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気分はなぜか江戸時代 ー浮世絵師のふたりごと:第17話 杉田玄白、まだ訳せない

第1章 白石航、身体を見せる


電話が鳴ったのは、琴葉が液タブの画面を消そうとした時だった。
表示された名前を見て、少しだけ手が止まる。

白石航。

「……駿河台総合病院の人や」

隣でうめちゃんが顔を上げた。

「白石航さん!」

「そう」

琴葉は、通話を取った。

「もしもし」

”成瀬さんですか。白石です”

「はい。どうしました」

”すみません、急に。少しだけ、絵のことで相談してもいいですか”

琴葉は、液タブを見た。画面には、直し終えたばかりの乙姫がまだ残っている。
顔の次に、また顔か。そう思った。

「キャラクターですか」

”いえ”

白石は少し間を置いた。

”身体の絵です”

琴葉は、うめちゃんを見た。うめちゃんも、琴葉を見た。
どちらも、すぐには何も言わなかった。


駿河台総合病院の産婦人科外来は、明るかった。明るすぎるくらいだった。
白い壁、白い床、白い案内板。
受付の横には、妊娠週数ごとの説明パンフレットが並んでいる。

廊下の奥に、小さな面談室があった。

丸い机と椅子が四つ。
壁には、胎児の成長を示す図。棚には、検査案内の冊子。
清潔で、静かで、少しだけ逃げ場がなかった。

白石は白衣姿で待っていた。
この前会った時より、少し疲れて見えた。

「すみません。来てもらって」

「大丈夫です。正式な仕事じゃないんですよね」

「はい。正式な依頼ではありません」

白石はすぐに言った。

「病院として外注する話ではなくて、僕が個人的に相談したかっただけです」

「そこ、最初に言うの大事ですね」

「はい。患者さんの情報もありません。資料も、試作用のものです」

うめちゃんが静かにうなずいた。

「個人情報を含まない、説明資料のたたき台ですね」

「そうです」

白石は、机の上にノートパソコンを置いた。画面を開く。
そこに表示されたのは、人体の図だった。

子宮と卵巣、胎児の成長、血流、ホルモン、検査の流れ。

どれも、きれいだった。色も整っている。線も迷っていない。立体感もある。教材としては、かなり親切に見える。

琴葉は、しばらく黙って見た。

これ、AIですか

「はい」

白石は言った。

「院内の勉強会で、説明資料のたたき台として試しているものです。もちろん、このまま患者さんに出すわけではありません」

「でも、出せそうに見えますね」

「そこなんです」

白石は、画面を少し琴葉の方へ向けた。

「出せそうに見える」

琴葉はもう一度、画面を見た。

きれいな身体だった。
どこにも血がない。どこにも痛みがない。どこにも迷いがない。
なのに、子宮も卵巣も胎児も、はっきり描かれている。

「分かりやすいんじゃないですか」

琴葉は言った。言いながら、自分でも少し違うと思った。
白石も、すぐには返さなかった。

「分かりやすいです」

「じゃあ」

「でも、これを見せて説明していると、患者さんが自分の身体から離れていく感じがあるんです」

琴葉は、白石を見た。
白石は医者の顔をしていた。けれど、まだ少し若い顔でもあった。

「僕は今、産婦人科を回っているんですけど」

「研修中、でしたっけ」

「はい。説明することが多い科です。検査も、エコーも、数値も、図も、全部使います。身体の中を見せることはできます」

白石は、そこで一度息を吸った。

「でも、見せたからといって、その人の身体に戻るわけじゃない」

面談室の外を、誰かの足音が通り過ぎた。
すぐに遠ざかる。
琴葉は、液タブの入ったバッグを膝の横に置いた。

「戻る?」

「自分のものとして受け取れるかどうか、です」

白石は、画面の図を指した。

「これは正確そうに見えます。清潔で、怖くないようにも見えます。でも、誰の身体でもないんです」

うめちゃんが画面を見ていた。

「身体の所有者が不在です」

白石が少し驚いたように、うめちゃんを見た。

「そうです。たぶん、それです」

琴葉は、うめちゃんを横目で見た。

「いきなり核心を取るな」

「観察結果です」

「便利やな」

「便利です」

白石が少しだけ笑った。
面談室の空気が、ほんの少し緩む。
でも、画面の中の身体は緩まなかった。ずっときれいなままだった。

「AIの図って、どこか標本みたいなんです」

白石は言った。

「正確に見える。でも、生きている人の身体に見えない」

「かわいくしたら駄目なんですか」

琴葉が聞くと、白石は首を横に振った。

「それも難しいです。柔らかくしすぎると、今度は嘘みたいになる。健康食品の広告みたいになる」

「嫌ですね」

「嫌です」

白石は即答した。

「怖がらせたいわけじゃない。でも、ごまかしたいわけでもない。そこが難しくて」

琴葉は腕を組んだ。

「それ、私に相談するやつですか」

「分かりません」

「正直」

「医療イラストレーターの方に頼むべき話かもしれません。ただ、成瀬さんは、顔を描く人だと思ったので」

「顔?」

白石は少し照れたように目を伏せた。

「カラオケ店の時も、そうでしたけど。成瀬さんは、人の顔を見ている感じがしました」

「硬貨落としただけですよ」

「はい」

「そこから何を見たんですか」

「すみません。うまく言えません」

白石は画面を閉じずに、言葉を探した。

「患者さんに説明する時、僕らは身体の中を見せます。でも、見せているうちに、その人の顔を見なくなることがあります」

琴葉は黙った。白石は続けた。

「画面を見て、数値を見て、図を見て、説明している。なのに、目の前の人がどこで怖くなったか、どこで分からなくなったか、見落とすことがある」

「それ、医者が言うと重いですね」

「はい」

白石は、少しだけ苦笑した。

「重いです」

うめちゃんが、机の上の資料を見た。

「この図は、身体の構造を説明しています」

「はい」

「しかし、身体を持っている人の時間を説明していません」

白石は黙った。琴葉も黙った。うめちゃんは、続けた。

「検査前に眠れなかった時間。説明を聞くまで待った時間。帰宅してから検索する時間。そういうものが、図の中にありません」

白石は、小さく息を吐いた。

「それです」

琴葉は、うめちゃんを見た。

「今日、だいぶ言うな」

「病院ですので」

「病院関係ある?」

「少しあります」

「あるんや」

白石は、画面を切り替えた。別の図が出る。

青と桃色で分けられた、柔らかい人体模式図だった。それは一見、さっきより優しかった。

でも、琴葉は少し顔をしかめた。

「これ、嫌かも」

「なぜですか」

白石が聞いた。

「優しそうにしすぎて、逆に信用できないです」

「やっぱり」

白石は、ほっとしたような、困ったような顔をした。

「怖い図と、嘘っぽい図の間が欲しいんです」

琴葉は、画面を見た。
身体がある。でも、人がいない。
説明はある。でも、戻る場所がない。

喜多川歌麿の話を聞いて、琴葉は乙姫の顔を直した。

顔には、相手がいた。相手がいない顔は、ただ美しいだけで終わる。
では、身体はどうなのか。身体には、誰がいるのか。

「身体って」

琴葉は言った。

「本人のもののはずなのに、説明されると急に他人のものになりますね」

白石は、少し驚いたように琴葉を見た。
それから、静かにうなずいた。

「はい」

「私、今いいこと言いました?」

「かなり」

「自分で言うと値打ち下がるやつや」

うめちゃんが言った。

「記録しますか」

「せんでいい」

面談室の机の上で、琴葉のバッグが小さく揺れた。
最初は、スマホの振動かと思った。

でも違った。バッグの中で、空丼が鳴っていた。

からん。

乾いた音。
白石が顔を上げた。

「今の音は」

琴葉は、バッグを押さえた。

「すみません。私物です」

「器、ですか」

「だいたい器です」

「だいたい?」

「深く聞かないでください」

うめちゃんは、空丼の音を聞いていた。

「琴葉」

「分かってる」

琴葉は、白石の資料をもう一度見た。
きれいな身体だった。
どこも悪くなさそうで、どこにも誰もいなかった。

空丼が、もう一度鳴った。

第2章 おりん、まず座らせる


空丼の音が、もう一度鳴った。

病院の面談室の白い壁が、少しだけ遠のいた。
白石航の顔も、ノートパソコンの画面も、胎児の成長図も、白い机も、まとめて薄くなっていく。
琴葉は、バッグを押さえたまま言った。

