平成観音功徳記
薄暗い朝が来た。一番鶏の鬨の声などしなかった。
ただ不図目が開き 目に入ってきた薄暗さに動悸を覚えた倉橋錦司は 幾ら早寝をしても、飲めぬ酒を呑んで夜更かししても 朝が来るまで何もない漆黒の闇と沈黙の睡眠から遠ざかっていた。
つい数週間前までなら朝の目覚まし時計が鳴るまで疲れ切って夢も見ず、
パッと目が開き 布団を片付け、厠に行き用を足してから顔を洗い
口を漱ぎ小さな仏壇へ向かう。
仏壇の水を換えてお燈明に火をともし 線香をつけ数珠を両手に絡ませて
正座し日蓮宗の開経偈を唱えると深く息を吸い込んでやおら観世音菩薩普門品を偈頌だけでなく頭から読誦する。とりあえず小さな経本を両手に乗せ胸のあたりに掲げているが もう本文とてチラリと確認するだけで丸暗記していた。この儀式を終えると 簡単な朝食を摂り、歯を磨き 寝る前に用意していたローテーションどおりのスーツとシャツ、ネクタイを急ぎ身に着けて後は時計と睨めっこしながら家を出て 最寄のバス停に向かい関東北部に在る自宅からバスで二十分のところに在る会社へ向かう。
会社に着けばタイムカードを押し、着席してパソコンを開き
同僚たちと挨拶し 首尾よければトイレで出すものを出して
経理の仕事を続ける。昼飯は会社近くの昼には焼き魚定食まで喰わせてくれる田舎の喫茶店で済ませ、夜は偶に経理課ではない 同じ会社の工場で働く同僚と夕飯代わりの酒席に付き合ったりもしたが 概ねバスを1ツ前で降り、自宅の最寄バス停にはないコンビニか弁当屋で惣菜を買い求め
家でご飯を炊き孤独な夕餉を済ませ 朝の食器と一緒に夕餉の食器を洗って 後はすることもなくテレビを観てうたた寝し せり出した腹を叩き
日曜日や祝日以外風呂には入らないが 冬場は寒さ凌ぎにどうしても
平日、週に三日は風呂へ入り 歯を磨き 寝床を調え
また仏壇の前で正座して朝と同じように読経をする。
眠くなるまで寝床で仏教関係の書物を読む。
といってもせいぜい休日に月に一度浅草の観音様に観音経の偈文を写経したのを納めに行って次の新しい写経一巻購入する際に貰う浅草寺の薄い冊子を何度も読み直すのが日課だった。
時折煙草を喫うが 酒をチビリチビリとやる癖も無かった。
女遊びをするほど生来性欲も在る方ではない。
五十七歳になるまで吉原で遊んだのはせいぜい十回ほどで
五十を越えると自慰すら全くしなくなり
俺は いつ死んでも悔いはないなぁと想いながら
せいぜい定年退職してこの親から頭金を出して貰った小さなマンションの
1室のローンを完済したら 浅草寺とは言わないが 田舎の寺で得度し仏門の端っこにでも置いて頂いて 重く病むことなく 一人であの世に逝ければと観音様に祈り願うばかりの人生だった。
北関東の地元の商業高校を卒業して、食品加工工場の経理課に入り、農家の次男坊としては幸先良かったものの 珠算と暗算が自慢の青年から瞬く間に頭頂部の毛髪をすっかり失って、定年間近となっていた。
幾度か見合いし結婚に至るような事もあったが 地味で無趣味なゴツゴツとした背の低い男になかなか嫁が来ないまま独り身を続けてきているが
数週間前に起きた いきなりの早期退職という名の首切りに遭ったときには 嫁がいたらばさぞかし どやされ 子でもいれば 明日から何して食わせようかと思い悩んで今以上に生きた心地がしなかっただろうと
未婚で老いる身の上を寧ろ正解だったと思うのだった。
多少上乗せの退職金でローンを完済したところで月々管理費や毎年の固定資産税も払えば 貯えなど数年で尽きる。
経理仕事しかした事が無い、経理係長で終わった経歴に見合う再就職先などあるわけもない。
いや そんな贅沢を言わなくても 退職した翌日からハローワークや農協へ出かけて経理畑の仕事を探しては 履歴書持って蒼ざめていた。
だが 勧められるのは日雇い仕事と農家の手伝いぐらいだった。
自動車免許を持っていても運動神経の無い危なっかしい下手な運転しかできず 車もついぞ持たなかったし
第二種免許を貯金のあるうちに取得してとか重機の免許にしようか
と考えては頭を抱えていつしか朝晩の観音経読誦すら忘れて
泣き崩れたり万年床になった布団に頭から潜り込んでは
社長や たしかめ算もせずに表計算ソフト頼みの経理仕事を平気でする契約社員への悪口雑言を喚き散らしたりしていた。
あぁ今日もこれからも この繰り返しか。
しかし。
ゴミ出しを怠ったつけで部屋に漂う悪臭にもいよいよ嫌気がしてきた。
天井の薄暗さにカーテンの隙間から入り込む陽光が次第に
光線の輪郭を明瞭にしつつある。数週間前ならとうにバスに乗っている時間になっているらしい。
じっと目を硬く閉じ 相変わらず40年近く勤め上げた会社の冷淡さと
小言ばかり言うだけの小さな婆様になっていた母親が特養老人ホームで誰にも看取られずに脳溢血で去年亡くなり、さらに数年前 農家を棄て離散した兄一家の事もないまぜになって錦司はわなわなと哭いた。
なんて運の無い一家だったんだろう。いったい何の祟りだ?
兄の家の子供たちは錦司になつくこともなく いっぱしの不良になり東京で愚連隊になっているらしい長男と
母親、つまり錦司の義理の姉と共に姉の実家がある山形へ行った長女は家出して行方知らずだが どうせ母親と同じ水商売でも何処かでしているだろう。
それにしてもあの義理の姉と自分の母親との壮絶ないびり合いも辟易したが その揚句おふくろが逃げ込んできた独身次男の錦司の家で始終小言を言い放ち貯め込んだカネを持ってサッサと特養に入ったのも今にして思えば
「オッカサンあんたはやはり賢かったな」と 哭き終わると呟いていた。
洗顔し口を漱ぎ 久しぶりに仏壇の前に正座して
今は亡き両親のために如来授量品偈頌を読んだ後
観世音菩薩普門品を全文読んだ。未だ諳んじている方が多かったので少し ホッとした。
散らかったものを片付け シャワーを浴び 髭を剃り ゴミ捨て場に溜まったゴミを棄て軽く部屋の掃除をした。
それでも未だ昼過ぎぐらいだったので錦司はバスに乗り
会社とは逆の最寄の鉄道駅に向かい そのまま浅草に出た。
春まだ浅い桜の蕾も硬い浅草寺に向かう前に駒形堂に行くと 示現祭の日和だったので ありがたいご本尊を拝して 心ばかり浄財をし、本堂へ。
本堂の広間に上がり2時の法要に侍って読経した。
「どうか私を仏門にお加えください。どうか私を得度させてください」
そう念じながら禿げた頭頂部をのぞけば殆ど白髪だらけの頭を
広間の床に額を擦りつけていた。
それなりにカネが懐中にあったので 本堂を出ると久しぶりにオフクロが
大好きだった大きな海老の天麩羅が二本のった蕎麦を食うか 靴屋の2階にある喫茶店の洒落たチキンバスッケトでも食べて帰ろう と決めた。
独りで大きな海老の天麩羅蕎麦を喰っていると目の前にオフクロが現れてきそうで 錦司は伝法院通りから浅草公会堂の脇へ出て靴屋の2階に在る
喫茶店『銀座ブラジル』へ行った。
チキンバスケットと卵焼きのサンドイッチも注文し
サンドイッチの方は土産にしてもらった。
ちゃんと珈琲豆を挽いたのを飲むと むしょうに「生きているってのは いいな」という言葉が湧いてきた。
電車に乗り夕方近くの空(す)いたバスに乗って家路に着く。
郵便受けを覗き くだらないダイレクトメールやチラシをふんだくるように取り出し2階の部屋に向かう階段を勢いよく駆け登った。
やっぱり観音様だなと錦司は思った。
体の動き方が違う。
2階に住んでいるのに必ずエレベーター使っていたもの。
そう想いながら錦司は薄暗い廊下に漸く光が灯り自分の部屋の前に進むと
いきなり足元に灰色の毛むくじゃらの生き物が絡み付いてきた。
錦司は大きな鼠に襲われたと一瞬恐慌に襲われたが
よく見ると濃い灰色をした猫だった。
大声を上げそうになった途端にニャァァと一鳴きしたので
なんとか五十男が悲鳴を上げずに済んだ。
「なななんだおまえは それでも猫か・・・」錦司は両手をサンドイッチの袋と郵便受けのゴミに塞がれながら
漸く鍵を出し足元に纏わりつく猫に注意しながらドアを開けたが
そっと開けたつもりのドアの狭い隙間から灰色の猫は猛烈なスピードで走り抜けて行った。
「おいこら!」錦司は結局大声をあげることになった。
ドアを閉めて猫を追っかけると猫の姿はなかった。動物を好きではなかったが猫ぐらいとっつかまえて玄関からおっぽり出してやると息巻いて 台所にサンドイッチを置き、郵便受けのゴミどもを荒々しくゴミ箱に打っちゃると逃げ込んだ猫を探した。狭い家の中を10分ほど探したが姿は何処にも無い。押し入れを用心深く探っても元々襖の戸はきっちり閉めてあり、
幾らなんでも猫が初めて入りこんだ家で器用に襖の戸を開けて入り込むとも思えなかったが そこにも猫はいなかった。
台所のシンクに置いたサンドイッチが心配になり 錦司は振り返る。
ニャアニャアといわゆる猫撫で声とやらをしてみたり
チュウチュウと鼠の鳴き真似もしたが反応は無い。薄気味悪い感じがしたが トイレや洗面所にもいない。風呂場になぞいるわけもない。
天井に猫が張り付いていたら厭だが それでも恐る恐る注意深く見上げてみた。狭い居間の小さなテーブルや椅子に猫が居た形跡もなく 居間から続きの寝間に在る仏壇前の座布団の下まで何度もめくったりしたが
確かに脱兎の如く駆け込んだはずの灰色の猫は煙のように消えていた。 「いったい なんだったんだ」
やや呆気にとられて錦司はコオトを脱いで 衣装箪笥にしまった。
そうか此処かとも思ったがこちらの戸も閉まっていたし覗き込んでも無駄だった。腹は未だ減っていなかったが 浅草の喫茶店で買ってきた薄い卵焼きを何層かにして バターの香りがするオムレツのようなのをトーストしたパンに挿んであるサンドイッチを少し温め直して さて インスタントコーヒーと共に食べるか戸棚で見かけたチキンブイヨンの固形スープを湯で溶いてみようかと考えを巡らしていると 猫騒動のことも 何だか楽しい感じがしてきて つい微笑んでいた。
微笑むことなど忘れていた数週間、いや その以前だって
去年オフクロが突然亡くなった後は テレビで莫迦なお笑い番組を観ても
苦笑いしてすぐチャンネルを変えるか電源を消してしまっていた。
だが今自分は 確かに微笑んだ。ニッコリしたよな。
変だな 苦笑いはこんな後味じゃない。
クソッタレという一言が追っかけ口を突く。
そして次に彼は胸や腹を揺らして大笑いしていた。
今朝まで哭いていた自分がとりあえず嘘のように鎮まったようだった。
猫探しもついでに続行しつつ 錦司はテレビでニュース番組を流し、
郵便受けに溜まったゴミと一緒に捨ててしまった薄っぺらな夕刊を
居間に在る食卓に広げた。こんな新聞もう取らなくていいな。
と呟くと再びゴミ箱に戻した。独り侘しい夕餉だが
こんな豪華なディナーは珍しいと鼻歌まじりに呟き
湯を沸かし古い固形スープを飲みながら 温め直したサンドイッチに舌鼓を打った。実のところ彼が3食喰ったのも少なくとも二週間ぶりだったのだ。インスタントラーメンかコンビニ弁当を昼間食べると夜は不安で胸がドキドキし、飲めぬ酒をチビチビやると 眠気が一時的にやってくるが うたた寝をして夜半に起きてしまえば 腹が鳴っても布団を頭からかぶって目を瞑り、ガタガタ震え胃の辺りがシクシクと痛み
