なぜここまでリアルなのか。 映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 技術解説: 宇宙船デザイン・小道具・衣装のこだわり
未知の原因によって太陽エネルギーが奪われ、数十年後に地球は氷河期に突入する。原因解明に向けて宇宙に送り込まれた中学校教師・グレース(ライアン・ゴズリング)は、科学の知識だけを武器に80億人の命をかけた人類最後の賭けに挑むが、この危機を救おうとする小さな相棒と出会い、共に愛する故郷を救うため宇宙の超難題に挑む。
「どうやって撮影されたのか」を調べている中で、興味深いメイキング動画を見つけました
「Tested」は、ものづくり、科学、テクノロジーの現場を伝えるYouTubeチャンネルです。その中で『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の撮影現場を特集した動画が公開されています。
動画では、美術監督、衣装デザイナー、プロップモデリング・スーパーバイザーへのインタビューを通じて、設計思想と具体的な工夫が語られていたので、本記事では、その内容を私個人の映画制作体験も少し混ぜながらご紹介します。最後に参考動画も掲載していますので、興味のある方は参考にしてください。
なぜ今、この映画の「裏側」を知るべきなのか
現代のSF映画において、広大な宇宙や複雑な宇宙船を表現するためにCG(VFX)を多用するのは当然の帰結です。しかし、近日公開される映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、その真逆の道を選びました。何千ものVFXショットはあったものの、制作陣が徹底してこだわったのは、俳優が実際に触れ、その場に存在することができる「実写セット」の構築です。

そこには、効率や予算を度外視したかのような制作陣の凄まじい「執念」が物理的に存在しています。かつて映画製作の現場でプロダクションデザインの末端にいた私から言わせれば、このプロジェクトが挑んだ構造の複雑さは、実写映画の歴史においても極めて異例であり、ある種の「狂気」すら感じさせるものです。この映画は、これまでの数ある素晴らしいSF映画をあえて参考にせず、自分たちだけの堂々とした独自のデザインを見つけ出すことを目指しました。
宇宙ステーションの内装では、すべてを硬い金属で覆うのではなく、断熱材などのソフトなファブリック(布地)素材とハードな素材を組み合わせることで、機能的でありながらも「美しい」と思える空間を追求しています。
閉塞感とリアリティの追求(スケール感) 国際宇宙ステーション(ISS)やソユーズ、中国のモジュールなどを主に参考にして徹底的に研究し、宇宙船内のスケール感を決定しています。あえてセットを非現実的に広く見せることを避け、現実的で窮屈な空間(閉塞感)を保つことで、物語の緊張感とリアリティを高めています。たとえばコックピットは直径わずか約2.4メートルという非常に狭い空間です。この狭く息苦しい船内からエアロックを開けた際に広がる「果てしない宇宙」とのコントラストが、視覚的に大きな効果を生んでいます。
撮影のためのモジュール式(分割可能)構造 極めて狭い空間で撮影を行うため、カメラやパペッティア(操演者)、スタッフが入り込むスペースを確保する必要がありました。そのため、壁面やモニター、計器パネルなどのパーツがブロックごとに簡単に取り外せる「モジュール式」になっており、あらゆる角度からの撮影に対応できるよう緻密に計算されています。
3種類の「重力」への対応 劇中に登場する「無重力」「加速重力」「遠心重力」という複数の異なる重力状態に合わせて、セットが機能するように作られています。例えば医療室のセットは、船の飛行状態(加速重力から遠心重力への移行)に合わせて、セット全体の向きを90度回転させ、ベッドの配置が物理的に反転する仕組みになっています。
CGに頼らない「実物」のギミック グリーンスクリーンに頼るのではなく、極力カメラに映る実物として作られています。コックピットのセット自体がモーター駆動のリングシステムやジンバルに乗っており、実際に回転したり、25度傾いて激しく揺れたりします。さらに、150以上の実稼働するスクリーンと、独自のRGB LEDが仕込まれた約750個のカスタムボタンが設置されており、俳優が実際に触って操作できるよう設計されています。