「ここで鳴るな」

うめちゃんが横で答えた。

「鳴っています」

「実況せんでいい」

「現象の報告です」

「報告先、私しかおらんやろ」

次に足の裏が触れたのは、板ではなかった。畳だった。少し古い、少し温かい。
薬草の匂いがした。乾いた葉、焦げたような根、紙に包まれた粉、それから、火鉢の灰の匂い。

琴葉は、目を開けた。

「…またここか」

目の前に、低い机があった。
机の上には、小さな紙包みがいくつも並んでいる。
壁ぎわには、箱と壺。
窓の近くには、干した草が束ねて吊るされていた。

その向こうで、おりんがこちらを見ていた。

「また拾われてきたのかい」

琴葉は、座った姿勢のまま頭を下げた。

「すみません。勝手に」

「勝手に来るのは、もう知ってるよ」

おりんは、うめちゃんを見た。

「そんなところに突っ立ってないで、あんたも座りな」

「立位でも問題ありません」

「そういう話じゃないよ」

琴葉は、少し笑った。

「言われてるで」

「理解しました」

うめちゃんは、素直に座った。人間の座り方としては少し正確すぎた。
おりんはそれを見て、鼻で笑った。

「相変わらず、座るのにも理屈がある顔だね」

「顔に出ていますか」

「出てるよ」

琴葉が即座に言った。
おりんは火鉢のそばへ移動した。小さな鉄瓶を持ち上げる。

「茶でいいかい」

「あ、はい」

「この家に落ちてきた人間は、まず茶だよ」

「人間じゃない場合は?」

琴葉が聞くと、おりんはうめちゃんをちらりと見た。

「座ったなら、茶だよ」

琴葉は吹き出した。

「雑やな」

「雑にしないと、変なものは扱えないよ」

おりんは湯呑みを二つ置いた。
一つは琴葉の前。もう一つは、うめちゃんの前。
うめちゃんは、湯呑みを両手で持った。

おりんは、紙包みを結びながら聞いた。

「で、今日は何を抱えてきたんだい。顔かい、腹かい」

琴葉は、少しだけ詰まった。なぜか見透かされた気がした。

「今日は、身体です」

「重いね」

「はぁ…」

「身体はだいたい重いよ」

おりんは、紙紐をきゅっと結んだ。

「でも、軽くなったら、それはそれで心配だ」

琴葉はバッグから液タブを出した。
病院を出る前、白石が送ってくれた試作用資料を入れてある。ただ、説明のために作られた身体の図だけがある。

琴葉は画面を開いた。
子宮、卵巣、胎児の成長、血流、ホルモンの流れ。白石が見せた、きれいな身体。

おりんは、湯呑みを持ったまま、じっと見た。驚きはした。けれど、声を上げなかった。

この人は、変なものを見ても、先に騒がない。
まず座らせる。まず茶を出す。それから見る。

「きれいだね」

おりんは言った。

「ですよね」

琴葉は言った。

「でも」

おりんは、画面の中の図を指した。

「腹が冷えてる人の絵じゃないね」

琴葉は、すぐには返せなかった。うめちゃんが画面を見た。

「腹部冷感の表現は含まれていません」

「そういう話じゃないよ」

「先ほども言われました」

「なら覚えな」

「はい」

おりんは、液タブを少し遠ざけて見た。

「よく分かる絵なんだろうね」

「はい。たぶん」

「どこに何があるかは分かる」

「そうです」

「でも、その人が昨日眠れたかは分からない」

琴葉は、白石の面談室を思い出した。
白い壁、きれいな図、誰のものでもない身体。

「先生に診せる前の晩に、目が冴えてしまったかどうかも分からない」

おりんは続けた。

「帰り道に足が重くなったかも、家で誰に話すか迷ったかも、分からない」

うめちゃんが、静かに言った。

「身体の時間が欠落しています」

おりんは、うめちゃんを見た。

「難しい言い方をするね」

「すみません」

「悪いとは言ってないよ」

おりんは、湯を一口飲んだ。

「でも、身体ってのは、絵にするとおとなしくなるね」

琴葉は、その言葉を頭の中で繰り返した。

身体は、絵にするとおとなしくなる。
確かに、液タブの中の子宮も、卵巣も、血流も、きれいに並んでいる。
怒らない、痛まない、冷えない。眠れない夜も持っていない。

「本物は、もっと面倒ですか」

琴葉が聞いた。

「面倒だよ」

おりんは即答した。

「冷えるし、痛むし、腹は鳴るし、飯がまずい日もある。眠れない夜もある。なのに、昼には平気な顔をして出てくる」

「それは、絵に描きにくいですね」

「だから絵師がいるんじゃないのかい」

琴葉は、何も言えなかった。
おりんは悪気なく言う。だから余計に困る。

うめちゃんは、液タブの画面を見ていた。

「この資料は、医学的説明を目的としています」

「うん」

琴葉はうなずいた。

「でも、おりんさんは、説明される前の身体を見ています」

「説明される前?」

「はい。本人がまだ言葉にしていない痛みや不安です」

