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【ちび創作大賞】『あの日の選択』|小説「私バス男」


📙カワムラさんの【ちび創作大賞】に参加しています。

📗選択テーマは『あの日の選択』

▼本編


📖【短編小説】私バス男

※これは平成十七年、とある匿名掲示板に実在した(ことになっている)
スレッドである。
当時これを見守った名無しの一人が、後年、書き起こしたものだ。
人生は、選択の積み重ねでできている。
――だが、本当に人生を変えるのは、たった一つの「あの日の選択」だけだ。あの夏、一人の男が、逃げないほうを選んだ。これは、その記録である。信じるか信じないかは、あなた次第。


第1章 スレ立てました

午前七時四十二分、俺は恋に落ちた。

場所は市営じゃなく私営のバス。座席は八割埋まっていて、俺はいつものように一番後ろの隅へ体をねじ込んだ。

そのときだった。三つ前の席に座る女性の横顔が、朝の光の中で浮かび上がった。

肩までの黒髪。伏せた睫毛。膝の上でぎゅっと握られた通勤バッグ。疲れているのに、背筋だけはまっすぐ伸びていた。

きれいだ、と思った。

次の瞬間、彼女が窓の外を見て、ふっと口元をゆるめた。その唇の端に――小さな水ぶくれがあった。ヘルペスだ。

なのに、なぜだろう。俺にはそれが、この世でいちばん愛おしいものに見えた。

……いや、違う。本当は、わかっている。

俺は、この歳まで一度も、恋を成就させたことがない。中学のとき、好きだった子に手紙を渡した。翌日、それはクラス全員の前で読み上げられた。あの日から俺は、女性の前で口を開くのが怖い。二十九年、ずっとそうやって、うつむいて逃げてきた。

――それに、どのみち、もう遅い。会社で、異動が決まった。来月、俺は北関東の支店勤務になる。辞令はもう出ている。断る権利なんて、平社員の俺にはない。

あと三週間で、俺はこの街を離れる。このバスにも、二度と乗らない。

だったら、この気持ちは、胸にしまって消えるのが正解だ。頭ではわかっていた。

その夜。俺は自室の、ぶうんと唸る古いパソコンの前にいた。この気持ちを、どこかに吐き出さなければ、頭がどうにかなりそうだった。ニュース速報(VIP)板。日本中の暇人が集う、混沌の巣窟だ。

>>1(俺) 「私バスで見かけた女性に一目惚れした。でも来月転勤で会えなくなる。どうすればいい」

豆知識(※VIP=匿名掲示板「2ちゃんねる」の一板。祭りやネタスレの震源地。)

深夜零時。俺は祈るような気持ちで、更新ボタンを押した。

>>2「はい釣り」
>>3「電車男の劣化版乙」
>>4「私バスってなんだよwww」

>>5「転勤とか関係ねえ。>>1のスペック晒せ」

豆知識(※釣り=嘘の話。「釣り乙」=嘘乙、お疲れさん、の意)

罵倒の嵐だった。だが不思議と、嫌な気はしなかった。俺は指を動かした。

>>6(俺) 「私営バスだから私バスだ。二十九歳経理、彼女いない歴=年齢、童貞。来月から北関東」

>>7「詰みすぎだろw」
>>8「なんかリアルで草」
>>9「で、その女どんな感じなの」

豆知識(住人はVIPPERと呼ばれる)

俺は少し迷って、けれど正直に打ち込んだ。

>>10(俺) 「めちゃくちゃ美人。ただ、唇にヘルペスがある」

送信した瞬間、スレの流れが止まった。数秒後、堰を切ったように書き込みが押し寄せた。

>>11「ヘルペスwwwwww」
>>12「ヘルペスさんじゃねえかwww」
>>13「>>1よ、お前はもうそいつを『ヘルペスさん』と呼べ」

ヘルペスさん。なんて失礼な。――なのに。俺は画面を見つめたまま、気づけば口元をゆるめていた。あの人が窓の外を見て笑ったときと、たぶん、同じ顔で。

どうせ三週間で終わる恋だ。それでも、明日も、あのバスに乗る。それだけは、もう決めていた。


第2章 wktkが止まらない

翌朝、俺のポケットの中で、折りたたみのケータイが妙に重かった。

昨夜のスレは、寝る前で二百レスを超えていた。住人たちは勝手に俺を「私バス男」と命名していた。

>>156「>>1、明日はヘルペスさんを観察してレポしろ」
>>157「席・服装・降りる停留所、全部だ」
>>158「時間ねえんだろ? wktkして待ってるぞ」

豆知識(※wktk=ワクワクテカテカ。期待して待つ様子) (※レポ=報告のこと)

