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平将門を調べてみたら、東国武士の始まりが見えてきた


はじめに

東京・大手町のオフィス街にある平将門首塚。
「将門」と聞いて私が思い浮かべるのは、その首塚と、教科書に書いてあった「平将門の乱」くらいでした。

けれど、平安時代の関東(当時は坂東=ばんどうと読んでいたようです)がどんな場所で、そこにどんな人々が暮らし、どうして武士が力を持つようになったのかは、正直よく分かっていませんでした。

いろいろみてみると、「将門の乱」の戦いそのものではなく、東国の武士は、なぜ関東で生まれたのかがとても気になり始めました。

気になったことを自分でも調べてみると、平将門という一人の武士の話だけではなく、その後の源頼朝による鎌倉幕府、さらに徳川家康が江戸に幕府を開くことへと続く、大きな歴史の流れが少し見えてきたような気がしました。

そもそも、なぜ関東に武士がいたのだろう?

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、千葉氏、上総氏、三浦氏、畠山氏、和田氏など、多くの坂東武士が登場しました。

ドラマでは彼らが当たり前のように活躍しています。でも、改めて考えると不思議です。
平安時代の都は京都。政治も文化も京都が中心でした。それなのに、鎌倉幕府が誕生します。どうして武士は京都ではなく、関東でこれほど大きな勢力になったのでしょうか。私はまずそこが気になりました。

東国は「遠い地方」だった

いまは東京が日本の中心です。
しかし平安時代の都は京都。東国は、政治の中心から何百キロも離れた地方です。

朝廷が出した命令書である「太政官符」が、京都から東国へ届くまでに何か月もかかることでした。情報が勝敗を決する戦国時代と比べても驚きの遅さです。

命令が届くころには、現地の状況がすっかり変わってしまっていることも珍しなかったことでしょう。

国司だけでは、東国を治めきれなかった

朝廷は、各国へ国司を派遣して地方を治めていました。けれど国司は、数年の任期が終われば京都へ戻る役人です。一方で、その土地には何代も暮らし続ける豪族たちがいて,その中から各地に郡司という役人がいました。

土地の境界、水利、相続、婚姻など、その地域には長年積み重なった人間関係や利害関係のトラブルがあります。着任したばかりの国司が、それをすべて把握して裁くのは簡単ではありません。郡司は実務を担っていました。

それでも解決できない問題は、京都の朝廷へ訴状が送られます。朝廷は審議を行い、太政官符を出します。しかし、先に書いたように京都とのやりとりには時間がかかり、それが東国へ届くころには、現地ではすでに戦いが始まり、あるいは終わっていることさえあったようです。

調べているうちに、「東国の人たちは、自分たちのことは自分たちで守るしかなかったのだろうな」と感じました。

広い土地が、武士を育てた

もう一つ興味深かったのが、関東平野という土地です。茨城県や栃木県を中心とする関東平野は、日本最大の平野です。現在でも見渡す限り平野が広がっていますが、平安時代にはまだ開発できる土地が数多く残されていました。

田畑を切り開けば米が取れる。
馬を育てるにも適している。
広い土地を守り、開発し、ときには争いから一族を守る。
そうした役割を担う中で、武装した豪族たちが少しずつ力をつけていきました。「武士」が最初からいたのではありません。地域を守るために武装した人々が、後に武士と呼ばれるようになっていったのです。

平将門は、その東国武士の一人だった

平将門は、桓武天皇の子孫とされる桓武平氏の一族です。祖父の平高望は朝廷から上総介として東国へ赴任しました。任期を終えた後も京都へ戻らず、そのまま坂東に住み続け、その子孫たちも各地で勢力を広げていきます。将門も、そうした東国武士団の中で育った人物でした。

将門は最盛期には8,000騎を集めるほどの力があったと言われています。何代にもわたって東国に根を下ろした一族や、その配下の人々がいて、その上に将門という有力者がいたのです。
つまり、将門は突然現れた英雄でも、突然反乱を起こした人物でもありません。
東国で育った武士社会を象徴する存在だったのです。

身内同士の争いから始まった戦い

「平将門の乱」と聞くと、最初から朝廷に反旗を翻した大事件のような印象があります。
しかし実際は、そうではありませんでした。

将門が最初に争った相手は、一族の人々です。
叔父の平良兼、平国香、そして源護など、相手はみな東国で勢力を持つ豪族たちでした。

なにかの史料には最初の争いのきっかけとして「女論」という言葉が残されているそうです。詳しい内容は分かっていませんが、女性をめぐる争いだったとも、婚姻や相続に関わる問題だったとも考えられています。

現在の私たちから見ると不思議に思えますが、当時の豪族にとって婚姻は家同士の結び付きや土地の支配にも関わる重要な問題でした。つまり、将門の戦いは最初から「国を奪うため」の戦争ではなく、一族同士の争いから始まったのです。