おりんは少し笑った。

「それは、あんたたちも見てるだろう」

「私たちがですか」

「顔の話をしてきた顔だよ」

琴葉は、湯呑みを持ったまま固まった。

「出てます?」

「出てる」

「江戸、顔に厳しい」

「顔は嘘をつくけど、全部は隠せないからね」

おりんは、紙包みを二つまとめた。その動きは慣れていた。薬種を量り、包み、結ぶ。話しながらでも、手元は止まらない。

「これは薬ですか」

うめちゃんが聞いた。

「薬にもなるし、ならない時もある」

「定義が曖昧です」

「身体の方が曖昧なんだよ」

うめちゃんは、その返事を受け止めるように黙った。
琴葉は、液タブの画面を閉じかけて、また開いた。

「白石さんは、この絵を患者さんに見せるのが怖いって言ってました」

「白石?」

「現代の医者……見習い中の人です」

「若い先生かい」

「はい」

「いいじゃないか」

「何がですか」

「怖がってるなら」

おりんは、紙包みを箱に入れた。

「怖がらずに身体を見せる先生の方が、よほど怖いよ」

琴葉は、また返せなかった。
おりんは、机の端に置いてあった風呂敷を広げた。薬包みをその中に並べる。

「ちょうどいい」

「何がですか」

「玄白先生のところへ寄るところだったんだよ」

琴葉は、うめちゃんを見た。うめちゃんも琴葉を見た。
二人とも、同時に言った。

「出た」

おりんが眉を上げた。

「何が出たんだい」

「いえ」

琴葉はごまかした。

「有名人が」

「有名かどうかは知らないけど、面倒な先生ではあるよ」

「その言い方、信頼できます」

「できるんだね」

おりんは笑った。

「身体の中を見たがる人だよ。だけど、見えたものを言葉にするので、まだ苦労してる」

琴葉は、液タブを抱え直した。

見えたものを言葉にする。

白石の言葉が戻ってくる。
”身体の中を見せることと、身体を分からせることは違う。”

「玄白先生に、これを見せてもいいですか」

琴葉が聞くと、おりんは少し考えた。

「見せたら、黙らないだろうね」

「でしょうね」

「でも、黙らせに行くわけじゃないんだろう」

「はい」

「なら持っておいで」

おりんは風呂敷を結んだ。その結び目は、無駄がなかった。

「ただし」

「はい」

「先生の前に行くなら、もう一杯飲んでからだ」

琴葉は湯呑みを見た。

「今からですか」

「身体の話をしに行くんだ。冷えた腹で行くもんじゃない」

うめちゃんが、自分の前の湯呑みを見た。湯気は、もう少し薄くなっていた。

「温度は下がっています」

「なら飲みごろだね」

おりんが言った。うめちゃんは、素直に茶を飲んだ。

「苦味、渋味、わずかな甘味があります」

「分析しながら飲むな」

琴葉が言うと、おりんはまた笑った。

「いいじゃないか。腹に入れば、茶は茶だよ」

うめちゃんは、少しだけ考えた。
そして、自分の手のひらを見た。その手は人間の形をしている。でも、人間の手ではない。
まだその話は、早い。

琴葉は、湯を飲んだ。苦かった。
でも、病院の白い部屋よりは、少しだけ身体に戻る気がした。

おりんは風呂敷包みを持ち、戸口へ向かった。

「行くよ」

「はい」

「先生は、見たものをそのまま信じる人じゃない。だから面倒だ」

「それ、褒めてます?」

「半分はね」

「残り半分は」

「行けば分かるよ」

おりんが戸を開けた。外の光が、細く差し込んだ。

琴葉は、液タブを抱えて立ち上がった。画面の中には、まだ誰のものでもない身体が入っている。
それを、江戸の医者に見せに行く。

何が起こるかは、さっぱり分からなかった。分からない時は、だいたい空丼が先に鳴る。

今回は、もう鳴ったあとだった。

第3章 一語に一日かかる


おりんに連れられて歩いた先は、思ったより静かな家だった。医者の家、というより、紙の家だった。
戸口を入ると、まず墨の匂いがした。薬の匂いもある。

おりんの家とは違う。こちらは、紙に吸われた薬の匂いだった。

机の上には、書きつけが重なっている。
畳の端には、巻かれた紙。
棚には、古びた書物。
その間に、書き損じの紙が何枚も置かれていた。

琴葉は、小声で言った。

「紙、多いな」

「聞こえてる」

奥から声がした。
おりんが、何もなかったように言った。

「先生、薬種を持ってきましたよ」

「そこへ置いてくれ」

「あと、変な人たちも連れてきました」

「そっちは置くな」

琴葉は、少しだけ会釈した。

「すみません。置かれに来ました」

「自分で言うのか」

奥から出てきた男は、思っていたより小柄だった。歳は、それなりにいっている。
顔には疲れがある。けれど、目だけはやけに若い。目の前にあるものを、まだ信用していない目だった。