俺は言われた通り、後ろの隅からそっと前方を観察した。いた。今日も三つ前の席だ。紺色のカーディガンを羽織り、膝の上に文庫本を開いている。ページをめくる指が、白くて細い。降りたのは、総合病院前の停留所だった。

その夜、レポを書き込むと、住人たちがわらわら集まってきた。

>>201(俺) 「本日の観察報告。文庫本を読んでいた。降りたのは病院前。紺のカーディガンが似合っていた」

>>202「情報量www」
>>203「病院前で降りたってことは看護師か」

そのとき、一つのレスが目に留まった。

>>204(名無し) 「病院前で降りて疲れた顔なら夜勤続きの看護師じゃないか。あと唇のヘルペスは疲労で出やすい。無理させんなよ」

やけに、詳しい。

>>205「なんでそんな詳しいんだよw」
>>206「テンプレ職人きたか?」

テンプレ職人。このスレに時々現れる、妙に文章のうまい名無しだった。正体は不明。だが、その助言はいつも的確だった。

>>204(テンプレ職人) 「まあな。>>1、時間がないなら、なおさら急げ。明日は本の題名を確認しろ。相手を知りたいなら、まず相手が何を好きかを知れ。それが恋の一歩目だ」

名前も知らない誰かが、俺の恋を本気で考えてくれている。ケータイをぱたんと閉じて、待受画面を眺めた。

――あと三週間。どうせ終わるのに。そう思うのに、この人たちといると、なぜか、諦めきれなくなってくる。


第3章 おはようございます

「おはようございます、が言えたら一人前だ」

スレの総意はそれだった。

>>288「目が合ったら会釈だけでもいい」
>>289「それすらできなきゃ一生ROMってろ」

豆知識(※ROM=書き込まず読むだけの人。「ROMってろ」=黙って見てろ、の意)

そこに職人のレスが続いた。

>>290(テンプレ職人) 「大丈夫だ、>>1。相手はきっと、お前のことを笑って許してくれる。そういう人だよ、たぶん」

なぜ、そう言い切れる。会ったこともないくせに。だが、その一行に、なぜか救われていた。

翌朝。俺はいつもより一本早いバスに乗った。奇跡が起きた。彼女の隣、通路を挟んだ席が空いていたのだ。俺はそこに座った。心臓が肋骨を殴っていた。文庫本の題名が、ちらりと見えた。『星の王子さま』。

だめだ、かわいすぎる。

バスが揺れ、彼女がふと顔を上げた。目が、合った。今だ。言え。たったの一言だ。

「お、お、おはよざいまむ」

……噛んだ。壮絶に、噛んだ。

やってしまった。俺は顔から火を噴きそうになって、うつむいた。あの手紙の日が、頭をよぎった。また、だ。俺はまた――。

だが、次の瞬間。鈴を転がすような音が、聞こえた。彼女が、口元を手で押さえて、笑っていた。あのヘルペスのある唇を、ほころばせて。

「……おはようございます」

彼女は、そう返してくれた。その日、俺は仕事にならなかった。夜、スレに報告すると、住人たちは大爆笑した。

>>334「おはよざいまむwwwwww」
>>336「でも相手笑ってくれたんだろ? それGJだよ」

豆知識(※GJ=Good Job。よくやった、の意)

>>337(テンプレ職人) 「な、言ったろ。笑ってくれるって。……その『おはよざいまむ』、俺は嫌いじゃないぞ」

三十路手前で、名前も知らない誰かにそう言われて。俺は不覚にも、少しだけ泣きそうになった。


第4章 薬袋

雨の朝だった。

その日の彼女は、いつもより疲れて見えた。目の下にうっすらと隈があり、ヘルペスも心なしか大きい。バスが病院前に着き、彼女が立ち上がった、そのとき。バッグから白い紙袋がぽとりと落ちた。彼女は気づかず、傘を差して雨の中へ消えていく。

