【創作小説】ひまねこ堂の焼きたて処方箋
あらすじ
精神科医として働く沙苗は、患者の苦しみに向き合いながら、自身の孤独も抱えていた。ある日、ログハウスのパン屋、「ひまねこ堂」を偶然見つける。無人販売や看板猫を不思議に感じながら、沙苗はひまねこ堂に通うようになる。日替わりのおすすめパンや、そこで出会った人々に、沙苗は心をほぐされていく。
患者との対話を通して、沙苗はひとりの人間としての在り方を思考する。医師として、人として、相手を受け入れる姿勢を目指しながら、誰にでもある「自分の守るべきもの」を胸に、今日も生きていく。人も猫も、それぞれの人生の小さな拠り所を探しながら。
子供の頃の将来の夢は、ミニクロワッサン屋だった。
デパートの地下で、いつも行列を作っているミニクロワッサン屋。そこは厨房がガラス張りになっていて、作っている様子を外から見ることができた。恐らく、クロワッサンやもちもちパンの生地は、工場で製造されている。厨房では、生地を丸めたり切ったりして、天板に並べる作業がおこなわれているだけだ。
それを飽きずにずっと見ていた。小さな娘はひとり、店の前に貼り付けていた。家族が買い物を済ませて戻ってきても、まだそこにいた。彼女の驚異的な集中力は、そのときに身についたのだろう。
そのパン屋に出会ったのは、よく晴れた日のお昼前だ。
昨日の疲れが尾を引く土曜日、文野沙苗はだらだらと歩いていた。目的地はない。普段の生活圏から離れた知らない道を、気の向くままに散歩しているだけだ。いつもはきっちりポニーテールをしている長い髪も、今日は無造作にひとつくくりにして右肩に垂らしてある。
実は昨晩、あまり眠れていなかった。仕事から帰って、シャワーもせず横になるくらい疲れていたはずなのに、どういうわけか寝付けなかった。頭の中では、日中職場で投げかけられた言葉が蘇る。あなたには私の苦しさがわからないのよ―――。
だめだめ、と沙苗は空を見上げる。休日くらい楽しまなくっちゃ、と散歩に意識を戻す。今日はとてもいい天気だ。細くて白い雲が、空にすーっと伸びている。沙苗は空を見るのが好きだ。青い天井を見上げると、宇宙から力を受け取っている錯覚に陥る。そうしてエネルギーを補填したら前向きな気持ちになれる。空を見るときは上を向くからだろうか。
立ち止まって空を見ていると、ふわり、といい香りが漂ってきた。パンの匂いだ。このあたりは、沙苗の職場から反対方向だから、ほとんど来たことがない。このおいしそうなパンの香りは、どこから放たれているのだろう。この近くにパン屋があるのか、あるいはどこかの家庭で休日の催しがおこなわれてるのか。
匂いに釣られて歩いていくと、ぽつんと佇むログハウスに行き着いた。周囲を木に囲まれていて、ちょっとした隠れ家みたいになっている。大きな切妻屋根の妻側には、三角形にデザインされた窓ガラスがはめ込んである。民家だったらどうしよう、と逡巡したが、えいやっと思い切って敷地に踏み込むことにした。
そろりそろりと歩を進めると、徐々にログハウスの入り口が見えてきた。ドアの隣には木製の椅子が置いてあり、その上に「ひまねこ堂」と書かれた木の板が立てかけてある。よかった、どうやらお店のようだ。家から10分も歩いたところにパン屋があるなんて知らなかった。
エントランスの階段を上り、看板をじっと見る。木の板に細かく切った枝を並べて張り付けてあり、それが文字になっている。お店の人の手作りだろうか。ログハウスにとても雰囲気が合っているが、同じ素材だから遠くからだと見えにくいのが難点だ。
入り口の扉を開けると、扉に付けられたベルが、からん、と鳴った。中には誰もいなかった。お客さんどころか、店員も、誰もいない。もしかして定休日だったかな、と一瞬考えたが、すぐにその思考は消え失せた。ずらりと並ぶパンの群れに気が付いたからだ。
沙苗の口から、わぁ、という声が漏れた。ログハウスの壁から伸びた台の上には、こげ茶色のパンたちが整然と並んでいた。窓から差し込む光を浴びて、表面がきらきらと輝いている。小麦の香りがふんわりと部屋中に満ちている。とても幸せな空間だ、と思った。
沙苗はさっそくパンを選ぶことにした。並んでいる数の割には、パンの種類はあまり多くなさそうだ。あんぱん、クリームパン、メロンパン、クロワッサン、ロールパン、食パン、フランスパン。日本らしい定番のパンが並んでいる。
おすすめは何だろう、と見回していると、「おすすめ」と書かれたポップを見つけた。ピンクのペンで書かれたポップの下には、黒い素朴な字で、枝豆とチーズのパン、と書かれていた。おすすめなだけあって、他のパンよりもたくさん並んでいる。沙苗は迷わず、枝豆とチーズのパンをひとつ取って、手元のトレーに移した。
会計は自動の精算機でおこなう。どのパンもひとつ200円と決まっており、客が買う個数を自分で精算機に入力する。入力した個数に応じて金額が表示され、それを支払うことになっている。なんともズボラな設計だが、セキュリティは大丈夫なのだろうか、と沙苗は余計な心配をする。
200円を機械に支払い、店の奥のテーブル席に向かう。売り場から見えていた通り、3組のテーブルがやわらかな日差しのなかに置かれている。セットの椅子とテーブルはともにクリーム色をしていて、脇にはコーヒーノキの植木が飾ってある。今日は予定もないし、ここでゆっくり過ごすことにしようと思った。
さっそく、パンを口に運ぶ。パンはまだあたたかくて、噛むと、しょわ、と音がした。バター少なめの生地に、チーズのかたまりと歯ごたえのある枝豆が混ぜ込んである。こってりしたチーズとあっさりした枝豆がよく合っている。夢中で食べて、最後のひと口になったとき、ああ、まだ終わってほしくないな、と心の中で呟いた。
きちんと手を合わせて、ごちそうさま、と声に出す。満たされた気分になったのは、心があたたかくなったからだろう。不思議なパン屋さんだ。沙苗は昔、こういうパン屋に憧れていたような気がした。
すぐに立ち去る気分になれなくて、テーブルの前に座ったまま窓の外に目をやった。さっきまでは聞こえていなかった鳥の鳴き声が聞こえてくる。庭には雑草が生えているが、荒れているというほどではない。可愛らしいシロツメクサがぴょこぴょこと花を咲かせている。この景観のために、わざとほどほどの手入れにしているのかもしれない。
からん、と音がした。入り口を振り返ると、若い女性が店内に入ってきたところだった。女性は全く迷っていない様子で、パンを5つ選んだ。精算機の前に立ち、ピッと入力して千円札を差し入れている。精算機がレシートを印刷している間に、女性は手際よくパンを袋に入れて買い物バッグにしまっていく。そしてレシートを受け取ったら、風のように去っていってしまった。
沙苗はそれを見て、几帳面な人だな、という感想を持った。似た者同士かもしれない、とも思った。そんな風に人の性格を見抜いてしまうのは、沙苗の癖であった。
沙苗は立ち上がり、さっきの女性が置いたのと同じ場所にトレーを返した。正直、トレーをどこに返せばいいのかわからなかったので助かった。そして、足取り軽く、ログハウスのドアに手をかけた。
それから沙苗は、ひまねこ堂に通うようになった。どうやら「おすすめ」ポップのパンは日替わりで、毎日違うオリジナルのパンが並ぶらしい。定番のパンももちろん食べてみたいのだが、オリジナルを見るとついそれを買ってしまう。スーパーの「特売品」とか「期間限定」にも弱い。今だけだと思うと、どうしても試してみたいという気にさせられる。
