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【読書記録 -39】貧乏大好き

ボクは東海林さだおのエッセイが好きだ。
昔から、彼の『丸かじりシリーズ』を買っては読み、読んでは売ってきたもんだ。(その中には電子書籍で買ったものもあるので、それは物理的に売ることができないのだが…)

そして、今ボクの手元に(紙の本で)残っているのが本書『貧乏ビンボー大好き』である。

東海林さだおは、1937年東京生まれ、御年88歳。
(2026年2月28日時点では)
まだご存命だが、お年もお年なのでもうあまり創作活動をされていないかもしれない…

…と思っていたが、本書の初版は2022年だ。
まあ、あちこちの雑誌などに掲載された過去作を再編したものかもしれないが、ひょっとすると今でもバリバリ現役で書いているのかもしれない…と思ってしまうような多作の人だ。

wikipediaには以下のように記載されている。
彼が「日本におけるユーモアエッセイの一人横綱的存在」という評価には、ボクも完全同意である。

東海林は日本におけるユーモアエッセイの一人横綱的存在とされ、擬声語の多用や、句点のたびに改行を重ねるなど軽薄でスムーズな感じを抱かせる独特な文体(昭和軽薄体)が知られる。この文体を使う理由として、東海林は「エッセイに論理はあまりいらないんじゃないか。論理を繋げていくより、漢詩みたいにいいリズムがあればそれでいいような気がしてる」と語っている。

エッセイでは、旅行記、体験記を除いては仕事場での泊まり込み生活(自炊、外食、買い物など)が中心に描かれるため、一見独身生活者風である。家族(妻、子)は、ごく初期のエッセイに娘の幼い頃が描かれたほかはあまり登場しない。書かれる対象は、食を中心とした日常生活の些事が殆どで、まれに旅行、スポーツ観戦(初期には雑誌側が用意した体験記)が混ざる程度であり、政治はもちろん社会、映画、音楽芸能などを論じることはまずない。読書家だと言われるが書評もほとんど書かない。

高島俊男も東海林の文章を「二十世紀日本の文章の天才をたった一人あげろ、と言われたらわたくしは、『太宰治』と答えるに躊躇しない者であるが、それにつぐのはあるいは東海林さだおではないか、と思っている[18]」と、激賞している。東海林と対談集の共著を上梓している椎名誠も、「丸かじりシリーズ」を高く評価している。

かつて、小説家の金井美恵子も「小林秀雄や朝日新聞にはせこい繊細さがあり、東海林さだおには繊細なせこさがある、両者は天と地ほどちがう」といったことを発言した。

本書のまえがきはこんな書き出しだ。

「貧乏大好き」 東海林さだお

貧乏を恐れてはいけない。
かといって親しむものでもない。
むろん憧れるものでもない。
仲良くしようと思って近寄っていくものでもない。
わざわざ近寄っていかなくても、ちゃんと向こうから近寄ってきてくれる。
貧乏神というものはいつもまにか家の中に居座っているものなのである。

(中略)
人は貧乏についてとても詳しい。
貧乏の内容について詳しい。
貧乏に関する諺や警句や教訓はいっぱいある。
そんなん沢山要らない、と思うくらい山ほどある。
貧乏ヒマなし。
貧すれば鈍する。
稼ぐに追いつく貧乏なし。
赤貧洗うが如し。
貧乏人の子沢山。
貧乏ゆすり。
器用貧乏。
貧乏神。
これらのどれひとつとして知らない人はいない。

…なんだか、夏目漱石の文学の書き出しみたいだ。
だけど、徐々に東海林さだお節になってくる。

貧乏ヒマなし。
ンダ、ンダ、そのとーり、異議なし。
貧すれば鈍あり。
ンダ、ンダ、そのとーり、異議なし。
稼ぐに追いつく貧乏なし。
ンダ、ンダ、そのとーり、異議なし。
そういうのばっかし。
誰もがそのひとつひとつに経験があり、実績がある。
なにしろ経験に基づいた言葉ばかりなのでその思いは複雑である。
あまりに当を得た言葉ばかりなので悔恨は深い。


もうね。
東海林さだおのエッセイの解説とかできないのよ。

だから、巻末に書かれていたタブラ奏者のユザーンの解説の言葉を借りよう。

天才的なプロレスラーだったアントニオ猪木を評した、「猪木ならホウキが相手でも名勝負ができる」という名言がある。
その言葉は東海林さんにも当てはまるのではないか。「東海林さだおなら白湯がテーマでも名文が書ける」。たとえどんなテーマを与えられたとしても東海林さんはきっと対象物のどこかに、誰にも思いつかない方向から面白さを見つけるに違いない。

そうだ。
面白がる力だ。

ボクは東海林さだおの本を読んでハハハと笑っていたが、実は東海林さだおの「面白がり力」に憧れているのかもしれない。

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