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月面を「走る家」が動き出す——イタリアの月居住計画に米企業が「足」を提供へ

2026年3月、ひとつの契約が宇宙開発の歴史に静かに刻まれました。アメリカ・ピッツバーグに本拠を置く宇宙企業Astrobotic(アストロボティック)が、タレス・アレーニア・スペースから新たな仕事を受注したのです。その内容は、イタリア宇宙機関(ASI)が計画する月面居住モジュール「MPH(Multi-Purpose Habitation)」の車輪システムの開発、というものです。

月面に「家」が建つ——そう聞いてもまだ遠い話のように感じるかもしれません。しかし、人類が月で長期にわたって活動するためには、行き来のための宇宙船だけでなく、実際に生活できる拠点が必要です。MPHは、月の南極付近での科学探査や日常的な居住を10年以上にわたって支えることを目指した、移動可能な加圧型モジュールとして設計されています。打ち上げ目標は2033年。宇宙飛行士2名が年1回、最長30日間滞在する想定で、その名が示すとおり、みずから移動できる「走る家」でもあります。

幅3メートル、全長6メートル、重さ約15トン。このモジュールが月の不整地を安全に動き回るためには、特殊な車輪が不可欠です。月の地表はクレーターや岩が入り交じる起伏の激しい地形で、地球の道路とはまるで別の世界です。加えて、月の南極付近は日が差さない「永久影領域」が多く、極端な低温にも耐えられる設計が求められます。

そこで問題になるのが、車輪です。Astrboticが提案するのは、軽量な引張ケーブル構造を用いた設計です。ハブとリムをケーブルでつなぐことで、剛性を保ちながら重量を削減しています。もととなるのは、同社がすでに進めてきた月面移動プラットフォーム(AMP)向けの車輪開発で、その技術をMPHの要件に合わせて大型化し、10年間の使用に耐える信頼性を持たせることが課題です。影のかかった低温環境での熱損失を抑える工夫も盛り込まれており、居住モジュール全体の消費電力を抑えることにも貢献します。

この取り組みが映し出すのは、技術の話だけではありません。アメリカ企業Astrobotic、イタリア宇宙機関ASI、そしてフランス・イタリア合弁のタレス・アレーニア・スペース——異なる国籍のプレーヤーが「月面の家の足」をめぐって協力しているという事実。宇宙開発が「国家主導の単独プロジェクト」から「国際的なサプライチェーン」へと変わりつつある今の流れを、この契約は端的に示しています。タレス・アレーニア・スペースはこれまで国際宇宙ステーション(ISS)の加圧モジュール設計・製造にも深くかかわってきた企業で、そのノウハウが今度は月面へと向けられています。NASAとASIのアルテミス合意のもと、イタリアが月面インフラの核心部分を担い、そこにアメリカのスタートアップが専門技術をもって参画する——こうした分業の構造は、今後の宇宙経済を占う上でひとつの重要なモデルです。

Astrboticの歩みは、順調とは言えませんでした。2024年1月に打ち上げられた同社初の月着陸船「Peregrine Mission One」は、推進系のトラブルにより月への軌道投入に失敗し、大気圏で燃え尽きています。しかし同社はそこで止まらず、次のミッション「Griffin Mission One」は2026年7月以降の打ち上げを目指して開発を続けています。今度は月の南極・ノービルクレーターへの精密着陸を狙い、Venturi Astrolab社のFLIPローバーをはじめ複数のペイロードを届ける計画です。失敗と再挑戦を繰り返しながら月面モビリティの知見を積み重ねてきた企業だからこそ、今回の車輪開発の受注には説得力があります。

2026年が「月探査史上最多規模の年」になりつつある全体像は、以前の記事でまとめています。

NASAのアルテミスII、複数の民間着陸ミッション、中国の独自計画——月がいかに「ビジネスの場」へと変貌しているかを整理した内容で、Astrboticの動向もその流れのなかに位置づけられています。

月面居住に向けた民間輸送ビジネスの現状については、こちらの記事も参考になります。

宇宙での「長期居住」は、夢ではなく工程表に乗り始めています。車輪というシンプルなパーツひとつの受注報道に、国際協力の形と宇宙産業のサプライチェーン化という大きな変化が凝縮されている——そう思うと、今日の宇宙ビジネスニュースはまた少し違った角度から見えてくるはずです。


参考記事

〇Astrobotic Wins Lunar Wheel Contract For Italian Habitat(2026年3月9日)

〇Astrobotic has been awarded a contract by Thales Alenia Space to develop the Lunar Wheel for the Italian Space Agency's Multi-Purpose Habitation Mobility System(2026年3月7日)

〇Thales Alenia Space to Lead Design of Italy's First Lunar Habitat for Artemis(2025年7月28日)

https://spaceinsider.tech/2025/07/28/thales-alenia-space-to-lead-design-of-italys-first-lunar-habitat-for-artemis/

〇Astrobotic delays Griffin-1 Moon mission to NET July 2026(2025年10月28日)

〇2026年、月を目指す史上最大のラッシュ――民間と国家が競い合う新時代の幕開け(2026年1月6日)

〇月への民間輸送ビジネス:宇宙開発の新時代(2025年5月14日)


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