世界一読まれなかったSF小説と #7世界的ベストセラー(最終話)
蒸気船の後方デッキではディキシーランド・バンドが明るいリズムを奏でていた。
「何億人にも読まれたんだってね」
「君は、何人くらい?」
世界一読まれなかったSF小説と世界的ベストセラーが話している。私は少し離れたところで流れる川面と河岸の森を眺めていた。船尾の手すりのすぐ下では、巨大な外輪が規則正しく水を掻き、船を前へと押し続けている。
「まだ数えられるくらいだよ」
「それなら君はまだ一人ひとりを覚えていられるね」
「じゃあ、きみにも、そんなときが?」
「もちろんあったさ」
「ふーん」
ときどき乗客がやってきて、ベストセラーに声を掛けた。多くは遠慮がちにサインをねだり、記念に写真を1枚だけ撮っていった。
「なあ、おれたち小説は、誰かに読まれるたびに完成するって、タカハシがそう言うんだ」
「そうなら嬉しいね。きっとそうだよ」
そう言ってベストセラーがこちらを見たが、私は聞いていないふりをして景色を眺め続けた。
「おれ、百人までは想像できたんだ。でも……」
「でも?」
「その先を想像したら、チビりそうになって……」
それを聞き、ベストセラーが愉快そうに笑った。ベストセラーにふさわしい、心に響く笑い声だった。
「きっと僕もチビるよ」
「じゃあ……」
「考えたこともない。考えないようにしてるんだ」
そこへ小さな女の子が駆け寄ってきて、開けてとベストセラーにスナックの袋を掲げた。ベストセラーは、破裂しそうな笑顔でしゃがむと、とても丁寧な手つきで袋を開けて女の子に渡した。そして走り去った女の子が見えなくなると静かに息をついた。
「この世界はね……」
女の子が走り去った先を見つめてベストセラーが言った。
「どうして起きたのか解らないことと、どうして起こらなかったのか解らないことで出来てるんだ」
ディキシーランド・バンドが曲を終えた。後方デッキには外輪が水を打つ規則正しい音が響いている。
「僕たちは、その謎を解くためじゃなく、少しだけ照らしてあげるために、ここにいる」
ベストセラーは立ち上がり、船尾の手すりに身を預けると、あの人の受け売りだけどね、とつぶやいた。
「なあ、大丈夫か?」
世界一読まれなかったSF小説が声を掛けた。ベストセラーは無言で空を見上げた。
「作者には会ってるのか?」
私はベストセラーに訊ねてみた。
「ずいぶん会ってない」
煙突から立ちのぼる黒煙を西日が照らしている。
「……会ってくれるかな」
「決まってるさ。なあ、タカハシ、そんなの決まってるじゃんな」
「ああ、つべこべ抜かすようなら俺に言え。話をつけてやる」
「さっすが、タカハシいー!」
世界一読まれなかったSF小説がその場で大きく飛び跳ねた。そんな彼を見てベストセラーが笑った。清々しい笑顔に見えた。それから二人はしばらく話し込んでいた。話題の多くは、世界一読まれなかったSF小説がここへ来るまで見聞きしたあれこれだった。
「そうだ、これから二人で図書館に行かないか?」
ベストセラーが言った。
「図書館?」
「まだ行ってないだろ? 希少な絶版本に会えるよう頼んであげるよ。翻訳家のところにも行こう。僕は何人も知ってるんだ。ちょっとした並行宇宙だよ。それから……印刷所! 言葉が本になるところを見せてもらおうよ」
「入れてもらえるの?」
「僕を誰だと思ってるのさ。ねえ、いいだろ?」
弾む笑顔でベストセラーが私に言った。世界一読まれなかったSF小説も弾ける笑顔で私を振り返った。
「もちろんさ。楽しんでくるといい」
ディキシーランド・バンドが次の曲を始めた。するとひとりの観客が歌い出し、やがてデッキのあちこちから歌声が重なっていった。
それは、この世界を祝福する歌だった。
了
オンリーコネクト。
それが世界一読まれなかったSF小説のタイトルだ。
Some Signals Stay.