腹を抱えて泣いているうちに朝が来ていた。
そんな日々から少し抜け出した感じがした。
あぁこれが 観音様の功徳かと思った。
錦司は明日から何をしようと考えるのをやめた。
ただ明日起きたら布団をあげよう。風呂にも入ってみよう。天気がよければ洗濯し 布団だって干そう。大いに満腹になりなんとなく寛いだ気分に誘われて酒がもたらす陰気な睡魔とは違う
陽気な眠りへの誘いが微笑かけてきた。食器を片づけ 眠い目を擦りながら歯を磨き パジャマに着替えちゃんちゃんこを羽織って仏壇の前に座り
数珠を鳴らし 観音経偈頌を唱えた。
観音様が恐れを掬い取ってくださる。そう念じながら唱えると
ウッつらウッつらとして白河夜船を漕ぎ出した。
南無観世音菩薩と唱えつつ寝床へ入った。彼の想念には既に闖入した猫など欠片ほど無く、ただ深い眠りへとゆっくりと沈んでいった。
夢など見ていなかった。自分の鼾で目を覚ましたわけでもなかった。
物音がしたというより不図 気配を感じて目を開けた。
暗闇がただ茫々と視界に広がるだけで無防備だった。
だが彼の目の前には猫がいた。猫だと分った瞬間 自分の胸の辺りで前足に顎を乗せてウトウトしている猫が闖入者であったことを思い出し、
ガバっと跳ね起きる はずだった。
しかし声もでない 体も動かない。金縛りか?南無観世音菩薩と唱えてみた。
すると猫が目を開けた。にゃあと言わず「起きたか」と言ったので
跳ね起きた。
バネ仕掛けの玩具かなにかのように驚愕という名の生存本能が
従来己が認識している以上の身体能力を発揮させていた。錦司は布団から飛び出し体を丸め縮こまり部屋の隅で震えだしていた。
猫が喋った。いや錯覚だ。空耳だ。
震えたまま恐る恐る体を伸ばして部屋の電灯をつけた。
猫も驚愕してさぞかし震えているか 背中の毛でも逆立てて戦闘態勢を整えているだろうと予測した。しかし 錦司が観たのは猫が欠伸をしている姿だった。そして猫が欠伸をおえると見る見るうちになで肩の小さな体から
灰色の人間らしい手足がニョキニョキと伸び出してきた。
まるでこの世のモノとは思えない怪奇な様子を目の当たりにし
錦司は反射的に枕を武装手段なのか防御装置だかなんだか判らないが
掴み胸高に構えた。猫はグンニャリと毛皮だけになり
それを片足の指先で引っ掛けヒョイと上へ蹴上げ、
手でキャッチした灰色の西洋人が銀色の全身タイツのような衣類をまとって錦司の方をジロリと凝視していた。ハウドユウドゥと錦司が言いかけた時 「おう ぐっすり寝てたのに起こしてすまんな」と
西洋人風体の大男は猫の毛皮を銀色衣服の中へねじ込んで
「まぁ 座って 話そう」と長い脚をX字に交差させそのまま垂直に
腰を下ろし着座した。震えは止まらなかったが これは夢を見ているだけだと自分に言い聞かせて錦司は正座した。
「ボクは見ての通りの宇宙人だ。正真正銘の異星人。
名前はグレイとでも呼んでくれ。異星人が拵えたサイボーグ、アンドロイドとでも思っていいよ。どっちにしろ この地球という名で君らが呼んでいる惑星の住民よりは科学が遥かに進んだ 宇宙における知的生命体が居る惑星からやって来たわけだ。日本語だって喋れるぞ。猫にだって化けられるぞ。な 君らの科学技術じゃこんなことすらできないだろうフフフ」
まるで漫画だ。いっそ猫型ロボットでどら焼きでもお土産に持ってくりゃ
可愛いのにと言い返そうとしたが 夢の中で変に会話を試みようとしている自分に違和感を覚えた錦司は
ただ 「へぇ 何という名の星からいらしたんです?」と
どうせ夢見の中の漫画映画だと高を括って訊いてみた。
灰色の異星人は唇を動かさずに耳の奥へ鋭く斬り込んでくるような音波を発した。
そして「正確には そういう名だけど君らには聞き取れないし聞き取っても音として再生もできないさ。気にしないことだ。それよりも君にちょっと手伝ってほしい事があるんだよ」と異星人が拵えたアンドロイドだかサイボーグは如何にも人間らしく振る舞っていた。
手伝う?俺たち地球人より賢い奴らが何を手伝わせたいというのだ。
漫画やおとぎ話だとどうなるんだっけ?こういう展開は・・・。
錦司はだんだん恐れがなくなり 結構落ち着いて考えながら相対していた。「手伝う?未だあなた達よりも遅れた科学技術しか持っていない我々が
ですか?」
持っていた枕を短い太腿に縦に置き換え前屈みになって訊き返した。
異星人はニヤリとした。上目遣いに錦司を見詰めながら
「 すっごく簡単なアルバイトさ。君お得意の観音経をひたすら唱え続けてほしい。ただそれだけ。
特に ネンビーカンノンリキ ゲンジャクオーホンニンってところを 繰り返し繰り返しやってほしいんだ」
錦司は異星人が観音経を知っているので
ますますこの夢の中の漫画映画でビクビクする必要がなくなった気がした。そして灰色の大男が口にした『念彼観音力、還著於本人』の意味を思い出していた。
つまり南無観世音菩薩と唱えその観音の徳に縋り念ずれば
呪いや毒薬やらを仕掛けられても、危害を加えようと急襲されても
観音の徳に縋って念じている者は それを跳ね返しそのまま仕掛けた本人に還る。つまり殴りかかった自分の拳を自分の顔面だか腹に 喰らうことになるわけだ。
観音の徳に縋り念じる者は無敵だともいえる。非武装なのに最強ともいえる。実際こんなことが出来れば軍隊など持つよりも観音経を読誦する者を揃えた方が軍事費も大幅に削減できる。錦司はいよいよ落ち着いてそんな事を思いめぐらしていた。我ながら夢見の中でなかなかしっかりと考えているので 愉快になってきていた。
「お廉い御用です。そんなことでよろしければお手伝い致します」
錦司はそういうと足が痺れてきたので膝を崩し胡坐をかいた。
「そうですか。ありがたい。事態は緊急を要しておりまして早速ですが出掛けましょうか」
銀色の全身タイツのような衣装をまとった灰色の肌をした西洋人外貌の大男は流石に異星人が拵えたサイボーグらしく精巧にできていて垂直にギュンと伸び上がってそのまま直立してみせた。
へぇ2メートルはあるな こいつ。錦司は感心していた。
「今から すぐにですか?」見上げつつ言う。
「そう願いたい。着替えなら船内で適当に見繕ってください」
錦司を見下ろしつつ異星人は 又は異星人製のサイボーグはのたまった。
宇宙人の葬式にでも呼ばれる得度もしていない贋坊主のアルバイトなんて
ハローワークに幾らか通っても探せないな。そんな軽い気持ちで立ち上がった。枕の代わりに仏壇の小さなあずき色をした浅草寺の経本と数珠を手に取った。夢の中なのに妙にリアルに経本の手触りや数珠の絡み付きをいちいち触覚しているのが気になったが
次に彼が顔を上げ振り返ると 既に彼は自分の部屋に居なかった。
薄暗い部屋には壁一面にモニターが埋め込まれ、その前にはコントロールシステムとでもいうのかもしれない 小さな突起物が配置された楕円状の卓が在り、異星人が椅子らしきモノに腰かけて卓上の装置やモニターを指先確認でもするかのような仕草をしていた。そして振り向くと
「 じゃあ其処に着替えを用意したから着てみて。気に入らないって
言われても君の体のサイズに合うのって殆ど無いの。
まぁパジャマの上にさ そのローブでも羽織ってよ。夜中で少し寒いところへ行くから。それでも直ぐ温かい部屋へ移動するから大丈夫ですよ」
灰色の肌の異星人が指さす方に置いてあるローブを錦司は手に取った。
軽くて薄いコンビニで売っている急場凌ぎのビニール製のレインコートのようだったが あんなゴワゴワした感触などなく ふんわりとしいていた。
色は半透明の白なのだが どうも玉虫色にも見えた。
驚いた事に腕を袖に通すといつの間にか錦司の体に合わせてフィットしてくる。フードを被ればビニールとは大違いの優しい肌触りがしてガソゴソしなくて快適だった。流石に足元はかなり丈が余って引き摺ってしまうが
少し動いてみると軽いので足元に纏わりつくことなく
裾を踏んづけられない限り ひっくり返る心配もなさそうだった。
錦司の用意ができると グレイは念のためにと薄く色が入ったゴーグルを錦司の眼鏡の上から覆い被せた。
「ま 風が強いから これで眼鏡も吹き飛ぶ心配もないさ」
そう言って錦司を続きの部屋へ行くように手を広げ
「どうぞ あちらへ」と言う。錦司は暗がりへ進む。持ってきた数珠とあずき色の観音経経本を片手に持ち 俄かの読経僧をアルバイトしに行く贋坊主。変な事を思いついて見ている夢だと夢見の中で自分を冷めた目で眺めていた。
すると グレイが猫の毛皮を取り出し足元に置くとその中へ沈んでいく。
猫も灰色がかった毛並だ。猫皮に収まるとチャックなど見あたらなかったがあの大きな異星人が体長四十センチほどの猫になり
「とりあえず抱っこしてくれるかい」と猫なのに日本語で喋った。
錦司は相当重いかもしれないので しっかり腰を下ろして抱き上げた。
だが予想に反して重さも猫並みになっていた。
「観音経を読む際は膝の上に乗っていただく恰好になりますけど いいですか」と錦司は猫姿になった異星人に訊いた。
灰色の猫は「オーライ」と応えた。そして次の瞬間、錦司は猛烈な冷気を足の裏に感じた。金属の板の上に裸足で立たされていた。ゴーグル越しに見えたのは闇に浮かぶワイヤーが交差し 頭上ではグルグルと矩形の金属製の板が廻っていた。
「軍艦の甲板だ。そうかスリッパとか履かせなかったか!すまん」と異星人が声をかけてきた。
そして 「とりあえず観音経偈頌を読み始めて」と命じられ 錦司は贋坊主よろしく読経をはじめた。
「もっと大きな声で」そう抱いている猫に変身した異星人に言われたので 声をはりあげた。すると外国語で錦司に向かって怒鳴る声がした。猫に変身した異星人がそのまま歩いてデッキの脇にある通路へ向えと言うので歩き出す。するとピシッという鋭い音が足元でした。
「兎に角 一心不乱に親の葬式だと思って何度も読む」と少し大きめの声で命令されたのでそうした。
足の裏が冷たくてそれを忘れるためにも読経に専念し
速足で通路へ向かうと 先ほどしたピシッという音が数発連続した途端 背後で叫び声がした。
「いいかい 振り向いたら駄目だ!一心不乱だ。集中集中!」
そして「其処の階段を下ろう」胸に抱いた猫殿から矢継ぎ早に指令される。階段を下ると足の裏が漸く冷たさから解放された。
そのまま突き当りまで進み今度はエレベーターに乗ることになる。
地下2階まで降りると前方から迷彩服を着た数名の男達が銃を構えて怒鳴った。
錦司は ヤクザの葬式かと訊こうと思ったが銃を構えている男達が外国人なので声も足も止まった。
「オイ!おっさん ネンピーカンノンリキゲンジャクオーホンニンだけ一万回唱えろ」と猫から怒鳴られ錦司は我に返り
「念彼観音力 還著於本人」と大声で唱えるというよりヤケクソで怒鳴り続けた。すると目の前の並んだ数丁の銃口が火を噴いた。
「ギャアッ!」と錦司が叫ぶ前に目の前の男達が頭や足から夥しい血飛沫を上げて崩れ落ちていた。
錦司は何が起こったか理解できなかったが
「オッサンいいぞいいぞ その意気だ そのまま進軍だ 」と励まされ
これはどうせ夢だろう?それとも映画の撮影?