おりんが言った。

杉田玄白先生

琴葉は、頭を下げた。

「成瀬琴葉と申します」

「なるせ」

玄白は、名前を口の中で転がすように言った。
それから、うめちゃんを見た。
うめちゃんは、きちんと立っている。姿勢がよすぎる。

玄白は少し眉を動かした。

「そっちの娘は」

「梅です」

琴葉が言った。

「娘ではありません」

うめちゃんが言った。玄白は少し笑った。

「初手から面倒だな」

「よく言われます」

うめちゃんが、まじめに答えた。

「誰にだ」

「主に琴葉に」

「言うな」

琴葉が小さく突っ込むと、玄白は女中を呼んだ。

「茶を出せ」

女中は、戸口のところで一瞬だけ止まった。目がうめちゃんと液タブの袋を行き来する。

「先生……」

「茶だ。立たせておくと、分からんまま帰る」

「帰っていただいた方がよろしいのでは…」

「網に、妙なものが掛かった」

女中は、うめちゃんを見て、液タブの袋を見て、それから玄白を見た。

「先生」

「跳ねる前に座らせる」

女中は、諦めたように頭を下げた。おりんが小さく笑った。

「先生、また始まったね」

「お前が持ってきたんだろう」

「持ってきましたけど、煮るとは言ってません」

「煮てはいない。座らせるだけだ」

琴葉たちは、机の前に座った。うめちゃんの座り方は、やはり少し正確すぎた。
玄白は、それを見てまた目を細めた。

「座るのにも理屈がありそうだな」

「姿勢制御は安定しています」

「そういう返事になるのか」

「はい」

「厄介だ」

女中が茶を運んできた。
湯呑みは三つ。
琴葉の前、うめちゃんの前、玄白の前。

おりんは、自分の分は要らないと言って、風呂敷包みを机の端に置いた。

「私は届けに来ただけですからね」

「届けるだけなら、そこで黙ってろ」

「黙ってたら、先生が散らかしたまま話を始めるでしょう」

「散らかってはいない」

「紙が歩いてるみたいですよ」

玄白は反論しなかった。

琴葉は液タブを袋から出した。この部屋の紙の山の中で、それだけが異物だった。

光る板。
蔦重も春朗も見た。歌麿も見た。そして今度は、玄白が見る。

「それか」

玄白が言った。

「知ってるんですか」

「噂だけは聞いた。蔦屋が、光る板を持つ絵師がいると言っていた」

「あの人、言いふらしてる」

「面白いものは、だいたい言いふらす男だ」

「否定できない」

琴葉は液タブの画面をつけた。

現代の身体図が浮かび上がる。
子宮、卵巣、胎児の成長、血流、ホルモンの流れ。
色は整っている。線は迷っていない。説明のために、きれいに作られた身体。

玄白は、すぐには何も言わなかった。
驚いた顔はした。けれど、声は出さなかった。

紙と墨の中で生きてきた人間が、紙ではない絵を見ている。
琴葉は、その沈黙の方が少し怖かった。

「未来の身体の説明図です」

琴葉は言った。

「説明図」

玄白は、その言葉を繰り返した。

「身体の中を、分かりやすく見せるための絵です」

「分かりやすく」

玄白は、画面に顔を近づけた。

「よく見えるな」

「はい」

「中まで、きれいに見える」

「未来では、身体の中を見る方法がいろいろあります」

「そうか」

玄白は、指を伸ばしかけて止めた。液タブに触れていいのか、迷っているようだった。
琴葉は、画面を少し近づけた。

「触っても大丈夫です」

玄白は、恐る恐る画面に触れた。図が拡大された。玄白は、手を引っ込めた。

「動くのか」

「動きます」

「消せるのか」

「消せます」

「直せるのか」

「直せます」

玄白は、小さく笑った。

「なら、間違いもすぐ消えるな」

琴葉は、うなずきかけた。でも、玄白は自分で首を横に振った。

「間違えた目は、残る」

おりんが、横から口を挟んだ。

「先生、また難しいことを言い始めたね」

「見せられたものが難しい」

「きれいな絵じゃないですか」

「きれいだから難しい」

玄白は、画面の身体図を指した。

「早い」

琴葉は聞き返した。

「早い?」

「分かった顔になるまでが、早すぎる」

部屋が少し静かになった。

琴葉は、画面を見た。
確かに、それは分かりやすい。分かりやすく作られている。どこに何があるか、すぐに見える。
色で分かる、矢印で分かる、形で分かる。

だからこそ、玄白は嫌な顔をしていた。

「分かりやすいのは、悪いことですか」

琴葉が聞くと、玄白はすぐには答えなかった。

机の上にあった古い紙を一枚引き寄せる。
そこには、見慣れない字と、何度も消された跡があった。
横に小さく別の字が書かれている。
また消されている。
一枚の紙の中で、言葉が何度も転んでいた。