何度か来店してわかったこともある。たとえば、店内で食べる用のパンは、備え付けの籠に入れること。籠は精算機の横の棚に、数個ずつ重ねて置いてある。インドカレー屋さんでナンが入っているような籠だ。はじめのときは知らずに、トレーのままテーブルに持っていってしまった。
それから、陳列棚の壁を挟んだ向こうに、キッチンがあること。売り場を通り過ぎて左を振り返ると、「STAFF ONLY」の札がぶら下がった扉がある。扉の上半分はすりガラスになっているが、すりガラスと木枠の境目が少しだけ透明のガラスになっている。そこから覗いてみたら、こじんまりとしたキッチンだった。中には誰の気配もなく、小部屋を縦にずらっと並べたようなオーブンが佇んでいた。
お店の開店は午前6時、閉店はパンがなくなり次第。店が開いていないときは、玄関の「ひまねこ堂」の看板が裏向きになっている。沙苗は仕事終わりに寄ってみることもあったが、その時間にはたいてい売り切れている。だから沙苗がパンに出会えるのは、休日の昼前の時間帯だった。
驚くべきことに、ひまねこ堂の定休日は雨の日だ。梅雨が始まった週の土曜日、沙苗が雨傘を差して出かけていくと、お昼前なのに看板が裏返っていた。今日はこんなに早く売り切れたのかな、と疑問に思った。しかし翌日もまた閉まっていた。店先には「ひまねこ堂」の看板以外に、営業日の案内は書かれてない。もうここのパンが食べられないかもしれない、と思うと沙苗は悲しくなった。
定休日について教えてくれたのは、常連客のまりさんだ。まりさんは1年くらい前からひまねこ堂に通っているらしい。沙苗と同じで、はじめはパンの香りに誘われて、偶然店を見つけたそうだ。
沙苗がクリームパンかロールパンか悩んでいたとき、「迷ったら両方、よ」と声をかけてくれたのがまりさんだった。沙苗はパンを選ぶのに集中していて、別の客が店に入ってきたことにすら気付いていなかった。でも、沙苗はその声に驚かなかった。耳に優しく入ってきた誘惑に、「そうしましょうかね」と素直に応じた。
まりさんは白髪を短く刈り揃えたヘアスタイル、いま風に言うと、ベリーショートで、とても品のある女性だ。所作がゆっくりなのに、手際がいい。いつも日替わりをひとつと他のパン2つを買い、日替わりは袋に入れて他のを籠に盛る。日替わりは自宅で夫と一緒に食べるのだという。
はじめに話しかけられて以来、沙苗はまりさんと会った日は一緒にテーブルに座るようになった。お互いに下の名前だけを教え、沙苗さん、まりさん、と呼び合っている。沙苗はパン屋で顔見知りができるなんて思っておらず、内心とても驚いていた。
ふたりの話題は専らここのパン屋について。現実の仕事や人間関係の話は出てこない。それはまりさんの優しさ故かもしれないし、たまたまパンの話題が多すぎるせいかもしれない。
その日のおすすめはカンパーニュサンドイッチだった。横幅20cmくらいのカンパーニュがスライスされ、間にレタスとハムとスライスチーズが挟んである。夕飯用に、ひとつ持って帰ろうか、と思っていたところで、からん、とまりさんが入店してきた。会うのはこれが3回目だ。
まりさんは沙苗が店内にいることを知っていたかのように、驚く素振りもみせず、ふふ、と微笑んだ。パン屋では静かにしなければいけない、という決まりもないのに、なぜだかここでは穏やかな時間が流れている。
沙苗は先に支払いを済ませ、一番窓に近いテーブルに腰を下ろした。ほどなくして、まりさんがやってくる。ふたり揃って、いただきます、と言い、それぞれが選んだパンを頬張る。窓から差し込む陽光が、ふたりの仲をあたためる。
沙苗はメロンパンとサンドイッチを選んだ。メロンパンは沙苗のお気に入りだ。外のサクッとしたクッキーと中のほわんとしたパンの相性が絶妙である。クッキー生地の上にまぶされた砂糖が、ほんのり香るバターの風味を引き立てる。
甘いものの後は塩気のあるもの。昼食にするなら順番が逆かもしれないが、そこはご愛敬。全粒粉の入ったグレーのカンパーニュは、さっぱりとしていて味わい深く、具材の食感を引き立てる。サンドイッチの具材にもいろいろあるけれど、こういう平凡な組み合わせがやっぱり好きだ。
ふたりは黙々と自分のパンを食べ、ほとんど同時に食べ終わった。そして目線を合わせ、ふうー、と息を吐いた。
「今日もおいしいかった」
「はい」
「サンドイッチ、珍しいのよ。一カ月に一度もないんだから」
そうなのか、と思って手元を見る。やっぱり夕飯用に買って正解だった。鞄の中にサンドイッチが行儀よく入っているのを見て、ちょっと得意気な気持ちになる。
「そういえば、ここって店員が誰もいないですよね。どうしてなんですか?」
沙苗は、初日から感じていた疑問をまりさんに投げかけてみた。
「そうよね、不思議よね。私はこの時間にしか来たことがないけれど、いつも誰もいないわ。もしかすると、毎朝天使がパンを運んでくるんじゃないかしら」
もしそうなら、この幸せな空気にも納得できる気がする。信じてみたい話だ。とにかく、まりさんにも詳しいことはわからないらしい。いつ覗いてもきれいに整えられたキッチンは、本当に使われているのだろうか。何も知らず、おいしいパンを食べられることに、沙苗は少し心苦しくなった。
「28番の方、どうぞー」
はっきりとした声で呼びかける。高齢の男性が立ち上がるのを見て、沙苗は会釈をした。男性を診察室に誘導する。
外来では患者を番号で呼ぶことになっている。プライバシー保護の観点もあるが、本名で呼ばれたくない人への配慮にもなっている。多様性を受け入れる時代になり、様々な考えを持つ人々に対応する手段が、いろいろな場面で模索されている。
沙苗は精神科医だ。この総合病院での勤務は2年目になる。まだ若手の部類だが、医師7年目ともなると、バリバリの戦力として扱われる。おかげで毎日てんてこまいだ。
診察室に入ってきた男性は、沙苗と目が合うと、ふい、と視線を逸らした。口を真一文字に結んだまま、椅子に腰掛ける。
「はじめまして、文野です。お名前教えていただけますか」
「三好康雄」
「はい、三好さん。お困りのことは何でしょうか」
「お困りもなにも。家内が行けと言うから来たんです。」
「そうなのですね」
沙苗は、心理士が聴取した予診票に目を落とす。確かに、「妻に言われて来た」と書いてある。本当なら、妻も同席してくれていたらよかったのだが。
「ご自身では、生活のことで困っていることはありますか」
「そんなものないよ」
「そうですか。奥様は何とおっしゃっていましたか?」
「知らん」
診察に協力的でない患者は、正直言ってやりにくい。どんなに病状が深刻でも、「治したい」と思っている人の方が治療は楽だ。特に精神科では、患者や家族の訴えが診断や治療の決め手になる。困りごとを伝えてもらうことこそ、診察の鍵なのだ。
しかし、他人から病院に行くように言われても、受診しない人だっている。自分は病気でない、と心から信じている人は、病院に行く必要性を感じない。つまり、病院に来てくれたということは、何らかの問題を自覚している可能性が高い。話してくれないなら、本人が話したくなるまで待つしかない。
「では、ご家族や、お仕事について伺ってもいいですか」
「なんでだ」
「三好さんのことを、もっと知りたいからです」
初診の患者には、1時間ほどが割り当てられている。この間に、患者の生い立ちや家族、仕事、生活習慣などを聞き出す。事前に心理士が予診でも聴取しているが、確認も含めて詳しく聞いていく。