錦司は 生臭い血の匂いに一瞬息を止めたが
「オッサン 唱えるのをやめたら あんたも実際あーなっちまうぞ
死にたくなけりゃ命がけでネンピーカンノンリキゲンジャクオーホンニンを繰り返せ」その声が鋭く錦司の耳で唸り
次々と現れる軍服姿の射撃手たちが目の前で自分が撃った自動小銃の弾丸に体を蜂の巣のようにされて血を吹上げ即死していく。
何なんだこれ! 錦司は銃声の轟音と外国人たちの叫びが 断末魔の雄叫びが 夢見では なく実際起きている現実だと思い知る。
うずくまって泣きたかったが 猫の姿に変身している灰色の肌をした異星人製サイボーグは進軍を錦司に命じ続け
いよいよ ある部屋の前に辿り着く。背後で自動小銃の連発音が鳴り響き 次に間を置かずに絶命の声が3つほどしたあと
「このドアは 私が開ける」 猫姿の異星人製サイボーグは声を低く太くして言う。猫はじっとドアを睨みつける。すると何かがコトリと落ちた音がした。
「さぁ入ろう。片手で押して入るだけさ。そしてオッサンは そのままネンピーカンノリキだぜ」 その声に従がって錦司は自棄のヤンパチ何が何やら判らん 臆病風がいつの間にか逆風となって人生において今までに無いほど腹の底から声を発し どうせ俺はもう発狂したのだ、狂うことに開き直った。ドアを開けると赤いペルシャ絨毯と黄金や宝石が散りばめられた室内装飾と家具がキラキラと輝いていた。そして 豪華な食事が ところ狭しとひしめき合って置いてある長い食卓に向かって寛ぐスーツ姿の男達に混じって 世界大宗教の法衣をまとった者たちや日本の山伏が頭に乗せるような小さな黒い四角い帽子を頭に据えたダークスーツの男が 長い顎鬚を強張らせて
闖入者の方を見ていた。錦司に背を向けていた、司祭がまとうローブ姿の男は ガツガツと肉の塊を手づかみで食べていたが
念彼観音力 還著於本人と狂ったように叫ぶ闖入者の方に振り向き 剣呑な目つきを据えた。
そして猫に姿をやつした異星人製サイボーグは「 ラマダンだというのに贋坊主 そんなにガツガツ焼肉なんぞ喰らっていいのか」と挑発した。
すると日本語で叫んだはずなのに 男は肉を投げ捨て、席を立つと迷わず
錦司の方へ歩み寄り いきなり腰に帯びた剣を鞘から抜くと銀色の氷のような刃を錦司の頭上に向かって振り降ろした。
しかし次の瞬間 その刃を持った腕は撥ね返り
その反動の腕力を以て自分の耳の裏辺りを突き刺した。
ゲッ 司祭の法衣を纏った男はそう発すると
今度はグイグイと自分に刺し込んだ刃を真横に力いっぱい引いた。
片手は自分の片手を敵としてその猛然たる動きを止めようとしていた。
目の玉は飛び出しそうになり充血し
そして男の首から上は自らの刃で自らの腕力で斬り落とされた。
その姿を後ろから見物していた全ての者達は事の次第を理解できずに ざわつくだけだった。しかし今や首なし人間になった同胞だか仲間だかが 床に倒れるとざわつきは 怒声と叫喚に代わり 数発の銃声が聞こえると
その次の瞬間には銃を発した者がその銃弾に額や心臓の辺りを撃ち抜かれ
声も上げずに斃れた。多くの者は 物陰に隠れ 警備する屈強な兵士たちに攻撃を命じる。兵士たちは命じられるまま 自動小銃やピストルを錦司に向かって発射した。だが次々と自分の撃った銃弾によって絶命しただけだった。斃れた兵士の銃を手から外し錦司の方に向かって欧州人らしい銀髪の紳士が 狙いを定めて1発発射すると彼の両眉の間に赤黒い銃痕が
次の瞬間口を開け 目を見開いたまま仰け反り斃れた。
遂に小型バズーカ砲を持った兵士が現れたが
その攻撃は寧ろ発射した兵士だけでなくその場に居合わせた武器を持っていなかった者達にも死、又は重傷を負わせる結果をもたらすだけだった。
錦司はその光景をなるべく見ないようにしていた。しかし激しい銃声音や爆裂音 それに伴う震動や血の匂いや火薬臭が生々しく五官を支配していた。泣きながら念彼観音力 還著於本人を唱え続けた。
「さぁ回れ右だ そしてそのまま 来た道を戻ろう 」という猫姿の異星人の指令に従った。そして再び錦司の足裏は凍てつく甲板の上に在った。
風が物凄い音で吹いていた。「よっしゃ」猫がそう叫ぶと 錦司の頭上に円い発光物体が現れ 猫を抱いた暗殺者が 音も無く発光物体へ吸い上げられていった。
砲弾を撃ち込もうとした兵士を軍艦の司令官が砲撃を制止した。
おそらく彼は その攻撃によって甚大な損失を被るのは 自分たちであることを理解したのだろう。司令官は英語で兵士たちに
「 死にたくなかったら撃つな!」 「撃てば死ぬのは撃った奴だ!」と叫んでいたのだった。
錦司が目を覚ましたのは 自宅の寝床だった。未だ部屋は闇だった。
錦司は自室の寝床である事を確認して悪夢から漸く解放された安堵感を得ていた。
視線が胡坐をかいているグレイにいくまでは。
しかしグレイは実在していた。長い脚をX字に曲げて畳に尻を着けて
錦司の方を見ていた。
「どうも お疲れ様! お蔭で厄介な戦争屋を一掃することができた。
これで第三次世界大戦なんてのは人類史に起きなくなるだろう。
あなたは たった一人で偉業を成し遂げたってわけです」
異星人製サイボーグたるグレイスキンは 流暢な日本語でそう言う。
「猫の姿で喋った方がお気に召しますかね」
悪戯っぽくニヤリとしてみせた。
錦司は 上半身を起こして応対しようとしたがどうにも体が鉛のように重くて動けなかった。
「私がした事は殺人になるのですか」
錦司は仰向けのまま目だけグレイに合わせて言った。
するとグレイスキンは
「いいえ あなたは 念彼観音力の威神力を示しただけですよ。
彼らが死んだのは自業自得です。
彼らはあなたを殺そうとして自分を殺しただけです。
宇宙の法則では
自分がやったことは全て自分に還ってくるというのがありますのでね。
その宇宙の法則をあなたの読経によって強固に
この星の上で発揮させただけです。
私がした事と言えばあなたをボスボラス海峡まで空飛ぶ円盤で運び
某軍事大国の艦船へご案内し あの秘密部屋のドアの鍵を電磁波で開錠し 世界中を恐怖に陥れている狂信テロリスト集団の本当のリーダーに向かってアラビア語で挑発する言葉を吐き捨てた事ぐらいです。
この強行手段を計画したのは 私のボスたちです。
ただどうしても この地上時空で生きている人が 参加してくださらないと 我々のボスたちは 宇宙の法則
『他の惑星の住人たちの行為行動に過剰に介入することを禁じる』
という一項に抵触してしまうので あなたを選んだというか 。
まぁ 最も平和的な方法と申しましょうか・・・・。
それでも あなたとしては 選ばれたと言われても
と仰りたい気持ちは充分理解できます。あなたが この出来事を忘れたいとお思いでしょうから
ちゃんとその為に忘却処置を致します。記憶の抹消をします。
我々が慰謝料的なモノをお支払すると言っても 手立てがないので
今週の金曜日抽選のロト7の一等当選番号を さっきタイムワープして確認してきましたので それをあなたの左の掌に刻印しておきました。
今日これから夜が明けると水曜日ですから まぁ近くの売り場で早々に
三百円分一列 並べて買ってください。
それが 暗殺者の報酬・・・・ごめんなさい いえいえ もとい、
精神的外傷に対する慰謝料としてお受け取りください。
まあほんの数億円ですけどね。あと300円は 申し訳ないですけど お支払ください。そして大切なことなので 覚えておいてほしいのは
2列同じ数字で買うのは 駄目ですよ。未来を変えるというか結果が変わってしまうのでね。2倍の金額にはどうせならないですし。
そしてめでたく あなたが当選結果をご覧になって万歳なんてされて
興奮して寝付けないかもしれない その夜中にでも猫の姿をして現れます。
その際は 今度は許可を得て入室致します。
その節、今しがたご覧になってしまった阿鼻叫喚の記憶をスッカリ消しに伺います。今日と明日は 少しばかりPTSD症状がもしかするとあるかもしれません。ちょっと我慢してください。
下手に医薬品を服用されると 記憶抹消処置の効果が低下してしまいますので。つまり眠り薬は控えてください。お酒ぐらいでなんとか。
又は夜通し観音経を読誦される、写経をされる など如何でしょう」
妙に丁重な話しぶりだった。錦司は あぁぁ夢じゃないんだ 夢じゃなかったんだ と呟いているうちにもう目を開けている事ができない睡魔に襲われていた。そして昼近くまで泥のような眠りに嵌っていた。
起きた時 錦司は左の掌を見た。薄茶色の数字が7つ横一列に印字されていた。手書きでなく印刷されていた。その数字を念のためにメモ用紙に書き留めてから錦司は洗顔をした。だがトイレの後 うっかり石鹸で手を洗ってしまった。しかし7つの数字は消え落ちてしまわなかった。
錦司は どうせ買うなら 観音様の近くでロト7を買おうと思いたち
2日続けて浅草に向かう事にした。既に水曜の午後2時だった。
左の掌に書かれた数字が気になり バスでも電車でもつり革につかまるのは右手にした。念のため数字を写し取ったメモもポケットに入れてきた。
良く眠ったはずだが乗り物に揺られていると睡魔に襲われ
時折 銃声の乾いた音や銃口の発光がフラッシュバックしたり
錦司を狙い撃ちにしようとした西洋人の老紳士が自分の眉間を
結果として自分で撃ち抜いてしまう瞬間を追体験し
動悸がし ハッと目を覚ました。
浅草の観音様は混んでいた。中国語や韓国語が 飛び交う中で 西欧人と出遭うと無意識に凝視してしまい、睨み返されて
目を伏せ足早に本堂に向かった。
とりあえず観音様に
「念彼観音力のお蔭さまで命を救って戴きました。ありがとうございました」とブツブツ小声で囁き 南無観世音菩薩と33回唱えた。
隣で手を打つ愚か者を見る。中国人だろうと思ったら 日本人でありそれなりの恰好をした夫婦だった。神道の御宮と仏教の寺ですべき礼法の違いすら知らなくても、妻帯し平日にお参りに物見遊山で訪れることができる普通の仕合せを享受できている同胞に羨ましさと嫉妬を感じることもあるけれど その日は なんとも思わなかった。ただチラリと薄目を開けて見ただけだった。数珠を紺色のダウンジャケットのポケットに仕舞い 本堂を出て
錦司の足は公会堂近くに在る 昨日も寄った 喫茶店『銀座ブラジル』だった。しかし 定休日。仕方なく 田原町方面へ歩いて 母が大好きだった
蕎麦屋『尾張屋』に入り 天丼を注文した。
今日はカツサンドを食べたかったなぁと想いながらも そっくり返る大きな海老の天麩羅が2本 飯の上に乗っているのを目の当たりにすると夢中でかきこんだ。上品な御吸い物を啜ると 目の前に小さな自分の母親が天麩羅の海老の尻尾をチュウチュウ意地汚く吸っている在りし日の姿が浮かんできて 突然涙腺が緩んだ。涙が細い眦からツーッと流れた。あらかた食べ終わり、涙にむせびそうになるのを堪える為に 丸めた背を一度伸ばした。
すると店の壁に飾ってある古い写真が視線上に現れた。
撮影するカメラを胡乱な目つきで見据え 中折れ帽をかぶったまま
この店の天丼を喰いかけている眼鏡の老人が気になった。誰だっけ?
