なんと社長に伝えたのだろうか。
美緒はそのとき気がついた。
融通の効かない人だという噂は、たぶん正確じゃない。
この人は、いつも全体を見渡して答えを探している。
仕事の要領とは、速く終わらせることじゃないのかもしれない。
美緒は心の中で、長靴さんのラベルを「軍師さん」に張りかえた。
(了)
どうして、長靴さんは、長靴を履いてくるのでしょうね。
シリーズ ↓
こちらの企画に参加させていただきました。
■セリフ
「ほんとにいたんだって!」
■三題
・長靴
・ネモフィラ
・骨
▼投稿ルール
#ショートショート #小説 #短編小説 #読書好きな人と繋がりたい
#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門