俺は反射的に立ち上がっていた。

「あの、これ、落としました!」

噛まなかった。人生で一番いいタイミングで、俺の口はまともに動いた。彼女が振り返る。差し出した袋を見て、はっと表情を変えた。

「……ありがとうございます。大事なものだったので、助かりました」

袋の口から、薬局のロゴが見えた。中身は、たくさんの薬と――軟膏のチューブ。彼女は俺の視線に気づいたのか、少し恥ずかしそうに唇に触れた。

「これ、ヘルペスの薬なんです。看護師してると、疲れがたまるとすぐ出ちゃって。……お恥ずかしい」

「恥ずかしくなんて、ないです」気づけば、口が動いていた。「頑張ってる証拠じゃないですか」

彼女は、また、あの唇で笑った。「変な人。……でも、ありがとう」

傘の下、彼女は小さく頭を下げて去っていった。その後ろ姿に、俺は一つだけ声を投げた。名札に書いてあった名前を。

「早坂さんの、その仕事、すごいと思います!」

彼女は一瞬立ち止まり、振り返らずに、けれど大きく手を振ってくれた。

その夜、俺はスレにすべてを書いた。名前が判明したこと、看護師だったこと。住人たちは祭りだった。だが、俺が「軟膏の袋」のことをまだ書いていないうちに、あのレスが来た。

>>412(テンプレ職人) 「軟膏、渡せてよかったな」

俺は、指を止めた。……軟膏。俺、まだ書いてないよな。薬とは書いたが、軟膏とは。

>>413(俺) 「なんで軟膏ってわかったんだ?」

>>414(テンプレ職人) 「ヘルペスの薬っつったら軟膏だろ。常識だ常識」
>>415「たしかにw」

そうか。常識か。俺は納得して、ケータイを閉じた。恋する男というのは、たいてい肝心なことに気づかない。


第5章 赤外線とメアド

問題は、次の一手だった。残された時間は、もう二週間を切っていた。

>>489「次はメアド交換だろ」

>>490「いきなりは重いって。本の話から入れ」

>>491(テンプレ職人)「>>1、こう言え。星の王子さま読んでましたよね。おすすめの本、教えてください」

本の貸し借りを口実にすれば、連絡先の交換も自然だ。

なるほど。俺はそのセリフを頭に叩き込み、翌朝、暗唱しながらバスに乗った。彼女は今日、隣の通路席にいた。目が合うと、先に会釈してくれた。

「……この前は、ありがとうございました」

彼女の方から、話しかけてくれた。俺の心臓は、また肋骨を殴り始めた。

「い、いえ。あの、星の王子さま、読んでましたよね。俺、ちゃんと読んだことなくて。よかったら、他にもおすすめの本、教えてもらえませんか」

噛まなかった。職人、ありがとう。彼女は少し目を丸くして、それからやわらかく笑った。

「本、好きなんですか? じゃあ……連絡先、交換します?」

――彼女の、方から。俺は震える手で、折りたたみケータイを開いた。赤外線通信のメニューを呼び出す。彼女も自分のケータイを構えた。

「あ、えっと、この赤いところを、近づけて……」

「はい。……もうちょっと、近づけてください」

ケータイのポート同士を向け合う。俺と彼女の手が、あと数センチのところまで近づいた。彼女の指先の体温が、伝わってきそうな距離だった。

ピロン、と間の抜けた電子音。俺のケータイに「早坂 美咲」の四文字が刻まれた。美咲。下の名前まで、手に入った。

>>557「職人有能すぎワロタ」

>>558(テンプレ職人) 「よくやった、>>1。……あとは、お前次第だ」

俺は布団の中で、一件も来ていない受信ボックスを、意味もなく何度も開いた。転勤まで、あと十二日。その事実だけが、甘い時間に、小さな棘のように刺さっていた。


第6章 男の影

好事魔多し、とはよく言ったものだ。

メアドを交換してから、俺たちのメールは順調だった。彼女は夜勤明けに、ぐったりした顔のデコメを送ってきて、俺はそれに励ましを返した。

豆知識(※デコメ=デコレーションメール。絵文字や画像で装飾したメール。平成のケータイ文化)

そして、その日は来た。仕事帰り、駅前を歩いていた俺は、見てしまった。早坂さんが、背の高い男と並んで歩いていた。楽しそうに、笑いながら。男が彼女の頭にぽんと手を置き、彼女がそれを払うふりをして、また笑う。

足が、動かなかった。彼氏。そうだ、当たり前だ。あの手紙の日から、ずっとそうだった。俺なんかが手を伸ばしても、いつも、こうなる。それに、どうせ俺は、来月にはいなくなる男だ。