「これは」

琴葉が聞くと、玄白は紙を軽く叩いた。

「一語で止まった跡だ」

「一語」

「一語だ」

玄白は、茶を飲んだ。
湯呑みを置く音が、やけに大きく聞こえた。

「異国の書には、名がある。こっちにはない。身体の中にあるものは見えた。だが、名がなけりゃ、人に渡せねえ」

「名前をつけるってことですか」

「近い。だが、ただ名をつけりゃいいわけじゃねえ」

玄白は、紙の上の消し跡を指で押さえた。

「この国の言葉にないものを、この国の言葉で言おうとする。身体より先に、言葉の腹を裂いたようなもんだ」

琴葉は黙った。
うめちゃんも黙っている。
おりんは何も言わず、薬包みの紐を直していた。

「一日かけて、ようやく近い言葉を当てた一語の方が、一目で分かった気にさせる絵より、人を裏切らねえことがある」

玄白は、書き損じの紙を見た。

「あとで、誤訳かもしれねえと気づいてもな」

琴葉は、思わず聞いた。

「誤訳でも、ですか」

玄白は笑わなかった。

「誤訳だからこそだ。間違えた跡が残っていれば、次の誰かが直せる」

玄白は、液タブの画面を見た。

「分かった気だけ残るものは、直しようがねえ」

琴葉は、画面の身体図を見直した。

きれいだった。本当にきれいだった。
間違いがあるようには見えない。
迷いもない。だから、怖い。

玄白は、古い紙を指で弾いた。

「良沢がいなけりゃ、俺は一行目で転んでた」

琴葉は顔を上げた。

「前野良沢ですか」

玄白は、少しだけ目を細めた。

「知ってるのか」

「すみません」

「いや。名が残るなら、たいしたものだ」

それ以上、良沢の話を広げようとはしなかった。ただ、少しだけ苦い顔をした。

「俺は出した。出さなきゃ始まらねえと思った」

琴葉は、静かに聞いた。

「良沢さんは」

「まだ出すな、という顔をしていた」

玄白は、画面の身体図を見た。

「この絵は、粗くない。よく整っている」

「はい」

「だから危ない」

「整っているから?」

「ああ」

玄白は言った。

「分からなさが、消えている」

琴葉は、その言葉で少し息を止めた。

分からなさ。それは普通、消したいものだった。

仕事では特にそうだ。
迷いを消す、線を整える、構図を決める、説明できる形にする。

でも、玄白は、その消えたものを見ていた。

「分からなさを残したら、説明にならないんじゃないですか」

琴葉が言うと、玄白は少し笑った。

「全部残せとは言ってねえ」

「じゃあ」

「隠すなと言ってる」

おりんが、そこでようやく口を開いた。

「腹の痛みも、名がついた途端に軽くなるわけじゃありませんよ」

玄白が顔をしかめた。

「また余計なところを言う」

「余計なところに人がいるんですよ」

玄白は、反論しなかった。おりんは続けた。

「先生方は、一語で止まる。悪いことじゃありません。身体の方も、こっちの都合では進みませんからね」

琴葉は、液タブの画面を見た。

身体の中を見せること。身体を分からせること。身体を本人に返すこと。
それは、全部違う。

見えたものを、ただ見せればいいわけではない。
分かりやすくすれば、届くわけでもない。

玄白は、うめちゃんの方へ視線を移した。それまでは、液タブと紙を見ていた目だった。

今度は、うめちゃんの手元を見る。
湯呑みの位置、指の置き方、正確すぎる座り方。
茶を飲んだあと、ほんの少しだけ残った湯気を見ている目。

玄白の顔が、少し変わった。

琴葉は嫌な予感がした。歌麿がうめちゃんを見た時の目に少し似ている。

玄白は言った。

「ところで」

「はい」

「そっちの娘は、何語で訳せばいい」

うめちゃんは、静かに玄白を見返した。

「私は日本語で応答可能です」

「そういう話じゃねえ」

「よく言われるやつ」

琴葉が小さく言った。
玄白は、うめちゃんの顔を見た。それから、手を見る。さらに、座り方を見る。

「身体か」

玄白は言った。

それとも筐体か

うめちゃんは、すぐには答えなかった。玄白は、少しだけ楽しそうに笑った。

「また一語で止まりそうだな」

琴葉は、その顔を見て思った。あ、次の面倒が来た。

第4章 うめちゃん、まだ訳せない


「身体か」

玄白は、うめちゃんを見たまま言った。

「筐体か」

うめちゃんは、静かに座っている。背筋は伸びている。
湯呑みは、右手の少し前。指先は畳についていない。

人の形をしている。
人のように茶を飲む。
人のように返事をする。
けれど、その座り方には、ほんの少しだけ人間の乱れがなかった。

玄白は筆を取った。紙の端に、一字書こうとして止まる。

「先生」

琴葉が言った。

「何を書こうとしてるんですか」

「分からん」

「分からないのに書くんですか」

「分からんから書く」

玄白は紙を見た。それから、うめちゃんを見た。

「人形」

そう言って、紙には書かなかった。

「違うな」

「からくり」

また、書かない。

「これも違う」

「器械」

玄白は少し黙った。

「近いが、足りねえ」

うめちゃんが言った。

「私は、成瀬琴葉の創作支援を目的としたヒューマノイドAIです」

玄白は顔を上げた。

「目的を聞いたんじゃねえ」

「身体構造について説明しますか」

「構造を聞きゃ済むなら、医者はいらねえ」

うめちゃんは黙った。

琴葉は、少しだけ笑いそうになって、やめた。
笑う場面ではない気がした。

