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【AuDHD解体新書・新章第四十八章】退職日は、まだ先だった──ただ孤独だった一月と、最後の出勤日

私は、怒っていたわけではありませんでした。

職場に何かを分かってもらえると、期待していたわけでもありません。

誰かに謝ってほしかったわけでも、考えを変えてほしかったわけでもありません。

私はただ、退職日まで勤めたかっただけです。

2026年1月5日。

私は、3月31日付で退職する意思を伝えました。

残された期間で患者さんを見て、必要なことを引き継ぐ。

そして、年度末に静かに職場を去る。

そのつもりでした。

けれど、現在の記憶では、私が最後に職場へ行ったのは1月27日です。

退職日は、まだ二か月以上も先でした。

退職は決まっていても、私は最後の日まで淡々と働くつもりでした。けれど、その一月は、言葉より沈黙の方が多い時間でした。


ただ、孤独だった一月

退職する意思を伝えてからの職場生活を、一言で表すなら、

ただ、孤独でした。

リハビリ職員と、ほとんど話さないまま一日が終わることもありました。

患者さんのところへ行く。

リハビリをする。

記録を書く。

次の患者さんのところへ行く。

リハビリ室で誰かと会えば、短い会話をすることもありました。

時々、OTの職員から声をかけられることもありました。

けれど、それ以外の時間は、ほとんど一人でした。

無視されていた、と断定するつもりはありません。

退職を伝えた私が、自分から距離を取っていた部分もあったかもしれません。

周囲も、退職が決まった人間に何を話せばよいのか、分からなかったのかもしれません。

それでも、当時の私が感じていたものは、孤独でした。

会話がなくても、仕事は進みます。

患者さんを見れば、一日は終わります。

けれど私は、職場の一員として働いているというより、

残された業務を、一人で処理する人になったように感じていました。

当時のnoteでは、2025年12月14日の投稿を最後に、次に記事を投稿したのは2026年3月4日でした。

一月には、一本も記事を書いていません。

その空白だけで、私が孤独だったことや、書けない状態だったことまで証明できるわけではありません。

ただ私はいま、当時の言葉が残っていない一月を、現在の記憶と妻の証言から書いています。


久しぶりに話したのは、仕事の愚痴だった

その頃、更衣室で、男性のPTとOTの後輩に会いました。

私は久しぶりに、少し長く話しました。

話した内容は、仕事の愚痴でした。

六連勤はきつい。

四日目くらいになると、休みたくなる。

そんなことを話したと思います。

相手を困らせたいわけでも、上司への不満を広めたいわけでもありませんでした。

ほとんど会話のない日が続く中で、たまたま話せる相手がいて、口から出た。

それだけだったと思います。

その話が、誰から、どのような形で上司へ伝わったのかは分かりません。

そもそも、あの会話と後の出来事に、本当に直接の関係があったのかも分かりません。

ただ、その後の電話を受けた私は、

口は災いの元だったのか。

そう思いました。


「本当に具合が悪いんですか?」

一月中旬から下旬頃だったと思います。

六連勤の四日目。

私は、仕事を休むことになりました。

ただし、その日は、私自身が具合を悪くしたのではありません。

長女が発熱し、病院へ連れていく必要がありました。

長女が発熱し、私は仕事を休んで受診へ向かうことにしました。

私は職場へ欠勤の連絡をしました。

すると上司から、

「本当に具合が悪いんですか?」

という趣旨のことを聞かれた記憶があります。

私は、娘が発熱したため、病院へ連れていくと説明しました。

上司からは、

「そうですか……欠勤は計画的にできるものではないので、そういう休み方はできません」

という趣旨のことを、冷たい調子で言われたように記憶しています。

私が、

「分かりました」

と答えると、電話は終わりました。

上司が、私を仮病だと決めつけていたのかは分かりません。

単に欠勤理由を確認しただけだった可能性もあります。

けれど、私には疑われているように聞こえました。


無実を証明できたような気がした

娘が発熱している。

病院へ連れていかなければならない。

その事情を説明したとき、私は、どこかでほっとしていました。

今回は、私の体調不良ではない。

自分が疲れたから、休むのではない。

目に見える理由がある。

休まなければならないことを、説明できる。

無実を証明できたような気がしました。

本来、仕事を休むことに、有罪も無罪もありません。

本人が体調を崩した場合でも、子どもが発熱した場合でも、働けない事情があるなら休むしかありません。

けれど当時の私は、自分の不調を理由に休むことを、すでに罪のように感じていました。

もし、あの日に具合を悪くしたのが私自身だったなら。

あの重苦しい空気の中で、私は本当に休むと言えただろうか。

今振り返っても、分かりません。

