怖い夢を見てるみたい――次男のせん妄に教えられたこと
緩和ケア病棟では、死期が迫ると多くの患者さんにせん妄が起こる。
原因を取り除くことで改善するせん妄もあるが、全身状態の悪化や臓器不全を背景に起こる終末期せん妄は、元の状態へ戻ることが難しい場合も多い。
何度説明しても理解を得られない。寄り添っても、穏やかに声をかけても、落ち着いてもらえない。ベッドから起き上がり、点滴を抜こうとし、病棟の外へ出ようとする。止めれば怒る。手を振り払い、大声を上げることもある。
終末期せん妄は、看護師泣かせの症状である。
そして、わが家の次男もまた、高熱を出すと高い確率でせん妄を起こす。次男の場合は、熱が下がれば元に戻る。
ある時、高熱を出して、次男が布団で眠っていた。静かに寝ていたはずの次男が、突然、ぱっと目を開けた。
きた。私はすぐにそう思った。
次の瞬間、次男は勢いよく起き上がり、突然走り出した。目は見開かれ、どこを見ているのか分からない。私たちの顔を見ているようで、見ていない。声をかけても反応しない。
「危ないよ」
「止まって」
「こっちにおいで」
何を言っても、まったく指示が入らない。そして、なぜか突然、大きな声で応援歌を歌い始めた。
普段なら笑ってしまうような姿かもしれない。けれど、その時の次男の表情は楽しそうではなかった。目が据わり、何かに追われているように必死だった。
私は咄嗟に叫んだ。
「パパ、捕まえて!」
夫が次男を抱き止め、まずは転んだり、どこかへ走っていったりしないように安全を確保した。暴れる次男に、なんとか解熱剤を飲ませる。こちらが何をしているのか、次男には分かっていない。抱き止められることも、薬を飲まされることも、本人にとっては怖かったのかもしれない。
それでも、けがをさせないためには止めるしかない。
しばらくすると、次男は再び眠りについた。
まだ体が小さいから、大人二人でどうにか安全を守ることができる。けれど、これがもっと大きくなったらどうするのだろう。毎回、そんな不安が頭をよぎる。
その後、熱が下がり、いつもの次男に戻った時、私は聞いてみた。
「お熱が出た時、おかしくなるやろ。あの時って、どんな感じなん?」
すると次男は言った。
「自分でも、どうしていいか分からん」
「怖い夢を見てるみたい」
その言葉を聞いた時、私は初めて腑に落ちた。
そうか。せん妄の中にいる本人も、自分がなぜそんな行動をしているのか分からないのだ。怖い夢の中にいるような感覚で、自分でも自分を制御できない。
そんな状態の人に、
「危ないよ」
「やめてください」
「ここは病院ですよ」
「大丈夫ですよ」
と説明しても、そんなことは知ったこっちゃない。本人にとっては、今まさに恐ろしい何かが起きている。
次男が突然走り出したのも、応援歌を歌い始めたのも、ふざけていたわけではない。怖い夢のような世界の中で、必死に何かから逃れようとしていたのだと思う。
この次男の言葉は、私にとって、とても貴重な体験談だった。
終末期せん妄の患者さんから、せん妄の最中に何を感じていたのかを詳しく聞けることは、ほとんどない。状態が改善せず、そのまま亡くなる人もいる。言葉で振り返ることが難しい人も多い。
だから私は、それまでせん妄を、看護師の側からばかり見ていた。
言うことを聞いてくれない。何度説明しても伝わらない。転倒しないか心配になる。点滴を抜かれないように見守らなければならない。他の患者さんの対応もあるのに、目が離せない。
どうしても、「対応が難しい患者さん」という見方になってしまうことがあった。
けれど、次男の言葉を聞いてから、患者さんの見え方が少し変わった。
理解してくれないのではない。理解できる状態ではない。
言うことを聞かないのではない。本人も、自分でどうしてよいのか分からない。
私たちが見ているのは、ベッドから起き上がる人、点滴を抜こうとする人、大声を上げる人である。けれど本人は、怖い夢のような世界の中で、何かから必死に逃げようとしているのかもしれない。
もちろん、それが分かったからといって、せん妄への対応が簡単になるわけではない。転倒を防ぎ、点滴やチューブを守り、本人と周囲の安全を確保しなければならない。どれだけ穏やかに関わっても、落ち着いてもらえないことはある。
それでも、
「この人は私を困らせようとしているのではない」
「この人自身も、どうしてよいのか分からないのだ」
そう考えられるだけで、向き合い方は変わった。説得して分からせようとするのではなく、恐怖の中にいる人として見る。言葉が届かなくても、安全を守りながら、少しでも苦痛や不安を減らす。
次男が話してくれた、
「自分でもどうしていいか分からん」
「怖い夢を見てるみたい」
という言葉。その貴重な体験談に、私は看護師として教えられた。
次男のせん妄を通して、私はようやく、せん妄の中にいる患者さんと向き合えるようになった気がする。