錦司は妙に気になり お茶を注ぎにきた店の女性に写真の老人について訊いた。
「あぁ 永井荷風さんという小説家ですよ。常連さんだったそうです」
そう言われると思いだした。
母親にあの写真の人は宮澤賢治さんかと訊いて
「違うよ。宮澤賢治さんはここじゃなくて池上本門寺さんの近くの天麩羅蕎麦だよ」と言われたことを思い出した。そんな記憶をぽつねんと思い浮かべると そうかいオッカンあれは賢治さんじゃなくてナガイカフウいう小説家だとよ と心の中で呟いて 天つゆで濡れた飯をたくあんで平らげた。
宮澤賢治という名を思い出せば そこにまとわりつく 錦司の淡い初恋の人が ゆらりと現れる。
中学時代の同級生で際立った美少女が図書室で借りてきた『銀河鉄道の夜』を夢中で読んでいた姿だ。その少女が借り終えた直後 錦司はその本を借りた。思えば薄気味の悪い行動をしたものだが その本に自分とは棲む世界が違う 同級生というだけで話したことも殆どない美少女の微かな香りでも嗅ぎ取ろうしていたのだと いじましい自分が情けなかったけれど
お蔭で錦司は宮澤賢治を知り、その著作を読むことで生き延びることが出来た。その宮澤賢治の大好物は天麩羅蕎麦で そこへサイダーを奢ると
天にも昇る気分になると日記だかに書き残していたのを
あの初恋というか一方的な憧憬の的であった美少女の実際の顔つきが
薄らボンヤリしてしまうような年齢に達した頃に知った。
そしていつも不機嫌な顔つきの、小さくて気の強い母親に命じられて浅草へ年に何度か共に参詣するたび母親から
「いったい幾つになったらお前は結婚して まともに生きられるようになるんだい。観音様に何十年もお願いしているってのに・・・」
そんな愚痴を聞きながら食べる天麩羅蕎麦も懐かしいだけになるのだから 不思議なものだよ オッカサン。錦司は そう心の中で呟いた。
少し冷めた茶を飲み干し 勘定をすませ 田原町の宝くじ売り場へ向かった。 掌にある数字を慎重にマークシートの枠にちびた鉛筆で塗りつぶし たった一列分書くのに5分も時間を使ってドキドキしながら抽選券を手にした。書き込んだシートも 異星人の忠告「同じの二列は駄目だよ」を思い出し 下手に売り場に棄てて途方もなく面倒臭がりの者に運悪く自分が書き入れたシートで抽選券を買われては元も子もない。申し込みシートも胸ポケットに仕舞って 観音様の御本堂にもう一度お参りして 帰途に着いた。
帰宅ラッシュに出くわさない時間帯の電車に乗って
殆ど座ってうつらうつらしていた。
往路の車中で見舞われたフラッシュバックもなかった。
家の中で落ち着くと 写経をしようか 読経しようか迷ったが とりあえず風呂にでも入り 今夜は腹が減ったら買い置きのカップ麺で済まそうと風呂場に向かった。するとドアホンが鳴った。
訪問者は 出奔して母親の葬式にも来なかった兄だった。
家の中に入れるのも躊躇われたが 仕方ない。唯一の肉親だ。
粗暴でヤクザな、丸刈りの太った男が不愛想に上がり込み ジロジロと部屋を見渡し 両手を ヨレヨレのコールテンのズボンのポケットに突っ込んだまま がに股で肩をいからせて挨拶もせずに歩きながら
「おまえさ オフクロ死んで遺産とかどうしたんだよ」と 切り出してきた。金目当てか。
錦司は予め想定していたことがこれから起きるんだと思うと背筋が震えた。昨夜の銃撃戦ですら感じなかった恐怖が一瞬湧きあがった。
更に ヤクザに成り下がった兄は
「おまえ クビ?リストラされたって」
と蔑むような目つきといやらしいつり上がった嗤いを口元に浮かべていた。勧めもしないのに兄は 仏壇のある錦司の寝間でもある部屋に胡坐をかいて 仏壇の前に置いてあった座布団を勝手に引き摺って尻にあてた。
「灰皿くれよ」そう言い捨てると上着のポケットから取り出した煙草の箱とライターを抛りだし一服しだした。錦司も煙草を喫うがその部屋では喫わなかった。茶の用意などする気も無かったが 灰皿だけは持っていった。
人として こうやさぐれてしまっては灰皿を持っていかなければ畳に火のついた煙草を押しつけたり 下手をすれば仏壇の線香立てを灰皿代わりに遣いそうだったからだ。
「少し都合してくんないかな 百万ぐらい」
兄は言いたいことだけ先に言った。錦司はそう言って探りを入れて
その倍どころか10倍の金額を引出そうとしている兄の魂胆が観えた。
「どうしてそんなに必要なんだい」とボソリと応えた。
「俺だって遺産を貰ったっていいだろう?それにおまえは リストラで余計に退職金とか貰うんだろ なぁ 百万でいいや」笑ってさも下手(したて)に出てやっているという感じだった。 どうせ厭だと言えば獣じみた声を張り上げ飛びかかり殴りつけるつもりだろう。 錦司は兄の目を見返すのを禁じて瞑目し、怒りで震えている五臓六腑を鎮める為に 口を真一文字に硬く食いしばり 心の中で そして腹の底から南無観世音菩薩と念じた。
すると頭の中というか閉じた瞼の裏に見えたのは あの壮絶な銃撃戦の光景が蘇っていた。錦司はひたすら念彼観音力 時悉(じしつ)不敢害(ぷっかんがい)という観音経偈文の邪鬼を退散させる文言を繰り返してみた。
すると兄の吠えるような声が止んだ。
そして錦司が目を薄っすら開けると 兄が「頼む!百万が無理なら五十万でいいや。くれとは言わないよ 貸してくれよ 今な俺にようやく運が向いてきてよ ある奴からちょっとカネ出して一枚加われば 倍にして返せるあてがあるんだよ」
そう言って正座して両手を合わせて拝むような恰好をしていた。
どうせ返す気も無いのは分っていた。だが 以前のように暴れ狂ってでも
金を引出そうとするような振る舞いをしなかったのが不思議だった。
錦司は 黙って仏壇の小さな引出しから 郵便局の通帳と印鑑を取り出して 「おふくろが 遺した全財産だ。三十万円あるよ。戒名代に十万ばかり遣ったけど 今度の一周忌のために遺しておいた。これで勘弁してくれないか。一周忌の法要も俺が一人でなんとかするから。それに 俺の退職金なんてこの部屋のローンの残金払ったら一年も暮らせない程度しか出ないんだ。
年金が出るまで何して働こうかって毎日思案しているところさ。
それにその肝心の退職金は 未だ入金されていない。手元には数万円あるけど それで今月は食いつなぐしかない。アルバイトでもして日銭稼ぎに出るつもりだけど あんちゃん 御免な。これで今日は勘弁しておくれよ」 錦司はそう言って兄に向かって土下座した。獰猛な兄に暴力で抵抗しても暴れるだけ暴れられてしかも 財布にある数万の金も抜き取られ 歯の一本も無くすような怪我まで負わされる始末を覚悟しながら 我ながら信じられないほど落ち着いていた。
すると 兄は 「・・・・そうか それじゃ仕方ねーや。未だ退職金でないんだ。しょうがねー会社におまえも奉公しちまったもんだぜ。じゃ これは貰っていく。すまねーな。頼りがいの無い兄貴でよ。でも 儲けたら必ず返しに来る。一周忌も盛大にな 儲けたら派手にやって・・・」
と言いかけた兄は意外にも泣き出していた。
そして仏壇の方を向いて手を合わせ金色のりんを鳴らした。そして母親の遺影を入れた小さな写真立ての脇からはみ出していたロト7の申し込みシートを抓みだし
「 こら錦司 こんなもん買って当たるかよ。バカだなまったく
駄目な兄弟だぜ」と
仏壇に置かれた母親の写真に向かって喋りかけていた。錦司は兄がロト7の申し込みシートを持っていきはしないか心配になった。しかし乱雑にその紙切れを仏壇の中に置くと兄は
「おまえ夕飯まだか?」と立ち上がり様に言う。通帳と印鑑を汚いブルゾンの胸ポケットにねじ込みながら 「なんでもいいから喰わしてよ」
予め覚悟していた悲惨な光景とは違っていたので 錦司は頷き
「買い置きのカップ麺でいいかい コメはあるから炊くと三十分はかかるよ」そう応えると 「カップ麺? 情けねぇな。 まいいや 東京へ戻るまで腹がもてば」 駅に向かうバスの最終時刻を訊き、「それじゃますますカップ麺でいいや」 鼻で嗤って食卓の椅子に座り煙草をふかした。慌ただしくカップ麺を二人で啜った。食べ終わると又一本煙草を喫い 兄は立ち上がり錦司が居間の小さなソファに架けていたダウンジャケットのポケットを探り出した「なな何してんだいあんちゃん」 錦司は ポケットに仕舞っておいた七つの数字を念のため書いておいたメモを思い出し狼狽えた。
すると兄は「 おまえ煙草吸わないんだっけ? もう俺無くなっちゃってさ 1本恵んで貰っておこうと思ってな」そういうと何かを捜し当てたという顔をして「財布があったぜ・・・電車賃貸してよ」そう言って勝手に財布から一万円札を抜き取った。そしてそれをくしゃくしゃと丸めてブルゾンのポケットに片手の拳ごと突っ込んで もう一方の手を挙げ「じゃあな ごちそうさん」 そう言いながらドシドシ床を踏み鳴らし玄関に向かい やがてドアを荒々しく閉める音が聞こえた。まぁ一万円で済んだか。有り金抜き取らないだけよかったと思うべきかと考え ため息をついた。しかし ダウンジャケットのポケットを探っても財布を覗いてもあの七つの数字をメモした紙切れが見つからなかった。「兄貴め!」そう錦司は叫んだ。頭にきてダウンジャケットを床に投げつけた。仏壇の申し込みシートと抽選券は無事だった。左の掌に印字されていた数字と同じ七つの数字が並んでいた。
あのメモはどうしたんだろう・・・。錦司は風呂に入る予定を止めて部屋中を探しまくったが無かった。予想外にも暴れなかった兄が不気味だった。
もしかすると兄は異星人から自分がロト7の当選番号を教えて貰っていたことを知っていたのかもしれないと悪い方へ考えてしまう。
だから今夜来たのか?兄の顔を思い浮かべるほど怪しかった。
錦司は ちくしょうちくしょうと繰り返し 異星人から禁止事項として聞かされていた「同じ数字で二列とか複数購入しないでください。一等は1口当たるので 2口買うと 金曜日に違う結果が起きる可能性が大きくなるので気を付けてください」と述べる表情を思い出して頭を抱えていた。
兄が何の意図も無く紙切れを握り、何処かでポケットからポロリと落としたり、取り出しても気にもかけず丸めて捨てる姿を想像し続けた。
それでもウツラウツラしていると 当選発表を見てガッカリしている自分の姿やどういうわけだかヤクザな兄の方が 当選して大喜びして 自分に札束見せびらかして愉快そうに笑い 自分を蔑んだ目つきで見下し
「このまぬけ」と言ってはゲラゲラ笑う姿を夢見し 怒りと哀しさで布団を撥ね退けていた。寝不足のまま錦司は 朝起きて 観音経偈を読誦した。
目を瞑ると銃撃戦が蘇る。恐怖を追体験してしまうので声を張り上げていた。兄への悪しざまな憎しみを少しでも減滅したいと思うのだが 抜き取られた一万円が口惜しいやら 惨めな気分やらに襲われた。寝不足でボーっとしているのも癪にさわって 体を動かすことにした。トイレを入念に隅々まで掃除した。さらに 母親の遺影の前で 昨晩兄に一周忌法要の為に遺しておいた金を丸ごと渡してしまった事を詫びたりした。法華経の如来寿量品偈頌を経本頼りに読むことにした。
オッカサン そっちは宝の樹が華々しく、天人が常に溢れ 妙なる伎楽が流れていて、曼荼羅の花が雨の如く降り注いでいるかい?美しい浄土を描写した一節を読みながら母の笑顔を思い出そうとしたが 目を吊り上げて
「間抜け!オタンコナス!」という顔しか思い出せなかった。
ため息ばかりの一日を過ごしてしまった。夜になり、兄のお蔭で昨日入りそびれた風呂を沸かして 湯につかり ヤケクソ気味に極楽極楽と唱えるように呟いた。 十日ほど入っていなかった風呂から上がるとサッパリして手足も伸び伸びした感じがした。パジャマに着替えて早々に寝支度して 本棚に経理と法華経関連以外の本として唯一並んでいた宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を寝床で読み始めるとうつ伏せのまま寝込んでいた。淡い恋心を懐いた少女の日に焼けた芳しき香りが厭な出来事を忘れさせてくれたというより