他の診療科では、精神科ほど詳細に患者背景を聞くことはしない。お腹が痛い人に、「小学校はどこでしたか」という質問はしないように。せいぜい、最近食べたもの、いままでにかかった病気、妊娠の可能性、などを聞くに留める。それで十分だからだ。
沙苗は、三好康雄の印象について、歩行、会話はしっかりしている、表情に乏しい、とカルテに入力する。非言語的な情報も大切だ。何も話さない患者だったとしても、立ち振る舞いからわかることはたくさんある。歩き方、座り方、話し方、表情。それらを観察して、客観的な評価を残していく。
観察力は、沙苗の強みだ。昔から、状況を把握することや、相手の感情を読み取ることに長けていた。でも、周りの空気に合わせることは苦手だった。状況に応じて最善の選択をしようとすると、場の空気を乱してしまうことがよくあった。騒がしいクラスの中で、「静かにして!」と叫ぶタイプだった。だから長い間、沙苗は自分を「空気の読めない子」だと思っていた。
精神科医になって、観察したものを言語化する能力が身についた。浮かんだイメージに、「なぜ」と考え、そのイメージの源を見つけるようにした。なぜ、堅い印象を受けるのか。なぜ、落ち着かないと思ったのか。すると、それまでは何となくだったものに、根拠が生まれるようになった。
三好康雄は、出身や家族構成、仕事については話したが、既往歴や生活習慣については教えてくれなかった。お酒は飲みますか、と聞くと、「知らん」と言われてしまう。話したくないことは無理に聞かない、というのは問診の基本スタンスである。予診票の情報と大きく異なる点はない、という点では問題なさそうだ。
「では、三好さん。また来てくださいね」
「ああ」
短く返事をし、来たときと変わらない表情で、診察室を出て行った。
ふぅ、と沙苗は小さくため息をついた。まだ治療を始められる段階ではない。診断もつかない。ひとまず、本人が話をしようと思えるようになるまで待つしかない。
沙苗にはわかっていた。三好康雄は不安なのだ。信用していない人間に、自分の悩みを話す不安。自分が病気だと告げられる不安。だからいまは、殻に閉じこもって自分を守っている。でも本当は、助けてほしいと願っている。そんな葛藤を抱えながら、彼は診察に来た。
その行動に報いたいな、と沙苗は思った。
日曜日、沙苗はひまねこ堂に向かった。
昨日は日当直だった。硬いベッドで寝たから、背中が痛む。大きな欠伸と伸びをしながら、スニーカーを履いた足を前に進める。ひまねこ堂への道筋は、もう身体が覚えている。
入り口に続く敷石を、とんとん、と歩いて行くと、扉の脇に猫が座っているのに気が付いた。はじめは置物かと思ったが、しっぽの先がぴこん、ぴこんと、一定のリズムで動いている。三毛猫だ。前脚をきちんと揃えて、こっち向きに座っている。
近づいても、猫は逃げる気配がない。座ったまま、沙苗の方をじっと見ている。何かを伝えようとしている目だ。
「こんにちは…」
沙苗は小声で挨拶した。猫は何も言わない。
「あの、入ってもいいですか」
もしかしたら、見張り番なのかもしれない。猫に見張りができるのかわからないけど。もしそうなら、店に入るのに許可がいるのかもしれない。沙苗がそんなことを考えている間も、猫は黙ってこちらを見上げている。
「あっ」
不意に猫は立ち上がって、テラスを駆けていった。そして柵の隙間をするりと抜け、ログハウスの裏手に消えていった。沙苗はあっけにとられ、しばらく猫の消えた方を見つめていた。
気を取り直し、階段を上がる。からん、と店に入ると、若い男性客が会計をしているところだった。お互いに軽く会釈をする。ちらっと見ると、男性は店内飲食用の籠にパンを6つ盛っていた。パン3つくらいを想定した籠のサイズだから、6つとなるとピラミッド型に積み上がっている。あれをひとりで食べるのだろうか。
今日のおすすめはガーリックフランス。普段は買わないフランスパンを食べられる、絶好の機会だ。バターが染み込んだ鮮やかな黄金色に、萎びたパセリが散っている。二度焼きという意味では、これもビスコッティと呼んでいいかもしれない。唾液腺が、きゅう、と締まる感じがした。
男性は、窓際のテーブル席に掛けていた。沙苗は右側の、男性の斜め向かいになる位置に座った。ガーリックフランスとあんぱん、どちらから食べようか、どっちもそこそこカロリーあるな、と思っていたときだった。
「いい音ですよね、ベル」
急に話しかけられて、何のことを言っているのかすぐには理解できなかった。
「ベル?」
「それです、入り口の」
男性は扉の上の方を指差した。ああ、と沙苗も合点がいく。いつも、からん、と鳴っているベルだ。確かに、品のあるいい音がする。沙苗も気に入っていた。
以前住んでいた家の近くに、同じように扉にベルが付けられたレストランがあった。沙苗も何度か行ったことがあるが、そこのベルはひどかった。扉が閉じるときの反動で、ガシャンガシャン、と鳴り響くのだ。扉の横の席に案内された日には、人が通る度にビクビクしなければならなかった。次第にその店からは足が遠ざかってしまった。
男性は、ヨウ、と名乗った。ひまねこ堂は2度目だという。話題は自然と店のことになる。どうして「ひまねこ堂」っていう名前なんですかね、とヨウさんは微笑んだ。
「そういえば、さっき猫見ましたよ」
「え、いいなあ。この店と関係あるんでしょうか」
「わからないですけど、守り神みたいでした」
「守り神かあ」
なぜだか、ひまねこ堂では時間がゆっくり流れているように感じる。それに、空気がやわらかい。ふたりの間に流れる沈黙も、パンの香りに包まれて溶けていく。
ヨウさんは、もりもりとパンを食べた。好きなものを最後に残すタイプらしい。嬉しそうにあんぱんを頬張るのを見て、沙苗は感心していた。こんなに幸せそうに食べる人を、はじめて見た。この人もきっと悩めることはあるだろうに、いまだけはそれを忘れているような顔をしている。幸せって、そういうことなんだろうな、と沙苗は呟く。
じゃあ沙苗さん、また、と言い残して、ヨウさんは去っていった。沙苗は、空になった籠越しに、ヨウさんのいたテーブルを眺めた。ぽっかりとひとりぶん穴の開いた店内は、誰かに埋めてもらうのをじっと待っているようだった。
スタッフステーションで入院患者のサマリを書いていると、看護師のひとりが沙苗に声をかけてきた。
「文野先生、6号室の進藤さん、眠れないそうなので対応お願いします」
進藤智子は、アルツハイマー型認知症で入院している患者だ。易怒性、被害妄想がひどくなり、家族から入院の希望があった。ここ数日、せん妄の症状も出現しており、不眠状態が続いている。
認知症は、もの忘れが多くなる、という印象を持つ人が多いが、意外にも多彩な症状が出現する。病気の存在を認めたくない、隠したい、という気持ちから、怒りっぽくなるのも症状のひとつだ。
サマリが一区切りついたところで、進藤智子の病室に向かう。治療を決める際には、ささいなことでも直接患者と話すことにしている。病棟の窓から外を見ると、傾きはじめた太陽が煌々と照っている。まだまだ暑くなりそうだ。
「進藤さん、調子いかがですか」
「ええ、まあまあです」
「夜、眠れないですか」
「そうなのよ、この前娘が来たときに、あの子、私の家の鍵を持ってっちゃったのよ。どうしてあんな酷いことできるのかしら。人の家に勝手に入るつもりなんだわ。私の財産を狙っているのね、きっと」
進藤智子には娘がふたりおり、入院前は長女一家と同居していた。夫はすでに亡くなっており、長女夫婦とその息子の3人が一緒に暮らしていた。
