・主体性のない主人公に葛藤(ドラマ)が生み出せない決定的理由
P:以前に寄稿した【駄作の共通構造】の記事が大好評だったので、今回はより主人公に対して掘り下げようと思い記事を書くことにした。
昨今の駄作の氾濫状況は実に目に余る。
細田守氏をはじめとして数多くの名作を手掛けた往年の名監督さえも駄作を生み出す源泉となってしまっている以上、私も創作を楽しむひとりの脳内妄想小説家として黙っているわけには行かない。
世に多くいる駄作によってカネも時間も奪われるというだけの人々の、苦痛の日々に終止符を打つべきである。
今回は【駄作の共通構造】の記事の各論としてより掘り下げた内容となっている。話の流れを掴みたい方は以前投稿した記事を読まれたし。
駄作の共通構造の記事においても述べたが、昨今の駄作と呼ばれる作品群は、決まって【主人公を軽視しすぎ】ている。
この世のすべての物語において、他の誰を差し置いてでも【最も魅力的であるべきであり、最も掘り下げられなければならない主人公】のことを駄作制作者たちはいったい何だと思っているのだろうか。
その重要性に比べれば作品に込める【制作陣の独り善がりなメッセージや圧倒的美麗なグラフィックなどカスみたいなおまけも同然である】と、敢えて言わせてもらったが、それほどに物語は主人公を中心に作られなければならないのだ。
そのことに気づかないのか、もしくは気づいていて知らんぷりしているのか。だとすれば愚か極まりないと言わざるを得まい。
なぜ作品上もっとも重要な部分に目を背け、上司やスポンサーが納得しやすいガワの部分のクオリティにこだわり続けるのか理解に苦しむ。
外見的な点にのみに注力することが制作に必要だというのならば、たとえ仕事だとしてもそんな作品は作るべきではない。
それは何故か。殆どの場合、100%の確率でユーザーが満足できない駄作になるからである。
とはいえ物語制作者としてのあるべき自己実現を放棄して、サラリーマン的に給料をもらえていれば良いという考えならば致し方ないかも知れない。
この私とて別に物語制作が好きな人間ばかりが物語を作っているわけではないということくらい最低限度理解している。
しかし私は【物語制作に携わる人間すべてが、自分の作る物語を心から愛してほしい】と願っている。
どんな企画の経緯で作ろうと、どんな社会的障害があり、会社にどんなに嫌な上司がいたとしても、である。
R:主体性とは信念である。
信念とは辞書的な意味合いで言えば【自分自身が信じる価値観や、目標に対する根強い確信】ということが出来る。
賢明なる読者諸氏におかれては、「じゃあ陰キャで自信もやる気もない主人公はどうするの?」と思われる方もいるかもしれない。
この点は非常に勘違いしやすい部分だが、非積極的な主人公であっても主人公で有り続ける事はできる。
なぜなら、最初からこれといった信念を持っているわけではない主人公であっても、物語のどこかしらの段階において自ら信念を100%必ず見つけ出すからである。
むしろこういった物語においては、それまで受動的だった主人公が主体的に信念を持つに至るエピソードを序盤を中心に描いていくものなのだ。
それが主人公に対する掘り下げというものであり、読者視聴者が納得する魅力を主人公に付与することに直結するのである。
以下は、この信念について解説していく。
E:さて、主人公に求められる物語上の役割をざっと3つほどピックアップしてみた。細かい点を言えばきりが無いが、概ね以下の3つ程度に収まるものと考えてもらいたい。
①:信念に沿った行動によって物語を展開し、推進していく作品におけるメインエンジンとしての役割
先に【主人公に一切魅力がなく、物語上の役割を果たせずに埋没している】と駄作の共通構造の記事において述べたが、まず主人公には何をおいても信念がなければならない。
では劇中で主人公が持つべき信念とは一体何なのか?
物語開始から主人公には様々な問題、課題、トラブルが降り掛かってくる。
現状にこのまま足を止めていては、決して物語は進まず、また主人公が望む未来も手に入れようがない。何はなくとも歩き出さねばならないのだ。
何かをきっかけにして自ら主体的に動くにせよ、何かに巻き込まれて受動的行動を余儀なくされるにせよ、である。
この信念をわかりやすく言い換えるのであれば、目的意識や行動原則と言い換えても良い。
上記の非積極的主人公の代表としてうってつけであるのが庵野秀明監督作品、新世紀エヴァンゲリオンに登場する碇シンジである。
主人公である碇シンジは父親に呼び出されてエヴァンゲリオンに乗って使徒と戦うように言われる。
急にそんなことを言われて「無理だよ!」と拒絶するシンジの前に、負傷した綾波レイが登場する。
傷だらけの体にも関わらず、痛みをおして出撃しようとするレイをみて、シンジは彼女の代わりに主人公としての信念をもって使徒と戦う決意を示すのだ。
では、この時に碇シンジに芽生えた信念とは一体何なのか?