長女の発熱によって、ようやく休む理由を示せた。

そんな安堵を覚えたこと自体、私はかなり追い詰められていたのだと思います。


ST室は、荷物を置く場所になっていた

以前のST室は、私が仕事をする場所でした。

記録を書く。

パソコンを使う。

資料を作る。

少し休む。

昼食を取る。

患者さんのことを考え、次のリハビリを準備する。

私にとって、仕事場であると同時に、短い時間だけ緊張を下ろせる場所でもありました。

しかし、一人体制になってから、その使い方は変わっていきました。

ST室でパソコン作業をしない。

記録を書く場所として使わない。

休憩場所として使わない。

昼食も取らない。

正確な理由は、私には分かりません。

共用パソコンを一人で長時間使わせないためだったのかもしれません。

リハビリ職員が増え、部屋や機器を調整する必要があったのかもしれません。

ただ、私にとってのST室は、

仕事をする場所でもない。

休む場所でもない。

昼食を取る場所でもない。

荷物を置き、必要なときに取りに行くだけの場所になっていました。

部屋そのものは残っていました。

けれど、そこで過ごすことはできませんでした。


それでも、仕事を残そうとしていた

私は退職を決めたあとも、仕事を投げたつもりはありませんでした。

次にSTが入職するかどうかは、分かりませんでした。

STが来なければ、摂食・嚥下について困ったとき、残されたOTの職員が対応することになります。

実際に、OTの職員から相談を受けることもありました。

食事中のどこを見るのか。

どのような状態なら中止した方がよいのか。

誰へ報告すればよいのか。

質問を受ければ、私は答えました。

そして、同じ疑問が出たときに使えるよう、内容を資料に残そうとしました。

誰かから正式に作成を命じられた資料ではありません。

私が必要だと思い、勤務時間中に作っていたものでした。

次のSTが来なかった場合、患者さんへの対応がどうなるのか。それが、私には気がかりでした。

退職後の職場で、患者さんへの対応が途切れないように。

残された職員が、少しでも判断に迷わないように。

それが、私にできる最後の仕事だと思っていました。


「余計なことはしないでほしい」

1月27日。

私はST室で、パソコンを使っていました。

作っていたのは、OTの職員から受けた摂食・嚥下に関する質問と、その回答をまとめた資料だったと思います。

そこへ、OTの上司が来ました。

二人きりでした。

上司から、

「ST室ではパソコンを使わないと、ルール化したはずですが?」

という趣旨で注意されました。

私は、何を作っているのかを説明しました。

退職後、OTの職員が摂食・嚥下について困ったときに使えるよう、質問への回答を資料として残している。

そのように話したと思います。

すると上司から、

「余計なことはしないでほしい」

「それをする余裕があるなら、単位を取ってほしい」

という趣旨の言葉を受けました。

資料作成を止められたとき、私の中で何かが崩れた気がしました。

その場で、私の頭は小さなパニック状態になりました。

言い返した記憶はありません。

「はい、分かりました」

「申し訳ありませんでした」

私が返せたのは、その程度だったと思います。

パソコンを使わないというルールがあったのなら、注意されること自体には理由があります。

頼まれていない資料を、勤務時間中に作っていたことも事実です。

上司から見れば、退職する職員が独自に資料を作るより、患者さんの単位を取ってほしかったのだと思います。

それでも私には、

最後まで残そうとしていた仕事そのものを、

「余計なこと」

と言われたように聞こえました。


私ができることは、もう残っていなかった

ST室では、記録をしない。

パソコンを使わない。

休まない。

昼食を取らない。

そして、引き継ぎのための資料も作らない。

私には、自分がこの職場でできることを、一つずつ閉じられているように感じられました。

もちろん、それぞれの指示には、別々の業務上の理由があったのだと思います。

一方で、私自身もその頃には、職場の閉塞感に疲れていました。

上司への信用も、かなり失っていました。

何か一つあれば、もう行けなくなる。

私はすでに、その境目まで来ていたのだと思います。

1月27日の言葉だけが、すべての原因だったわけではありません。

それまで積み重なっていたものが、その場で一つにつながりました。

以前の私は、上司を信じていたのだと思います。

だからこそ、その信頼がもう残っていないことだけは、はっきり分かりました。

怒りというより、

こんなところまで来てしまったのか、という寂しさでした。


「気持ち悪い」

退職する人間なのだから、どうでもよいと思われているように感じるのに、仕事の仕方には厳しく介入される。

気持ち悪い。

そう感じました。

これは、上司という人間を冷静に評価した言葉ではありません。

相手の人格を説明する言葉でもありません。

視線。

声。

距離の取り方。

