京都新聞の社説に寄せて:高市政権の「こたつ政治」と、それを許す私たちの空気
先日、京都新聞のデジタル版で配信された社説「高市政権半年 国を過つ独断専行の修正を」を読みました。読み進めるうちに、「まさにその通りだ」と深く頷きました。
ふと、「これが(高市首相の地元である)奈良新聞が書いた社説だったら、面白かったのにな」などと少し意地悪なことを思ってしまいましたが、冗談はさておき、この社説が指摘している問題の根深さは、決して笑い事ではありません。
高市政権が発足して半年。日々のニュースを追いかけていると、どうしても個別の政策や目先の出来事に目を奪われがちです。しかし、少し引いた視点からこの半年間を振り返ってみると、そこにはある特異な「政治のスタイル」が浮き彫りになってきます。
今回は、この京都新聞の社説に強く共感した一人の有権者として、現在の政権が抱える問題点と、それを許容してしまっている私たち自身の「民主主義の危機」について、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
目立つ「独断専行」と、軽視されるプロセス
社説の中で最も強く警鐘が鳴らされていたのは、高市政権における「独断専行」の姿勢です。具体的には、以下のような事例が挙げられていました。
衆院解散の強行
予算審議の混乱
国会を経ない武器輸出の全面解禁
国家情報会議の創設を急ぐ姿勢
もちろん、これらの政策そのものの中には、長年自民党が水面下で議論を積み上げてきたものも含まれているのでしょう。しかし、私が今の政権に対して最も強い違和感と危惧を抱いているのは、政策の中身そのもの以上に、「プロセスの軽視」という点にあります。
本来、民主主義における政治とは、多様な意見をぶつけ合い、時間をかけて合意形成を図っていくものです。しかし現在のやり方は、議論を省いて既成事実を先に作ってしまい、あとから法制化などの手続きで追いつかせるという手法が非常に目立ちます。
特に、武器輸出の全面解禁や国家情報会議の創設といった、国のあり方や平和主義の根幹に関わるような重大なテーマが、国会での十分な審議を経ずに進められていくことには、強い恐怖すら覚えます。プロセスを飛ばすことは、効率的であるように見えて、実は国民を置き去りにする最も危険な近道なのです。
密室とSNSから生まれる「こたつ政治」
こうした独断専行を可能にしている背景には、首相自身の政治スタイルが大きく影響していると感じます。社説でも指摘されていたように、現在の政権には「SNSで支持層に直接訴える“内向きの構え”」が顕著に見られます。
就任直後から、首相は早朝から密室にこもり、答弁の準備をひとりでこなしていると言われています。この「孤立」は広く知られた話ですが、それすらも彼女にとっては「やりやすさの温床」になっているように見受けられます。
私はこのスタイルを、ネット上の情報を継ぎ接ぎして個人視点で書かれる「こたつ記事」をもじって、「こたつ政治」と呼びたいと思います。
SNSに長時間張り付いて発信するスタイルは、どうしても“ひとりでこたつに入って考え込む時間”に似ています。自分に心地よい意見だけが目に入り、批判的な声はブロックやミュートで簡単に排除できる。そんな閉じた空間での思考が政治の中心になってしまうと、どうなるでしょうか。
結果として、国民全体にとってのメリットよりも、「発信者本人にとってのメリット(=熱狂的な支持層からの称賛)」が優先されてしまうのです。与党内での議論をすっ飛ばし、国会を軽視する姿勢は、この「こたつ政治」という密室性と自己完結性の必然的な帰結だと言えます。
「独断専行」より怖いのは、それを許す空気
しかし、ここで私たちが本当に目を向けるべきなのは、首相個人のスタイルだけではありません。社説でも触れられていたように、これだけ強引な手法をとっていても、政権の支持率は依然として6割台をキープしているという事実です。
周囲の政治家も、メディアも、そして私たち国民も、どこかで「まあいいか」「結果が出ればいいんじゃないか」と容認してしまっている空気があります。実は、この「許容する空気」こそが、結果的に政権をやりやすくさせ、独断専行を助長している最大の要因なのです。
チェック機能が失われた先にあるもの
高い支持率が“免罪符”となってしまうと、民主主義のシステムは急速に機能不全に陥ります。
与党内のブレーキが全く効かなくなる
国会での議論が単なるセレモニー(形骸化)と化す
こうしたチェック機能の弱体化が続けば、当然ながら国民の多様な声は政治に届きにくくなります。そして気がついたときには、政府の姿勢と私たち国民の価値観の間に、取り返しのつかないほどの大きなズレが生じてしまう構造が生まれているのです。
独断専行が民主主義にそぐわないのは言うまでもありません。しかし、それを「まあいいか」で済ませてしまう社会の空気のほうが、私ははるかに危険だと感じています。私たちが許せば許すほど、その異常な状態は「日常」として固定化されていくからです。
おわりに:固定化の先にある「独裁」を防ぐために
固定化した先にあるのは、京都新聞の社説でも触れられていたように、民主主義の根幹が揺らぐ状態です。
今はまだ、メディアも「独断専行」という言葉を使って批判しています。
軽い批判に留まれば、この「こたつ政治」は「それを許す空気」にさらに固定化し、もっと強い言葉で「独裁」と言われる日もそう遠くはないだろう。私は本気でそう思っています。
政治家がどのようなスタイルをとるかは、ある程度はその人の個性かもしれません。しかし、それが民主主義のルールを逸脱しそうになったとき、立ち止まらせることができるのは、私たち主権者の「声」と「視線」だけです。
「時代の流れでまぁいいか」という思考停止から抜け出し、政治のプロセスそのものに厳しい目を向けること。面倒に思えるかもしれませんが、それこそが、私たちの社会が「独裁」へと滑り落ちるのを防ぐ、唯一で最大の防波堤なのだと、今回の社説を読んで改めて強く感じました。
※本記事は、京都新聞デジタル版の社説「高市政権半年 国を過つ独断専行の修正を」を基にした個人の考察です。
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