それは【他者の苦痛を思いやる慈悲心であり、他者の代わりに犠牲を引き受けようとする勇気】である。
人、それをヒューマニズムとも言う。
主人公に欠かせない信念とは、まさにこのことなのだ。
古来より物語に欠かせないエッセンスとされてきた崇高なる自己犠牲、他者貢献の精神である。
私が以前著した【物語における主人公論】で述べていたように、【主人公とは我々読者が理解できる倫理観や価値観を持ち、かつ困難に戸惑いながらも立ち向かい、人助けを是とし利他的な行動を勇気と決断をもって選択できるヒーローにふさわしい人物。あるいは試行錯誤と紆余曲折の後に、愛する人と幸せになる人物】なのである。
物語というものは、まさにこの主人公の信念を描き、表したものでなければならない。
しかし翻って細田守監督作品の映画【果てしなきスカーレット】の主人公であるスカーレットの場合はどうだろう。
父の復讐を願ってやまない彼女が、聖から説得されて復讐を諦めるようであるならば、そんなものは最初から信念でもなんでもない、ただの雑念である。
人間として絶対に譲れない部分。それこそが信念なのだ。渋谷の交差点でダンスをするような日和り方では碇シンジが最初に抱いた綾波レイを助けるが如き信念など果たしようがないではないか。
もし物語上、スカーレットが主人公たる資格を得ることがあるのであれば、それは無事に最初に抱いた信念である父親の復讐を果たし墓前に花を手向けることが出来た上でのことであろう。
達成できもしない復讐劇をテーマ至る道筋に据えるなどということが、作劇上如何に愚かなことであるか賢明なる読者諸氏にもよくお分かりいただけたと思う。
一見すると誤解しやすい事例として、スクウェア・エニックス制作のファイナルファンタジーⅣの主人公セシルのように、序盤では暗黒騎士として偽りの信念を与えられているという状況もありうる。
しかし、それは作品上体現されるべき正しい信念とは明確に異なる偽物の信念であることを間違ってはならない。この点、間違いなきようにされたい。
作品の迷走とは、往々にしてそうした主人公の信念を軽視することによって生み出されるものなのである。
②:読者視聴者の目や耳に加えて感情移入先としての心の入れ物としての役割
すべての物語において、主人公は感情移入先、つまり読者視聴者の目であり耳であり、時に心を映す鏡となる。
もっともコナン・ドイル著のシャーロック・ホームズシリーズなどにおける主人公はいわゆる視点人物とは別である場合もあり、そういう作品には多くの場合でワトソン君のような、読者視聴者と同じ目線で物事をみる感情移入先のキャラクターが用意されることが大半である。
そういったミステリージャンル特有の都合もあることを、先ず示しておきたい。
その上で、物語における主人公の果たすべき役割として大きなものが【読者視聴者の感情移入先】としての役割である。
読者視聴者は、すべての場合においてこれから知る物語においては初心者となる。
同じようなジャンルに親しむことの多いユーザーは、すぐそれとわかる世界観やキャラクター造形を好むことが多い。しかしそれとは別に、その作品世界においては全員が【例外なく初見さん】なのである。
で、あるならば、当然その世界について全く知識がない状態と言っても過言ではなく、まず主人公の最初の仲間となる人物から往々にして世界に対する手ほどきを受けることになる。これがゲームであればいわゆるチュートリアルというものに該当する。
昨今ではアークナイツエンドフィールドに代表されるソシャゲの多くの主人公が、共通して記憶喪失という設定を持っていることに対する食傷気味の意見も散見される。
しかしながら、この主人公が記憶喪失である。という設定にはこれ以上ないほどの利点がある。
それはいったい何なのか?
