見出し画像

【ちび創作大賞】✨あなたにとっての"自由"✨|小説「自由な宇宙(そら)へ」

📙カワムラさんの【ちび創作大賞】に参加しています。

📗選択テーマは✨あなたにとっての"自由"✨

▼本編


📖【短編小説】自由な宇宙そら



第一章 息を買う男

朝、目を覚まして最初にすることは、天井の表示を見ることだ。

赤いデジタル表示が、寝室の隅で静かに光っている。

残酸素:六十四時間三十二分 安全です

カイトはしばらくそれを眺めてから、ゆっくりと息を吐いた。もったいない、と反射的に思う。ここ数年、吐く息のひとつひとつにまで値札が貼られているような気がしてならない。

この惑星では、酸素に金がかかる。

数十年前、大地が裂けた。地の底から吹き出したマグマガスが空を灰色に染め、それからというもの、外の空気は人の肺を焼くようになった。だから人は屋内に閉じこもり、企業の売る「清浄酸素」を吸って生きている。息を吸うことは、そのまま金を吸われることだった。

洗面台の鏡に、痩せた顔が映る。三十四歳。空調管理会社の下請けで、他人の家の酸素供給ラインを点検して回る仕事。他人の呼吸を守るために、自分の呼吸をすり減らす毎日だ。

マスクを装着し、玄関のメーターに社員証をかざす。ピッ、と音がして、今日ぶんの通勤用酸素が課金される。残量メーターを見る度、心臓がきゅっと縮む。

外は、いつもの灰色だった。空という言葉が、もう誰の口にものぼらない。頭上にあるのは天井の代わりの薄暗い雲蓋だけ。子どもの頃、父はよく言っていた。

「カイト、空ってのはな、本当は青いんだ」

青。その色を、カイトは絵の中でしか知らない。

通りには、マスク越しに互いを見ない人々が流れていく。誰もが自分の残量メーターだけを気にして、うつむいて歩く。息を分け合うことを、この街の人間はとうに忘れていた。

角の巨大スクリーンに、その日、見慣れない映像が流れた。

政府の紋章。荘厳な音楽。そして、アナウンサーの高揚した声。

「──我らソレイユ連邦は、本日、人類史上初の有人宇宙飛行計画〈ソレイユ計画〉を発表します。我々は初めて、空の向こうへ挑みます」

足を止めた。街じゅうの人間が、うつむいた顔を、ほんの少しだけ上げた。

「宇宙飛行士を、一名。全国民から公募します」

カイトの心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。

その夜、彼は古いトランクを開けた。父の遺品だ。黄ばんだ天文書、色あせた星図、そして一枚のメモ。角ばった父の字で、こう書かれている。

「空の向こうには、ただで吸える息がある」

指先で、その一行をなぞる。

父は、この街の観測技師だった。地殻変動の前、まだ空が見えた頃、ずっと星を見ていた男。星図の片隅には、赤いインクで小さな丸。名もない、遠い一点が記されている。父だけが気づいた、緑がかった光。

翌朝、カイトは応募用紙の前に座っていた。

生き延びるためじゃない。ただ一度でいい。マスクを外して、思いきり息を吸って、笑ってみたかった。

ペンを、握った。


第二章 選ばれた者

四万三千人が、応募した。

そのほとんどが、生きることに疲れた者たちだった。酸素の値段に、明日の残量に、うつむく毎日に。誰もが、空の向こうに逃げ道を求めていた。

選抜は、残酷なほど過酷だった。

低酸素室で意識を保つ試験。遠心分離機で全身を押しつぶす加速訓練。閉所に何日も閉じ込められ、精神の崖っぷちを歩かされる。数字は、みるみる減っていった。四万から、四千へ。四千から、四百へ。

カイトは、残った。

理由は、自分でもわからなかった。体力なら、上には上がいた。頭脳も、飛び抜けてはいない。ただ、彼には一つだけ、誰にもない資質があった。

低酸素室で、最後まで、笑っていられたのだ。

「変な男だな、お前は」

管制訓練で組まされた女が、あきれたようにそう言った。リン。ソレイユ計画のフライトディレクター候補。カイトより少し若く、氷のように冷静で、けれど目の奥だけが妙に熱い人間だった。