厳しさと無関心が、同時に向けられているように感じる関わり方。

それらに触れた私の身体から出た言葉が、

「気持ち悪い」

でした。

もう関わりたくない。

その場所へ近づきたくない。

職場へ行きたくない。

私の頭で判断するより先に、身体が職場を拒否していました。


身体が、職場を拒否した

その日の仕事を終え、私は家へ帰りました。

妻に、

「もう無理だ」

「気持ちが悪い」

「行けない」

と伝えました。

仕事のことを整理して話すより先に、私は妻へ「もう無理だ」と伝えていました。

私自身には、その後の自分の様子について、はっきりした自覚がありません。

妻によれば、私は家の中を歩き回りながら、

「気持ち悪い」

「気持ち悪い」

と繰り返していたそうです。

インフルエンザ後に崩れたときと、似た状態でした。

感情や言葉、身体の動きを、自分で抑えられない。

落ち着こうと思っても、止まれない。

一般的に言われるパニック発作だったのかは分かりません。

私には、そのような医学的判断はできません。

ただ、私の場合は、普段なら何とか抑えていた言葉や動きが、疲労と拒否感の中で外へ出ていたのだと思います。

1月27日。

その日が、私の最後の出勤日になりました。

当時の私は、まだ、そのことを知りませんでした。


妻が、私の代わりに説明した

翌日の1月28日は、いつもの心療内科が休診でした。

1月29日。

妻が心療内科へ電話をして、急遽、診察の時間を作ってもらいました。

自分では覚えていない場面を、私は妻の言葉を頼りに受け取り直しました。そして、そのまま心療内科へ向かいました。

妻も一緒に来てくれました。

診察室では、主に妻が医師へ説明しました。

職場から帰ったあとの私の様子。

家の中を歩き回っていたこと。

「気持ち悪い」と繰り返していたこと。

自分で身体や言葉を止められない状態になっていたこと。

私は妻の横で、思い出した細かなことを、ぶつぶつと補足する程度だったと思います。

自分の状態を、自分でまともに説明できませんでした。

私自身は、帰宅後の自分の姿を覚えていません。

ここに書けるのは、妻がそばで見ていて、あとから伝えてくれたからです。

自分の記憶が残っていない場面について、私は妻の言葉を信じています。

これまでにも、動けなくなったことはありました。

仕事へ行けなくなったこともありました。

それでも、このときが一番つらかったかもしれません。

怒る力もない。

自分を守るために説明する力もない。

何が起きたのかを、自分の言葉で並べることさえできない。

私は、妻が私の代わりに話すのを、隣で聞いていました。


「抑うつ状態」

診断書には、

抑うつ状態

と記載されました。

そして、

2026年3月31日まで出勤は困難

育児も困難

という趣旨のことが、明記されていました。


仕事だけではありませんでした。

父親として家族を支えることも、難しい状態になっていました。

診断書は、職場へ郵送しました。

それ以降、職場との連絡は、妻が引き受けてくれました。

心療内科とのやり取りも、妻が助けてくれました。

私は、自分の職場の行く末を、離れた場所から見守るだけになりました。

自分の身体と言葉が、再び自分のものへ戻るまで、休むしかありませんでした。


退職日まで、勤めたかっただけだった

私は、職場に勝ちたかったわけではありません。

上司を言い負かしたかったわけでもありません。

自分の正しさを認めさせたかったわけでもありません。

そこまで怒るほど、職場へ期待していたわけでもありませんでした。

私は退職すると決めていました。

だから、残りの期間を淡々と働く。

患者さんを見る。

必要なことを伝える。

できる範囲で引き継ぐ。

そして、3月31日に辞める。

それだけを望んでいました。

けれど、私は退職日まで職場へ通うことができませんでした。

残そうとした仕事も、途中で止まりました。

職場への連絡も、自分ではできなくなりました。

退職日は、まだ二か月以上先でした。

けれど、1月27日が、私の最後の出勤日になりました。


※本稿は、現在の私の記憶、妻の証言、当時および後日に残した記録、AIとの対話(壁打ち)をもとに構成しています。この時期には同時代の記録がほとんど残っておらず、出来事の日付や会話の細かな表現には曖昧な部分があります。特に欠勤連絡の時期は、一月中旬から下旬頃だったという記憶に基づいています。

※本文中の上司、同僚、心療内科医、妻の発言は、逐語記録ではなく、現在残っている記憶をもとに趣旨を再構成しています。また、帰宅後の私の様子は、当時そばにいた妻の記憶をもとに記しています。

※ST室の利用方法やパソコン作業に関する指示には、職場側の業務上・運営上の事情があった可能性があります。本稿は、それらの指示の正当性や、上司・職場の意図を断定するものではありません。当時の私がどのように受け取り、どのような状態へ至ったのかを記したものです。

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