主人公を世界の初心者としてのユーザーの視点人物に据えるのにうってつけである。という点である。
ソシャゲの多くがSFであったりファンタジーであったり独自の歴史や世界観を持っており、加えてそれらにまつわる固有名詞の多さも上記同様、食傷気味と揶揄されることが多い。
だが主人公は何も知らない。故にすでに世界に参加しているキャラクターであれば当然知っているであろう過去の歴史や概念なども、記憶喪失である設定があるからこそ、逐一登場キャラクターたちが主人公を通してユーザーに説明する理由となっているのだ。
ほとんどの物語は、主人公の視点で展開される。それは一体なぜなのかということを賢明なる読者諸氏にはよく考えてもらいたい。
それほどに主人公がどうやって世界を知るのか、ということがユーザーにとっても非常に重要なのである。
③:主人公が信念を成し遂げることによって表現される作品のテーマの体現者としての役割
これはちょっと理解が難しい概念かもしれない。
定義する人によっては諸説あるものの、賢明なる読者諸氏は物語のテーマと言われて何を想像するだろうか。
テーマとは漢字で主題と書く。つまり物語の中で主に描くべきものだと言うことが出来る。
参考までにAIに言わせると。
【物語のテーマとは、作品の根底にある「核心的な問い」や「人生の真実」であり、物語に一貫性と深みをもたらす「芯」の要素。「愛」「勇気」「復讐」などの抽象的な題材ではなく、「愛は何をもたらすか」「人はなぜ生きるのか」といった、登場人物の葛藤や変化を通して描かれる、作者の伝えたい人生の側面を指す】
だそうだ。
ざっくりと言うかかなり抽象的な説明ではあるものの、とりたてて間違っているわけではない。
私が定義する作品のテーマとは、【主人公が最終目標を達成することによって描かれ得るものである】
生死を問わない主人公の最終到達点、あるいは作品のシナリオそのものの結末とも言えるかも知れない。
これに関しては我が心の師である(と、勝手に思っている)谷口剛司氏も同様のことを仰っている。つまり「テーマとは主人公の信念が最終的に体現するものである」ということだ。
上記で果てしなきスカーレットについても少し述べたが、この作品における【信念は復讐の成就】であったはずである。にも関わらず、制作陣の【思惑が復讐の否定】に傾きすぎた結果、テーマのブレを起こして駄作と評されることになってしまった。
そう、テーマのブレは駄作を生み出すものだと言って過言ではない。
例としてあげるのであれば、三条陸脚本の名作マンガ【ダイの大冒険】では主人公である勇者ダイが様々な葛藤と困難を乗り越えて大魔王バーンを打倒し、自己犠牲の末に世界を救ったというお話である。
では、この作品におけるテーマとは一体なんだろうか?ジャンプ黄金期の作品によくある。友情だろうか、努力だろうか、勝利だろうか。
もちろんそれぞれに欠くべからざる重要なパーツであることは疑いようがない。しかし、【大切なのはそれらの結果によって一体何がもたらされたのか】なのだ。
私は【ダイの大冒険】におけるテーマは、【友情・努力・勝利の結果もたらされた平穏であり平和】である。と思っている。
そう、そもそもダイたちはなんのために戦っていたのか。魔王ハドラーを経て大魔王バーンを倒すためでもあるが、それは最終目的に至るためのあくまで小目的に過ぎない。
では大目的とは一体何なのか?それは【平和の体現】である。
そう、ダイの大冒険のテーマは【平和】なのだ。
よく物語の道中に描かれるものがテーマであると誤解されることがある。
しかし、ジャンルを問わずバトルものであれミステリーであれラブコメであれ、劇中で描かれることはすべて最終目的に行き着くまでの過程の話であり、未だ完成せざる物語なのである。
物語は完結することによって完成する。ひとつひとつパズルのピースをはめて全体像を完成させていき、最後のピースをはめた瞬間に体現されるものこそが、その作品のテーマと言うものなのだ。
P:ここまで語れば要諦は見えてきたことであろう。
ここで先に述べたことをもう一度繰り返させてもらおう。
主人公が持つべき主体性とは、自ら困難に立ち向かい葛藤の末に最終目的を達成するべく邁進すること、それこそがとどのつまり主人公の信念なのだ。
今ある問題だらけの現状から努力を持って脱却し、自分や仲間や世界にとってより良い未来を目指すこと。それこそが、主人公に求められる主体性の本質なのだ。
葛藤とは、信念に基づく行動を取ることによって主人公に降り掛かってくるトラブルの数々である。最初から諦めている人間はそもそも葛藤などしていない。
で、あるならば当然、自ら信念を持たずに主体的になんの行動も起こさない主人公に葛藤など起こせるはずはないのは自明の理である。
主人公は物語に登場する多くのキャラクターがそうであるように、一個の意志を持った存在である。
そして独自の意志と思惑を持った様々なキャラクターが複数登場することによって物語は展開していく。
世界に息づく一人ひとりのキャラクターがいて、その中に主人公という物語の中心人物が生まれる。
【ひとつの物語を作るということは、ひとつの世界を手ずから作ることに等しい】と、私は思う。
私はひとりでも多くの人が【物語という世界を作る楽しみ】を経験してほしいと願っている。
そのために物語学の記事を今後も更新し続けるつもりである。