「息が薄くなると、なんでか、笑えてくるんだ」とカイトは答えた。「怒っても、息は増えないだろ」

リンは何も言わず、ただデータを打ち込んでいた。その横顔を、カイトはなぜか、よく覚えている。

最終選考の日。会議室に呼ばれたのは、カイト、ただ一人だった。

「おめでとう」と政府高官が言った。笑顔だった。けれど、その目は笑っていなかった。「君が、人類初の宇宙飛行士だ。全国民の希望を、背負ってもらう」

希望。その言葉が、やけに重く響いた。

会見場は、フラッシュの嵐だった。カイトの顔が、街じゅうのスクリーンに映し出される。うつむいていた人々が、顔を上げ、彼の名を呼んだ。英雄。救世主。人類で初めて、空の向こうへ出る男。

けれど、その夜。ひとり訓練施設の窓辺に立ったとき、カイトの胸にあったのは、誇りではなかった。

父の星図を、また広げる。赤い丸。名もない一点。

「あんた、本当は何を見に行くの」

いつのまにか、リンが後ろに立っていた。マスクを外した素顔。初めて見る、その顔。

「息だ」とカイトは言った。「ただで吸える、息を」

リンは、ふっと、口元をゆるめた。それは笑顔と呼ぶには、あまりに寂しい表情だった。

「見つかるといいね」

その声に、なぜか、かすかな影がにじんでいた。


第三章 カウントダウンの重さ

打ち上げ前夜、カイトはある会話を、聞いてしまった。

管制棟の廊下。閉じかけたドアの隙間から、政府高官たちの声が漏れていた。足を止めるつもりはなかった。ただ、聞こえてしまったのだ。

「宇宙空間に、酸素がある見込みは──科学的には、限りなく低い」

「限りなく、な」別の声が、低く応じた。「だが、ゼロだと言い切った者は、一人もいない。誰も、行ったことがないんだ」

「では、賭けだと」

「賭けだ。だが国民は希望を見ている。人類が、初めて空へ出る。それだけで、意味があるんだ」

短い、沈黙。

「あの飛行士は──帰ってこられるのか」

「わからん。燃料も酸素も、帰れるかも、命の保証は、ない。……だが、それは伏せておけ。英雄になってもらわねば」

心臓が、冷たくなった。

彼らは、承知していたのだ。宇宙に酸素などない見込みが高いと。そして自分が、帰ってこられないかもしれないと。それでも国民の希望を保つために、一人の男を打ち上げる。

カイトは、その場を、静かに離れた。

不思議と、怒りは湧かなかった。ただ、ひどく、静かな気持ちだった。

自分の部屋に戻ると、リンがいた。手に、小ぶりの銀色のボンベを持って。

「これ、持っていきな」

「予備なら、船に積んである」

「これは別だ」リンは目を伏せた。「私の弟のだった。三年前、安価酸素の中毒で死んだ。十九だった……弟も一緒に連れてってあげて」

カイトは、それを受け取った。ずしりと重い。

命の重さだと思った。船の緊急用具入れに、そっとしまっておこう。そう決めた。

「聞いてくれ、リン」カイトは、静かに切り出した。「宇宙に息があるかは、たぶん、ない。帰りの燃料もない。あんたたちは、それを知ってて、俺を飛ばす」

リンの肩が、こわばった。長い、沈黙。

「……知ってる」やがて、絞り出すように言った。「止めたよ。何度も。でも、止まらなかった。ごめん。私は、あんたを死地に送り出す側の人間だ」

「謝るな」カイトは笑った。「宇宙に息があるかは、誰も知らない。高い確率で、ないんだろう。──でも、"ない"と決めた奴も、まだ一人もいない。だったら、俺が確かめる」

彼は、銀色のボンベを握りしめた。

「それに、親父の星図がある。親父だけが気づいてた、緑の光。あれが、本当にあるのかどうか。この目で、確かめたいんだ」

リンは、顔を上げた。その目に、光るものがあった。

「必ず、報せて」声が震えていた。「向こうに何があったのか。息があってもなくても。──あんたが見たものを、私に教えて」

「約束する」

窓の外、灰色の雲蓋の隙間に、一瞬だけ、ちいさな光が見えた気がした。

星だ。

夜明けが、近づいていた。


第四章 打ち上げ

「カウント、六十秒前」

リンの声が、通信機の向こうで硬くなっていた。

カイトは狭い操縦席に身を沈めていた。全身をベルトが締め上げる。計器の光が、視界いっぱいで点滅している。心臓の音が、そのどれよりも大きく響いていた。

発射管制室のスクリーンには、全国民が映っていた。街という街の広場に、うつむくのをやめた人々が集まっている。灰色の空を、みんなで見上げている。マスク越しの、無数の目。その全部が、この一機に注がれていた。