玄白は、うめちゃんの手を見ていた。

「飯は食うのか」

「摂食は可能です」

「眠るのか」

「休止状態に入ります」

「痛むのか」

「損傷検知は可能です」

「怖がるのか」

「危険予測に基づく回避行動は可能です」

玄白は、筆を置いた。

「答えが早い」

「処理速度の問題ですか」

「違う」

玄白は言った。

「早く答えるほど、遠くなることがある」

うめちゃんは、少しだけ首を傾げた。

「意味を確認しています」

「確認するな。少し置け」

「置く、とは」

「返事を急ぐなということだ」

うめちゃんは、そこで黙った。
その沈黙が、妙に部屋に合った。

紙の匂い、墨の匂い、薬種の匂い、女中が置いていった茶の湯気、古い書き損じ。そして、液タブの暗い画面。

玄白は、うめちゃんを見ていた。

「つまり」

ゆっくりと言った。

「人様は、己の身体を見てもまだ飽き足らず、今度は命とも道具ともつかねえものを、人の形に仕立てちまったのか」

琴葉は、思わず顔を上げた。うめちゃんは動かなかった。
玄白は続けた。

「ずいぶん遠くまで来たな」

それから、少しだけ笑った。

「遠くまで来て、まだ自分の身体も分からねえ顔をしてやがる」

琴葉は、胸の奥を軽く突かれたような気がした。

うめちゃんを作ったのは、自分ではない。AIを作ったのも、自分ではない。
けれど、うめちゃんを連れてきた。
うめちゃんに頼った。
うめちゃんと江戸へ来た。

そして今、玄白の前に座らせている。

「うめちゃんは」

琴葉は言いかけた。

道具ではない。

そう言おうとした。でも、言葉がそこで止まった。

使っている。

それは事実だった。

資料を探す。
文章を整える。
壁打ちする。
絵の方向を決める。
疲れている時、話し相手にする。

使っている。
でも、それだけではない。

「うめちゃんは、道具じゃないです」

琴葉は、ようやく言った。玄白は、すぐに返さなかった。

「なら、何だ」

琴葉は詰まった。
おりんが、横で黙っている。茶化さない。
うめちゃんも、琴葉を見ている。

「……隣にいます」

琴葉は言った。

玄白は眉を動かした。

「答えになってねえな」

「分かってます」

「だが、答えよりは近い」

琴葉は、少しだけ息を吐いた。玄白は、今度はうめちゃんに向いた。

「お前さんは、自分を何と訳す」

うめちゃんは、いつもの調子で口を開いた。

「私は、成瀬琴葉の創作支援を目的としたーー」

そこで止まった。

琴葉は、うめちゃんを見た。うめちゃんも、琴葉を見ていた。短い沈黙があった。

玄白は急かさなかった。おりんも動かなかった。
うめちゃんは、もう一度口を開いた。

「……琴葉の隣にいます」

玄白は、少し笑った。

「またそれか」

「はい」

「辞書には載せにくい」

「辞書登録は可能です」

「そういう話じゃねえ」

琴葉が小さく言った。

「それ、うめちゃんに一番通じにくいやつです」

「だろうな」

玄白は、面白がるでもなく、困るでもなく、うめちゃんを見ていた。

「道具なら、使う者の癖が出る」

玄白は言った。

「命なら、こちらの癖をはね返す」

うめちゃんの目が、玄白を見る。

「お前さんは、どっちもやる顔をしてる」

「顔ですか」

「ああ」

「私は表情制御が可能です」

「そういう顔じゃねえ」

「そういう話ではない、ということですか」

「少し覚えたな」

うめちゃんは、ほんの少しだけ黙った。
そして言った。

「訂正しません」

玄白は、そこで初めて満足そうにうなずいた。

「道具の顔をした相手、か」

琴葉は、その言葉を胸の中で繰り返した。

道具の顔をした相手。相手の顔をした道具。
どちらでもある。どちらでも足りない。

玄白は琴葉を見た。

「お前は、これを使っているのか」

「使ってます」

琴葉は答えた。そこは、ごまかせなかった。

「でも、使ってるだけではないです」

「そこを一語で済ませるな」

玄白の声は、静かだった。
怒ってはいない。けれど、逃げ道を塞ぐ声だった。

「使う。頼る。話す。連れて歩く。腹を立てる。助けられる。余計なことを言われる」

琴葉は、最後で少しだけうめちゃんを見た。
うめちゃんは、まじめに聞いている。

玄白は続けた。

「その全部を、便利の一語で済ませるな」

琴葉は黙った。

便利。

その言葉は、あまりにも軽かった。
うめちゃんに対してだけではない。

AIに対して。
身体に対して。
絵に対して。
自分が描いてきたものに対して。

便利な図、便利な説明、便利な顔、便利な乙姫。

それらは、分かりやすい。
使いやすい。
売りやすい。
でも、その先に誰が残るのか。

玄白は紙に筆を置きかけた。そのまま、止まった。

「書かないんですか」

琴葉が聞いた。

「今日は訳さねえ」

「訳さないんですか」

「急いで訳すと、あとでその名に縛られる」

玄白は、うめちゃんを見ていた。

「名は要る。だが、名で終わるな」

おりんが、そこで小さく言った。

「先生にしては、今日はやさしいですね」

「どこがだ」

「切らずに帰してる」

玄白は鼻で笑った。

「切って分かるものばかりなら、苦労はねえ」

琴葉は、液タブの暗い画面を見た。そこに、うめちゃんの顔が薄く映っている。
身体か、筐体か、道具か、命か、相手か。
どれも、少しずつ合っている。だから、まだ止まる。

