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成増~西高島平(東京都板橋区)de ブラspiritwind♪~東京の名湧水57選no15.不動の滝・東京大仏・赤塚植物園・赤塚氷川神社・板橋区郷土資料館 etc

2026.2.10 板橋区立赤塚植物園.不動の滝を見に行ってきました。ついでに周辺も散策♪


高円寺駅からは富士山や薄っすら白くなっている丹沢山系も見えていました。
池袋駅から東武東上線に乗り換えて・・・
おお!これは座りやすいシートですな。
冬は皆さん着膨れしていて窮屈なんですよね~。
成増駅・北口
成増駅
「成増アートプロジェクト」の一環で設置された抽象彫刻で、地元では“ツル”とか“鳥”とか“羽ばたき”みたいに呼ばれることが多い。作者が意図的に具体的な動物名を明示していないから、見る人が自由に解釈できるタイプの作品。だと、コパちゃん♪

成増駅の北口から「赤塚高台通り」を北上。なかなかアップダウンがあります。

なかなかレトロなレストラン 定休日でした^^;
南方向はこんな感じ。
高台へ登った後、今度は谷底へ。そこに湧水源がありました。

不動の滝(東京の名湧水57選no15)

板橋区内の崖下には、いたるところで水が湧いていたと。
富士山や大山に詣でる際の禊場だったようです、
不動明王さんですね。
ちょうど、滝の下方を睨んでいます。
不動の滝
う~ん・・・・チョロチョロと・・・流れているというより滴っている感じ。
右には石仏が並んでいました。

その後、すぐ近くの東京大仏へ。

東京大仏(浄土宗・赤塚山慶学院 乗蓮寺)

境内入口
右側の閻魔堂
地獄のエンマ様ですな。

閻魔王とは?
仏教における 地獄・冥界の王
死者の生前の行いを裁く存在として知られる。
インドの死者の神「ヤマ(Yama)」が仏教に取り入れられたもの。

by copilot
山門
平日でしたが、パラパラと参詣者が来られてました。

宗派は浄土宗。御本尊は阿弥陀如来。
室町時代の応永年間(1394-1428)に名僧・英蓮社了賢無的上人が、山中村(現在の板橋区仲町「専称院」の辺り)に草庵を結び、人々に浄土宗のみ教えを伝える為に創建。

乗蓮寺は、郷主・板橋信濃守忠康(文禄二年・1593年11月21日歿)の菩提寺になるなど人々から信仰を集めており、翌天正19年(1591)11月には家康より10石の朱印地を賜り、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となりました。
特に、寛保3年(1743)4月7日、浄土宗祖法然上人ご生誕の日に際し、八代将軍吉宗が鷹狩りの途中に参拝、雨宿りをしたのが縁となり、後に将軍の休息「御膳所」に指定されました。
第二次大戦中より戦後にかけて国道 17号線の拡張、環状6号線の開設、特には首都高速5号池袋線の建設により、寺域が半減するに至り、現在地、千葉氏の旧赤塚城二ノ丸に移転しました。

http://www.tokyo-daibutsu.com/様より
山門の仁王様
山門の仁王様
山門の境内側の多聞天像
山門の境内側の広目天像
本堂
本堂の右手の寿豊殿
十三重塔
十三重石塔は、供養・祈願・結界の役割を持つことが多い。
弁天堂
弁天様(市杵島姫命)ですね。
東京大仏
東京大仏

当寺の代名詞にもなっている「東京大仏」は、阿弥陀如来です。
第24世の住職・若林隆道上人の発願(作ろうと考えた)によって建立され、昭和52年(1977)4月11日に開眼されました。

隆道上人は、大正12年9月1日の「関東大震災」と昭和20年3月10日の「東京大空襲」を実際に体験された方でした。それらの犠牲者を供養するとともに、そうした「天災」や「戦災」が二度と起きないようにとの願いが込められています。

基壇からの高さは13メートル、頭部だけで3メートル。重さは32トン 。
完成したときには、東大寺の「奈良の大仏」、高徳院の「鎌倉の大仏」に次いで、日本で3番目の大きさでした。

http://www.tokyo-daibutsu.com/tokyodbts.html様より
がまんの鬼
役小角
鉄拐仙人
板橋氏は豊島氏の一族
天保飢饉供養塔
境内の石造物は駒込の津藩藤堂家江戸下屋敷のもの。
奪衣婆
文殊菩薩
七福神
福寿観音
鐘楼
大黒様

