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硬派のお座敷遊び

「小唄」あるいは「江戸小唄」と呼ばれる邦楽をかれこれ四半世紀稽古しています。日本では稽古事は多かれ少なかれ「道」に向かいます。もともと、四畳半の音曲と言われ、花柳界で育った小唄も例外ではありません。日本では師匠がいて、弟子がいるとやがては「道」になるのです。
そんな”硬派”な、遊び人が小唄をとおして見たり聞いたり体験したりした花柳界について書いてみようとおもいます。艶っぽい話は一切ありませんので、期待しないでくださいね。

そもそも小唄とは

小唄とは、江戸時代の末期に誕生した邦楽としてはかなり後発の分野です。記念すべき小唄第一号は、「散るはうき」という曲ですが、作曲はなんと松江藩の殿様、松平不昧公です。お茶を嗜んでいる方はもれなくご存じだと思います。不昧公は、二代目清元延寿太夫を大変贔屓にされていて、延寿太夫の死後に遺品を片付けていた娘のお葉が、不昧公から授かった歌を見つけ、それに節をつけたのが小唄のはじまりになりました。

小唄第一号

🎵散るはうき 散らぬは沈むもみぢ葉の 影は高尾か山川の水の流れに月の影 不昧さんの歌は、「山川の水」までです。そこに、「の流れに月の影」という一句をつけたのがお葉さんの非凡なところです。お葉さんは、清元の太夫の娘ですから清元の素養はあったものと思いますが、この節が清元調なのかどうかは私は判別つきません。それを語るには、本腰をいれて清元を稽古する必要があります。

江戸っ子に愛された小唄

この小唄、流石に不昧公作詞とあって風流です。小唄はその後、庶民のものとなり詩も、風流からははなれ、庶民の人情やため息、愚痴、お惚気のような要素が入ってきます。また、人気の芝居の名文句や名場面、名役者を巧みに埋め込んだ小唄も次々にうまれていきます。なにはともあれ、小唄は江戸っ子に愛されたというところが重要です。ですから、粋でなければならないのです。粋の一つの表現は、「短い」です。長々と唄うのは野暮です。ですから、小唄は2、3分の曲が殆どです。短いから、小さいから「小唄」なんですね。

邦楽の末っ子「小唄」 兄貴たちとの違いは

短いからといって簡単だとは限りません。小唄は邦楽としては新しい部類に入ります。ということは、それまでの邦楽全ての影響を受けているということです。「散るはうき」を作曲したのは、清元の太夫の娘でした。清元だけではありません、常磐津、河東節、一中節はもちろん、長歌の影響も受けています。最も影響を受けているのは直接の祖先と言われている「端唄(はうた)」かもしれません
少し脱線します。多少邦楽にあかるい方に「長歌と小唄はどうちがうのか」と尋ねられることが少なくありません。違いは明確です。長唄は「長い」です。段物と呼ばれる構成で最低でも三十分は演奏します。これに対して小唄は「短い」のです。2、3分で終わります。もう少し詳しくなると「端唄と小唄はどうちがうのか」という問いになります。これは難しいです。そもそも、端唄と小唄で同じ曲があります。有名なところでは、「夜桜や」という曲があります。

🎵夜桜や 浮かれからすがまいまいと 花の木陰にだれやらがいるわいな とぼけしゃんすな 芽吹柳が風に揉まれて ふうわりふうわりと おおさ そうじゃいな そうじゃわいな

吉原の日本堤の桜並木の賑わいを唄ったものですが、これなど端唄としても小唄としても演奏されます。眼に見える違いは、三味線線です。端唄も含め三味線は撥を使います。これに対して小唄だけは撥を使わずに指で弾きます。爪弾き(つめびき)と呼ばれます。実際には爪ではなく、爪の横の肉をうまく使って渋い音色にするのですが。ですから、撥をつかっておおらかに唄っていたら端唄。爪弾きで渋く唄っていたら小唄ということになります。

眼に見えない違いとして、その出自があります。端唄は誰ともなくつくらた口傳で伝播した流行歌が殆どです。今風に言えば、ストリートミュージックです。これに対して、小唄は作詞者と作曲者が記録されています。ですから、端唄は三味線も伴奏的な要素が強く弾き語りに適しています。これに対して、小唄の三味線は伴奏とは言い難いものがあります。たしかに、唄い手としては三味線がないと唄えないので伴奏と言えなくもないですが、三味線だけを聞いていると唄の節とは全く異なることに驚くと思います。しかも、そこかしこに技巧が散りばめられていとます。考えてみれば、小唄の作曲者はたいていが小唄のお師匠さん。三味線の名手です。ですから、超テクが散りばめられるのも自然なことなのでしょう。

四畳半の音曲

小唄は四畳半の音曲として花柳界で育ったと書きました。この出自は、三味線を撥を使わずに爪弾きするところに明確に表れています。花柳界のお茶屋さん(料亭とか待合とか呼ばれることもあります)の四畳半で馴染みの芸者と一献のあと、芸者の糸(小唄の三味線のことを糸と呼ぶことがあります)で、得意の小唄を二つ。理由はわかりませんが、小唄二題と言われています。別にお忍びであっているわけではないので、部屋の外に聞こえても構わないのでしょうが、そこはひっそりと差し向かいで楽しむのが江戸っ子です。ですから、小唄は大声を張り上げて唄うものではありません。ひっそりと、粋に。声でもなんでも、これみよがせにひけらかすのは野暮ってもんなんです。

小唄は自己満足?

小唄は誰に聴かせるせるわけでなく、強いて言えば糸を弾いている芸者にだけ聴こえればいいのです。四畳半ですから。そこが、他の邦楽との境目です。長唄はもちろん、清元、常磐津などは舞台音楽です。歌舞伎の場面に合わせて演奏されるものです。端唄にしても、聴衆がいることが前提です。唯一小唄だけは誰に聴かせるでもなく唄うのです。だから、客観的にみたら「自己満足」と言えるかもしれません。

私が師事している小唄・松峰派の代表曲に「酔いざめに」という曲があります。
🎵酔い醒めに 弾くともなしの爪弾きは さえぬ心の捨てどころ 馴染みになった足音も聞けなくなって 色蔦の燃えて儚き枝折り戸に もしやもしやの風の音

小唄のエッセンスがこれでもかと詰まっています。主人公は芸者でしょう。爪弾きと言っているからには小唄を唄っているのです。誰に聴かせるでもなく。それも、やるせない心に押しつぶされそうになりながら。酒で憂さを晴らしならがら。待てど暮らせどやって来ない男を想いながら。そして枝折り戸を揺らす音に、もしや・・・ と。残酷にも、それは風の音。こうした情景を愛おしいと感じるのが小唄の感性ではないかと思います。

長くなりましたので、続きは別稿にて。



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