久しぶりの入浴で体も一息ついていたのだろう。
そんな夜の沈黙を ドアホンの機械音が引き裂いた。鎌首上げて寝ぼけ眼の錦司は慌てて室内機の受話器を取った。「どちら様で」と訊く。口の端が涎で濡れているのをパジャマの袖で拭い もう一度来訪者の名乗りを促した。受話器は無音のままだ。悪戯かと思いつつ兄かと訝り、玄関まで行きドアの覗き穴から様子を窺った。姿は何もなかった。空耳かと寝床へ戻ろうとした途端 ドアの施錠が勝手に開きドアノブが下へ降りた。ドアが外へ少し開くと下の隙間から毛むくじゃらな物体が勢いよく錦司の足元を過ぎ去った。
その瞬間 錦司は今一番会いたい人に会える歓びで心が踊った。日に焼けた芳しき香のする美少女ではなく 灰色の肌をした異星人、正確に言えば異星人製サイボーグが猫の形をして来訪してくれたのだ。もう会えないと思っていたあのグレイスキンに! 既に猫から大きな灰色異星人姿へ成り変わって 食卓の椅子に腰かけて錦司を待ち受けていた。
「あぁぁ とんでもないミスをしてしまった」 グレイスキンは錦司を見詰めてそう言い
「この間教えたロトの数字、あれ一週間前の当選番号だった。これから夜が明けた 金曜の夜に抽選される数字は これだよ」と錦司の手を引き寄せこの間と同じような掌の場所にグレイの目から発せられるビームによって7つの数字が印字された。痛くも痒くもなく、熱くも冷たくも無かった。そういえば風呂に入った時 この間の数字がいつの間にか消えていたのを思い出した。
「いやはやなんとも面目ない。私としたことが ついウッカリ日付を間違えてしまった」 グレイスキンは もう猫皮を取り出して帰ろうとしていた。錦司は 掌の数字を眺めつつ 親切な異星人製サイボーグに ありがとうと言った。
「どういたしまして。又夜中に来ます。今度は直接ワープするから寝ててください。今晩は未だ起きている時刻だからちょっと猫の形をしてきたけどね。他の人にサッシあたりからビームに乗って侵入しているところ見られるとその人探して後で記憶から抹消するのが面倒くさくてさ。今の時間帯だと帰りも猫になりすまして公園の木陰辺りであなた達がUFOと呼ぶ超小型タイプで母船に戻る方がいいんだ。(グレイスキンは両手の指を使って超小型サイズを示していた。猫がギリギリ乗れるフリスビーぐらいの楕円を示していた )当選確認したら銀行は月曜でしょ 当選手続きだとかしにいくの。その後ね 今度はさ ハワイで会いたいわけ そのハワイで会うスケジュールとかを伝えに来ますよ。簡単なアルバイトだから 今度は! 血飛沫とか銃弾とか無いですから 愉しいバカンスしながらハワイの2島で観音経を読むだけ!」 芝居がかって大袈裟な身振り手振りでのたまう。
「本当に ハワイでお経を読むだけですか?」
錦司は どうして本職の僧侶にこの前の仕事といい依頼をしないのかと続けて訊ねてみた。グレイスキンは こう応えた。
「本職だから観音様に愛されているとは限らない。以上!」
ニヤリと笑顔を拵えてから異星人製サイボーグはあれよあれよと猫の形になり ドア開けてよ と猫のまま ニャアニャア言わずに日本語で錦司に言う。錦司は「ということは 私は観音様に愛されているということになるですか?」と猫に問う。灰色の毛並みをした猫は「そういうことでしょう 当然」 と澄ました感じで応えた。目を細めにし、首をスッと上げ、前足も後ろ足も馬がギャロップしているようだった。いろいろ訊きたいところだが 間抜けは自分だけじゃなかったという安堵と観音様に愛されているというくすぐったい 気分に満ちて錦司は恭しく猫殿の為にドアを開けて 「それでは又 お待ちしております」と言った。猫はニャアと猫語で応じた。
錦司は又 浅草まで出ることなく バスで最寄の駅から急行が止まる大き目の駅で降りて 宝くじ売り場で左手の掌をこそこそ見ながら抽選券を買った。思えばこの間は観音様の近くで購入したからこそ 兄が来てなにやらしでかしても こんな具合になっているのかもしれないと思いつつ 帰宅し 夜を迎えた。観音経の読誦をした。テレビでも観るかとごろ寝していると 電話が鳴った。こんな時刻にかけてくるとしたら 兄しかいない。そして兄だった。居酒屋から電話してきたらしくうるさい騒音を背景に兄はこう言った。
「バカヤロウ なんだロトなんか当たるもんか!おまえがオフクロの写真の裏に大事にしまってたのを見たからよ ポケット探った時 偶々握った紙切れ見たら7つ数字が並んでいたから俺も900円分買っちゃったよ 大外れ
金返せバカヤロウ!」 酔って機嫌がいいらしい。
錦司も やはり あれはグレイが間違えて教えた数字だったと安堵した。
兄には余計なことを言わず 言いたいだけ言わせて電話を終えた。そうかあの野郎 やっぱりしでかしていやがった!舌打ちしつつ 錦司は朝刊が来るのを待つために寝ることにした。朝の5時には郵便受けに新聞は配達される。未だ5時間はある。つまらないテレビを消して 布団に入った。
もしも4億とか当たっていたら 何をしようかと想像しているうちにたいしたことも思いつかぬうちに寝入っていた。そして新聞が届く前にグレイスキンは 錦司の寝床近くに座っていた。錦司は眠りの浅瀬に辿り着いて
そろそろ朝刊か・・・と思った瞬間 ニャアニャアとグレイスキンが猫の鳴声を真似していた。「当選確認した?」は日本語で喋った。
錦司はそうかハワイの件を伝えるって言っていたなと 身を起こし
「おはようございます。これから新聞で確認します」そう言って寝床を出て新聞を取って 寝間に戻り眼鏡をかけ電燈をつけ 仏壇の経本の下に入れておいた抽選券と新聞の片隅に並んでいる7つの数字を照合した。掌に印字されていたのと照らし合わせてもよかったが やはり抽選券で確かめた方がと思ったからだ。左から1個ずつ読み上げて確認しようとしたが その必要はなかった。記憶したつもりもなかったが ひと目で「当たってた」と呟いた。異星人製サイボーグは新聞を錦司の手から取り上げ左から読み上げた。錦司は確認のため抽選券を片手に摘みもう片方の手の人差し指で1つずつ
グレイの発する音と自分の口で出す音に合わせて一致しているのを指で触って確かめていた。
足元から震えが昇ってきて7つ目の数字を確かめた頃には歯の根が合わぬほど震えていた。「あたあたあたあた」と言いながらその場に座り込んだ。「おっ!一等賞金8億円だって。キャリーオーバー出てたんだねぇ おめでとう!」 異星人のくせにキャリーオーバーまで知ってるってどうなんだろうと錦司は思ったが 震える全身を何かに託さないといられず やおら異星人製サイボーグに抱きついた。予想外にヒンヤリしていて 人間とさして変わりない弾力性のあることを後で思い起こすが
この際は「ありがとうございます。ありがとうございます!観音様 ありがとうございます!」と叫ぶばかりだった。
漸く人心地ついた錦司を前に グレイはまんざらでもない様子で 1か月後の5月20日からハワイへ行く事を錦司に伝えた。条件はオアフ島ホノルル空港で初日にハワイ島のコナ空港へ入り、ワイコロアビーチのヒルトンに
2泊し その後ホノルルに戻ってワイキキビーチ沿いに在るホテルに少なくとも2泊、計4泊6日が必要条件で もっと他の島めぐりとかしたかったらワイキキ2泊の後に好きなだけ行ったらいいと言う。ちゃんとメモして置くよう言われたので手帳に書いた。
そしてグレイスキンは 「猫になって戻った方がよさそうな時刻になってきたな 公園辺りで帰還致すか」
朝ごはんでもどうですかと錦司は社交辞令でなく心から勧めたが
グレイスキンは 「サイボーグだっていうのに?」と笑って応えて
「じゃあ次はハワイ島のワイコロアのヒルトンホテルで会いましょう!
あのさ 今日は土曜日だけど 東京の旅行代理店とか行ってみたりした方がいいかもね 8億円あるんだからさ ビジネスクラスで往復すればいいよ 今度は愉しい仕事だから」
そう言い終わると猫の姿になり錦司がドアを開けると 早朝の街へ消えた。
「そうか・・・でも何で今回は この前みたいにUFOで一瞬にしてハワイに連れて行ってくれないんだろう・・・」錦司は 8億円が当たった興奮が引けた後 そう考えたが おそらく今度の仕事はあの血生臭い凄惨なものじゃないからだろうと思う事にした。海外旅行なんてそう言えば57年生きてきたけど一度も行ったこともなかったわけだし、こないだのボスボラス海峡は旅行の物見遊山じゃない。ただあれが人生初の海外旅行なんだな 俺にとって。しかも誰もが乗れるわけではない空飛ぶ円盤に乗って。
錦司は仏壇の前で手を合わせ 母親に心の中で事の次第を呟き感謝した。 勿論 観音様にも重ねて重ねて感謝をした。
グレイスキンはあの凄惨な銃撃戦体験を忘却処置するのではなく カネの心配を 一掃させる宝くじ当選体験とハワイ旅行によって忘れさせるようにしていたのだったが 錦司はそのことに 気付きもしなかった。
近所の大きなショッピングモールにも旅行代理店は出ていたが 何処で兄に遭うかもしれないので 錦司はグレイスキンのアドバイス通り東京に出た。勿論浅草の観音様に御礼のお参りをして、思い切って銀座から東京駅あたりをめざした。なぜならあの物騒な男、実の兄がもっともうろついていそうにない街だからだ。そして八重洲口の地下で大手の旅行代理店を見つけ
パンフレットだけでもと 入ると どういうわけか
女性社員に「ご予定はハワイでしょうか?」と訊かれたので ギョッとした。「どうしてお判りになるので」と訊ね返すと
「ハワイのパンフレットをお持ちになってらっしゃいますので」とほほ笑んだ。
今の自分は いつでも宇宙人だか異星人と遭遇してもおかしくないという
心境なのだとつくづく思った。そして手帳を見ながら 個人旅行プランで
スケジュールを作って貰った。ホテルや日程を指定したので女性社員はパソコンと睨めっこになり 無言になることも在ったが 錦司に
「あのぉ お部屋のグレイドが1泊 現在の円ルートで5万円になる日が
ハワイ島のワイコロアヒルトンなんですね ワイキキの方は一泊 3万円なのですが どう致しましょう」と言う。
錦司は今なんで自分は未だ嘗て無い高額な支払をしなくてはならない旅行に出ようとしているのかと ややパニックになりかけた。
しかし 南無観世音菩薩と心の中で唱えて気を落ち着かせ
「とりあえず スケジュール重視でプランを立ててください。おカネのことはプランを見て考えたいと思う」と自分でも意外なほどスラスラと言ってのけていた。そうだ俺は観音様の御用をするために伺うのだ。ただ遊びに行くわけではない。約束の日程だけは守らねばならないのだから 一泊5万円だって仕方ないじゃないか そう旅行代理店の女性社員に言いたいところだったが そうとは言わず
「できれば往復ビジネスかファーストクラスがいいなと思っているのですがね」と注文を追加した。女性社員は パソコン画面から視線を外し 錦司を見た。
「あぁ ハイ分りました。 ビジネスクラスの方がお席も取り易いです」 錦司は頷くだけだった。そして総額八十万円の4泊6日ハワイ旅行のプランが出てきた。頭金を入金しての予約は一週間後までにということだった。
「当社のプランが お気に召したら ご連絡ください」 女性社員のつくり笑顔に見送られて錦司は外へ出た。そして彼が向かうのは浅草に在る『銀座ブラジル』だった。
今日こそはカツサンドだと決めて出てきていた。使い古したユニクロ製のビジネスショルダーバックに安手のハーフコオトを羽織り 60がらみの禿げた冴えない男がビジネスクラスでハワイに行けるわけがないとあの娘は思っているだろうけど 俺はあのプランがお気に召したぜ。心の中で呟き
グレイスキンを真似て口角を上げてニヤリとしてみた。