鍵を持っていった、というのは次女のことだ。進藤智子は納得していないようだが、これは娘同士で話し合って決めたことらしい。母親が入院するにあたり、家の中を片付けようということになり、次女も一時的に鍵が必要になったのだ。次女は母親にきちんと断って鍵を「借りた」そうだが、本人は「盗られた」と思っている。どうして沙苗が詳しいかというと、これを聞くのはもう4回目だからだ。
「それは困りましたね。睡眠は、どうですか」
「だから、眠れていないのよ」
鍵の怒りそのままに、こちらにも火の粉が飛んでくる。沙苗は笑顔のまま、うんうん、と頷く。これくらい非合理な会話には、もう慣れている。精神科には、支離滅裂な会話の人もたくさんいるから、慣れざるをえない。
「眠りやすくなるお薬、出しておきますね。夜寝る前に飲んでください」
返事はなかった。でも、むすっ、とした顔を崩さずに、進藤智子は顎を軽く引いた。眠れないのは本人もつらいのだろう。睡眠薬は素直に飲んでくれそうだ。
入院当初は、身体拘束が必要なほど暴れることもあったが、抗精神病薬を投与してからかなり落ち着いた。その代わり、病院内での生活のためか、夜間に起き上がったり徘徊したりする、せん妄の症状が出てきた。活動量を増やすため、作業療法への参加を勧めてはいるが、まだ参加したことはないようだった。
「進藤さん、一緒に散歩しませんか。私、最近運動不足で」
沙苗が言うと、進藤智子はちらりと沙苗の方を見た。そして、さっきと同じように頷いた。
ふたりは病棟の廊下を歩きながら、他愛のない話をした。外はだいぶ暑いですよ、とか、その靴おしゃれですね、とか。進藤智子の機嫌は、すっかりよくなっているようだ。そうでしょ、これは夫に買ってもらったのよ、と得意気な様子だ。
相手の話を否定しない。これは傾聴の基本だが、沙苗は日常会話でも心掛けている。軽率に、うそだ、違うよ、と口にしない。昔は、間違いを正すことが正義だと思っていたが、その行動が人を傷つけることを知ってしまった。人間は否定されることに敏感だ。
作業療法室の扉を開けると、そこは公民館の一室のようだった。塗り絵、切り紙、読書、将棋。患者がめいめい好きなことをしている。沙苗が声をかけようとするより早く、進藤智子はスタスタとひとりの患者の前に歩み出て、立ち止まった。
「それ、こう持つといいわ」
そう言うと、左手を患者の前に差し出した。人差し指と親指を平行に伸ばし、他の指を曲げた形になっている。話しかけられた男性は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに左手の形を真似した。
沙苗はすぐに状況を察知し、毛糸とかぎ針を取ってきて、進藤智子に渡した。彼女はそれを受け取ると、こうよ、といって糸の掛け方を教える。すっ、すっ、すっ、と針が動き、小さな丸がみるみる大きくなっていく。
「すご、はや」
いかにも若者っぽい口調で、男性が感嘆する。
「年の功よ」
と、進藤智子は答える。
沙苗が、完成したら見せてくださいね、と言うと、はいはい、と投げやりな声が飛んできた。沙苗はしばらく見守っていたが、作業療法士に後を任せ、自分の仕事に戻ることにした。
「そう、看板猫のみけちゃんね。私も見たことあるわ」
まりさんはそう言って、クロワッサンを口に運ぶ。ひまねこ堂のクロワッサンは、甘さ控えめに仕上げてある。そのおかげで、小麦の香ばしさとバターのコクが感じられる。
沙苗がクロワッサンを選ばなかったのは、日替わりが南瓜のデニッシュだったからだ。パンはふたつと決めているから、できるだけ似通っていないものを選んでいる。いつもひとつは日替わりだから、必然的にもうひとつは日替わりと違う系統のパンになる。
「看板猫、なんですか」
「たぶん、そうなんじゃないかなって。よく扉の前に座っているでしょう?」
「まだ一度しか見てないですけど、たしかに入り口のところにいましたね」
秘密を共有できて嬉しい気持ちと、特別じゃなかったんだとがっかりする気持ちが、沙苗の中でぶつかった。自分だけの宝物にするなら、人には黙っておかなければならないものだ。
まりさんはクロワッサンに豪快にかぶりついた。欠片がぱらぱらとこぼれ落ちて、籠の中に収まる。まるで計算されたかのような位置に、籠が置かれている。クロワッサンのかじり方は、上品さとは関係ないんだなあ、と沙苗は思う。
「あの猫、私がここに来始めた頃は見かけなかったんですよ。警戒されていたんですかね」
「あら、そうなの。きっと、常連客じゃないとサービスしてあげないのよ」
絶対そうよ、とまりさんは言う。まりさんの、こういうところが好きだ。不思議なことは、不思議なままでいい、と胸を張っている。きっと、と、絶対、が共存する世界線に、沙苗たちは暮らしている。
まりさんは、猫を飼っていたことがあるらしい。白い長毛の猫で、もう亡くなって十年以上になる。その猫との思い出は語り尽くせないが、毎朝まりさんが新聞を広げたタイミングで、トイレに行って便をする、ということが印象に残っているという。
「新聞を広げて、ちょうど一面を見終わった頃に、ほかほかのが出来上がっているの」
まりさんは懐かしそうに、目を細めて話した。
窓の外に目をやると、向日葵が行儀よく並んで咲いている。夏も盛りだ。沙苗は子どもの頃、誕生日に向日葵の花束をもらって、飛び上がって喜んだことを思い出した。ひまねこ堂の「ひま」は、向日葵のことかもしれない、とふと思った。
「さて、そろそろ行くね」
まりさんは立ち上がって、またね、と言い残していった。からん、という音が聞こえ、まりさんの気配はなくなった。
沙苗は、ふぅ、と小さく溜息をついた。人と話すのは楽しいが、やはりひとりの時間も欲しい。天井を仰ぐと、まばらな木材の節が、星空のように見えた。その中から、星座が見つからないか探してみる。天文学に明るくない沙苗は、オリオン座くらいしかわからない。
店内は、静かだ。蝉の声がかすかに聞こえてくる。目の前は細い道で、車はほとんど通らない。片田舎の町とはいえ、中心部からそんなに離れていない場所に、こんなに静かな空間があることに驚く。
はっ、と視線を感じて振り向くと、あの猫がいた。売り場とテーブル席の間に、以前と同じポーズで座っている。きちんと両前脚をそろえ、しっぽを体に巻き付けたポーズで、じっとこちらを見ている。
どこから入ってきたのだろう。まりさんが出ていったときに、入れ替わりで入ってきたのか。それとも、猫が通れる隙間があるのか。
こちらが気付いたことに、猫は満足した様子で、大きな欠伸をひとつした。それから腰を上げ、もっ、もっ、という効果音をさせながら近づいてきた。そして沙苗の向かいの席、さっきまでまりさんがいた席、にひょいと飛び乗った。堂々とした態度で沙苗を見つめている。
顔はきれいに八の字に色が分かれており、左側が黒、右側が茶色だ。目は萌黄色をしている。長い尻尾はモザイクカラーで、体の左側に巻き付いている。何かの音を察知しているのか、小さな耳がときどき、くるっくるっと向きを変える。
「みけさん、お邪魔してます」
猫にちょうど届くくらいの声の大きさで話しかけた。猫は表情も変えず、返事もしない。ただ、耳がこちらを向いたので、聞こえてるんだな、と理解した。
沙苗が誰にでも、さん付けをするのは、職業病といえるかもしれない。小児の患者を診るとき、さん付けを徹底するよう意識したせいで、それが身についてしまった。学生の頃、小児科の医師が患者を「ちゃん」「くん」呼びしていたのを見て、嫌悪感を持った。そのときに、子供を子供扱いしない、と心に決めたのだ。