その夜、俺はスレにすべてを書いた。祭りの喧騒が嘘のように、スレは静まった。だが、その中で一つだけ、様子のおかしいレスがあった。

>>603(テンプレ職人) 「待て。彼氏と決まったわけじゃないだろ。ちゃんと確認したのか。頼むから、勝手に諦めないでくれ」

頼むから。

>>605「お前が>>1のこと好きなんじゃねえのw」

>>606(テンプレ職人) 「うるさい。……とにかく、確認もせず逃げるのだけはやめろ。それは、相手にも失礼だ」

妙に、熱かった。まるで、自分のことのように。俺はそのときは、深く考えなかった。考える余裕が、なかった。早坂さんから届いていた「今日はどんな一日でしたか?」というメールに、俺は返信ができなかった。窓の外で、雨がまた降り始めていた。


第7章 空白の三日間

翌朝から、俺はバスに乗れなくなった。

同じ時間、同じ停留所に立つのが怖かった。だから遠回りして、電車で会社に通った。三日間、そうやって逃げ続けた。

早坂さんからのメールは、二日目に途絶えた。ガラケーには、既読なんて機能はない。だから俺は、彼女が今どう思っているのか、まるでわからなかった。受信ボックスには、彼女の最後のメールだけが残っていた。「体調、悪いんですか?」

俺は一日に何度も、センターに問い合わせて、新しいメールが来ていないか確かめた。来ない。来るわけがない。返さなかったのは、俺なのだから。

電車の窓に、疲れた自分の顔が映っていた。どうせ、あと少しで俺はこの街を出る。このまま何も言わず、黙って消えれば、傷つかずに済む。楽になれる。それが一番、賢い選択だ。そう自分に言い聞かせた。あの手紙の日から、俺がずっと選び続けてきた、いつものやつだ。

スレの住人たちは、そんな俺を許さなかった。

>>672「逃げんな」
>>673「見ただけで決めつけて、勝手に傷ついて、勝手に逃げて。それ一番ダサいぞ」

図星だった。そして、あのレスが来た。

>>675(テンプレ職人) 「>>1。今まで茶化してきたが、これだけは本気で言う。 確認もせずに諦めるのは、恋じゃない。ただの自己満足だ。 転勤で離れる? だったら、なおさらだ。何も言わずに消えたら、一生後悔するぞ。 相手は今、お前の返事を待ってるかもしれない。 相手を、そんなふうに一人にしないでくれ」

 私を。一瞬、そう書いてあった気がした。だが見返すと、その文字は「相手を」と書いてあった。見間違いだろう。俺はそう思うことにした。

>>677「バス乗れ。バス乗れ。バス乗れ」

バス乗れコールが、画面を埋め尽くした。俺は、机の引き出しから、もうすぐ切れるバス定期を取り出した。この定期で乗れるのも、あとわずかだ。

どうせ終わる恋なら――だからこそ、言わなきゃ後悔する。

俺はケータイを開き、彼女への返信画面を出した。指が、ゆっくりと動いた。「明日、いつものバスに乗ります。話したいことがあります」。送信。電波塔のマークが、くるくると回った。


第8章 真相

午前七時四十二分。俺は、三日ぶりにあのバスに乗った。

彼女は、いた。三つ前の席。俺が近づくと、はっと顔を上げて――そして、泣きそうな顔で笑った。

「よかった。心配したんですよ、もう」

俺は隣の通路席に座り、意を決して口を開いた。

「早坂さん。この前、駅前で……男の人と、歩いてましたよね。楽しそうに」

彼女は、きょとんとした。それから、ああ、と手を打った。

「もしかして、火曜日ですか? 背の高い、へらへらした男」

「……はい」

「あれ、弟です」

バスの中の時間が、止まった気がした。

「弟?」

「そう。二つ下の。就活うまくいかなくて、実家でくすぶってて。心配で、たまにご飯おごって発破かけてるんです。あの日も、駅前で説教してたんですよ」

俺の頭の中で、あの日の光景が塗り替えられていく。頭にぽんと置かれた手。あれは、姉が弟をあやす手だったのか。

「まさか、あれ見て、彼氏だと思ったんですか? それで三日も、私のこと避けてたんですか?」

図星すぎて、声が出なかった。彼女は、こらえきれないというように吹き出した。ヘルペスの跡が、もうほとんど消えかけた、その唇で。

「変な人。ほんと、変な人。……でも」窓の外を見て、少しだけ頬を赤くして。「そんなふうに気にしてくれるの、ちょっと、嬉しいかも」

その夜、スレは今までで一番の祭りになった。

>>745「弟キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!」

その中で、一人だけ、違う温度で書き込んでいた。

>>748(テンプレ職人) 「……よかった。本当に、よかった」

祭りの喧騒の中で、その一行だけが、やけに静かで、やけに、優しかった。


第9章 告白前夜

告白する。俺がそう宣言すると、スレは臨戦態勢になった。だが俺は、その前に、どうしても消化しておきたいことがあった。予行演習だ。

まず、自室の姿見の前に立った。「早坂さん、好きです」。鏡の中の俺は、真顔で不審者だった。次に、実家から連れてきた老犬のマロンに向かって言った。「俺と、付き合ってください」。マロンは俺を一瞥して、あくびをして、寝た。