「三十秒前。エンジン、加圧開始」

船体が、生き物のように震えだした。腹の底から突き上げる振動。歯が鳴る。指先が白くなるほど、カイトは操縦桿を握りしめた。

「なあ、リン」

「なんだよ、こんなときに」

「ありがとう」

通信機の向こうで、息を呑む音がした。それから、いつもの、ぶっきらぼうな声。

「──礼は、向こうから報せてから言いな」

「十秒前。九、八──」

カイトは目を閉じた。父の顔が浮かんだ。青い空、と言ったときの、あのやわらかな声。

「──三、二、一」

「点火」

世界が、爆発した。

轟音。全身を押しつぶす加速。視界が真っ白に灼ける。カイトは声にならない叫びをあげた。船は灰色の天井を突き破り、光の柱となって空へ駆け上がっていく。

管制室が、どよめいた。全国民が、息を呑んだ。人類が、初めて、空へ届いた瞬間だった。

「上昇、順調」リンの声が震えている。「カイト、生きてるか」

「……生きてる。管制塔」カイトは食いしばった歯の隙間から、笑った。「こちらに問題はない。問題は、ずっとそっちの空気のほうだ」

雲蓋を抜けた。

窓の外が、みるみる色を変えていく。灰色が、薄れていく。人生で一度も見たことのない色が、そこにあった。

青。

「──嘘だろ」

父の言う通りだった。空は、青かった。涙がにじんで、視界がゆらいだ。

そして青は、さらに深くなっていく。濃紺へ。黒へ。

やがて船は、大気の膜を突き抜けた。

真っ黒な、静寂の空間。無数の星が、まばたきもせずに散らばっている。眼下には、水に覆われた故郷の惑星が、まるい姿で浮かんでいた。

美しかった。息が止まるほどに。

「見えるか、リン」カイトはかすれた声で言った。「星だ。数えきれないほどの、星だ」

「データで見てる」リンが泣き笑いの声で返す。「で──外に、空気は、あるのか」

カイトは、ヘルメットに手をかけた。

ここが、賭けの、答え合わせの場所だ。宇宙に息はあるのか、ないのか。誰も、知らない。確かめた者は、まだ一人もいない。

留め具を、外す。

そして、ほんの少しだけ、ヘルメットを浮かせた。

その瞬間、喉が、ひきつった。

空気が、ない。吸おうとした肺が、むなしく空をつかむ。冷たい無が、皮膚に張りつく。カイトは反射的に、ヘルメットを叩きつけるように被り直した。留め具が、かちりと鳴る。荒い呼吸が、ヘルメットの内側を白く曇らせた。