猫は、もそもそ、と座り直し、やがて前脚を畳んで香箱座りになった。鋭く光っていた目が、いまはとろんと半目になっている。毛並みは綺麗だが、無口なところを見ると、野良猫なのだろうか。誰かが店の扉を開けるタイミングで、このログハウスに出入りして暮らしているのかもしれない。外は暑いし、屋内に入りたいのも頷ける。
眠りに落ちそうな猫を見ながら、沙苗は実家にいた猫のことを思い出していた。
沙苗が高校生になった年、母が「猫を飼いたい」と言い始めた。母が何かを希望するのは珍しく、沙苗とふたつ下の弟は目を白黒させた。それに対して、父は、いいね、と間髪入れずに応じた。
すぐに猫用品が買い集められ、黒くて長毛の猫が我が家にやってきた。母はかなり前から、ペットショップや譲渡会に出向いていたらしかった。迎えたい猫が決まってから家族に打ち明ける、と決めていたようだ。
よく舌をしまい忘れているから、名前は「チロ」。成猫だったからか、家に来てすぐは押し入れに引きこもってしまった。時間が経つにつれ、徐々に顔を出すようになった。
チロは、沙苗が寝るのを見守るのが常だった。沙苗が布団に入ると、部屋の入り口まで来て、じーっと見てくるのだ。両前脚を揃えて、しゃんと座って、耳をくるくるさせる。例の三毛猫にそっくりなポーズだ。沙苗が熱でうなされていた日は、チロは何度も様子を見に来て、沙苗のことを遠巻きに観察し続けた。チロは沙苗のことを、自分の子供だと思っていたに違いない。
反抗期で、両親とうまくいっていなかった沙苗にとって、チロは緩衝材になってくれた。どうして生きていくのかわからなくなった夜には、食べて寝るだけで幸せそうなチロの存在が励みになった。3年しか共に暮らさなかったけれど、チロは沙苗の中に大きな存在として残っている。
チロは2年前に亡くなった。看取りに行けなかったことが悔やまれる。実家の猫のために、仕事を休むことはできなかった。
まりさんの言うように、思い出は山のようにあって、一度に思い起こすのも難しい。チロはいまでも心の中に生きていて、にゃお、と語りかけてくれる。それだけで、沙苗は満たされた気持ちだった。
気が付くと、向かいの椅子で丸くなっていた三毛猫がいなくなっていた。もしかして、と沙苗は思う。あの猫は、ひまねこ堂に心奪われた人だけが見る、幻影なんじゃないかしら。
診察室から患者を見送って、パソコンの画面に視線を戻した。次回予約のオーダーをして、処方箋を印刷する。ガ、ウィーン、とプリンターが紙を吐き出すのを待ちながら、印鑑を手にする。
ハンコの文化なんて形骸的なもの、滅びればいい。ハンコがないだけで書類が用を為さないだなんて、ばかげている。百均で買った印鑑に、はたしてどれだけ価値があるだろう。それにハンコは代理でだって押せる。まだ自筆署名の方が、本来の意義に沿っているように思える。
沙苗ひとりが声を上げても、社会は変わらない。社会に立ち向かうには、莫大な力とエネルギーがいる。正義を貫くために消耗するより、流れに乗って温存する方が賢い。子供の頃の自分に、そう教えてあげたかった。
事務員がファイルを持ってくる。ありがとうございます、と受け取った。三好康雄、の名前を見て、ほっとする。また来てくれたようだ。
三好康雄は、妻を同伴していた。相変わらず表情は乏しいが、心なしか困ったような顔をしていた。女性は標準体型で、メイクをきちんとしており、背筋をしゃんと伸ばして座った。ふたりの力関係が、ありありとわかるようだった。
挨拶もそこそこに、妻は堰を切ったように話し出した。
「この人、2カ月くらい前から、どうもおかしいな、って自分で言っているんです。だから、何がおかしいのかって聞くんですけど、大したことじゃない、とあしらわれて。ご飯もほとんど食べないんです。この前こちらに来たあとも、どうだったと聞いても、よくわからん、って言いますし。私が病院を勧めた手前、放っておくわけにもいかず、今日はついてきたんです。年のせいかもしれないんですけどね、最近イライラもしてて」
なるほど、と沙苗は相槌を打つ。頭の中では、どこで話を区切ろうか、と考えている。ちらりと見ると、三好康雄は来たときよりもさらに縮こまっているように見えた。
話の勢いが途切れたところで、沙苗は妻にこう切り出した。
「心配されるお気持ち、よくわかります。ご本人からお話を伺いたいので、一度待合でお待ちになっていただけますか。またお呼びしますね」
妻は、わかりました、失礼します、と言って部屋を出ていった。冷静で、規律をしっかり守る人だな、と沙苗は分析する。静かになったところで、三好康雄に向き直った。
「三好さん、お困りのことがあれば、よければ話してください。何か助けになれるかもしれません」
そう言って、しばらく待った。たっぷり1分くらい経って、三好康雄はゆっくりと口を開いた。
「計算が」
「はい」
「できないんです」
沙苗は、三好康雄の職業を把握していた。経理だ。農産品を扱う中小企業の経理をしている。数字を扱う職種にとって、計算ができないことは致命的だ。
「お仕事、大変だったでしょう」
三好康雄の顔が、くしゃっ、と歪んだ。この表情を、妻に見られたくないのだろう、と沙苗は思った。
多少調子が悪くても、人前では大丈夫なふりをする。それは、弱みを握られたくない、という、動物的な本能かもしれない。身近な人に気を遣って平気なふりをし続けると、自分もそれに慣れてしまう。そして次第に、素直になることができなくなってしまう。
「三好さん、大丈夫。よくなりますからね」
三好康雄は、小さく、こくり、と頷いた。
沙苗はひとり、ひまねこ堂のテーブル席に座っていた。籠にパンをふたつ乗せたまま、ぼんやりと目線を宙に泳がせていた。窓の外なのか、内なのか、焦点は定まらなかった。
いろいろな形の夫婦があっていいと思うけれど、やはり「合う」人との生活が楽だろう。それは感性であり、性格であり、会話であり、金銭感覚でもある。自由なパートナー選びが認められる世の中になってきたが、「合う」相手を探すのはそれなりに難しい。自由は、必ずしも最適な手段ではない。
それに、ぴったり重なることが、「合う」こととは限らない。合っていなくても順応できることもある。逆に、はじめは合っていると思っていても、徐々に不満を抱えることもある。そう考えると、「合う」を確かめるより、「合わない」を除外する方がいいのかもしれない。「合わない」ことを許容できていれば、さほど大きな問題にはならない。
沙苗はロールパンを手に取り、真ん中でふたつに割った。バターが織りなすきめ細かい層が、ふんわり感を生み出している。卵が塗られた表面は、つやつやと輝きを放っている。あたたかな香りが、ぐるぐると思考していた沙苗の頭を、優しく包み込んだ。
そのとき、からん、と女性が入店してきた。沙苗は顔をあげて、あ、と口から声を漏らした。知っている人物だった。でも、誰だったか思い出せないでいる。うーん、とひとしきり考え、思い当たった。沙苗がはじめてここに来た日に、パンを買っていった女性だった。
あのときと同様に、女性は迷うことなく、ひょいひょい、とパンをトレーに運んだ。千円札で支払いをしながら、パンを袋に詰めていく。全部のパンを袋に収めてから、女性はレシートを精算機からちぎり取った。
「あの」
沙苗はロールパンを置いて、立ち上がっていた。つい、大きな声が出た。女性はサングラス越しに、沙苗の姿を捉えた。
「よかったら、一緒に食べませんか」
一瞬の間を置いて、女性は何も言わずにテーブル席に近づいてきた。桃色のパンプスが、コツ、コツ、と小気味よい音を立てる。敵意は感じられなかった。
