誰かと暮らすということ | 何も起きない夜日記
ずっと気になっていたエッセイ·アンソロジー
『何も起きない夜日記』
平凡な夜の、切実な話
-自分と向き合う17人が、平日の終わりに思うこと
と副題にあるように「平常運転の一日の夜」に思うことが綴られている
なかでも丁寧に読ませていただいたのが
田貫さんの「三十代、子ども部屋の現在」
先にnoteを拝読していたので、あの田貫さんだと嬉しくなる初めての不思議な感覚だった。
田貫さんの章を読んで、誰かと暮らすということを考えた。
実家を出てひとり暮らしを10年間、恋人だった夫と2年間ふたり暮らしをして、いまは夫婦として暮らして1年が経とうとしている。
田貫さんが書かれているように、私も実家に帰ったときはご馳走で もてなされるようになった。
母から「何が食べたいか」を聞かれてその願いが叶うように、そしてリクエストに加えて私の好物だったものがいくつも同時に食卓に並ぶようになった。
子どもとして暮らしていた頃も、料理上手な母の夜ご飯は毎日楽しみだった。いまの豪華な食卓は私が外の人になったことを感じさせる。
大学生の頃、実家に帰るときに「◯日遊びに行ってもいい?」と聞いたり、玄関で「お邪魔しまーす」と言ったりすることを母は「寂しことを言うのね」とひどく嫌がったけれど、私は私で、食卓から両親との関係の変化を感じていた。
かといって、いつまでも一緒に暮らすような関係、相手の毎日がそのまま自分の毎日に影響するような関係でいたかったのかというと、そうではない。早くここから出たい気持ちや、ひとり立ちしたい気持ちがあったからこそ、ひとり暮らしを選んでいたと思う。生活が切り離されたからこそ、自分のためと相手のためが分けられるようになり、心地よく、相手のことを思いやることができるようになったと思う。
田貫さんの章には、平日の夜に楽しむコンテンツについても書かれていた。これは、ひとり暮らしを10年間して、すっかり"我が城"で暮らすようになっていた私が、彼とふたりで暮らし始めてぶつかったことと重なった。
私は本当は暮らしに共感できるような作品が好きで、気に入ったものは一気に最後まで観たいし、疲れている日には既に観て面白かった"安心できる作品"を繰り返して観たい。ハラハラドキドキする展開や、この作品面白いかな?好きかな?というわくわくは平日の夜には重たく感じる。
それでも、彼とふたりで食卓を囲む時間のお供として、何日もかけて最後まで一緒に楽しむためには展開が必要だ。いま話題になっている作品であったり、ふたりとも知らなくて続きが気になる番組であったりを観ることが平和だ。
なんでかというと、これまでどちらかのお気に入りを紹介して相手が初めて観るのに付き合うという形では、お互いに緊張して疲れてしまったからだ。勧めた方は相手の反応が気になってしまうし、初めて見る方も「相手のお気に入り」だというフィルターがかかって、良いリアクションを期待されているからと純粋に楽しみづらい。私が無言で真剣に見ていたときに彼が「あんまりだったかな」と耐えきれずに再生を停めてしまったこともあるし、彼が同じところで笑ったのが嬉しくて、私が見ている最中なのに熱く魅力を語り始めてしまったこともある。だからこそ、一人時間に自由きままに観たいものを観たいだけ楽しむ時間は、それぞれの少し贅沢なリラックスタイムになっている。ふたりの暮らしを楽しむためには、ひとりの時間が必要だ。
きっと休日の過ごし方も、強いては暮らし方も、ふたりのベストを選び一緒に過ごす時間を重ねることと、それぞれのベストを選べる自由が許されること、その両方が必要なんだろうなと思う。
今回、田貫さんのエッセイを読んで、誰かと暮らすということ、そして私の暮らしの現在地について考えることができて、いい時間になった。
