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縄文人が見た景色


<縄文人が見た景色>比婆御陵 ブナの純林@広島県比婆山系

落ち葉が凍るほど冷えた朝。薄明の中、コーヒーと朝ごはんを支度する。
この季節は朝寒くて眼が覚めるのは分かっている。寒い中朝食を支度するのもつらい。それでも不思議と山に来るとキャンプをしたくなる。

県民の森を早朝から歩き出し、毛無山を目指して登っていく。この山もおそらく人間による開発が盛んだったに違いない。
「毛」とは植物のことを指し、過度な伐採と放牧によって木がほとんど生えていない時期があったのだろう。
毛無山と烏帽子山の間には出雲峠があり、出雲街道の主要ルートだったようだ。

また出雲峠から烏帽子山を登り、さらに奥の吾妻山へと連なるところに大膳原野営場がある。
「原」とは山焼きをして、ススキを生やして、放牧していたところを指す。これは西日本に多い。
大膳原と吾妻山一帯はかつて放牧が行われていた山なのだ。
大規模な野営場は残っているが、現在はあまり使われていないようである。
近年はおしゃれなキャンプ場が増える中、この古き良き野営場が減少していっていることが少し寂しい。
こういう野営場は山の奥の方にあって、山をダイレクトに感じながらキャンプが楽しめるのだが。

比婆山の中心地は烏帽子山と立烏帽子に挟まれた御陵という場所だ。
名前の通りここはお墓であり、伊邪那美命のお墓だという。
その神話の信仰地として小さな祠が祀られていて、7本のイチイの大木が鎮座している。

御陵一帯は国の天然記念物に指定されているブナの純林が残っているのだが、その中心にはイチイの大木が7本があり、巨岩が並んでいる。
伊邪那美命のお墓という話が本当かどうかは分からないが、ここに手を合わせ、拝み、熱心に祈り、参拝に訪れる人たちがいるということが事実性を増す。
その神話は事実として受け継ぎ、語られ続けていく。それが信仰のルールだ。

イチイはもともと神社などの木材としてよく利用されていたようだ。
かつては門栂と呼ばれたのは神木という意味。
成長がとても遅いが、東洋の中ではもっとも最長寿木となる。
30cmの太さになるのに100年はかかるという。

アイヌ民族や西洋ではイチイで弓を作って利用した。
大和王朝ではこの樹木から笏(しゃく)をつくり、烏帽子とセットだった。
仁徳天皇がこの木に正一位を与えたとも、正一位の高官に与える笏をこの木から使ったとも言われている。
サカキが自生しない東北北部や北海道ではサカキ代わりに神事に利用されているようだ。


イチイという樹木は本来もっと寒い地域に自生する樹種だ。
おそらく氷河期にはブナの純林はもっと標高の低いところにあり、山頂付近にはイチイの巨木林が覆っていたのではないだろうか。

鳥取の大山の9合目付近にはイチイの変異種であるダイセンキャラボクの群生地がある。
どちらの樹種でも木の実を野鳥や獣たちが食べて運んだに違いない。
(果肉以外には毒が多い樹木のため生垣に利用される)
最終氷期の中国山地の原生林にはどんな景色が広がっていたのか。

最終氷期の終わり、つまり縄文人が山を開墾していったのだろうか。
そのときはマンモスが標高の高い高原地帯を闊歩していたのだろうか。
自然遷移のスパンは日本では数百年程度なので、数千年や数万年過去のことを想像するのは難しい。

現在から3~5度ほど高かった縄文時代にはもっと里山地帯にはカシやシイなどの照葉樹林が広がっていただろう。
逆に現在よりも6度以上寒かった最終氷期にはブナ・ミズナラがほとんど覆い尽くしていた可能性がある。
いや、もっとイチイなどの針葉樹が群生していたのだろうか。

とはいえ、やはり縄文人が見た原生林を見てみたいと強く思う。
人類がまだ巨木を切り倒す術を知らず、その足元で暮らしていた時代を見てみたい。
私たちが現在見ている森林の姿は案外新しいものであり、異質なのかもしれない。

オオカミが居た時代、マンモスが居た時代。
それは私たちには分からない山であり、生態系だった。
その山を旅することは現代の山旅とは全く違う体験だったのだろう。
そこには数千年前から続く山岳信仰とは違った精神性が育まれていたのかもしれない。
もしくはまったくなかったのかもしれない。

私は比婆山を歩きながら、数万年前の景色をイメージする。
生態系に良いも悪いもなければ、正常も異常もない。完成した生態系もなければ壊れることもない。
そこにはその時代の生態系があり、極相林があり、自然遷移があるだけだ。
それを私は旅したいのだ。現代人の都合が入り込まない山を。


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