月曜になった。敢えて東京駅近くの銀行で当選手続きをした。金曜日には入金され その確認をして 直ぐに旅行代理店に向かい旅行代金全額を支払った。プランを作成した女性社員が居なかったのが 少し残念だった。そして錦司は都内の銀行に貸金庫を借り、三百万円を給与振込に使用していた北関東の地方銀行口座に移し、残りの当選金額が入った銀行口座の通帳と当選証明書を入れて保管した。
ゴールデンウィーク直前 漸く錦司の銀行口座に退職金も振り込まれていたのを確認した。兄の来訪を避けるために 錦司は 日中は図書館、夜は映画館や漫画喫茶で過ごし 錦司の自宅方面に向かう最終のバスに乗って 十一時過ぎに戻り、朝も八時に家を出て 図書館でハワイに関する本を読み、すっかり観光気分に浸っていた。
そして五月二十日。錦司は午後三時成田発の飛行機でハワイに向かった。あのUFOよりも乗り心地が悪い飛行機でハワイに着くと未だ夜明け前で 乗り継ぎのハワイの国内便まで数時間あったが ビジネスクラスに乗ったお蔭で空港内の航空会社が設営するラウンジで休むことができた。そして再びコナ空港まで飛び 旅行代理店が用意していたホテルまでの送迎サービスが用意したマイクロバスに錦司以外は新婚カップル一組だけでワイコロアビーチのホテルに向かった。道中眺めるハワイ島の溶岩だらけのゴツゴツして 地球以外の惑星に迷い込んだような光景に錦司は 空の上から眺めたホノルルとは違ったビックアイランドと呼ばれる島に来たことに呆然としていた。同乗していた新婚カップルは しきりにビデオカメラやスマートフォンのカメラで車窓越しに撮影し驚嘆の声を上げていた。やがてワイコロアビーチの一画にバスが入ると 俄かにモダンな建物が並び立ち 人工的な街路樹が溶岩だらけの荒野からの圧迫を心細げに支えていた。新婚カップルは錦司とは別のホテルで送迎バスから先に降り、錦司は更に海辺に近いヒルトンホテルに到着した。
日本語サービスの在る受付を身振り手振りで教えられ
ロビーの一階下へ降り 手続きをした。未だチェックインまで時間があったので大き目の荷物をコンシェルジュで預かってもらった。
その際 オプショナルツアーなどを説明された。
なんとなくホテル内にあるイルカと遊ぶコースを予約した。
広い敷地内を移動するモノレールのような電車に無料で乗れること
レストランの説明 スパリゾートの説明などなど 薄らボンヤリした頭で聴いた。
チェックインまでホテル内のレストランや敷地内の散歩を薦められた。
昼飯はイルカが居る人工の入り江・ラグーン近くのカフェでタコスを薦められたが 錦司はタコスとは何だかわかなかった。
チェックインまでの仮のルーム・カードキーを身分証明書代わりに首からぶら下げて 先ずは薦められたまま ゴンドラ・・・というか小さな漁船のようなボートに 所定の場所で待っていると碇泊したので乗船した。
英語で話しかけられたが全く分らず 次から乗ってくる客たちに押されるまま 狭い船内に乗り込み 小一時間 ホテル内とホテルに面した海辺を走り 結局一周して乗船したホテルのロビーに近い碇泊所で降りた。
海辺に出た時は結構荒い波で錦司も陽気な外国人たちも嬌声を発していた。
船を降り 行き交う小さなトラムと呼ばれる電車に童心を呼び覚まされて ハワイの強い日差しを浴びながら頬は緩みっぱなしだった。
欧米人が ホテル内のプールサイドで寝そべっていたり プールで遊んでいた。
そして明日お世話になるイルカの居るラグーンへ向かうと 既に子供たちが数名水着にライフガードを羽織って イルカたちに触ったりして歓声を上げていた。喉が渇いた錦司は恐々(こわごわ)と近くのカフェに行き
なんとかコカコーラを注文し 渇きを癒した。一休みしても未だ昼食など入る余地がないほど腹は膨れていた。機内食が次から次へと出てきて大層美味かったので全部平らげていたので タコスなんて食べなくてもいいやと思った。暫くサングラスをかけて ビーチパラソル下のテーブルで頬杖つきながら 平和に裕福な時間を満喫している人々を眺めていた。
海辺ではサーフィンをする勇者たちが 雄叫びを上げていた。いい気持ちになって眠気がさしてきたが 此処で寝るのはまずいと想い どっこいしょ と席を立ち、当てもなくフラフラと散歩した。
とりあえずホノルル空港のビジネスクラス客専用のラウンジで上はポロシャツ一枚になり 下は短パンとビーチサンダルに履き替えていたので 錦司は海風に汗を弾かせ ショルダーバックから取り出した野球帽をかぶってホテルの敷地内を歩き トラムに乗り 冷房が効いている中でウットリと
自分が棲んだ事の無い別の星へ来たような錯覚を愉しんでいた。
あのゴツゴツと剥きだした溶岩ばかりの荒野。色の白い欧米人ばかりがいて 誰しもサングラスをかけ 表情が分らないし 英語だらけで耳はうわの空だ。トラムを適当に降りて、錦司は兎に角歩き回った。
海岸を臨む小高い丘に達すると仏像があった。海の方を瞑目し座る仏像はかなり大きかった。傍には 魚が大口開けて空に向かって直立している金属製の像があり 口の中には煙草の吸殻が在った。灰皿らしかったので錦司は一服した。喫煙家だが 一日に数本喫えれば満足する体質だったけれど なんとなく一本点けた。周囲に人も無く 海鳴りに耳を潅がせ喫い終ると仏像の真横に同じように結跏趺坐し両手を膝の上に乗せ 指で印を拵えたのも仏像を真似た。
そして徐に日蓮宗の開経偈を小声で唱え 続いて観音経偈頌を読誦した。
まだグレイスキンからの指令などなかったが 読誦した。
薄目を開けて 波濤をボンヤリ眺めながら。勿論 野球帽を脱ぎ、禿げた頭頂部を強い陽光がチリチリさせていたが 清々しい風で寧ろ心地よかった。そして偈頌を読み終えると両手を合わせて南無観世音菩薩を三十三回唱えた。目を開けて正座して海と仏像に向かって深々とお辞儀をした。するといつの間にか錦司の傍らに 誰かが居た。英語で話しかけられても応答不可能なのでそそくさとその場を逃れようとした。すると「オボウサンデスカ」という片言の日本語が錦司を捉えた。錦司はその声の主へ向き返り「いいえ 違います。私は僧侶ではありません。オボウサンじゃないです」と応えた。その声の主は意外にも若い女性だった。長い栗色の髪を風に靡かせ Tシャツにショートパンツ姿からは長い手足が伸び碧い瞳を眩しそうにして錦司を見詰めていた。彼女は「お経よんでましたから オボウサンだと思いました」というと恥ずかしそうに微笑んだ。錦司は「日本語お上手ですね」と言って会釈をして立ち去ろうとした。しかし若い女性は更に錦司に問うてきた。
「お経、何読んでましたか?」 錦司は 仕方なく
「法華経の観音様の部分、短いところを暗記、覚えているので。私はそれしか覚えていませんけど」
こんなことを言っても判ることもなかろうと思いつつ応えた。
「観音様のお経ですか」
日本語をたどたどしく話す美しい女性はそういうと
徐に両手を胸の辺りで合わせ錦司に礼拝した。錦司はギョッとした。
自分はオボウサンではないのでやめてくださいと照れ笑いしながら
その場を逃げ出した。錦司の背中に「ありがとうございました!」という声が追っかけてきた。振り返ると美しい女性が手を振って笑っていた。
錦司は恐縮してペコペコしながら小走りで丘を越えた。
丁度トラムが停車していたので飛び乗った。そして野球帽を脱いでいたから坊さんと間違えられたのだろうと思った。
ロビー近くの停車場で降りて館内の通路を散歩した。
それにしてもこのホテルは仏像だらけだと思った。
インドの仏像に混じってヒンドゥー教の神様のレリーフが在ったりした。
錦司は 未だチェックインまで時間が在ったのでイルカが居るラグーンに向かった。イルカは人間相手から解放されてラグーンで突然水中から空中に跳躍したりしていた。
錦司は 明日、自分もあのイルカと遊ぶ予約をしたけど
グレイスキンの御用とやらがその時間帯でなければよいなと思った。
ラグーンの裏手の丘に上がって海を暫く眺めたあと
地下一階の日本語コンシェルジュの居るロビーに向かった。すると日本人女性のコンシェルジュから声を掛けられ
「少し早いですけど もうお部屋の準備はできていますのでご案内します」
そう言われてホッとした。手荷物を持って一階に戻り正式になったカードキーを首から下げてトラムに乗って説明を受けた場所で降りて 部屋に入った。冷房が効いた部屋には キングサイズベッドが在り どこもかしこも
錦司の住んでいる日本の小さなマンションより広くて大きかった。
そしてサッシ越しに見渡すとさっき自分が観音経を読誦した場所が見えた。歩いて5分ぐらいのところだった。
日本語版・ホテル内の施設地図を見るとあの仏像が在るところは
ブッダポイントだと知った。シャワーを浴びてサッパリした後
錦司は 転寝した。
グレイスキンが 目覚めた錦司の視界に現れていた。夕陽を眺めながら窓辺近くのロッキンギグチェアーに身を預けて揺れていた。
「お目覚めですか」
グレイスキンは振り向きながら言った。錦司はベッドに胡坐をかき両手を伸ばして欠伸をした。彼にとってこの異星人製サイボーグは戦友だった。
未だ数回しか遭ってもいないのに 随分長く前から知っていたような気がしていた。グレイスキンは 「昼間 観音経読んだね」と訊く。
錦司は「ハイ 読みました。ついつい読みたくなってしまって。問題ありましたか?」と訊き返した。
グレイスキンは「オッサン・・・とんでもないことを・・・」と言ってため息ついた。
錦司は意外な反応にギョッとした。 ええっと言いかけると
グレイスキンは 椅子から立ち上がり錦司に歩み寄り
「とんでもなく素晴らしいことを俺のミッション告知前にしやがって!」と言うなりベッドに飛び乗り笑っていた。
「なんだ よかったのか」と錦司はグレイスキンに向かって呟いた。
仰向けに寝たグレイスキンは両手で後頭部を支えて
「ええ よかった。此処での使命は完了ともいえるのだけど まぁ明日はこのぐらいの夕刻にもう一度してください。朝起きたら この部屋でも 一度読んで下されば更に素晴らしい! この島でのミッションは完了!」
そしてオアフ島のホノルルに着いたら そのホテルから近いロイヤルハワイアンセンターにある日本の旅行代理店の支社を見つけて翌日にはワイキキの逆方向にあるカネオヘ湾で海中散歩をして 海の中で南無観世音菩薩を三十三回唱えてくれという指令を伝えた。
「ワイキキのホテルにも日本語サービスコンシェルジュが居るからその人に旅行代理店の場所が描いてある地図を貰えばいい」
そう言いながら立ち上がり
「とても綺麗な女性から拝まれていたじゃないですか」と笑った。
「君はなんでもお見通しだったんだね」錦司はそう言い、できればもう少しお喋りでもしていかないかと言いたかったが グレイスキンが帰り支度の猫皮を取り出していたので諦めた。
ただ「今度はいつ指令しに来るですか?」と訊いた。グレイスキンは錦司を見詰めて
「これが最後です」 そう言って照れ笑いのような戸惑い隠しをしていた。
「そうか じゃあ もう少しお喋りしていきませんか」錦司は 掠れた声で呟いた。
グレイスキンは分ったと言って猫皮を仕舞い
「とりあえず 夕飯でも買ってきなさいよ。留守中に居なくなったりしないから。待っているさ」そう言うとため息をついて笑った。
錦司は促されるまま 夕飯を買い込んだ。グレイスキンが何も食べないのは知っていたがつい2人分のスパムおにぎりを買い アサイーボウルもコンビニで買って帰った。部屋を開けると グレイスキンが居なかった。錦司は呆然とした。嘘つきだなと呟くと
彼の足元に猫姿になったグレイスキンが「誰が嘘つきなんだよ」と日本語で話しかけていた。錦司は満面の笑みを湛えていた。猫姿をしてグレイスキンは錦司と話し続けた。
数時間話しているとすっかり夜の帳が降りていて 満天の星を共に見上げた。サッシを開けると小さなバルコニーの上空から母船に向かう猫姿になった時に遣うフリスビーサイズのUFOがスッと現れた。そして異星人製サイボーグは猫姿のまま超小型空飛ぶ円盤から発せられる光線に包まれ 上昇した。