「カイト!? どうした、応答しろ!」

「……ひとかけらの、空気もない」肩で息をしながら、カイトは笑った。乾いた、笑いだった。「リン。宇宙は、真空だ。あんたたちの予想が、当たってたよ」

管制室が、静まりかえるのがわかった。

皮肉なものだ。あれほど憧れた自由。誰にも呼吸を管理されない場所。金を払わなくていい空。ようやくたどり着いたそこは──息が、できない場所だった。

完全な自由とは、こういうことだったのか。呼吸を管理されないとは。呼吸そのものが、ないということ。

けれどカイトは、バイザー越しに、まだあきらめてはいなかった。父の星図を、震える手で広げる。窓の外の、本物の星空。そのふたつを、見比べる。

無数の光点。父が生涯かけて記した、ちいさな印の数々。それを、目の前の星々に、ひとつずつ重ねていく。

そして──見つけた。

星図の、赤い丸。父だけが気づいた、あの一点。それと同じ場所に、確かに、ひとつの星が光っていた。

灰色でも、黒でもない。青ですらない。

緑だ。

「リン」カイトの声が、震えた。「あった。親父の星図の、あの星だ。ここから、見える。すぐ、そこに」

計器を叩く。針路を、その一点へ。父が生涯をかけて見つめた、緑の光へ。


第五章 真空

「進路、緑の星へ。すぐ近くだ。この燃料でも、届く」

カイトの声に、通信の向こうのリンが、息を呑んだ。

「待って。近いって、確かなの? 燃料は、帰りぶんはないんだよ」

「帰るつもりは、最初からない」カイトは、静かに言った。「でも、あそこまでなら、往ける。親父の記録が正しけりゃ──あの星は、目と鼻の先だ」

船首が、緑の光へ向く。エンジンが、静かに、力を絞り出す。

けれど、しばらくして。計器が、赤く点滅しはじめた。

残酸素、目標到達に対し、不足

足りない。

高官たちの声が、耳の奥でよみがえる。
燃料も酸素も、帰れるかも、命の保証は、ない。
緑の星まで、あとわずか。そのわずかを、彼の酸素は、埋められない。

カイトは、無数の星の海に、たった一人で浮かんでいた。眼下には、青い故郷。行く手には、手が届きそうな緑の光。そのあいだで、彼の息だけが、静かに尽きようとしていた。

「リン」通信機に、そっと呼びかける。「聞こえてるか」

「……聞こえてる」声が、かすれていた。「カイト。酸素が、足りないんでしょう。計器の数値、こっちにも出てる」

「ああ。あと、ほんの少しだ」カイトは笑った。「皮肉だよな。息を探しに来て、息が、足りないなんて」

「もう、いい」リンが叫んだ。「無理しないで。そこで、待って。私が、なんとか──」

「リン」

カイトは、座席脇の緊急用具入れに手を伸ばした。 蓋を開ける。工具や医療パックの底に、それは沈んでいた。

指が冷たい金属に触れる。銀色のボンベ。弟の遺した、最後の一息。

「まだ、一本、残ってる」

通信の向こうで、リンが、息を呑んだ。

「あんたの弟の、息だ」カイトは、それを生命維持装置の接続口へ、ゆっくりと差し込んだ。「これがあれば──ぎりぎり、届くかもしれない」

かちり、と音がした。

ボンベのバルブが開く。しゅう、と、かすかな音。命が、船の中へ、流れ込んでくる。

計器の数字が、止まった。それから、ほんのわずかに、増えた。

目標到達まで、酸素──充足

充足。ぎりぎりの、ぎりぎり。誤差のない、たった一本ぶんの、生命。

「届く」カイトは、震える声で言った。「リン、届くぞ。あんたの弟が、俺を、あの星まで連れて行ってくれる」

彼は、操縦桿を握り直した。船首を、緑の光へ。

「進路、固定。緑の星へ──全速前進だ」

エンジンが、静かに、けれど力強く、吼えた。

船は、故郷を背に、たった一つの希望へ向かって、まっすぐに突き進んでいく。

無数の星が、その航跡を、静かに見守っていた。


最終章 自由な空へ

緑が、近づいてくる。

窓いっぱいに、その星が広がりはじめた。深い、やわらかな、生命の色。白い雲が渦を巻き、青い海が光を返している。故郷とは、ちがう。ここには、生きている気配があった。

「大気圏、突入する」カイトは通信機に告げた。「リン、聞こえるか。もうすぐ、確かめられる」

船が、大気の壁にぶつかった。

外板が、真っ赤に焼ける。轟音。激しい振動。カイトの体が、シートに叩きつけられる。計器が悲鳴をあげ、火花が散る。それでも彼は、操縦桿を離さなかった。

「姿勢制御、限界だ!」

視界が、炎で埋め尽くされる。船は炎の塊となって、緑の大地へ落ちていく。眼下に、森が広がっていた。生きた、緑の森が。

「不時着する──リン、聞いてくれ。俺は──」

衝撃。

世界が、ひっくり返った。

