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なぜフルーツジッパーの服はでかいのか

 問いである。俺はこの問いに対して歴史的に明晰な答えを持ち合わせていないが、時間性を捨象した詩人の直観による思索めいたものを持ち合わせている。歴史性を伴う正確な考察は詳しい方の言を待つとして、俺は多少の論点を提示することに留めたい。以下に問いの全容を断片的に提示する。

 はじめに断っておきたいのは、俺はかなり令和アイドルが好きだということである。日本のも韓国のも好きだ。毎日数時間はアイドルの動画をぼんやりと眺めている。そのうえでの内在的な問いであるが、ここで見るべきは、KAWAIII LAB.の楽曲とパフォーマンスである。KAWAII LAB.というアイドルプロジェクトがあり、「原宿から世界へ」をコンセプトに、「かわいい」の理念の啓蒙を目論んでいる。所属グループとして「かわいいだけじゃだめですか?」のCUTIE STREETや、「NEW KAWAII」のFRUITS ZIPPERなどがいる。特筆すべきかれらの特徴として、強迫的というべき仕方で「かわいい」にこだわることが挙げられる。「令和的」なアイドルは「推し」と「かわいい」という言葉がつくりだす磁場に規定されていると言って差し支えないだろう。では、かれらはなぜKAWAII LAB.(以下「カワラボ」)を設立し、「かわいい」の研究に勤しまねばならないのか。

 近代においては制度的に、男は能力が存在を構成し、女は存在が能力を構成する。男は資源を獲得「する」主体としての能力を求められ、女は資源を配分「される」主体としての存在を求められる。つまり、男にあってはなにを「する」かが重要であり、女にあってはなに「である」かが重要ということである。ある種のフェミニズム運動は、女であっても獲得サイドを担うことができるのであり、「男のように」能力が存在を構成しえるという可能性の解放の運動である。そして令和にあっては、韓国アイドル的な容貌の美しさとステージ・パフォーマンスの卓越さという「能力」主義の潮流が見られるのであり、韓国のような儒教的なイデオロギーを共有せぬ日本では、その反動として「かわいい(存在)だけじゃだめですか?」というきゅーすとの問いが生じざるをえない。われわれの精神は人為の加わらぬ随神の道なのである。きゅーすとにおいては「取り柄ないけど/顔がかわいいのも/才能だと思って優しくしてほしいのです」という命題があるが、これは、「無能力だが、その存在が卓越した能力を構成していることを確信し、引きつづき配分サイドに居させてほしいのです」という反動的な問いかけである。ちなみに、俺の答えは「はい」である。なぜなら、彼女たちはすばらしく素敵だからである。それはさておいて、カワラボのアイドルはこうした一群の命題を共有しており、それゆえにフルーツジッパーも服がでかいのである。つまり、韓国のアイリットはステージ・パフォーマンスにおいてなにを「する」かが重要であり、ダンスという高度な「能力」を発揮しなければならないため機能性を重視して服は小さくなるが、日本のフルーツジッパーはなに「である」かが重要であるため、その場においてかわいく存在することが第一の義務であり、それゆえに機能性を排して服がでかくなるのではあるまいか。そしてそれは平成という「歴史の終わり=AKB48」の終わりに現れる歴史的現象である。

以下雑感である。

・令和とは、長い平成の終わりであり、「歴史の終わり」の終わりであり、リベラル国際秩序の終わりであり、それはすなわちAKB48の終わりである。AKB48にあってはファンが物語に参加することで歴史の終わりを象徴するごとき擬制的な歴史に参加しえるのだが、それは「君と僕」の歴史であり、「令和アイドル」はその閉じた想像力を徹底的に破壊する(この想像力はかつて「セカイ系」とよばれたものだろうか)。「最強かわいくなるから/独り占めか 布教するか 選びなさい!」(超ときめき♡宣伝部「超最強」)という命題の提示である。その破壊が行われるとき、一方ではかりそめの歴史性に殉ずる復古主義者が、一方では歴史性を排するテクノクラートが象徴的に登場する。カワラボ系アイドルが前者か後者かどちらかであるかは判断を待たねばならないが、このような時代精神を象徴していることは確かであろう。そして復古主義者およびテクノクラートの特徴はともにインターネットに地盤を持つということである。「令和アイドル」の曲の歌詞にはインターネット・ワードが頻出する。「Ah バズっちゃバズっちゃやぁだ!/ねえ かまってかまってもっと!/誰もがあなたを狙っちゃう」(CUTIE STREET「ひたむきシンデレラ!」)であるが、インターネット時代のアイドルにおいてはこうした「君と僕」空間に対するアンチテーゼが散見される。

令和復古主義とインターネット

・かつてきゃりーぱみゅぱみゅが「KAWAII」文化を世界に広めるというようなことを言っていたのを思い出した。「令和アイドル」はきゃりーぱみゅぱみゅに比して「カワイイ」とカタカナであまり書かず、これは検証が必要だが、歌詞の中でも一貫してひらがなの表記である気がする。かつて柄谷行人という批評家が「文字論」という評論のなかで、日本語の文字体系においては外来語が漢字とカタカナの形で外来語として保存されるのであり、それらは身体的に歪なものとして感覚され、決して内面化されることがない、という旨のことを書いていた記憶がある。平成の「カワイイ」はわれわれに血肉化せぬ毒々しいものであったのだろうか。

・「カワイイはつくれる」という命題。能力としての「かわいい」。自然か作為かという問題系。

・「原宿」という土地の問題。カワラボ系アイドルの曲はまったく固有名詞を欠いているが、「原宿」という言葉のみが浮き出るように登場する。

・高市早苗

・俺は女しか出てこない萌えアニメが好きだった。きららアニメが好きだった。ラブコメやギャルゲーのよさがまったく分からなかった。それと同様に、坂道系のよさはまったく分からず、「令和アイドル」にきわめて強い選好を感じる。ラブコメ/きらら、坂道/カワラボ、批評/哲学、ロマン主義/歴史主義、サブカル/オタクといった二項対立を設けるならば、俺は後者に共感する。前者は「君と僕」の問題系であり、後者は自閉的であるが、インターネットの時代において自閉性が「みなさん」というある種の公共性と接続してしまうことに興味がある。俺は「君と僕」ではなく「俺とみなさん」という問題にこだわっている。それゆえに、令和アイドルの歪な公共性を有する歌詞に対して深い共感がある。そして「俺とみなさん」という問題意識を敷衍すれば「俺と歴史」ということになる。俺は俺の中の失われた歴史を求めている。


だから一緒にかわいくなろうよ
そして一生かわいくなろうよ
そんな生き方こそかわいい
だから一緒にかわいくいようよ
そして一生かわいくいようよ
そんな毎日が楽しい

TEAM KAWAII LAB.「CHU CHU CHU研究中!」


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