女性は向かいの席に腰掛け、自然な動作で膝を組んだ。スレンダーな女性が安っぽい買い物バッグを提げているのは、少しアンバランスだった。袋の中から、先ほど詰めたパンをひとつ取り出す。それは日替わりの、ホットドッグだった。
「私、沙苗といいます。あなたは?」
「なぎさよ」
なぎささんは、手早くホットドッグの袋を剥がし、大きな口でぱくついた。
沙苗も、小声で、いただきます、と言ってロールパンを口に入れた。ロールパンの端っこの、くるっとした部分が密かに好きだ。
「ほんとはさ」
顎を大きく上下させながら、なぎささんは言う。
「コッペパンのやつの方が、好きなんだけどな」
少し考えてから、ああ、と納得する。今日のおすすめのホットドッグは、フランスパン風の生地が使われているのだ。ザクザクとしたパンの歯ごたえと、パリッとしたウィンナーの食感が同時に楽しめる。あっさりした味のパン生地は、ウィンナーとケチャップソースのこってり感と、ほどよく調和する。
よく見かけるタイプの、コッペパンのホットドッグよりも、沙苗はこっちが気に入っていた。コッペパンは柔らかくて、持つときの力加減がいつも上手くいかない。ウィンナーを落とさないように気を付けていると、コッペパンをぺちゃんこに潰してしまう。
でも、好みは人それぞれだ。なぎささんが違うものを好きだったとしても、それを非難するつもりはない。
人は、主観的にしか生きられないものだ。自分の好み、自分の考え。他人の言葉も、結局は自分の中に落とし込んで、自分の言葉としてストックされる。良いか悪いか、という次元の話ではない。そうでしかないのだ。人の意見というのは、常に側面のひとつなのである。
だから、なぎささんがこんなことを言っても、沙苗は一向に構わなかった。
「ここ、あたしには明るすぎて。なんか、座りにくかったんだよね。よくあんなとこいられるな、って思ってた、正直」
皮肉かどうか、沙苗にはわからなかったが、別にどちらでもよかった。そういうことは、気にしない質だった。お互い、どう感じていようが、自由であることに変わりはない。
「それじゃ。こういうのは、これっきりで」
食べ終えたなぎささんはそう言って、すっと立ち上がり、スタスタと売り場を通り抜けていった。からん、という音が響き、足音は遠ざかる。やがて静寂が戻った。
沙苗は、ロールパンの最後のひとくちをもぐもぐやりながら、なぎささんがひまねこ堂を出ていくのを見送った。口にパンが入っていたから、別れの言葉も言えなかった。残念だけど、仕方がないよね、と思うことにした。
彼女も何かを守りたいんだ。強く生きるために、守らなければいけない何かが、人にはある。沙苗の場合、それは「やすらぎ」だろう。自分だけで守らなければならない。他の誰も干渉できない場所に、それはあるのだから。
ひとりになったテーブルで、沙苗はホットドッグを手に取った。
少女は、外来にひとりでやってきた。
手足は細く、制服はだぼっとしている。薄い茶色のキャスケットをかぶり、視線を泳がせている。沙苗は自分の名前を告げたあと、少女の名前を聞いた。少女は、黒田千香といった。
「黒田さん、今日はどんなことでお困りですか」
緊急でない限り、基本的な問診の仕方は変えないようにしている。相手が明らかに疲れた顔をしていても、明らかに痩せ細っていても。人によって態度を変えないことは、相手への敬意を表すのに効果的なのだ。
「食事を、摂らなきゃいけないと、わかっているんですけど、できなくて。調べたら、精神科に、行くべきだって、書いてあって」
黒田千香は、沙苗の目を見て言った。それだけで、沙苗はひとまず安心した。少女は医師を信用しようとしてくれている。助けてくれる存在だと期待している。治療には、大切な一歩だ。
「普段は、どれくらい食べていますか?」
「朝は、リンゴを一切れ。昼は、これくらいのおにぎりを持っていくけど、全部食べられないこともあります。夜は家で、おかずを半分くらい食べます」
両手の親指と人差し指で、三角形を示しながら話す。
おにぎりの大きさは、コンビニのものくらいか。沙苗は頭の中で、一日分の献立をイメージする。多く見積もっても、500キロカロリーくらいだろう。おにぎりを食べない日は、もっと少なくなる。
高校生女子ともなると、成人女性と同じだけのエネルギー量を摂取しなければならない。大人より活動量が多い分、もっと食べてもいいくらいだ。
話を進めるにつれ、黒田千香が、自分の体は醜い、もっと痩せたい、と考えていることがわかった。また、母親が自分のことを心配な目で見てくるのがつらい、とこぼした。今日ひとりで受診したのも、そういう理由からだという。口うるさい人と同じくらい、心配してくる人というのは、患者にとって迷惑になりがちである。
典型的な、神経性食思不振症だ。とはいえ、診断は保留にしておく。精神科の病気は除外診断といって、身体的な疾患や、他の精神疾患の可能性がないことを確認する必要がある。
「黒田さんの体のことを知りたいので、検査をさせてください」
「わかりました」
身長は162センチメートル、体重は41キログラム。BMIは15.6だ。18.5未満でやせと判定される。
血液検査では軽度の貧血が見られた。鉄やビタミンの摂取不足が原因だろう。食生活が改善されれば、貧血も良くなるはずだが、それにはかなりの時間を要するかもしれない。体重増加の程度や貧血の経過によっては、鉄の補充を考えることにする。
やせと同じくらい深刻なのは、心の健康だ。話を聞く限り、黒田千香は母親とうまくいっていない。学校も休みがちだという。
彼女の根本にあるのは、「太ることへの不安」ではなく、「人間関係における不安」だ。人から嫌われることや、排除されることを恐れている。不安を解消するために、自分をコントロールする手段を得ようとして、食事制限に走っている。
詳細は追々聞いていくとして、まずは食べることができるように援助する。心の問題はすぐには解決しないから、じっくり時間をかけて話してもらおう。
「では、この一週間で自分にできそうなことって、何か思いつきますか」
検査の後、再び診察室に訪れた黒田千香に、そう問いかける。
「うーん」
少し待ってみる。黒田千香は俯いて、悩んだ格好のまま動かなくなってしまった。
「それじゃあ、朝のりんごを二切れにする、昼のおにぎりを残さず食べる、夜ご飯のときにお米を一口食べる。この中で、できそうなものはありますか」
黒田千香は、ゆっくりと顔を上げ、考える人のポーズをしたまま、
「おにぎり、残さず食べます」
と答えた。
沙苗はにっこり微笑んで、言った。
「約束です。守れなくても、怒りませんからね。また来週、来てください」
「はい」
勇気を出してやってくる患者は、いつ見ても凛々しい。表情は弱々しくても、内には大きなエネルギーを持っている。いまは、それを発揮できないだけなのだ。
「お大事に」
沙苗はまた、勇者をひとり見送った。
ついに、沙苗の決心を叶える日がきた。
天気は晴天。外はまだ暗く、星たちが日の出を待ち遠しそうにしている。こんな時間に起きるのは、当直の日に急変対応で呼ばれるときくらいだ。夜中に目が覚めることも時々はあるけれど、すぐにまた寝落ちできるのは、まだ自分が若いからだろう。
さて、こんなに早く起きたのには理由がある。ひまねこ堂のキッチンを覗きに行くためだ。犯罪臭がしないでもないが、ここ一ヶ月、沙苗が悩んで決めたことだった。
