お札はまだ、温かい。「くどい」私の懲りない反省文。
一万円札を、
洗濯乾燥機で回してしまった。
洗濯物を取り出した時、お札をポケットに入れたままだったことに気がつく。
お札は破れもしない強靭な紙質でできているらしく、原型は留めていた。
けれど熱風を浴びた紙は、ひと回り縮んでいた。
実は、
初めてのことではない。
何度も
やってしまっている。
学習しないな、と自分でも思う。
縮んだお札を持って、申し訳なさそうに店員さんに聞く。
「偽札ではないんです、使えますか?」
以前までは、聞くことができた。
最近、聞く場所が
減ったように感じる。
自動精算機は縮んだお札を跳ね返す。
聞ける人が、そこに立っていない。
これはただ、私がお札を乾燥機にかけてしまっただけ。
繰り返さないようにすれば良いこと。
それを繰り返してしまった先に、人がいないことに、少し寂しさを感じる。
洗濯乾燥機の洗礼を受けていないお札は、音を立てて吸い込まれていく。
自動精算機の中へ一瞬にして。
汗水流して、手元に届いたお札。
自分が差し出していたのは、
お札だけじゃなかった。
「偽札ではないんです」
と前置きする、あの一瞬。
あれはお札と一緒に、不格好な自分を受け取ってもらう、小さな挨拶だった。
だらしなくて、
何度も同じ失敗をして、
それでも生活を続けている人間。
その不格好さを、縮んだお札と一緒に差し出す。店員さんが「大丈夫ですよ」と受け取ってくれる。
それで成立していた、
ささやかな交換。
機械は綺麗な、お札しか受け取らない。
「すみません」を受け取る口がない。
縮んだお札を弾かれるたびに、
弾かれているのはお札ではなくて、
私の不格好さのほうなのかもしれない。
そんな風に感じる。
世の中には、
説明そのものを
持たない存在がいる。
泣くことでしか表現できない赤ん坊。
鳴き声で何かを訴えている動物。
意思決定が困難になっていく、ベッドの上の人。
言葉を獲得する前。
そもそも人間の言葉を持たない側。
かつて持っていた言葉を、少しずつ手放していく時間。
人の一生を縦に貫いて、
「説明できない時間」がある。
赤ん坊の泣き声は、
欠落じゃなく表現だ。
動物の鳴き声も、
ベッドの上の人の沈黙も、
整わないままの感情も、
本当は何かを訴えている。
受け取る側に、それを読み取る体温があるかどうか。
問われているのは、
いつもそちらのほうだ。
機械は読み取らない。
自動精算機は聞かない。
「何があったの?」
「なぜ縮んだの?」
「誰の手元から来たの?」
縮んだお札に、誰も聞かない。
処理対象じゃないのだろう。
仕事で会う人の中にも、
整った言葉で説明できない人がいる。
書類が書けない人。
感情を順序立てて話せない人。
窓口で「該当しません」と弾かれる人。
価値がないわけじゃない。
受け取り口の形が、
合わないだけ。
縮んだお札と、似ている。
それでも…
SNSで、自信のなさそうな小さな言葉に、そっと反応してくれる人がいる。
独り言のような投稿に、
静かにつくスキ。
誰にも見られていないと
思っていた呟きに、
数ヶ月後に届く返信。
目には見えにくい、誰か。
「人の温度がなくなった」のではなくて、温度のある場所が見えにくくなっただけなのかもしれない。
レジの向こうから、別のどこかに移動しただけ。
読み取る体温を持った誰かは、形を変えて、まだそこにいる。
断言はできない。
そう思いたいだけ、かもしれない。
ただ不在を嘆くより、見えにくい場所にいる拾い手のことを信じていたい。
赤ん坊の泣き声を聞き分ける誰か。
動物の声に耳を傾ける誰か。
沈黙の意味を読もうとする誰か。
縮んだお札を「使えますよ」と受け取ってくれる、どこかの店員さん。
その人たちはたぶん、まだいる。
掌に、縮まったお札を置いてみる。
さっきまで乾燥機の中で熱風を浴びていたお札は、まだ温かい。
形が変わっても、
温度は残っている。
価値もたぶん、
消えていない。
繰り返す失敗を、
グダグダと語る私に、息子は言う。
「くどい」
その言葉も、また
優しさなのかもしれない。
