短編小説:お爺ちゃんが守りたい井戸【前編】
二世帯住宅の計画を止めた、敷地の真ん中にあるもの
ある家族から、二世帯住宅の設計を依頼された。
今は古い母屋に暮らしている両親と、その近くでアパート暮らしをしている息子夫婦。子どもが小学校へ入学する前に、実家の敷地へ戻り、三世代で暮らしたいという相談だった。
親世帯と子世帯の生活空間は基本的に分ける。
玄関もキッチンも浴室も、それぞれに設ける。ただし、完全に分離するのではなく、困ったときにはお互いに助け合える。
最初の打合せでは、家族全員が新しい暮らしを楽しみにしているように見えた。
ところが、敷地を確認した私は、一つの大きな問題に気づいた。
敷地のほぼ中央に、古い井戸があった。
もう使われていない井戸
井戸は、立派な石積みで囲まれていた。
聞けば、何代も前からこの家にあるという。かつては飲み水として使い、野菜を洗い、夏にはスイカを冷やしたそうだ。
しかし、今では家族全員が水道水を使っている。
井戸には蓋がされ、日常生活で使われることはほとんどない。
子世帯にとって、その井戸は、これから建てる家の計画を難しくする存在だった。
敷地の中央にあるため、建物を素直な形で配置できない。井戸を避ければリビングが狭くなり、親世帯と子世帯の動線も複雑になる。
小さな子どもがいるため、安全面の心配もあった。
息子さんは、遠慮がちに父親へ伝えた。
「もう使っていないんだから、今回を機に埋めてもいいんじゃないかな」
その言葉を聞いたお爺ちゃんの表情が、一瞬で変わった。
「私の代でなくすわけにはいかない」
「この井戸は、お前が生まれるずっと前から、この家にあるんだ」
お爺ちゃんは静かに話し始めた。
戦後の水道が十分でなかった時代も、災害で断水したときも、この井戸が家族を支えてきた。
自分の父親からも、「この井戸だけは大切にしろ」と言われてきたという。
「今使っているかどうかの問題じゃない。代々守ってきたものを、私の代でなくすわけにはいかない」
子世帯にも言い分があった。
これから何十年も住み続けるのは自分たちだ。使われていない井戸のために、間取りや安全性を犠牲にすることには納得できない。
「井戸を大切にしてきたことは分かる。でも、これから暮らす家も大切でしょう」
どちらの言い分も間違ってはいなかった。
だからこそ、話は簡単にはまとまらなかった。
井戸を避けたプラン
私は、井戸を残したまま建てられる案をいくつか考えた。
建物を井戸の片側へ寄せる案。
井戸を建物の外周に避けるため、細長い形にする案。
親世帯と子世帯の間に井戸を残し、二つの建物を渡り廊下でつなぐ案。
しかし、どの案にも無理があった。
一階の面積が不足したり、日当たりが悪くなったり、廊下が長くなったりする。建物の形が複雑になれば、当然、建築費も上がる。
子世帯は図面を見るたびに、少しずつ表情を曇らせていった。
「この家に何十年も住むことを考えると、やっぱり無理があります」
一方、お爺ちゃんも譲らなかった。
「井戸をなくすくらいなら、私は新しい家はいらない」
その日の打合せの最後に、お爺ちゃんは席を立ちながら言った。
「二世帯住宅の話は、もうやめた方がいいんじゃないか」
部屋の空気が凍りついた。
子世帯からの電話
数日後、息子さんから私に電話があった。
「父とは、あれからほとんど話せていません」
二世帯住宅を建てる理由は、両親を説得して自分たちの理想の家を建てることではなかった。
高齢になっていく両親の近くで暮らし、子どもたちにも祖父母との時間を持たせたかった。
このまま井戸のことで家族が離れてしまえば、何のための二世帯住宅なのか分からない。
息子さんは、少し間を置いてから言った。
「井戸は残します。父の言うとおりにします」
しかし、その声には諦めがにじんでいた。
そして、最後にこう続けた。
「ただ、井戸を残しながら、私たちも納得できる家にする方法は、本当にないのでしょうか」
私は、これまで描いた図面を机の上に並べた。
どれも、井戸をどう避けるかばかりを考えたプランだった。
井戸を残すのか、なくすのか。
親世帯を優先するのか、子世帯を優先するのか。
私は知らず知らずのうちに、どちらかを選ばなければならないと思い込んでいたのかもしれない。
「もう一度だけ、ご家族全員のお話を聞かせてください」
そう答えて電話を切った。
次に考えるべきなのは、井戸をどこに置くかではない。
お爺ちゃんは、井戸の何を守りたいのか。
子世帯は、何を失うことを恐れているのか。
その答えを見つけなければ、新しい図面を描くことはできないと思った。
【後編】につづく
