タカミムスヒ氏族

 倭国では古くから天孫思想が存在したことが推測されますが、その天孫思想はいつごろ生まれたのであろうかということが問題になります。その問題を考える場合にキーとなるのはタカミムスヒを祖先とする氏族の存在です。またそれはタカミムスヒという神の実体を明らかにする上で、欠くべからず視点です。タカミムスヒは藤原京で大王家がアマテラスを祖先神として祭り始めるまで、国家神として祭られていましたが、氏族の中では大伴氏、物部氏、久米氏の祖がタカミムスヒから出ています。

まず大伴氏について
 大伴氏はタカミムスヒの子孫です。古語拾遺によると大伴氏の先祖アメノオシヒ(天忍日)命はタカミムスヒの子となっています。『新撰姓氏録』では、大伴氏は高皇産霊尊の五世孫天押日の後となっています。日本書紀「神武紀」において、タカミムスヒを主神とする祭りが行われていますが、その時、司祭をつとめたのは大伴氏の先祖道臣(日臣)です。

久米氏について
 『日本書紀』神代下天孫降臨の章第一書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である天槵津大来目(天津久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述があります。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられています。
 一方、『古事記』には天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、神武東征において、道臣命と大久米命は対等の立場になっています。
 記紀で上下関係か、対等関係かという相違はありますが、本稿ではいずれもがタカミムスヒ氏族であることが重要なので、その相違については不問とします。
 神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は久米氏・久米部の性格を考える上で重要であることだけを指摘しておきます。

最後に物部氏
 物部氏についてはタカミムスビの子孫であることは系図上で直ちには明らかでありません。しかし溝口氏は次のように推定されています。

(1)物部氏の先祖であるニギハヤヒ(饒速日)は天つ神の子である(記紀ともに明記。天孫がもっているのと同じ天つ神の「天羽羽矢//隻及び歩紋」をニギハヤヒももっていたとされている)。
(2)右の天つ神とは、タカミムスヒのことを指している(記紀には「天つ神」としか書かれていないが、種々の点からみてそれはタカミムスヒだと推定される)。
(3)『旧事本紀』の「天孫本紀」において、タカミムスヒはニギハヤヒのことを「我御子」と呼び、また地上におけるニギハヤヒの死を知ったタカミムスヒが、哀泣して速飄命にその屍骸を天上に持って来させ葬儀を行ったことが書かれている(「天孫本紀」が、物部氏の家紀・本系の類を元にして書かれたものであることは広く認められています。したがってニギハヤヒをタカミムスヒの子とするのは物部氏自身の表明するところである)。

 溝口氏はこのように物部氏もタカミムスヒの後裔氏族とされています。
 
 大王家と代表的な連(直属の部下、いわゆる旗本御家人)である大伴氏、物部氏がタカミムスヒの子孫ということになっていますが、この(タカミムスヒ)トリオ、もしくはカルテットがどのように形成されてきたかということは重要な研究課題になります。いずれにせよ、大王家が祭っていたタカミムスヒを大王の直属の部下、あるいは近衛兵的な大伴氏が祀っており、大王家の祭祀に中臣氏は蚊帳の外であるという認識は重要です。

 私の考えでは中臣氏が祭祀に関わってくるのはアマテラスが出現し、本格的祝詞が開発された藤原京時代以後です。それより前の中臣関連の記事は攪乱記事です。ちなみに祝詞は人麻呂の長歌に触発されてできたと考えられますので、祝詞が現れるのは柿本人麻呂が長歌を歌い始めた六八六年以後のことです。中臣神道は祝詞神道であることから、祝詞のことを考えてもデビューは藤原京になります。中臣氏は古くは卜占を職種としていたということになっていますが、いつごろ卜占から祝詞神道へと職種が代わったのか不明で、これを研究し、明確に説明できている学説はないと思います。
 ここで言いたいことは大王家の祭事は古くは中臣氏ではなく、大伴氏が行っていたということです。大伴氏は大王家と同じタカミムスヒを祭る氏族ですが、一方、中臣氏はアマテラスを祭る氏族だという事実は重要だということです。

 私は神武紀でモデルとなった大王は広開土王であったと考えています。私見では広開土王は四〇八年に倭国に侵攻し、四一三年に倭国王仁徳として即位しています。そして神武紀の記述は広開土王がヤマトに進出した事実をベースにしている可能性があることを前提にして神武即位前の記事を読んでいきますと、久米部の活躍に目が行くのです。

 神武軍のヤマト平定記事をぜひ再読してください。神武の軍隊の主力は、大伴氏が率いる久米部です。将軍はというと大伴氏の先祖の道臣しかいません。神武紀に天神という言葉がやたら多く出てくるのは高句麗から天神思想が初めて倭国に入ってきたときの状況を伝えていると思います。

 広開土王の祖国である高句麗は天孫思想が生まれた国柄であることを考えますと、天神について多く語られている意味がよく分かるのです。そしてその中で久米部が久米歌を歌った軍事氏族であると考えるとこの久米とは「コマ」であり、高句麗軍である可能性が考えられます。

 久米(くめ)歌は来目(こめ)歌であり高句麗語(こま)の歌です。戦闘歌舞の代表といえる久米舞は高句麗舞です(四七五年、高句麗の長寿王の軍隊が百済を滅ぼしたときの記事の中で高句麗軍を狛大軍(コマの大軍)と表記しています。これに限らず、高句麗は「コマ」と言われていたことは公知の事実です)。

 この久米部が大伴氏の指揮下にあったと書紀は伝えていますが、大王家、大伴氏、戦闘部隊の久米部がすべてタカミムスヒ氏族であることは注目するべきです。

拙著『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』をご覧ください。
岡崎康民note https://note.com/spinozaist1

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