独自の美学とテクスチャ(素材と照明) 過去のSF映画のデザインを踏襲するのではなく、ハードな金属面と、ソフトな素材(キルティングや断熱布などのファブリック素材)を効果的に組み合わせて、独自の美しい空間を作り上げています。コックピットは「光のチューブ」として構想され、モノクロ、アンバー(夜明けの雰囲気)、シアン、グリーンなど、シーンの状況に合わせて照明のシステムが複数の「人格」を持ち合わせています。また、計器類のグラフィックはあえて完璧な対称性を崩し、ボーイング747のコックピットに見られるような「計器ごとの細かなバラツキ」を再現してリアルさを追求しています。
以上のことからも、スクリーンに映る一瞬のディテールに、どれほどの技術的苦闘が隠されているのがお分かりだと思います。映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のセット設計には、リアリティと実用性を追求した数多くのこだわりが詰め込まれています。
宇宙ステーションの狭い宇宙空間をリアルに見せる照明設計
美術監督のチャーリー・ウッド氏は、セットをあえて狭く作ることで、宇宙空間という逃げ場のない閉塞感を表現しようとしました。この「物理的な不自由さ」が、映画全体に張り詰める緊張感を観客に叩きつけると語っています。
本作のメイン舞台となる宇宙船ヘイル・メアリー号のコックピットは「光のトンネル」のような場所です。驚くべきは、その制御の仕組みで、照明やボタンの光は、舞台やライブで使われる照明システム(DMX)で一括管理されています。この小さな空間に、コンサート会場並みの大規模な制御が組み込まれており、数万単位で光を細かく動かせるのです。
以下のようにシーンの状況や感情に合わせて照明のカラーシステム全体が変化します。

モノクロ(白黒): 宇宙空間に出て最初に主人公を発見する場面では、すべてのコンピューターやグラフィックが白黒の単色で表現されます。
アンバー(琥珀色): モノクロの状態からアンバーの光を混ぜ込むことで、空間に「映画の夜明け(幕開け)」のような雰囲気を与えます。
シアン: よりリラックスした雰囲気を演出したい場面で使用されるカラーモードです。
グリーン: 敵対的な状況や危険が迫っている場面など、より攻撃的(ホスタイル)な状況で使用されます。
このような光の移り変わりによって、コックピットはまるで夜明けや日没があるような精神的な空間となり、主人公に対して「唸り声をあげる」「慰める」「冷やす」「温める」「恐怖を与える」といった多様な感情を表現しています。たとえば、目覚める場所である医療ベイはパッドで覆われた柔らかく胎内のような空間ですが、エアロックは一歩間違えれば命を落とす冷酷で工業的な空間として設計されています。映像で伝えるメディアでは、バックグラウンドもキャラクターとして扱うので、マストな表現方法ですね。また、実際の宇宙ステーションでも、照明は宇宙飛行士の健康状態を考えてスケジュールに沿って自動的に変更される仕組みが考えてあります。
重力を「物理的」に書き換える、25度の傾斜と振動
SF映画における最大の課題は「重力」の表現です。本作では、加速による重力と、船体を回転させて生じる遠心重力を表現するため、セットそのものを物理的に回転・振動させるという手法が取られました。
ヘイル・メアリー号は、加速中は「垂直に積み重なったタワー」のような方向(加速重力)ですが、停止してテザーで回転し始めると、重力方向が90度変化(遠心重力)します。これに伴い、セット全体を90度回転させる必要がありました。そこで、以外な問題が起きました。いつもの方法では、セットが地面に固定される前提ですが、ぐるぐる回るセットでは地中の重力によっていろいろとパーツが緩み、ゆがんできたのです。
現場を悩ませた大きな問題の一つが、ハッチの蝶番でした。最初はアルミ製でしたが、セットの向きが変わるとわずかにゆがみ、扉がきちんと閉まらなくなってしまったので、より頑丈なスチール製に急きょ変更することになりました。