ひまねこ堂にはいつも店員がいないとこが、ずっと不思議だったのだ。販売は無人でできたとして、パンの製造や陳列には人手が必要だ。開店前の早朝になら、店員が働いている姿を見ることができるのではないか。そう考え、今回の「覗き」を計画したのだ。
この計画は、誰にも秘密にしている。まりさんにも内緒だ。もちろん、知り得た情報も話すつもりはない。自分だけの、大切なお守りにするつもりだ。でも、あの猫にだけは、話してもいいかもしれない。
用意しておいた段ボール箱を抱え、家を出る。日が短くなり、気温もほどよく下がってきた。木々から舞い落ちた枯れ葉が、路上をカラカラと滑っていく。長袖一枚で外出できるのも、来週いっぱいだろうか。
歩行者どころか、車ともすれ違わず、ひまねこ堂に辿り着いた。木に囲まれたログハウスからは、オレンジ色の光が漏れている。腕時計を見ると、4時前を指していた。
沙苗は、そろりそろりと、忍者のような足取りで建物に近付いた。いつも通りに歩いても、誰にも見つからないような気はしたが、こういう歩き方をすることで、それっぽい雰囲気になると思ったのだ。要するに、わざと、そういう歩き方をした。当然、目撃者はいなかった。
まずは、店の入り口から中を見てみた。まだ明かりは付いておらず、キッチンから漏れる光で、やっと店内が見えるくらいだった。陳列棚には、パンは乗っていない。これからパンが並べられるという事実に、沙苗は安堵した。
続いて、キッチンの上にある窓に目をやった。テラスがある玄関側には、キッチンの上の方に通気用の窓がついているだけなのだ。背伸びしただけでは、中を見ることができない高さにある。事前調査では、テラスのない側面の壁には、ちゃんと大きな窓が付いていた。覗き見対策に設計されているのだろうか。
窓の下に、持ってきた段ボール箱を置く。事前調査の結果、足場になるものが必要と判断していた。小さめの段ボール箱の中に、カットした段ボールをぴっちりと詰め込み、足場を作ってきたのだ。沙苗はこういうところが、ちゃっかりしている。
段ボール箱に乗り、窓から中を覗き見る。そこには、ピカピカに磨かれた銀色の作業台に、金木犀色に輝く予熱中のオーブン。さらに、くつくつと煮える小豆の大鍋が。そして、懸命に鍋を混ぜる、店員の姿があった。
それは、小柄な女性だった。小さな手に木べらをしっかりと握り、絶え間なく小豆を撫でている。コンロに対して背丈が足りないのか、木でできた脚立に乗っている。まるで、いまの沙苗のようだ。どうやら、この家を設計したのは、この手ではないらしい。
しばらくそうして小豆の鍋を混ぜていたが、やがて餡子ができあがったのか、鍋の中身をバットに移していく。体に対して鍋が大きすぎて、沙苗ははらはらしながらその様子を眺めていたが、心配されている側は慣れた手つきで難なく作業を進めていく。あんぱんの餡子は、手作りだったのだ。どおりで粒がしっかり立っていて、おいしい訳である。
店員は発酵器から天板を取り出した。その上には、丸められたパン生地が、列になっている。生地の表面に刷毛で溶き卵を塗っていき、温められたオーブンに入れる。次の天板を取り出し、また卵を塗ってオーブンへ。それがしばらく繰り返されるのを、沙苗は懐かしい気持ちで見届けていた。
壁に10個ほど取り付けられたタイマーが、淡々と時を刻んでいる。沙苗には、どれのパンをどれくらい焼くのか、さっぱりわからない。でも、小さな彼女には全部わかっているようだ。ランダムにも思える順番で、オーブンから天板を取り出していく。こんがりと焼けたパンたちが、嬉しそうに笑っているのが聞こえてくる。パリパリパリ、という、ささやかな笑い声だ。
パンは、長方形の木の板に、行儀よく並べられていく。板の短い方の一辺には、L字型の出っ張りが付いている。なんだろう、と思いながら見ていると、店員は木の板ごとパンを運んでいった。そして、壁についた取っ手を引き、木の板を壁の隙間に滑らせた。コン、という音がして、同時に沙苗の頭脳にも、ピン、ときた。キッチンと陳列棚が壁越しに繋がっているのだ。キッチンにある横長の扉から板を滑らせると、陳列棚にぴったり収まるようにできているのだ。なんて画期的な仕組みだろう。
店員が天板を洗い始めたところで、腕時計を見ると、もう5時半になっていた。沙苗は店が開く前に退散することにした。足場を下りて、さて帰ろうかというとき、足下の壁に蝶番がふたつあることに気が付いた。沙苗は好奇心が抑えきれず、壁の切れ込みをゆっくり押してみた。キィ、と小さい音がして、扉が向こう側に開いた。はたしてそれは、猫ドアだった。
ははーん、ここから出入りしてたのね、と沙苗はほくそ笑んだ。今日だけでたくさんの謎が解けたように思えた。沙苗は満ち足りた気持ちで、ひまねこ堂を後にした。あの猫に報告する必要も、なさそうだ。
平日の昼食は、沙苗の健康的な食生活を助けている。病院の社食は品数が豊富な上、とてもおいしい。揚げ物は揚げたてをテーブルまで運んでもらえるし、お米は白米と炊き込みご飯から自由に選ぶことができる。なにより一食350円という安さだ。食べに出かけるより、時間もお金も節約できる。
白米と炊き込みご飯を両方よそって、二色のわがまま盛りにするのが、沙苗スタイルだ。今日のメニューは、味噌汁、筑前煮、ほうれん草のおひたし、切り干し大根、ししゃもの天ぷら。ししゃもなんて、一人暮らししていたら買うことがない。だからありがたくいただくことにする。
ここ一ヶ月で、黒田千香の体重は減少傾向にあった。
話を聞いてみると、昼のおにぎりは残さず食べるようになったが、夕飯をあまり食べられなくなったという。不安になって、ひと口ふた口で箸を置いてしまうそうだ。おにぎりを食べることによる不安を、夕飯を抜くという代償行為で解消しようとしているのだろう。
現段階では緊急性はないが、このまま体重が減少していくと、生命にかかわる。そのことを説明した上で、38キログラムを下回ったら入院してもらうと告げた。入院、という言葉を出すことで、本人に危機感を持たせる意味もあった。このときばかりは、沙苗はいつになく深刻な口調だった。
食事と健康に関する教育は続ける一方で、人間関係の問題についても対処していく必要がある。家族のこと、学校のこと。いつ踏み込むべきか悩んでいたが、沙苗は心を決めることにした。
「お母さんの心配する気持ちは、私にもわかるし、たぶん黒田さん自身も、心の奥でわかっていると思うんです。でも、いまはそれが黒田さんの負担になっている。だから、一度お母さんと話をしてみたいんです」
黒田千香は、沈んだ表情になった。母親は、黒田千香が精神科に行くことを快く思っていないらしい。娘が病気であると、認めたくないのかもしれない。
そんな母親を病院に連れてくるのは、難しいだろう。それでも、黒田千香が持つ不安を取り除くには必要な一歩だと、沙苗は考えていた。現状から最も目を遠ざけているのは、母親に違いなかった。
筑前煮の人参をつまみながら、外来での黒田千香の様子を思い出していた。ひとりで戦おうとやってきた少女は、自分と何度も向き合ってきたことだろう。本人は、精一杯頑張っている。だから、すべてをひとりで抱える必要はない。周囲の人間に対応するのは、沙苗たちの役目だ。
母親は、どんな人物だろうか。それ以前に、病院に来てくれるだろうか。心から他人を心配している人は、その気持ちを相手には押し付けない。心配だ、と口にする人は、本当は自分のことが心配なのだ。自分の理想が破壊されることを「心配」する母親なら、現状を受け入れようとはしないだろう。
