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茶道人口減少の3つの原因

●減少している3つの原因

本記事は「茶道人口減少の原因について」の第三章です。
 ではいよいよ本題に入りたいと思う。
 ここでは私が流派内外で得てきた個人的経験や知識に基づいて書く。3つの原因とは、「免状の価値の凋落」、「流派運営の茶道離れ」、「教授者の茶の湯離れ」である。

・免状価値の凋落

 流派の基盤たる段階的免状制度は、茶道界だけでなく、社会的な価値を失った。既にその看板は形骸的なものに過ぎない。免状不要の理由を6つの点から検証したい。

1、 段階的免状制度に至って、本来的意味性が失われたため。
 →かつては、師の教えを全うした者だけが授与されたが、時代を経て段階的な免状制度となったことで、価値基準が多様化し、結果「教えを伝授した証」という本来的価値を失った。現代においては、一般社会だけでなく、流派内においても、既にその価値は形骸化している。今や、免状は個人的充足にのみ用いられる。

2、教授者の免状であるため、教授者を目標としない会員にとっては不要であるため。また、複雑な点前を希望する者が少ないため。
 →稽古場を開かない会員にとって、茶道の楽しみは高位の免状を持つことや、免状を取るごとにやたら複雑怪奇な点前を覚えることではないだろう。現代の多様化した目的に免状は対応できていない。

3、免状取得の際の申請費、式典参加費などが高額であり、かつ数年、または十数年ごとに定期的に求められるため。
 →都度、数十万単位の費用がかかる。地方の者であるなら、自身だけでなく師の顎足枕と式典参加費を負担しなければならない。無論、古き慣習、ご挨拶、御礼も避けられない。取得したところで費用対効果が少ないことが大きい(以前はあった)。

4、免状がなくても、茶の湯活動ができるため。
 →SNSの発展によって茶道表現は師の許可を不要とするものとなった。これまでは、教授者となって稽古場を開いたり、茶会を開いたりしなければならなかったが、それが不要となった。茶の表現は一枚の写真があれば良い。それが正しいかは別として、人は容易な方を選ぶ。

5、免状が不要である会員が増えたことで、教授者にとっても不要となったため。
 →免状推挙のキックバックや、弟子からのご挨拶、御礼などが大きな収入となっている教室にとっては死活問題であるが、初めから不採算で運営している教室の教授者には、免状収入はあくまでも特別収入に過ぎない。

6、教授者たちが社会的地位を喪失したため
 →かつて、茶道の先生といえば世間一般から一眼置かれる存在であったが、戦後から現在までの活動の結果、固定化されたマイナスイメージ(金持ち、厳しい)を跋扈させるのみとなった。他の文化と比べて、茶道の教授者が一般社会に対して、どんな利益を寄与しているかを証明できていないことが大きい。


 流派構造を担う一つの柱である免状制度は、今後も切っても切り離せぬものだろう。
 しかし、日本文化のステイタスに対して興味を示さなくなった若者たちにとって、免状は一体如何なる価値を持つのだろうか。例えば、普段の生活でも、役職名がやたら羅列されている名刺をもらって辟易することはないだろうか。もはや現代人にとって免状は魅力的でないし、社会的意味を成さない。
 社会的地位よりも、個人や、個人に関連する集団において、どれだけ機能的で、社会に寄与できる価値があるかを証明しない限り、免状制度はさらに廃れていく。

・流派運営の茶道離れ

 免状制度と対をなす流派のもう一つのヒエラルキー、「運営」。こちらに至っては、もはや茶道の実力はほぼ関係がないものとなった。もちろん教授者以上であることは前提だと思われるが、それ以上の差は求められない。それよりも流派内における政治的力学や、人的縁故がより大きな権威を持つため、流派が茶道そのものではなくなってしまったと考えらえる。
 流派が生まれてから300年以上が経つ。そのため流派の上位部にいる人々は、本人だけでなく、二世代以上前の代から知り合いであったりするため、自然に既得権益層が生まれてしまうのは致し方ない。しかし、それをただ守るだけの運営では、今後、集団が力を失っていく時代において、何の力も持たなくなるのではないだろうか。
 純粋に、茶道文化のさらなる拡大、成長を志す者にとっては、流派内の極めて保守的で特異なしきたりは、未来への弊害であると言える。


・教授者の茶の湯離れ

 最後にもう一つ原因を挙げる。この原因こそが、会員減少の最も重大な原因であると考えている。
 それは「教授者の茶の湯離れ」だ。ほとんどの教授者が茶の湯を表現できなくなってしまった。茶道は、それ以前に茶の湯なのだから、常に創意工夫が求められるが、大多数は規範を守ることに専念しているように思う。
 茶道はつまらない。大寄せの茶会はつまらない。未経験者だけでなく、経験者からこのような声がよく聞こえる。これは大いなる間違いだ。つまらないのは、亭主と客人である。昨今の茶会の亭主、客人は、ほぼ茶道の教授者である。つまりは、つまらない教授者が増えたことで、茶道に対するマイナスイメージが比例して増大した。結果、会員が減少した、と考える。その証拠に、常に創意工夫を持って、初心者と経験者の境なく、茶の一服を楽しませる教授者の稽古場は、会員が増えている。教授者は、自身が教授者であること以前に、茶会を開く以上、己が茶人であることを認識しなければならない。それは、流派のルールを守ること以上に大切なことではないだろうか。 
 教授者が亭主となると、途端につまらなくなるのは何故だろう。もしかしたら、「教える」と「伝える」を混同してしまっているのではないだろうか。
 初心者も交えての茶会となると、基礎的な所作を教えるワークショップと成り下がる。教授者が最も感動させなければならないのは、初心者であるのに、茶碗を回したり、畳の歩き方を教えている。果たしてそれは面白いのか。それは教授者が亭主として伝えたいことなのだろうか。
 これは、一般社会にも言えることだと思うが、人間、未経験のことに挑戦するとき、根本的な部分を見ずに、ついついそれまでの経験や知識で表面だけを解決しようとしてしまう。それは大いなる間違いで、未知なる問題には、未知なる解決法を編み出さねばならない。常に変容する客人(同じ人物であっても、同じ状態であることは二度とない)に対し、毎度同じ答えを提示することは、茶人としてあるまじきことに思う。

まとめ

 「免状価値の失墜」、「運営の茶の湯離れ」、「教授者の茶の湯離れ」、と3つの項目で茶道人口減少の原因を説いた。
 先年、『日々是好日』という映画が流行った。日々の稽古主義の映画であった。茶道の本番である茶会については、あまり良い印象では描かれていないことも気になった。茶道や茶の湯の面白さは、本来、稽古ではなく、亭主と客人の交わりにある。しかし、戦後は特に「お稽古」の重要性ばかりに目が当てられ、盲目的な努力好きの日本人の性格を顕著に示される形となって、ヒットに繋がったと考える。無論、師弟の関係性は、利休の頃より非常に大切にされているが、本質はそこではないのではなかろうか。
 
 次の章では、原因ばかり言ってもいられないので、「茶道のこれから」について記す。

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