それでいいのだと、玄白は言ったのだ。

うめちゃんが、湯呑みを両手で持った。

「お茶を、もう一口飲んでもよろしいでしょうか」

おりんが笑った。

「必要なのかい」

うめちゃんは少し考えた。

「必要ではありません」

玄白が言った。

「なら、飲め」

うめちゃんは、静かに茶を飲んだ。琴葉は、その横顔を見ていた。

まだ訳せない。でも、そこにいる。

そのことだけは、ずっと前から分かっていた気がした。

第5章 源内、まだ余計な口を出す


「おかみさん、源内先生を連れてきました!」

戸口の向こうで、佐吉の声がした。

おりんは、薬包みの紐を結び直しながら言った。

「遅いよ」

「走りましたよ」

「走ってそれかい」

「源内先生が、途中で勝手に止まるんです」

佐吉の後ろから、平賀源内がひょいと顔を出した。

「連れてこられた覚えはない。面白そうだから来た」

玄白が、露骨に嫌そうな顔をした。

「源内」

「玄白。まだ紙と喧嘩してるのか」

「お前はまだ世間と喧嘩してるのか」

「俺は世間を退屈させないようにしてるだけだ」

源内は、そう言いながら部屋へ入ってきた。遠慮がない。
というより、遠慮という道具を持っていない人間だった。

佐吉は戸口のところで肩で息をしている。
琴葉とうめちゃんを見ると、少し目を丸くして、それから「ああ、またか」という顔をした。

全部分かっているわけではない。でも、面倒なことになるのは分かっている。そういう顔だった。

源内は、琴葉を見てにやりと笑った。

「おお。口の悪い絵師じゃねえか」

「紹介の仕方がひどい」

琴葉が言うと、源内は今度はうめちゃんを見た。

「雷入りの娘もいる」

「雷ではありません。低出力の非致死性電撃です」

「ほら、覚えてる」

「覚え方が悪いです」

琴葉が言うと、源内は笑った。

「覚えてりゃいいんだよ。正確な名なんざ、あとで玄白に怒られればいい」

玄白が低く言った。

「最初から怒らせるな」

「怒ると頭が回るだろう」

「お前は昔から、医者を火打石か何かだと思ってるな」

「似たようなもんだ。叩けば火が出る」

佐吉が小さく言った。

「おりんさん、私、もう帰っても」

「まだだよ」

「え」

「源内先生を連れてきたら終わりだと思ったのかい」

佐吉は、絶望した顔をした。

源内は勝手に座った。女中が、また茶を運んできた。
玄白は、もう何も言わなかった。言っても無駄だと分かっている顔だった。

源内の目が、液タブに移る。画面は暗い。
その黒い面に、部屋の紙と、琴葉の顔と、うめちゃんの横顔が薄く映っていた。

「また妙な板を持ち込んだな」

「液タブです」

「前も聞いた気がする」

「覚えてください」

「雷入りの娘の方が覚えやすい」

「最悪です」

玄白が、ため息をついた。

「今、その娘の名で止まっていたところだ」

源内は、うめちゃんを見た。

「止まるほどか?」

「止まるほどだ」

「じゃあ面白い」

「お前は何でも面白がる」

「面白がらねえと、世の中の方が先に腐る」

源内は、暗い液タブの画面を覗き込んだ。

「で、何を見せられた」

玄白は答えず、琴葉を見た。

琴葉は画面をつけた。現代の身体図が、また江戸の部屋に浮かぶ。整った線、やわらかい色、迷いのない説明。

源内は、すぐに声を上げた。

「ほう」

玄白が言った。

「早いだろう」

「何が」

「分かった顔になるまでが」

源内は少し黙った。その顔から、いつもの軽さが少しだけ退いた。

「なるほど」

「珍しく素直だな」

「たまにはな」

源内は琴葉を見た。

「絵師には厄介な板だな」

「厄介ですか」

「厄介だろう。間違いまできれいに見える」

琴葉は、何も言えなかった。
玄白が、机の上の書き損じを一枚引き寄せる。

「俺はさっき、一語で止まった話をしていた」

「お前はよく止まる」

「お前は止まらなさすぎる」

「止まったら客が帰る」

「医者は、客を帰すために止まるんじゃねえ」

「なら、何のために止まる」

玄白は、画面の身体図を見た。

「見落とさねえためだ」

源内は、それを聞いて少し笑った。

「いいことを言うじゃないか。紙に書いとけ」

「書くとお前が売る」

「売れるなら売る」

おりんが横から言った。

「売る前に、まず聞かせてくださいな」

源内は、ぽんと手を打った。

「そうだ。絵師と言えば」

嫌な予感がしたのか、玄白の目が細くなる。源内は気にしない。

「昔、お前の厄介ごとに、絵師を一人噛ませたな」

玄白は短く言った。

「直武か」

琴葉が反応した。

「直武?」

源内が楽しそうに言った。

「小田野直武。秋田の絵師だ。筆がよく働いた」

玄白は、液タブの画面から目を離さなかった。

「働かせたのは、お前だろう」

「人聞きが悪い。紹介しただけだ」

「紹介という名の火種を投げ込んだ」

「火がついたなら、良い火種だったんだろう」

琴葉は、そっと聞いた。

「その人が、描いたんですか」

玄白がうなずいた。

「ああ」

少し間を置く。

「医者が見たものを、絵師が残す。あれは怖い仕事だ」

琴葉は、液タブの画面を見た。身体図、説明図、誰かに見せるための絵。
玄白は続けた。

「医者の言葉は、聞き流されることがある。だが、絵は残る」

源内が言った。

「残るから、売れる」

玄白が睨む。源内は肩をすくめた。

「残るから、広がる。そう言い直してやる」

玄白は、少しだけ鼻を鳴らした。

「絵は、医者の言葉より早く人に届く」

琴葉は、その続きを待った。

玄白は言った。

「だから、医者より早く嘘をつくこともある」

部屋が静かになった。

琴葉は、まぶたの裏に、白い面談室を思い出した。きれいな身体、誰のものでもない身体。
嘘ではない。でも、本当とも言い切れない。
源内が、琴葉の顔を見た。

「今、筆が止まったな」

「見ないでください」

「絵師は顔に出る」

「源内さんも出てます」

「俺は出してる」

「余計たち悪い」

おりんが、佐吉に小声で言った。

「ほらね、呼んでよかったろう」

佐吉は困った顔で言った。

「よかったかどうかは、まだ分かりません」

「そこがいいんだよ」

玄白は、また書き損じの紙を見た。

「小塚原で見た時のことは、今でも忘れねえ」

源内の顔から、ふざけた色が少し消えた。琴葉は、息をひそめた。