さらにこのセットは、最大25度まで傾けることができ、激しく揺らす装置の上に組まれています。これにより、宇宙船が実際に動いているような揺れや傾きを、俳優がその場で体感できるようにしていました。この強い揺れでも部品が外れないように、すべてのネジや接合部には、緩みにくくするナットや接着剤が徹底して使われました。
また医療スペースでは、重力の向きが変わる設定に合わせて、ロボットアームがベッドを90度回転させます。実際に動く仕組みで、宇宙環境をリアルに再現していると語っています。
「対称性をあえて崩す」不完全な美
完璧すぎるデザインは、かえって嘘臭く見えるものです。チャーリー・ウッド氏が本作のデザインにおいて重視したのは「対称性を壊す」という哲学でした。
彼はボーイング747-400のコックピットなどを参考に、あえて個々のモニターの彩度、彩度、コントラストをバラバラに設定しました。現実の機械装置には、ベンダーの違いや経年劣化による個体差があるからです。この「不完全な美」こそが、セットに圧倒的な説得力を与えています。
さらに、これらの計器類はすべて実際に動作します。俳優がボタンを押すと、ライトが点灯し、装置が反応します。この実際の反応が演技に返ってくることで、グリーンバック撮影では出せない現実感が生まれると語られています。アルテミス2の宇宙飛行士も、実際に本物のオライオン宇宙船に乗り、ボタンが光った瞬間に、モックアップ訓練とは違う高揚感があったと語っていました。臨場感や没入感は演技の深みを出すためにも欠かせません。
また、撮影では「カメラをこの角度から入れたい」という理由で、宇宙船セットの一部を外す必要があります。その状態でも機能を維持するために配線は細かく設計されているので、計器パネルなどをブロック単位で取り外せるモジュール構造にする工程にも、多くの試行錯誤があったことがわかります。
長期間費やしたワッペンと、ライアンのこだわりが詰まった「赤い宇宙服」
本作の宇宙服は、NASAの次世代船外活動スーツを参考にしつつ、映画的な視認性と映画『2001年宇宙の旅』等へのオマージュとして鮮烈な「赤」が採用されました。また、従来の分厚く動きにくい宇宙服ではなく、SpaceXやボーイングの最新スーツを参考に、アジリティ(機動性)に優れたタイトなシルエットに設計されました。


特筆すべきは、ライアン・ゴズリング自身の提案による「ヘルメットの極小化」です。彼はヘルメット内部の「余白」を極限まで削ることを求め、顔に密着するほどタイトな、心理的圧迫感のあるデザインが完成しました。
主演のライアン・ゴズリングの要望で、顔の周りに無駄な空間ができないようヘルメットが極限まで小型化されていたため、実物のバイザーを閉じると俳優の息ですぐに内側が曇ってしまうという物理的な問題がありました。宇宙服のヘルメットやスーツ内の換気・呼吸システムについては、撮影中に以下のような試行錯誤と苦労があったと衣装デザイナーが語っています。
扇風機の設置とスペースの限界: 当初、ヘルメット内には扇風機が設置されていました。しかし、主演のライアン・ゴズリングの要望に合わせてヘルメットのサイズを限界まで小さくしていった結果、ファンを機能させるための物理的なスペースがなくなってしまいました。
ダミーのエアポンプの導入: ファンの代わりに、首のベアリング部分を通って上に空気を送り込む「偽のエアポンプ」がスーツに組み込まれました。これは、俳優の呼吸を助けるとともに、バイザーが息で曇るのを防ぐ目的がありました。
継続的な改良とホースの追加: しかし、このエアポンプの仕組みもしばらくすると俳優にとって不快なものになってしまったため、小道具担当者が何度も異なるバージョンを作成して改良を重ねました。最終的に、特定のショットにおいては、スーツの背中部分からホースを出して、そこから大量の空気を直接送り込むという方法も採用されています。
このように、極限までタイトに作られた美しい宇宙服のデザインと、俳優の呼吸確保や曇り防止といった実用性(快適さ)を両立させるために、現場では絶えずギミックの改良が行われていました。