深夜、コンビニで、レジの店員に釣り銭を渡されながら、つい口が滑った。「あ、す、好きです……あっ、違う、レシートいりません」。店員の顔が、氷点下になった。

全滅だった。俺は打ちひしがれて、スレにそれを書いた。住人は爆笑した。そして、あのレスが来た。

>>850(テンプレ職人) 「>>1。最後に、俺からアドバイスだ。 今まで俺たちが考えたセリフを暗記して喋ってきたよな。だが、告白だけは違う。 テンプレはいらない。お前の言葉で言え。 噛んでもいい。かっこ悪くてもいい。あの『おはよざいまむ』でも、相手は笑ってくれたんだろ。 飾らない言葉が、いちばん強い。……俺は、そういう言葉が、聞きたいんだ」

俺は、画面を見つめたまま動けなくなった。この人は、いつも、俺の一番大事なところを言い当てる。まるで、俺の恋を、俺以上に見つめてきたみたいに。

>>852「>>1、明日、定期最終日なんだろ。転勤前の、最後のチャンスだ」

そうだ。明日は、この街で過ごす最後の平日。定期の、最後の日。明日を逃せば、俺はもう、あのバスに乗ることはない。

>>853「  ∧_∧    
      ( ・∀・) < がんばれ  
     (   )    
       || |    
     (_)_)         」

豆知識(※AA=アスキーアート。文字や記号で描いた絵。応援や感情表現に使う)

画面いっぱいに、名無したちのAAが流れていく。誰一人、俺の顔も本名も知らない。それなのに、こんなにも。俺はパソコンに向かって、深く頭を下げた。「……ありがとう。行ってきます」。心の中だけの、言葉だった。


最終章 発車

午前七時四十二分。俺は、明日には切れる定期で、最後のバスに乗った。

朝の光が、車内に斜めに差し込んでいた。彼女は今日も三つ前の席にいて、文庫本は閉じられていた。膝の上でバッグをぎゅっと握って、まるで、何かを待っているみたいに。

その頃、ネットの向こうでは――。

>>910「今日だ。>>1が告白する日だ」
>>911「実況しろ実況」
>>912「 カウントダウン開始
     ┏━━━━━━┓      
     ┃ あと少し ┃     
     ┗━━━━━━┛   」
>>913「まだかー」
>>914「まだかー」
>>915「>>1いけええええええ」

千人の名無しが、固唾を飲んで、画面の前にいた。もちろん、俺はそれを知らない。ただ、背中に、たくさんの手を感じていた。

俺は、彼女の隣の通路席に座った。

「早坂さん」

「……はい」

バスが発車する。エンジンの振動が、足の裏から這い上がってくる。テンプレはいらない。俺の言葉で言え。職人の声が、耳の奥で響いた。

「俺、来月、転勤なんです。北関東の支店に。もう、このバスには乗れなくなる」

 彼女の顔から、すっと笑みが引いた。

「だから、黙って消えようと思ってました。どうせ離れるんだし、言わないほうが、お互い楽だって。……でも」

 バスが、赤信号で止まった。俺は、彼女の方を向いた。彼女も、こちらを向いていた。その唇の、ヘルペスの跡は、もうすっかり消えていた。

「あなたが薬の袋を落としたとき、拾えて本当によかった。看護師で、疲れてヘルペスができるって聞いて、俺、恥ずかしいなんて全然思わなかった。こんなに頑張ってる人がいるんだって、そう思った。俺、あなたに毎朝会うために、このバスに乗ってたんです」

