認知フォーマット
人は情報をどう受け取っているのだろう
ウチの奥さんは頻繁に映画を観る。
もちろん映画館に行くのだが、アマプラやネトフリも毎日のように利用しているようだ。
一方、ボクはというと… 年に数回くらいしか映画館に足を運ぶことはないし、アマプラもネトフリもほとんど利用しない。その代わり読書は毎日だけれど。
ボクはそれを単なる好みの違いだと思っていた。
しかし、それを「認知負荷」という観点で切り取ってみると、ちょっと違う整理ができそうだと思った。
認知負荷とは、人間が頭の中で情報を処理するときに、脳の作業台(ワーキングメモリ)にかかる精神的な負担のことです。一度に処理しきれないほどの大量の情報や複雑な選択肢に出会うと、脳が疲れて理解や判断に時間がかかります。
それは「人には、それぞれ慣れ親しんだ情報の受け取り方があるのではないだろうか?」という問いだ。
認知フォーマットとは
その特性を「認知フォーマット」と呼ぼうと思う。
認知フォーマットの定義は「人が慣れ親しんだ情報の受け取り方によって形成される認知の特性であり、その人にとって最も自然なインプットの形式」としよう。
つまり、人は自分に合った認知フォーマットで情報を受け取るとき、無理なく内容を理解することができる、ということではないだろうか。
ボクのように、読書が得意な人は「集中力がある人」と思われがちだが、実はそうではなく「本という認知フォーマット」に慣れ親しんでいるだけなのではないだろうか。その証拠に、ウチの奥さんも映画を観ているときは素晴らしい集中力を発揮している(ように見える)。
読書に比べて映画を観るということが、認知負荷が低い(つまり脳のワーキングメモリへの負担が少ない)というわけではないだろう。
なぜなら、映像には映像特有の認知負荷があるからだ。
それは、人物の表情や視線、カメラワーク(背景からPANして人物にズームするなんて映画特有の手法だ)、音楽(特殊な音響・音効も含めて)、セリフ(会話なのか独白なのか)など、明らかに読書よりも多くの情報を同時に処理しているはずだからだ。
人は認知負荷を好むのか
ここに漫画やショート動画を持ち込むと、少し様相が変わる。
漫画は、割と細かく「章」「話」に区切られる。
それは、多くの漫画が週刊であることに起因しているのだろう。だから「話」の最後のページは次の「話」への期待を持たせるような終わり方をする。つまり「話」ごとに(小さく)感情の盛り上がりを生むように設計されているのだ。
また、そこに視覚的な効果を加えるために「コマ割り」をいう技法を使う。それは、映画のカメラワークとはまた異なる認知負荷を与えるものだ。もっと言うと、ショート動画の場合は画角が特殊でテロップが加わったりすることを考えると、それもまた異なる認知負荷だと言えるだろう。
そう考えると、人は認知負荷(脳のワーキングメモリへの負担)を嫌がるわけではないんだろうと思う。
人によって情報の好みが違う
人は認知負荷なしでは生きていけない。
それは誰しもが、毎日(本や映画だけでなく)SNSやテレビなどから脳に情報をインプットし続けていることから考えると明らかだ。
ただし(冒頭の引用に書いたとおり)「一度に処理しきれないほどの大量の情報や複雑な選択肢に出会うと、脳が疲れて理解や判断に時間がかかる」ので、その人なりに構造化しやすい情報を好む、ということなんだろう。
だから、人にはそれぞれ好きな「認知フォーマット」があるのだろうと思う。
ボクには書籍というフォーマット、ウチの奥さんには映画というフォーマット、そして漫画やショート動画というフォーマットが好きな人もいる。
おそらくそれは、その人それぞれが慣れ親しんだフォーマットなんだろう。慣れているが故に、フォーマットの構造が予測しやすく、適度な認知負荷で情報をインプットすることができる。
そういうことなのかもしれない。
伝え方も変わる
そう考えると、伝え方も変わってくるだろう。
何を伝えるかを考えるのと同時に、相手がどんな認知フォーマットを持っているのかを知ることも重要だ。
読書が好きな人には本のフォーマット。
映画の好きな人には映画のフォーマット。
漫画が好きな人には漫画のフォーマット。
これはまだフラッシュアイディアの状態だが、深堀っていきたいテーマのひとつである。