いや~、なかなか盛りだくさんのお寺でございました。楽しかったです♪その後、東京大仏の直ぐ近くの植物園へ。

板橋区立赤塚植物園

植物園入口
池がありましたが湧水ではなさそうですね。
案山子くん♪
けっこう、山野草が植わっています。これは花咲く時期には楽しめますね♪
キクザキイチゲの立て札も^^
開花情報
の地図がありましたよ。良く見たら・・・・
フクジュソウ
お~!福寿草ですわ^^
セツブンソウ
わお~~!節分草!まさかこんなところで出逢えるとは^^
スノードロップ
学名:Galanthus 科名 / 属名:ヒガンバナ科 / マツユキソウ属(ガランサス属)
開花時期が2~3月なので春を告げる花としても愛されています。和名:待雪草(まつゆきそう)
ロウバイ
こちらが原種のザ・ロウバイですね。地味な感じです。
中国原産・江戸時代初期に日本へ。
こちらはソシンロウバイ
栽培品種。
よい香りがしていましたよ。
いや~、なかなか良い植物園でした。
うちの近所にこんなところがあれば、毎日見に行くんだけどなあ。

その後、赤塚氷川神社へ。

途中に、こんな平屋が・・・。なぜか懐かしいんですよね~。
住んだことはないのですが、昔から妙に惹きつけられるんです。デジャブ?^^
シロネコちゃんと目が合いました^^

赤塚氷川神社

参道入口
扁額は「御霊神社・氷川神社」
参道を入るとすぐ左側に不動尊
宮前不動尊」となっていますね。
参道並木
境内は、区画整理で宅地化されたようですが、ここだけ残ったみたいですね。
こちらは2017.4に撮った写真 
境内前の鳥居
手水舎
拝殿

1457年長禄元年)、赤塚城城主千葉自胤武蔵国一宮氷川神社を勧請したという[1]上赤塚村の鎮守であった[2]

祭神は、素戔鳴尊と、藤原広継(嗣)命である[1]藤原広継命は明治以降に近隣の御霊神社を合祀したもの。素戔鳴尊はともかく、赤塚とは縁もゆかりもない藤原広嗣がなぜ祀られているのかは不明である。

摂末社:天祖神社・八幡神社・白山神社・御嶽神社・浅間神社・阿夫利神社・榛名神社・大国神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E5%8C%BA%E8%B5%A4%E5%A1%9A)より。
境内社
境内社
境内社 大黒天の石碑
境内社 八海山・御嶽山・三笠山の石碑
本殿
神輿庫と神楽殿
浅間神社・富士塚
富士塚・山頂
山頂では富士山は拝めませんでしたね。