 声が震えた。かまわず、続けた。

「離れても、いいんです。会えなくても、いい。それでも、言わせてください。早坂美咲さん。俺と、付き合ってください」

 噛まなかった。人生で一番大事な言葉を、俺は噛まずに言い切った。

 彼女は、しばらく黙っていた。それから、目にいっぱい涙をためて、けれど笑いながら、言った。

「……距離なんて、関係ないです。はい。よろしくお願いします」

 やった。心臓が、跳ねた。信号が青に変わり、バスがゆっくりと動き出す。そのとき、彼女がいたずらっぽく笑って、こう言った。

「飾らない言葉が、いちばん強い。……って、誰かに、言われませんでした?」

 時間が、止まった。その言い回しを、俺は知っている。忘れるわけがない。昨日の夜、あのスレで、テンプレ職人が俺に投げた、最後の言葉だ。

「……なんで、それを」

 彼女は答えず、自分のケータイを開いて、こちらへ向けた。液晶に映っていたのは――俺が毎晩通っていた、あのスレだった。

 全身から、血の気が引いた。全部だ。「彼女いない歴=年齢」も。「童貞」も。彼女を彼氏持ちと勘違いして三日も逃げた情けなさも。鏡の前で、犬の前で、コンビニで、告白の練習をしてスベり倒したことも。俺が名無しに晒した、みっともない本音の、全部を。この人は、最初から――読んでいた。

「夜勤の休憩中、暇つぶしで見てたんです」彼女は、少し申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに言った。「そしたら、私にそっくりな女が出てきて。紺のカーディガン、星の王子さま、病院前……あ、これ私だって。……最初は、怖かった。この人、私のヘルペス見て、内心バカにしてるんじゃないかって」

だから、と彼女は続けた。

「職人のふりして、聞いてみたんです。あなたの、本当の気持ちを。……あの日、気づいたとき、私、黙って読むのをやめることもできたんです。見なかったふりして。でも、しなかった。あなたのことを、もっと知りたかったから」

あの薬袋の「軟膏」も、弟の日の妙に必死なレスも、全部――彼女だったのか。

「……全部、バレてたのか」

消えてしまいたかった。二十九年分の、かっこ悪さの全部を、好きな人に見られていた。だが彼女は、俺の手をそっと握って、言った。

「うん。全部、読んだ。……あのね」朝の光の中で、その頬を、涙がひとすじ伝った。「私、あなたのその、かっこ悪くて、必死な本音に、惚れたんです。テンプレじゃない、あなたの言葉に」

俺は、その手を、握り返した。

あの中学の手紙の日から、俺はずっと逃げてきた。今日だって、逃げることはできた。どうせ離れるんだからと、黙って消えて、また二十九年、うつむいて生きることも。彼女だって、あの日、黙ってスレを閉じることができた。名無しのまま、俺の本音を見なかったふりをして。

でも、俺たちは二人とも――あの日、逃げないほうを、選んだ。

その夜。俺は震える指で、最後のレポを打ち込んだ。

>>950(俺) 「みんな、聞いてくれ。俺、早坂さんと付き合うことになった。転勤は決まってるから、来月から遠距離だ。それと……テンプレ職人の正体、早坂さん本人だった。全部、本人に見られてた」

数秒の沈黙のあと。スレが、爆発した。

>>951「はぁぁぁぁ!?」
>>952「職人=ヘルペスさん本人だと!?」
>>953「>>1もう一回スレ最初から読み直してくる」
>>954「マジだ全部伏線回収されてる鳥肌」
>>955「(´;ω;`)ウッ…おめでとう…もらい泣きしたわ」
>>956「遠距離とか関係ねえ。これは伝説のスレでした。乙」

そして、彼女が、最後に一言だけ書き込んだ。

>>957(テンプレ職人) 「>>1、おめでとう。 飾らない言葉が、いちばん強いって、言ったろ。 ……北関東でも、東京でも、あなたが乗るバスの隣は、これからずっと、私の席です」

俺は、画面越しに、もう顔も名前も知っている、その人に、深く頭を下げた。

新幹線の距離なんて、あの二十九年の遠回りに比べたら、なんてことない。休みのたびに、俺はこのバスに乗りに帰ってくる。彼女に会うために。

窓の外、平成の夜空に、月が出ていた。明日、俺はこの街を離れる。でも、もう、うつむいてはいない。

――私バス男の恋は、離ればなれの二つの街を結んで、めでたく発車した。


※以上が、あの夏、確かにあった(ことになっている)恋の全記録である。
人生を変えるのは、たった一つの「あの日の選択」だけ。  
あの日、逃げなかった二人は、離れていても、今も同じバスの夢を見ているという。「おはよざいまむ」という言葉は、今でもあの板の片隅で、勇気を出す者への合言葉として、ひっそり生きている。――信じるか信じないかは、あなた次第。


(了)


📀イメージソング:名無しさん『はじめての、まっすぐ』

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