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カレーの口 608号室の住人



ある大魔法使いが、
人生で一度も使わなかった魔法がある。

そのひとつが、
『カレーの口になってる人間を、
湯豆腐の口にする魔法』
だった。

ところが、
その魔法を本当に使おうとした、
別の魔法使いがいた。


今回のターゲットは、
ひとりの男。

朝から完全に、
カレーの口だった。

仕事中も、
頭の片隅ではずっと、
玉ねぎを飴色になるまで炒めていた。

帰り道にはもう、
お肉、
じゃがいも、
にんじんが、
心の鍋でぐつぐつ煮込まれていた。

あとはスーパーで、
カレールーと、
福神漬けを買えば完成。

そんな状態だった。

魔法使いは、
物陰からそっと杖を振った。

「ユドーフユラユラ、ネギポンポン」

ボワワワァァーン。

すると男の頭の中に、
真っ白な絹ごし豆腐が、
ふわ〜り、
浮かびあがった。

土鍋。
昆布。
ぽん酢。
長ねぎ。

湯気まで見えた。

「……湯豆腐だな」

男はぽつりとつぶやき、
スーパーへ入っていった。

まず豆腐を手に取り、
長ネギもカゴに入れた。

しかし……。

カレールー売り場の前を通った瞬間、
男の足が止まった。

「あっ…」

カレーは強い。

四角いルーを見ただけで、
男の記憶が一気によみがえった。

お肉。
玉ねぎ。
じゃがいも。
炊きたてのごはん。

男は、
吸い寄せられるように、
カレールーへ手を伸ばした。

その時だった。

「こんばんは」

振り向くと、
大好きな女性が、
笑顔で立っていた。

「今日のお夕飯、なに?」

男は固まった。

カレー。

そう答えればいい。

けれど、
好きな女性の前で
「カレーです」なんて言うのは、
なんだか急に、
子どもっぽく思えてきた。

いや、
カレーは悪くない。
カレーに罪はない。

ただ今日だけは、
少し大人っぽく見られたかった。

この間、0.8秒。

男は咳払いをした。

「ゆ……湯豆腐、とか」

そう言って、
スーパーのカゴを軽く持ち上げた。

中には豆腐と長ねぎ。

女性は目を丸くした。

「え?」

しまった!
今の「え?」は、
完全に変な人を見る目だ。

しかも今日は特別暑い。

こんな日に湯豆腐なんて、
どう考えても変だ。

ああ、
なんてことを言ってしまったんだ…。

男が後悔しかけた、その瞬間。

「偶然! 私もなの」

「え?」

「せっかくだから、一緒に作って食べない?」

男の中にいたカレーが、
おとなしく正座をした。

消えたわけではない。
負けたわけでもない。

ただ今夜は、
湯豆腐しか受け付けられなくなっていた。

棚の陰から見守っていた魔法使いは、
ほっと胸をなで下ろした。

その夜、
ふたりは一緒に湯豆腐を食べた。

ぽん酢にねぎを入れ、
豆腐は湯の中で、
ふるふる揺れている。

カレーのことなんて、
もうどうでもよかった。

そういう夜が、
人生にはたまにある。

男はそう思った。

そして、
その魔法を願った女も、
嬉しそうに湯豆腐をすくっていた。






出典:
岩崎史奇さん『大魔法使いが人生で一度も使わなかった魔法』

あとがき

コント作家
岩崎史奇さんの
傑作コントに寄せて。

オマージュとして
書かせていただきました。






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