朝廷も、すぐには動けなかった

争いが大きくなると、将門の側も相手方も,双方が朝廷へ訴えます。
「裁いてください。」
「相手を処罰してください。」
という訴状を書いて京都へ送るわけです。

京都と東国はとても遠い世界でした。
訴状が届く。
朝廷で審議する。
太政官符を作る。
それが東国へ届く。
その頃には、現地ではすでに新しい戦いが始まっていたり、決着がついていたりします。
おそらく、困っているから残業をしてでも早く返事を書く、という発想も京の役人たちにはなかったと思われます。

現地の人々からすれば、
「結局、自分たちのことは自分たちで解決するしかない。」
そんな考えになるのもごく自然なことだったでしょうこの距離の遠さが、東国武士の自立につながっていったのかもしれません。

「将門の乱」は、どこで朝廷への反乱になったのか

では、いつ一族の争いが「将門の乱」になったのでしょう。大きな転機になったのが、939年です。将門は下野国府、続いて上野国府を攻め落とします。国府は、朝廷が地方を支配するための行政の中心でした。

現在でいえば、県庁や裁判所、税務署などを合わせたような役割を持つ場所です。そこを占領したことで、一族同士の争いは、朝廷に対する反乱と受け止められるようになりました。

そして将門は「新皇」を名乗ります。
この言葉だけを見ると、天皇になろうとしたようにも思えます。しかし、これについては現在もさまざまな説があり、「東国の支配者としての正当性を示そうとした」という見方もあります。つくづく歴史は、教科書の一行だけでは分からないものだと感じました。

将門は敗れた。しかし東国武士は残った

940年、将門は藤原秀郷や平貞盛らとの戦いで討たれます。敵の放った矢が命中し、戦死したと伝えられています。こうして「将門の乱」は終わりました。けれども、東国武士の時代は終わりませんでした。

むしろ、ここから始まります。
将門と戦った平貞盛の一族も、叔父・平良文の子孫も、その後も東国で勢力を保ち続けました。平良文の子孫には、後に源頼朝を支える千葉常胤がいます。

『鎌倉殿の13人』で活躍したあの坂東武士たちも、将門の時代から続く東国武士の流れの中にいたのです。

なぜ坂東武士は頼朝を選んだのだろう

今回調べながら、一つ疑問に思ったことがあります。
『鎌倉殿の13人』には、千葉氏、三浦氏、上総氏など、有力な坂東武士が数多く登場します。
これだけ力を持っていたなら、誰かが自分で棟梁になってもよかったのではないでしょうか。

しかし彼らが選んだのは、伊豆へ流されていた源頼朝でした。頼朝は、源氏の棟梁であり、皇室につながる家柄を持つ人物です。
東国武士たちは武力を持っていました。
一方で、政権を築くためには「自分たちが正当に国を治める理由」、つまり名分も必要でした。
その旗印として、頼朝は最もふさわしい存在だったのでしょう。

将門もまた、自らの血筋を東国支配の正当性の一つとして語っています。
もちろん、将門と頼朝を同じように考えることはできません。
それでも、「東国を基盤に新しい政治を築こうとした」という流れの中では、どこか重なるものを感じました。

家康もまた、関東を選んだ

さらに約400年後、徳川家康も関東に幕府を開きます。
当たり前ですが、将門の時代とも、頼朝の時代とも、政治制度は大きく変わっています。

それでも、関東という土地を基盤に政権を築いたという点は共通しています。

『鎌倉殿の13人』最終回では、若き日の家康が,鎌倉幕府について書かれた歴史書『吾妻鏡』を読み、頼朝の時代に思いを巡らせる場面がありました。

家康が鎌倉幕府をどう研究し、江戸幕府づくりに生かしたのかは、また別の機会に調べてみたいと思います

平将門から頼朝へ。
頼朝から家康へ。
ふとした興味をきっかけに、東国武士の歴史が一本の流れとして少し見えてきた気がしました。

おわりに

はじめ、平将門といえば首塚と「将門の乱」くらいしか知りませんでした。

しかし調べてみると、将門は単なる反乱者ではなく、東国武士が力をつけていく時代を象徴する人物の一人だったことが分かってきました。

まだ分からないこともたくさんあります。
当時の坂東各地の具体的な様子はどうだったのか?
建物などの遺構があるのか?
「女論」とは何だったのか?
『将門記』にはどのように描かれているのか?
今も残る将門自身が残した書状には、どんな思いが記されているのか?
東国武士の歴史は、この後どのように鎌倉幕府へつながっていくのか?

今回のnote記事は、その入口です。
これからも一つひとつ調べながら、東国武士の歴史をたどってみたいと思います。





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