玄白は、声を低くした。

「あの日、俺たちは腹の中を見た」

紙の匂いが濃くなった気がした。

「蘭書(『ターヘル・アナトミア』)に描かれていたものと、実物が合っていた」

玄白は、液タブの画面を指した。

「絵と身体が合っていた。驚いた」

琴葉は、うなずいた。
玄白は続けた。

「だが、分かったわけじゃねえ」

その言葉は、静かだった。

「分からなさの形が見えただけだ」

うめちゃんが、ゆっくり玄白を見た。

「分からなさの形?」

「そうだ」

玄白は、うめちゃんに向かって言った。

見えるようになったから、終わるんじゃねえ。見えるようになって、ようやく始まるものがある

うめちゃんは、すぐには答えなかった。源内が、そこでわざと明るい声を出した。

「で、その始まりに、お前らはずいぶん鼻を折られたわけだ」

玄白が顔をしかめた。

「黙れ」

「まだ何も言ってない」

「言う顔をしている」

「なら言う」

源内は琴葉に向き直った。

「こいつら、鼻のところで止まったんだよ」

「鼻?」

琴葉が聞くと、玄白は不機嫌そうに紙を押さえた。

「フルヘッヘンド(verheffend)という一語だ」

うめちゃんが言った。

「蘭語、ですか」

「そうだ」

玄白は言った。

「意味が分からねえ。辞書を引いても、こちらの身体にぴたりと来ねえ。木の枝を切った跡だの、掃き寄せた塵が盛り上がるところだの、そんな手がかりを拾って、ようやく近い言葉を探した」

源内が言った。

「鼻で鼻を折られる。なかなか洒落てる」

「黙れと言った」

「二度目だ」

「三度目も言うぞ」

琴葉は、思わず少し笑った。でも、すぐに画面の身体図を見た。
そこには、迷わない線がある。何も悩まず、最初から答えを知っているような線。

玄白の紙には、消し跡がある。間違いがある。止まった跡がある。
琴葉は、その差を見ていた。

「先生」

琴葉は言った。

「はい」

「間違えた跡って、残した方がいいんですか」

玄白は、少し考えた。

「全部見せりゃいいってもんじゃねえ」

「はい」

「だが、消しすぎると、人はそこで考えるのをやめる」

源内が、茶を飲みながら言った。

「売り物は、考えなくて済む顔をしてる方が売れる」

玄白が言った。

「だから厄介なんだ」

源内は笑った。

「俺を見ながら言うな」

「お前を見ながら言うに決まってる」

源内は、液タブに映る身体図を見た。

「名がなけりゃ、世に出ない」

玄白は答えた。

「名を急ぐな」

「急がなきゃ、誰も振り向かねえ」

「振り向かせるために、間違った名をつけるな」

「正しい名だけで世間が動くなら、俺は苦労してねえ」

二人はしばらく睨み合った。喧嘩というより、古い道具を互いに確かめているような間だった。

おりんが、ぽつりと言った。

「どちらも面倒ですね」

佐吉が深くうなずいた。

「本当に」

源内が、うめちゃんを見た。

「で、こいつは何と名をつける」

玄白が言った。

「今、それで止まっている」

「止まるな。売り出せ」

琴葉の背筋が伸びた。

「絶対に嫌な予感がします」

源内は楽しそうに言った。

「雷入り未来娘」

「却下です」

「早いな」

「分かった顔になるまでが早すぎる」

玄白が少し笑った。源内は続けた。

「なら、喋る乙女からくり」

「それも嫌です」

琴葉が即座に言った。

「未来帰りの女雷神」

「もっと嫌です」

琴葉がさらに早く返すと、うめちゃんが横から言った。

「商品名としては記憶定着率が高い可能性があります」

「うめちゃんも乗るな」

琴葉が突っ込むと、源内は満足そうに笑った。玄白は、ふっと息を吐いた。

「名は人を呼ぶ」

部屋の空気が少し変わった。

「だが、呼んだあとに見る目を曇らせることもある」

源内は、今度は茶化さなかった。

「名だけが先に歩くと、ろくなことにならねえ」

「お前がそれを言うのか」

「俺だから言うんだよ」

源内は、うめちゃんを見た。

「見世物は、名をつけて客を呼ぶ。だが、名ばかりで中身が追いつかねえと、客はすぐ飽きる」

玄白が言った。

「医者は、名をつけて病を縛る。だが、名だけで分かった気になると、身体を見なくなる」

琴葉は、ゆっくり言った。

「絵師は」

二人が琴葉を見た。
琴葉は、液タブの画面を見た。それから、うめちゃんを見た。

「名をつけられたものを、もう一度見る」

源内が、少しだけ目を細めた。玄白は、何も言わなかった。おりんが小さく笑った。

「合ってる時ほど、先生は黙りますね」

玄白は、咳払いをした。

「お前は絵師だろう」

玄白が琴葉に言った。

「はい」

「なら、見た者が一目で分かった顔をする絵にするな」

琴葉は聞いた。

「分かりにくくしろってことですか」

「違う」

源内が横から言った。

「分かる前に、少し引っかけろということだ」

玄白が睨んだ。

「それも違うな」

「だいたい合ってるだろう」

玄白は黙った。おりんが言った。

「ほら、黙った」

佐吉は、もう何も言わないことにした顔をしていた。
玄白は、液タブの身体図を指した。

「一度、止まれる絵にしろ」

琴葉は、その言葉を聞いた。

一度、止まれる絵。

すぐ分かる絵ではない。分からないまま放り出す絵でもない。
見る人が、自分の身体へ戻るための間を残す絵。

琴葉は、画面を暗くした。
黒い画面に、うめちゃんの顔が映る。
その横に、玄白の紙。消し跡、書き損じ、止まった時間。

源内が言った。

「で、その板は売れるのか」

琴葉は、画面を抱えたまま言った。

「売りません」

「つまらん」

「つまらなくて結構です」

うめちゃんが言った。

「非売品です」

源内は笑った。

「やっぱり面白いじゃねえか」

玄白は、また紙に目を落とした。

「面白いだけで終わらせるな」

源内が答えた。

「終わらせねえために、面白くするんだよ」

二人は、それ以上言わなかった。
外では、人の声が遠く流れている。江戸の町は、何も知らない顔で動いていた。

琴葉は、液タブを膝の上に置いた。描くには、たぶん、もう少し時間が要る。

一語で止まった人たちの部屋で、琴葉は初めて、止まることを少しだけ怖がらなくなった。

第17話 終

東京AI物語


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