「また会える日も来るさ」という声がした。その瞬間あの顔が錦司の視界に一瞬、現れた。そしてあっという間に消えていた。上空にボンヤリとしている雲のような影に小さな発光体が吸い込まれていった。
「さよなら 俺にとって生まれて初めての親友 」と呟き 錦司はそっと指で目の辺りを拭った。眠れるかなぁと思いつつ彼は寝返りを2回打つと泥のような眠りに落ちた。目覚しをかけるのも忘れたが 錦司は6時には目が覚めた。10時頃にはグレイスキンが帰って行くのを見送ったから充分な睡眠を取ったわけだ。歯を磨き 錦司は約束通り観音経偈頌だけでなく本文も読誦した。サッシを閉め切って結構大きな声で読み上げた。人生で初めて出遭った友、グレイスキンに届くように。そう願い込めて読んだ。
そして錦司は欧米の子供たちと一緒にドルフィンクエストというイルカと触れ合う このホテルの売り物の一つであるアトラクションに参加した。勿論大人たちだって参加できるがその日は 大人は錦司だけ。正確に言うと錦司より顔一つ背が高い十七歳の米国人少女がスラリとした肢体で大人びていたが 彼女は未だ少女だった。錦司も彼女も救命胴衣など必要ない浅瀬で幼稚園児ぐらいの子供たちとお揃いのオレンジ色の空気入りベストを着用していた。英語が全く駄目な錦司にインストラクターの事細かな注意事項や指示を通訳してくれたのは ポニーテイルにしていたので 錦司は気が付かなかったが昨日のブッダポイントで錦司に話しかけてきた若い女性だった。
彼女は人懐っこい性格らしく錦司に片言の日本語で話しかけてくれた。
ドルフィンクエストが始まる前に
「マリオン=デュカシィス・ディアンターレです」と自己紹介し握手を求めてきてくれた。
錦司も「マイネームイズ キンジ クラハシです」と背の高い十七歳の少女と握手していた。マリオンは幼い頃から日本のアニメと仏教に強く魅かれて 日本語を勉強していること、ニューヨークから来たこと、京都や奈良にも去年寺社巡りをした事を話してくれた。イルカとの触れ合いを楽しみながら錦司は こんな不思議な出遭いなど全く予想もしていなかったので
グレイスキンとの嵐のような出遭いと別れにひどく落ち込むこともなかった。イルカたちのいたずらっぽい眼差しを見ている時 不図 グレイスキンが思い出されて小声で「又会いたいよ グレイスキン」と呟いたけれど。
錦司がハワイ島でイルカと遊ぶ日の夜明け頃。
オアフ島・ホノルルのチャイナタウン近くにある一軒家、そのウッドデッキにグレイスキンは猫姿で現れていた。ウッドデッキのテーブルセットに
グレイスキンは猫姿のまま 寝そべって欠伸をし、ついでのように口を開け「アキラぁぁ ちょっと用があるんだ」と日本語で言った。
すると家の中から マグカップに珈琲を淹れて背の高い天然パーマの黒髪に浅黒く痩せて引き締まった体をした中年男、花木明が現れた。ホリの深い精悍な顔つきが 灰色の猫に近づくと 悪戯小僧のような子供っぽい表情になっていく。
「おう 久しぶりだね。こんな朝早く」 花木明は喋る猫を怪しむことなく旧知の仲らしくグレイスキンの近くにあるベンチに腰かけた。グレイスキンは明を見上げて
「明日さ アキラがやっている海中散歩に57歳の日本人、倉橋錦司という人が 明後日の予約するんだけど彼が海中散歩する時に アキラが傍にいて見守ってほしいんだ。彼にちゃんと海底に正座させて
南無観世音菩薩を三十三回唱えることを やらせてほしいんだ。
これね 君みたいな科学者は莫迦にするかもしれないけど
かなり大事な 言霊、つまり造化の妙の視点からすれば
君が信奉する科学と同じぐらい宇宙的な真実だから 頼みますよ」
猫姿のままグレイスキンは前足と後足伸ばしを交互にしていた。
アキラこと花木明は 決して莫迦にはしないよと呟いていた。 続けて、「歳差運動早まる傾向にあるの? 10年ぐらい前倒しとか・・・君らの観測結果は未だ僕には 内緒かい?」
猫姿のグレイスキンをちょっと睨むようにして言った。猫がよくやる身震いをして異星人製サイボーグ・グレイスキンは
「 つまり 明後日の海底での南無観世音菩薩33回が 歳差運動の前倒しを抑止 いや この惑星、地球さんの瞋恚(おいかり)を宥める事は確かだよ。仏教・・・というか法華経というのは宇宙論だって話をしたよね 君にも」猫姿でそう言われても上から目線な感じがしない。
但し元国立天文台職員としてハワイ島で観測活動をしていた花木明は 少し吹き出しそうになる。 彼はマウナ・ケア天文台で観測している時グレイスキンの訪問を受け その数回目の遭遇時に彼から講義を受けた内容を思い出してこう言った。
「ハイハイ 覚えているよ。我々人類がジャンクDNAと呼んでる部分のランダムな塩基配列を 漢訳観音経を音読した際に出る日本語の母音によって規則をもたらすと二重螺旋構造体になり、それが 造化の妙、宇宙の意志、日本で古来より言い伝える言霊 そのものになる という如何にも科学的は言説を僕は忘れてはいませんよ フフフ」
と少し皮肉まじりに言った。花木明は この異星人製サイボーグとの邂逅によって地球の歳差運動について警告する活動を始め その際、異星人コンタクティーを告白してしまって国立天文台職員の職を失い、米国のエージェントからも脅迫に近い警告を受けたことがある。
花木明を自分たちの活動に巻き込み過ぎたことを異星人たちは大いに後悔した。それゆえ 都度事あるごとに花木明を擁護する活動もしていた。
彼らが造った猫の姿にも変容するサイボーグを遣わして。
サイボーグは ため息をついた。
「君の人生を台無しにした事をボスたちは今でも詫びているよ」そう言った。
アキラこと花木明は
「別に台無しになどなっていないから 歳差運動の観測結果はもっと頻繁に報告してほしいとボスたちに伝えてくれ。それに 国立天文台職員をクビになったのは 僕の軽率さからだ。言わなくてもよいことを ツイートしてしまった。それらは君たちの過失じゃないだろ?」
猫姿のグレイスキンは揃えた前足に顎を乗せて頷いていた。
「じゃあ 錦司さんの事を頼んだよ」ポツリと言い添えた。ああと明は応えた。お安い御用だ。
日が昇りはじめた空に一条の光跡が煌めきそしてスッと消えた。
珈琲を飲み終えると彼は彼が現在就いている職業を果たすべく
ホノルル中心部にあるオフィスに向かう。シャワーを浴びて半分同棲している15歳年下の女性を起こし 彼女が身支度を済ませると彼女を車に乗せ、
彼女が勤める会社の前で降ろし自分が勤めるオプショナルツアー専門のオフィスへ向かう。
一方、ドルフィンクエストを終えて 錦司は自室に戻ると 朝食バイキングで食べきれずに持ち帰ったバナナとオレンジやサンドイッチを冷蔵庫から取り出し食べた。そしてベッドで一眠りすると シャワーを浴びて昨夜グレイスキンから聴いた法華経講義のような内容を手帳に粗く書き留めていたのを 眺めながら頭の中で整理し、改めて記憶を頼りにまとめ始めていた。
イルカとの触れ合い、日本語を学ぶアメリカ人の美少女との出会い そんな心踊るような出会い は 人を向学的にする作用があるらしい。 錦司は以下のように 異星人サイボーグから聴いた事を箇条書きにした。
○ 法華経は釈尊最晩年の教えであり 仏陀として人類に説いた宇宙論であること
○ 法華経の観世音菩薩は他のお経に出てくる観音様とは少し違う。寧ろ法華経の観音様は 異星からやってきた妙音菩薩が地球上で菩薩行を為す時の菩薩の姿。
○ 法華経独特の時間描写や事象の無限性に関する繰り返しは 人類に宇宙論を説く為にしたが 科学者ほど丁寧に読み解くべきだろう。
○ 妙法の蓮華とは誰しもが生まれ持っている七つの蓮華=チャクラ其々を意識的に活動させ 外側に在る蓮華=チャクラの連なり、つまり宇宙を成り立たせている この大宇宙の恵みと美と力の美座を織りなす造化の妙なる流れと共鳴させるための行法のことである。その行法とは荒唐無稽な法華経の意味内容を理解することではない。大切なのは ひとり一人、自分の想念を用いてイメージし 法華経に身も心も委ねてしまうこと。法華経の寓話(ファンタジー)は 生活規範ではない。人生哲学でもない。ひとえに 造化の妙を自分なりにイメージし感じさせるために説かれたのである。このイメージトレーニングはどんな行法よりもやり易い。瞑想法などの困難と危険を伴う行法より誰でもできる。そして誰しもが生まれつき予め内包されている蓮華=チャクラの連なりを二重螺旋構造つまり遺伝子構造にまとめ上げるイメージを法華経の幻想物語を読んでいるだけで想念に描くことができるようになる。そしてその二重螺旋構造に生じる上昇気流に自分の思考と感情が沿っていく。結果として 人は因果の法則から捕らわれることから逃れられる。すなわち 【斥力】。重力における引力と真逆の力を想念活動に獲得し 因果から浮き上がる。つまり 執着から離れられることになる。
セキリョクってなんだ?二重ラセンコウゾウ・・・なんか聴いたことはある。錦司は異星人が造ったサイボーグが語り続けた噺を殆どカタカナ混じりで手帳に書きつけていたが、要するに 妙法蓮華経は宇宙論なんだということ、法華経に出てくる観世音菩薩は 妙音菩薩という別の星だか宇宙からやって来た仏のことだということらしい。つまり人類よりも進んだ科学を持つ異星人にとっても大納得する内容が書かれているということなんだろう。
錦司はそう理解できたことを書き加えた。そして自宅に戻ったら早速 碧い装丁の法華経大全という現代語訳を読みたいと思った。
腹ばいになってハワイのリゾートホテルで自分がこんな事をしている不思議さにウットリしながら イルカと遊び、美しい少女が自分の近くで輝く笑顔を弾けさせていた光景を少しの間 微睡に揺蕩わせていたが そろそろ夕陽が世界を支配し始めていたので グレイスキンの指令通り 観音経偈頌を読誦した。橙色に錦司も染まり、床に座った。サッシ越しに見える海に向かって背筋を伸ばした。あの仏像が結跏趺坐する後姿が 遠く 錦司の視界に在り なんとなく心強さを胸に感じさせてくれた。
和食レストランでの夕食後 魚の形をした灰皿がレストラン近くにも在ったので錦司は 一服した。空は紺色と漆黒がせめぎ合い 満天に金銀の星を湛えていた。紫煙を燻らし
「俺たちは 宇宙に存在しているんだ。この地上時空だって予想もしないような出来事が突然起こったりする。当然だよ。宇宙なんだもの
俺たち人間が拵えた仕組みや制度なんて宇宙の法則からしたら
無意味に近いかもしれない。それでも宇宙はこの星にあのマリオンちゃんのような美しい存在だって顕しておられる。不可思議。まさしく不可思議 」と初老とも呼ばれうる男は観音経偈頌に出てくる漢語を繰り返す。
すなわち 思議ス不可(べから)ズ。宇宙は実在している。
だが人間たちは 棲息させて貰っている星のことも殆ど理解できていないくせに、無益な戦争をしたり 環境を破壊し 他の種を絶滅させたり
思い遣りのかけらもない。
この星が感情も思考も持っていないと決め込んでいる。それよりも大切なのはカネという自分たちが拵えた価値に狂ったように群がり、殺し合い 諍い 絶望を勝手に捏造し 憎悪だけが感情だと言い張る。その一方で 自分のような世間の片隅でうずくまっていた何の取り柄もない男が ただ観音様に縋りつき しがみ付いていたというだけで 他の星からやって来た誰かさんに見つけられてこうして金持ちが集まる場所で夕飯の味にいちいちケチをつけ、支払に困らぬとはいえ 不機嫌な気分を野放しにする。1か月前の自分なら想像もつかないような生活をしている。
錦司は頭を振った。あの宝くじの当選金を使って自分がこんな生活を愉しむだけでいいわけがないだろう と。
あの業突張りのヤクザな兄からカネを護るようにコソコソ生活していくだけじゃつまらない。だからといって何ができると言うのだろう。それこそ僧侶になるためにあの金を使ったほうがいいのかもしれない。そしていつかマリオンと何処かの古刹の住職として再会する・・・・そんなおめでたい妄想に行きついた瞬間、流石に背筋がブルっと震え 恥ずかしさに襲われ 煙草を急いで灰皿に もみ消した。