その後、東側にある板橋区立郷土資料館へ。

板橋区立郷土資料館

入口
立派な郷土資料館でしたよ。
板橋区は南側に武蔵野台地、北側に荒川低地。その高低差は20~30m
台地の崖線の所々から湧水。
ナウマンゾウ化石
約8年前の下末吉ローム層から出土。
成増露頭地質標本
左は約12.5~40万年前(下部に貝の化石が集中)。右は約1.6~4万年前(立川ローム層)
動物の骨、貝、縄文土器(前期・後期)
板橋区内には目で見える古墳は残っていない。
縄文、古墳時代後期の痕跡はあり。
旧石器時代の石器は多数見つかっている。黒曜石も。
弥生時代の日本一の勾玉?(大きさ7cm)も。伊豆半島・長野の黒曜石の原石も展示されてました。
川沿いの台地からは貝塚。縄文早期~前期は台地近くまで海面が上がり、簡単に貝を採ることができた。
縄文時代の土器は、「ゆでるため」に作られたと考えられる。
弥生時代以降は、煮炊き用の土器として甕(かめ)が登場。
古墳時代中期には朝鮮半島から竈(カマド)が伝わる。
板橋区域が属していたのは武蔵国豊島郡を開発した桓武平氏秩父氏系の豊島氏
1478年、太田道灌との抗争に敗れ、豊島氏宗家は滅亡。
区域には、支族板橋氏・志村氏が残る。志村氏は豊島氏庶流。
太田道灌は1432年、相模国生まれ。江戸城を築城。
銅ばち、鰐口、古銭など
赤塚郷は1590年の小田原北条氏滅亡まで武蔵千葉氏領。
銘板碑
江戸時代、板橋区域は中山道の板橋宿として栄えた。
寛政12年(1800年)の板橋宿では400軒の建物の内、68軒が旅籠
江戸から明治へ。高島秋帆は私財を投じてオランダから銃や大砲を輸入
江戸近郊の農業・・・大根がさかんに。沢庵、漬物に加工。練馬大根に近い品種。
金箔の甲冑 何れの武将のものかは不明。秩父重国所有と共通している。
江戸時代
家康が鷹狩り、5代将軍綱吉が生類憐みの令、8代将軍吉宗が鷹狩り復活。鷹場として板橋。
板橋区東部の「加賀」は加賀藩に由来加賀藩前田家下屋敷(別荘)があった。
嘉永6年(1853年)ペリー来航。下屋敷では石神井川の水車動力で西洋式大砲を造り始めた。
その後、陸軍火薬製造所となる。
加賀藩前田家下屋敷の様子
板橋の産業の始まり~火薬製造所
水力が大切な動力で板橋は安定した動力が得られる場所に位置していた。
明治16年(1883年)日本鉄道の品川線板橋駅開業。
東上鉄道は大正3年(1914年)に池袋~田面沢が開通。下板橋駅と成増駅が設置。
大正9年(1920年)東上鉄道と東武鉄道合併=東武東上線の誕生。
昭和4年(1929年)都電が下板橋まで開通。
昭和19年(1944年)志村周辺の軍需工場へ従業員輸送のため志村坂上、さらに志村橋開業。
昭和41年(1966年)都電廃止。昭和43年(1968年)都営6号線開業。
板橋宿は旅籠に遊女として飯盛女を公認されていた。
明治16年(1833年)鉄道開通、翌年の大火により宿場はさびれる。
遊郭はその後、病院などに転用される。
マーズ漁用無煙火薬~発煙を防止した火薬。
集団疎開は群馬県沼田市、榛名町へ。
工場や軍事施設が空襲を受ける。
関東大震災の復興計画で鉄道操車場は住宅地に。
昭和7年(1932年)東京光学(トプコン)設立。志村地域に大規模工場が集中。
荒川右岸の徳丸原は水田へ。東京の大半の米が荒川下流域で作られる。
戦後は地下水枯渇、地盤沈下、水質悪化でしぼんでくる。
同時期に住宅不足解消のため、田園は、高島平団地へ。
昭和47年(1972年)総数は10170戸、3万人。一部の分譲では最高3000倍!
「なりもす」
モスバーガー発祥地。1972年。
田遊び(神事)・・・旧正月に赤塚氷川神社等で五穀豊穣、子孫繁栄を願い奉納。
徳丸北野神社の社伝によれば、長徳元年(995年)に京都北野天満宮からの分霊に際し行ったのが始まり。
牛の面
は、面をつけた牛役が、田の土を砕いてならす代かきの所作をおこなう。
手回し洗濯機
う~ん、初めて見るかも^^
大砲術操法などなど
モルチール砲 小石川大砲鋳造所で造られたもの
トンキョ帽は革製でしたよ。ゲベール銃は重かったです。
この人が砲術家・高島秋帆さん。
展示館の屋外
漬物樽・・・沢庵漬物用です。でかい!!!
この大樽で大根4000本以上!!!
このような大樽は、酒造用→味噌・醤油→最後に漬物用に。
100年持つと云われ、昭和10年で新品200円、昭和は40年で中古5~10万円。
当たり前なんだけど、このころの機械式の道具は木製なんだよね。
足踏み式縄綯い機
これは初めて見たかも。「綯い(ない)」とは「より合わせて作ること」の意味。
動力脱穀機
鉄製と木製のハイブリッドですな^^
旧田中住宅

というわけで、こちらの郷土資料館、なかなかキレイで盛りだくさんでしたよ。入って直ぐ左に最後まで遊郭だった家の門があったようなのですが、ちゃんと見なかった。。。^^;

赤塚城跡
資料館南、上に登ると赤塚城本丸跡があったようです。疲れちゃって登りませんでした^^;
資料館に隣接する赤塚溜池公園
カルガモくん♪
カルガモくんはオスメス区別がつきませんね。
隣の赤塚公園ではウメ花見してましたよ^^^
帰りは北上して都営三田線で帰りました。
都営三田線の終点・西高島平駅
西高島平駅から都営三田線で巣鴨駅に出て山手線・新宿経由で帰りました。

この日もなかなな盛りだくさんな一日でござました。16000歩♪

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