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コルカタ駅 1996 | コルカタ (インド)

二度目のインドは、友人と二人で訪れた。そして、その日はコルカタ駅でバラナシ行きの列車を待っていた。

列車は、当たり前のように遅れていた。
どれくらい遅れているのか、いつ来るのか。駅員に尋ねても、誰ひとり確かなことは言わない。案内板の掲示もまったくあてにならなかった。

だから僕らは、ホームに列車が入ってくるたび、係員らしき人を捕まえては「これがバラナシ行きか」と尋ねて回った。返ってくる返事は「違う」か「次の列車だ」ばかり。「これがバラナシ行きだ!」を聞くことはなく、気づけば何時間もが過ぎていた。

まだ携帯電話が広く普及していない時代だった。
今のように地図も時刻表も手のひらに収まる世界ではない。調べようにも調べようがなく、ただ、待つしかなかった。

僕らはバックパックを背枕にホームに座り込み、それぞれ文庫本を開いていた。けれど、ページはほとんど進まない。
たった今読んだ一文や、顔を上げた先に見えた人の仕草、遠くから響く何かの音。そんな小さなきっかけから、どちらかが何かを呟き、そして会話が始まる。そんな時間が、ただ流れていた。

チャイ売りが通りかかれば、カップを受け取る。
サモサ売りが来れば、それをつまむ。
甘い、熱い、辛い、油っこい。
その一口ひとくちが、また新しい話題を運んでくる。

結局、ホームで待っていた時間が、八時間だったのか、それとも十時間だったのか。今となってはよく覚えていない。
すべてを話す時間があったはずなのに、何も話せていなかった気もする。
後から思い返すと、あの時間は、何かで満たされていたからこそ、同時に空っぽにも感じるような、不思議な時間だった。

確かなのは、今でもその時間を懐かしく思うこと。
そして、それがもう二度と手に入らない時間であるということだけだ。

もし今、「旅行中はスマホ禁止」なんてルールを作ったら、あの頃に近い体験ができるのだろうか。
たぶん、無理だろう。無理やり作った不便から、あの時間は生まれない。

何かが無いからこそあったものは、何かが生まれた瞬間に、静かに失われていく。
新しいものが生まれ続ける世界は、失われ続ける世界でもある。
今あるものを、まだあるものを、しっかり味わっておかなきゃなぁ。

Kolkata, India, 1996

インド・コルカタ駅の構内

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