衣装に込められた工夫は、その下の「冷却スーツ」にも及びます。劇中では、主人公がゼロ重力下でウェットスーツを着るように苦戦して着用するシーンが描かれます。このスーツの質感は、シンガーソングライターのケイト・ブッシュやデヴィッド・ボウイが着用したヴィンテージスーツを参考にし、「レイズド・ラバー・プリント(立体的なゴム加工)」という技術で再現されています。軽量化のため、金属に見えるパーツの多くは実際には特殊な軽量素材(FBs製)で作られており、3Dプリントを活用して迅速にパーツの試作を行い、留め具にはFidlock(マグネット式バックル)や、古いロシア製パラシュートの部品を流用するなど、本物らしさを追求したハイブリッドな設計になっています。
また、肩部分にある「ミッションパッチ」の制作過程では、インドやカナダなど各国の国旗を正しく配置し、法的な使用許可(クリアランス)を得るだけで、実に長い歳月を費やしたといいます。さらにNASAのブランディング・ルールとして「『ワーム』ロゴ(文字ロゴ)を使用する場合は、必ず『ミートボール』ロゴ(円形ロゴ)も併記しなければならない」という厳格な規則まで守られています。

CG(VFX)の使用について 本作では実物の衣装を最大限活かしつつ、物理的な制約を解決するためにCG(VFX)も併用されています。
ヘルメットのバイザーの合成 実物のバイザーを取り付けて撮影すると、カメラや照明、スタッフが反射して映り込んでしまいます。そのため、多くのシーンではバイザーを取り外した状態で撮影し、後からVFXでバイザーとその美しい反射を追加(合成)しています。これにより、俳優がヘルメット内で呼吸しやすくなるという利点もありました。
基本的には、周囲の映り込み(反射)を防ぎ、俳優が呼吸しやすくするためにバイザーを外して撮影し、後からVFXで合成する手法が多くとられましたが、実物のバイザーを取り付けた状態で撮影されたシーンも存在します。実物のバイザーがもたらす美しい反射が、『2001年宇宙の旅』のような素晴らしい映像的な雰囲気を生み出すためです。曇りが問題になったのは、まさにこの「実物のバイザーを取り付けて撮影するシーン」があったためです。
ワイヤーワークとバックパックの処理 無重力状態を表現するシーンでは俳優が複雑なハーネスやワイヤーに吊られるため、背中に大きなバックパック(生命維持装置)を背負ったまま演技をすることが物理的に不可能でした。そのため、アクションシーンの大半では実物のバックパックを外して撮影を行い、CG(VFX)によってスーツの要件を満たすよう処理・合成が行われています。
「外骨格フレーム」の工夫が支える、操り人形師の魔法
一般的なスタジオ撮影の場合は、照明機材やカメラの位置、カメラスタッフが動く空間なども考慮して、セットは広い空間になりがちです。しかし、直径2.4メートルの密閉された筒の中で、どうやってダイナミックな映像を撮り、エイリアンの「ロッキー」を動かすのか。その答えは、セットを支える「外骨格」フレームにあります。
ヘイル・メアリー号のセットは、無数のパネルがパズルのように組み合わさったモジュラー構造になっています。カメラの通り道を確保するだけでなく、非人間的な動きをするロッキーを操る「操り人形師」が入り込むために、壁やパネルを瞬時に取り外すことができるのです。
一部のパネルを取り外しても、残りの数百枚のモニターやDMX制御の照明システムは稼働し続け、構造的な強度も維持されます。この複雑なロジスティクスに対し、プロップメーカーたちは「本物の宇宙船を作る方が、まだ簡単だったかもしれない」と語るほどでした。
スクリーンに映る「執念」をその目で確かめてほしい
アート、衣装、小道具、そしてエンジニアリング。あらゆる部署が極限まで連携し、何千時間もの労働を積み上げた結果、ヘイル・メアリー号は一つの「キャラクター」へと昇華されました。
この映画を観るときは、ぜひ画面の隅々まで見てください。スイッチ一つ、照明の色のトーン、計器の細かな汚れ、緩みにくく加工されたネジ、宇宙服の縫い目まで、細部にまでこだわって作られています。その視点を持って鑑賞すれば、この映画はより一層、深く豊かな体験としてあなたに迫ってくるはずです。
参照:
◎公式サイト
◎アダム・サベージのTESTED - YouTube
美術監督のチャールズ・ウッド氏とのインタビュー⬆️
衣装デザイナーのグレン・ディロン氏とデイビッド・クロスマン氏とのインタビュー⬆️
プロップモデリング・スーパーバイザーの トム・ヴァソヴィック氏とのインタビュー⬆️
スタントマンとのインタビュー(船外活動のシーン)⬆️