次の朝 錦司は早々と荷物をまとめた。イルカに挨拶でもしたかったが コナ空港へ向かう車の出迎え時刻に急き立てられ チェックアウトした。 残念ながらあの美少女と偶然のように出遭う事は無かった。
朝の陽光に洗われた溶岩群は 古代の生物の亡骸にも見えた。この星、地球の怒りかもしれない 悲しみかもしれない 溶岩とはそういうものなかもしれない。錦司は感傷的な気分で眺めた。ハワイ島を離れる時 上空から眼下で小さくなっていく初めて訪れた島に無性に懐かしさを覚えていた。
ホノルルに着き ワイキキビーチ沿いにあるアウトリガーチェーンのホテルに向かう送迎サービスで数名の同乗者たちと生まれて初めてリムジンに乗った。
ホテルに着くとグレイスキンの指示通りに日本語コンシェルジュに行き 手荷物を預かって貰って ワイキキとホノルルの日本語版マップを手に入れ グレイスキンが言っていた日本の旅行代理店の所在を訊いた。ホテルを出て信号を渡って道なりに数分で目的の場所に着くと教えてくれた。ロイヤルハワイアンセンターのB館。兎に角明日の海中散歩ツアーの予約をしたらブラブラするかと街に出た。流石にハワイ島とは違って 日本人も多い。そして目的の旅行代理店に着き カウンターで海中散歩ツアーについて尋ねた。すぐさま係の女性が早口で説明してくれた。申し込み用紙に記入し、クレジットカードで支払った。明日の11時に迎えの車がホテル前に着くので15分前には錦司が宿泊しているホテルのロビーで待っていることを 繰り返し念を押された。
そして翌日。迎えの車を待った。彼の名前を呼ぶ方を見て一瞬錦司は固まった。 その声の主が あの兄だった・・・・
わけもなかったのだが 恐ろしいほど他人の空似だった。薄汚い四輪駆動車に 数組の新婚カップルと共に乗せられてワイキキから一山越えて
カネオヘ湾へ向かった。兄によく似た六十代のオッサンが運転し どうでもいい観光ガイドをボソボソするが 錦司以外誰も相槌すら打ってあげない。そんな無反応など気にもかけず運転を続ける姿が憐れでもあり 実の兄よりも余程真面な人間だろうなという感慨を懐いた。ただ下手くそな口笛で聴いたことが無い単調な曲を吹いてハンドルを指で叩いてリズムをとる癖が 同情的だった錦司ですら忌々しく、観光ガイドには無反応だった新婚カップルの誰かが 気味悪いと囁いた。女の声だった。錦司は苦笑いするしかなかった。どっちもどっちだよ。自分の無作法は気にならないという点で。 フリーウエイをひた走り カネオヘ湾に着く。辺鄙な漁港のようだ。
ただ 湾を抱え込むようにそびえる山々は まるでつい最近、海から隆起したばかりのようにのっそりとそそり立っていた。茶色い山肌に深い緑の森が鬱蒼と生茂る。ハリウッドの有名な恐竜映画のロケ地になったという説明に錦司も感心した。そして遠浅の白いサンドバーと呼ばれるサンゴ礁が寄り集まってできた干潟は白く輝き手前の海や沖合の海と全く違った色合いで 光沢に溢れた、絵具の名称で言えば水色をしていてた。すると沖合からいきなり米軍の戦闘機が低空飛行で飛び立っていく。ガイド兼運転手の爺さんが海兵隊の基地が近いからねと呟いた。そう言い終ると彼は自分の仕事は終わったと言わんばかりに 連れてきた客をボートで浅瀬近くに碇泊する船に運ぶ役割を担う若者達に任せると バラック小屋のような食堂に 入って行った。錦司たちは数名に分かれて救命胴衣を着け 数台のモーターボートに乗せられ 碇泊中の船に向かった。クルーザーというより中型漁船のような船に待ち構えていた米国人らしい男やハワイ系の若者に次々と腕を引っ張られて乗船した。デッキへ上がると日本人女性が名簿を見ながら客をチェックし 錦司も 甲板奥の部屋でグループ分けされ 海中散歩や潜水コースにおける耳抜きの仕方を教わった。錦司は海中散歩コースメインだった。水深八メートルの海底で 酸素を海上から送り込むヘルメットをかぶる際 自分で海底に降りていくまでに何度か耳抜きをしなくてはならなかった。参加者の中で際立って高齢でどんくさそうな錦司に女性トレーナーは何度も念を押し、表情も少し怖かった。すると よく日に焼けた中年の日本人男性が参加者一同に対して挨拶し、これから始まる愉しいマリンスポーツ体験における注意事項を嘗て参加者がしでかした失敗談をユーモアたっぷりに話し 参加者の緊張をほぐしつつ 慎重さを求めた。
「ちなみに 私はこのツアーの責任者 花木明です。どうぞたっぷりとこの天国の海と呼ばれるカネオヘ湾の珊瑚でできたサンドバーで愉しいひと時をお楽しみください。そのお手伝いをさせて頂く我々チームブルックスのメンバーは こいつらです」と並んだトレーナーの面々をサラリと紹介した。
そして錦司は名前を呼ばれて早速 サンドバーと呼ばれる珊瑚でできた不思議な浅瀬に船からカヌーに乗って向かうことになった。其々オールを一本手にして座り 声を合わせて漕ぐ。紺碧の海を掻き分けて白い珊瑚の浅瀬に向かう爽快感を錦司は若い新婚カップルたちと一緒に声を上げ 自然に湧き出てくる歓びに満ちた笑顔を溢れさせていた。禿げた頭頂部にそよぐ風のなんと優しく心地よい事か。カヌーがサンドバーに着くとトレーナーが飛び降り とも綱を杭に結ぶ。そして前から一人ずつ飛び降りる。最後尾に居た錦司を筋骨隆々のトレーナーが怖がらずに と声をかける。錦司は運動神経の無い方だったが迷わず跳躍した。しかし後ろに残った足の甲をカヌーの縁に引っ掛けて着地した途端前のめりに倒れ、右足の膝小僧を打った。慌ててトレーナーが寄ってきて抱き上げてくれたが 錦司はそれを断り独力で立ち上がり大丈夫だという仕草をしてみせた。そして暫くの間各自思い思いに白い珊瑚礁の浅瀬を散策した。ウミガメが近づいてくることがあるとトレーナーが英語で教えてくれたらしく 錦司は その事を近くに居た新婚カップルから聞いた。ハワイ島でイルカのラグーンで遊んでいる時に間近を泳いでいたので錦司はさして興味も持たなかったが 此処へ来るまでの自動車の中ではよそよそしかった彼らが妙に親切になっているので 錦司はなんとなく嬉しくなり 教えてくれた事に礼を述べた。浅瀬の静かな水面に錦司は横たわり大の字になった。とても浅いから浮いた体は沈みがちになる。救命胴衣のお蔭でなんとか尻を白い珊瑚礁につかせて空を眺める。
「あぁ 俺は本当に天国に来ちまったらしい」 そう叫びたかったが
流石に若い者達に混じって気を若くし過ぎた爺が調子に乗り過ぎだと自重した。そして起き上がり、歩き回り 不思議なサンドバーの砂時計に入っているような白くて軽い砂を掬って飽きることなく感嘆の声を上げた。
軽やかで透明な水色と対照的な濃い紺碧の海が周りを重々しく囲んでいた。 深い海の上では水上スキーや水上バイクに興じる者達が歓喜の声や笑い声のような悲鳴を上げていた。錦司は船に戻ると 海中散歩の前に時間があるからシノーケルもしないかと 花木明から問われるが 自信が無いので断った。
「しかしあの珊瑚礁の上は なんだか仕合せな気分になってしまいますねぇ」と錦司は相好を崩し 花木に話しかけた。
花木は 笑顔で応えながら この人にグレイスキンの事を話してもいいのだろうかと戸惑っていた。グレイスキンとそのボスたちがどうしてこの普通のおじさんにミッションを与えたりしているのか訝った。
「倉橋さん ひょっとしてお寺の御住職でらっしゃるとか?」
突然 花木から変な質問をされて 錦司は驚いた。マリオンからもそう訊ねられた。錦司は自分の頭を叩きながら
「どうもこの禿げのお蔭で 間違われますけど いやいやただの しがないオジサンですよ 」と笑った。
花木は苦笑しながら 待っている間によかったらドーナツやポテトチップスを抓みながら珈琲でも と 船室を指さして勧めてくれた。
錦司は 花木に「海中散歩の際に 僧侶ではないんですけど 私ね、海底で正座して1分ぐらい合掌してみたいのですが そんなことしたら 危ないですかね」と訊ねた。
今度は花木が驚いていた。やっぱりグレイスキンとこの人は遭っている。
そう確信した。
「なるほど。それじゃあ倉橋さんが海中散歩する時は私がトレーナーとしてご一緒しますよ。1分ぐらい大丈夫です。どうせ海中で魚たちにパンをあげる遊びをします。その時皆さん 海底で座って頂くので」そう笑顔で言った。錦司は安心し礼を述べて船室に向かった。
花木明は グレイスキンについて話し合える数少ない人間との遭遇に少し興奮していた。あの不可思議な体験をしているのは 自分だけじゃないんだ。そんな共感が心の中でざわざわしていた。
花木が数名の名前を呼び 海中散歩へ出かけるグループを集めた。錦司も加わり モーターボートで向かう前に今一度 海中に潜水しながら各自潜水用ヘルメットの下から片手を入れて耳抜きをするために鼻をつまみ、息を込め、鼓膜を動かして調整すること、緊急事態をトレーナーに知らせるための簡単な指のサインを確認した。沖合にある海中散歩専用の筏に乗り移り 順番にウエットスーツを着用し潜水用ヘルメットを頭からかぶる。筏の上に設置された巨大な酸素ボンベから繋がるホースがヘルメットの頭のてっぺんに繋がっていてそこから送り込まれる酸素によって海中で全く呼吸の心配は無い。一人ずつ筏から海底に向かう梯子をゆっくり下りていく。海底といってもサンドバーに近い珊瑚礁の白い砂が横たわる美しい場所だ。水深も八メートル程度だったが 錦司も海底に向かう途中 首まですっぽり覆う潜水用ヘルメットの顎あたりの隙間から片手を突っ込み 鼻をつまんでしきりに鼓膜を動かして調整した。 ゆっくりと海底を歩く。自分の出す呼気がヘルメットの隙間から泡となり昇って行く。透明な水色とグリーンが混ざり合う今まで見た事の無い世界が広がる。夥しい数の黄色い魚や白い魚が次々と海中散歩者たちを取り巻く。竜宮城ってこういうことかね と呟いても聞こえるのは泡の音だけ。トレーナーとして参加した花木の指のサインで皆 海底に座り、其々に食パンが配られる。すると其々の手から魚たちがパンを求めてかわるがわる啄み始める。花木は錦司の傍に寄ってきて胸の前で合掌をしてどうぞと言ったような仕草をしたので 錦司は正座してグレイスキンと約束した南無観世音菩薩を33回唱えた。更に海底に両手を着いて少し頭を垂れてありがとうございますと言った。その御礼は花木に対してしているようでもあり、自分にこの使命を与えた異星人とそのサイボーグ、グレイスキンに対してしているようでもあった。そして魚の餌付けが終わると更にデジカメで撮影会が始まった。錦司は 観世音菩薩普門品偈頌を早口で読誦していた。
今までの人生に無い光景に対しての畏敬の念を表す為に 実行可能な唯一の行いをしたのだ。そして海中散歩がおわり、筏の上に戻るとそろそろ頭上に君臨していた太陽も橙色を帯びて傾き始めていた。
船に戻り 沖合から港を目指すと一頭の大きなウミガメが船の間近を追うように泳いでいた。甲板で皆がはしゃいでいた。花木が錦司の傍に来て
「これは結構珍しいですよ 船を追いかけて来るなんて」と言った。
誰かが「ウミガメは幸運をもたらす神様の使いだって」そう叫んだ。
錦司はそうなんですかと 花木に訊ねた。花木はニッコリ笑って頷いた。
錦司はその笑顔に激しく懐かしさを覚えて はて この人と何処かで?
そう記憶を手繰ろうとしつつ笑顔で応じた。花木も同じような想いを錦司に対して懐いていた。
そんな花木明と倉橋錦司の足元に いつの間にか一匹の灰色の猫が行儀よく座り、二人を見上げるようにしていた。二人は同時に猫に向かって
「グレイスキン!」
と叫び、次の瞬間 二人は顔を見合わせていた。
この後、二人が錦司の宝くじ当選金を元手にしてココナッツオイルと
マヒマヒやスパムを使ったソース焼きそば《ハワイアンヤキヤキ》によって成功することになる。
それが 異星人の指令かは 定かではない。
《終》
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