船体がえぐれ、砕け、大地を削りながら、長い、長い航跡を刻んでいく。やがて、すべてが、止まった。

静寂。

カイトは、割れたバイザーの向こうに、緑を見た。ひしゃげた船体の隙間から、光が差し込んでいる。あたたかい、黄金色の光が。

彼は、震える手を、ヘルメットの留め具にかけた。

一度目は、真空だった。息が、できなかった。あのとき、ヘルメットを叩きつけるように被り直した手を、まだ覚えている。

今度は、どうだろう。

死ぬかもしれない。あの、宇宙の無が、ここにも待っているかもしれない。

それでも、確かめたかった。父が正しかったのか。空の向こうに、本当に、息があったのか。

留め具を、外す。

ヘルメットを、持ち上げる。

そして──吸った。

息が、入ってきた。

冷たくて、湿っていて、青くさい、生きた空気。値札のついていない、誰にも管理されない、本物の息。それが、彼の肺を、いっぱいに満たしていく。

カイトの目から、涙があふれた。

「……あった」

咳き込みながら、笑いながら、彼は震える手で、通信機を探った。壊れかけたスイッチを、押す。雑音の向こうに、必死に呼びかける声がある。

「カイト! カイト、応答して、お願い、応答して──!」

「リン」

かすれた声を、彼は、ありったけの力で押し出した。

「聞こえるか。──息が、あった」

通信の向こうが、凍りついた。それから、崩れるような、嗚咽が聞こえた。

「宇宙は、真空だった。でも、その先に、この星がある」カイトは、割れた船体の外へ、手を伸ばした。指先に、風が触れる。「マスクなんて、いらない。ここでは、みんな、ただで息ができる。思いきり、笑える」

「カイト……本当に、本当なんだね……」

「座標を、送る。俺の、最後の仕事だ」彼は、生き残った計器に、震える指を這わせた。「親父だけが気づいてた星だ。次は、大勢を乗せた船で来い。──うつむくのは、もう、やめるんだ」

カイトは、傍らに転がった銀色の空き缶を、そっと拾い上げた。

「君の弟がここまで連れてきてくれた。ちょうど、一本ぶん。──弟さんの息は、無駄には、ならなかった。」

彼は、船の外へ、這い出した。

見上げた空は、青かった。父が言った通り、どこまでも、青かった。あたたかい風が、頬をなでていく。遠くの森で、聞いたことのない鳥の声がした。

これは、一人の男の、ちいさな一歩にすぎない。

けれど、この星で将来生きる誰かにとっては──きっと、大きな一歩になる。

カイトは、緑の大地に仰向けになり、青い空へ向かって、思いきり、息を吸い込んだ。

生まれて初めて、値札のない空気で、胸を満たして。

そして、笑った。

通信は、そこで途切れた。 カイトは、空を見上げたまま、誰にともなく、心のなかでつぶやいた。

──静寂の海。こちら、カイト。

──こちらの星は、息が、できる。


一年後。

灰色の街の、国立宇宙センターに、新しい船が組み上がっていた。前のものより、ずっと大きく、ずっと頑丈な、大勢を乗せられる船が。船体には、金色の文字で、こう記されている。

〈カイト〉号。

第二次ソレイユ計画。目的地は、ただ一つ。ある男が命がけで送ってきた、緑の星の座標。あの日、途切れた通信のあと、彼が生きているのか、誰も知らない。

けれど、届いた座標は、本物だった。息のある星は、確かに、そこにある。

フライトディレクターの席に、リンが座っていた。管制室には、若い管制官たちが、何人も。誰も、うつむいてなどいなかった。全員が、正面のスクリーンを──空へ続く発射台を、まっすぐ見つめていた。

リンは、胸元にさげた、小さなボンベ型のチャームに、そっと触れた。

「聞いてる? 弟──それと、カイト」

発射台の向こう、灰色の雲蓋が、割れはじめる。その、ずっと向こう。

「今度は、私が行くよ。あんたが見つけた、あの緑の星まで。──ちゃんと、礼を言いに」

街じゅうのスクリーンに、その光景が映し出されていた。広場という広場に、国民が集まっている。うつむいていた顔を、ひとり、またひとりと、みんなが空へ向けていく。

「カウント、開始」

エンジンが、吼えた。

船は、光の柱となって、灰色の空を突き破っていく。

青を抜け、黒を抜け、その先の、緑へ。

割れた雲蓋の隙間に、ちいさな光が、遠ざかっていく。

それはまるで、この星がようやく取り戻した、最初のひと呼吸のようだった。


「完」



いいなと思ったら応援しよう!

宵月ユウ|Ray-Ban👓 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!

この記事が参加している募集