沙苗が思索にふけっていると、男性がひとり、お盆を持ってこちらに近付いてきた。同期の渡部一樹だ。彼は研修医の時に同じ病院で働いていたが、偶然またこの病院で再会した。彼は循環器外科で、簡単に言うと、心臓や血管の手術が主な仕事だ。
「文野、お疲れ。外来終わり?」
「うん。そっちは今日は短かったの?」
「大動脈瘤だった。これからバイパス」
渡部は、喋りながら手早く食事を片付けていく。外科だから、という理由もあるのだろう、渡部は食べるのが速い。沙苗がししゃもを一尾飲み込む間に、筑前煮と小鉢を平らげてしまう。たとえば恋人の前では、この人も上品に食べるよう努めるのだろうか。
「精神科はさ、何というか、平和だよな。暇っていうんじゃないけど、ほら、切ったりしないし」
話題が途切れたせいか、渡部は妙なことを口走った。見下されているようなその言い方に、沙苗はむっとした。
「精神科も、大変だよ」
言葉が上手く出てこなくて、強く言い返せなかった。
「まあ、そうだよな」
渡部は、自分の発言に、大して責任を感じていないようだった。むしゃむしゃと食べ終えると、忙しなく立ち上がった。じゃ、またな、と言って返却口に向かっていった。
沙苗は複雑な想いを抱えていたが、それが何なのか自分でも表現できないでいた。悲しいとも、口惜しいともつかない、強いて言うなら不甲斐ない気持ちだった。皿に残った一尾のししゃもが、じっと沙苗を見つめていた。
初雪の降る朝、沙苗はいつもより早めにひまねこ堂へと向かった。雨の日がお休みのパン屋は、なぜか雪の日はいつも通り開いていた。どういう理屈なのか、さっぱりわからない。みぞれの日はどうなるのだろうか。
からん、と扉を開けると、売り場にはヨウさんがいた。お互いにぺこりと頭を軽く下げる。ヨウさんは今日もパンを山のように盛っている。籠の端に刺さっている、棒状のパンが今日の日替わりらしい。
それは、黒ごまのグリッシーニだった。オリーブオイルを効かせた、さっぱりとした細長いパンだ。ごまの香ばしさが、パン生地の焦げ目とマッチする。パリッとした表面と、もっちりした中身が絶妙なバランスだ。
どうやらグリッシーニは、二本で200円らしい。ボリュームの少ないパンだから、親切設計になっている。沙苗は、グリッシーニを二本と、メロンパンを取って、精算機で支払いをした。
ヨウさんは、沙苗が向かいの席に座るのを待って、外を眺めていた。ふたりは、いただきます、と手を合わせ、グリッシーニを手に取った。ひとくち食べて、目を見合わせて、どちらからともなく微笑んだ。
「雪ですね」
「いつのまにか、ですね」
それだけ言って、また各々のパンに集中した。
沙苗は持ってきた水筒を取り出し、蓋を開けた。あたたかいほうじ茶を、両手で抱えるようにして飲んだ。ヨウさんは、ペットボトルの水だった。店内飲食だからと遠慮していたが、この頃はみんな飲み物を各自で持ってきている。まりさんもそうしていた。
からん、という音で、ふたりは目線を上げた。高齢の女性が、にこにこと笑顔で店内に入ってきた。腰の曲がった、80歳くらいの方だった。女性は陳列棚をじっくりと見て回り、やがて沙苗たちの方に近付いてきた。
「あの、トレーとトングは」
ヨウさんが案内しようとするのを、女性は左手を左右に振って制した。立ち上がったヨウさんに、椅子に座るよう手で示す。ヨウさんは疑問を顔に浮かべたまま、再び席についた。
「私、ここのオーナーなの」
女性は言った。
「だから、知りたくて。おいしいですか、ここのパンは」
ヨウさんは、まだわけがわからないという顔をしていたが、沙苗はある程度話の予想が付いていた。
「はい、とってもおいしいです」
それから、女性はこのパン屋の話をしてくれた。
「もともとここは、私と夫がやっていたパン屋だったんです。夫はイタリアの製パン学校を出て、こちらに来ました。ふたりとも地元でもなかったんですが、この土地が気に入ってね。憧れのログハウスを建てて、パン屋を始めたんです。
ふたりで何十年もやっていたんですけど、夫が体を壊してしまって。末期の大腸ガンでした。それからあっという間に亡くなってしまったんです。それで、私は接客しかできないからパンは焼けないし、ここは閉めようと思っていました。建物も特殊だから買い手は付かないかもって税理士さんには言われました。私はそれでいいと思っていました。
でも、後を継ぎたいって方が現れたんです。その方は、うちのパンの大ファンだったんですって。もうびっくりしました。私はお店に来る常連さんのお顔はみんな覚えていましたけど、その方は会ったことがなかったものですから。そしたらどうやら、おうちの方がずっと買いに来てたんですって。それで一緒に食べていたから、味を知ってるんだって言ってました。
彼女はパン作りは未経験だったみたいです。でも夫が残したレシピを見せたら、勉強するので教えてくださいって。それで、私にわかるところは教えたり、自分で試行錯誤したりして、毎日懸命に練習していました。そうして、夫が作るのとほとんど同じ出来のパンを作るようになったんです。」
それが、いまのひまねこ堂だという。
そうだったんですね、とヨウさんは呟いた。とても感心した様子で、何度も頷いている。
沙苗は、パンの作り方がレシピで伝わったことに驚いていた。てっきり、手取り足取り教わったのだと思っていたのだ。先代と同じ味を、本人から伝授されずに再現するなんて、よっぽど勘が鋭いか、鼻が利くに違いない。料理が不得手な沙苗は、レシピだけでは作り方がイメージできず、毎回調理動画を見ないといけないというのに。
女性は、話ができて満足そうであった。そういえば、と脈絡もなく付け足す。
「あなたたち、ここで出会ったんでしょう?」
え、とふたりの声が重なる。どうしてわかるのか、沙苗たちが尋ねる前に、女性はネタばらしをした。
「ここの店、昔からひとりで来るお客様ばかりなのよ。どうしてかはわからないんだけどね」
謎が解けたと思ったら、新たな謎が湧いてくる。不思議が沙苗たちを包んだことで、女性はよりいっそう嬉しそうな顔をした。
「それじゃ、ごゆっくり」
老婆は足取り軽く、店を出ていった。
ふたりはしばらくの間目を丸くしていたが、やがてヨウさんが、ぷっと吹き出した。
「変な店だなぁ、つくづく」
沙苗は応じる。
「ほんとに」
沙苗の方が先に食べ終わっていたが、お茶を飲んでゆっくりしていたかったから、ヨウさんを見送る形になった。お昼前になってもパラパラと舞い落ちる雪に、沙苗はセンチメンタルな気持ちが浮かび上がってきた。
「平和、かぁ」
確かに、自分の仕事は他科に比べて平和なのかもしれない。胸を切り開いたり、血管を繋いだりはしない。でも、楽していると思ったことはない。いつだって真剣に患者と向き合っているし、患者の苦しみと共にある。労働時間だって負けていない。
それなのに言い返せなかったのは、自分の中にも、精神科は他科に劣っている、という意識があるからかもしれない。医療にとって、精神的問題は、身体的問題よりも優先度が低い。それは、致死性が目に見える方が対処しやすいから、という理由が大きい。お腹から血を流している人はすぐ助けられても、希死念慮のある人は簡単に見つけられない。精神科医とはいえ、長年医療に携わってきた沙苗には、その感覚はずっと根を張っていた。
もやもやした気持ちのまま、からん、と扉をくぐる。そこには、猫がいた。看板の前に座って、沙苗を見上げている。何か言いたげな、強い目だった。
「みけさん…」
三毛猫ははじめて、にゃお、と鳴いた。凜としたその態度に、沙苗は敬意を感じずにはいられなかった。そうか、あなたも――。
猫は、くわ、と大きな欠伸をした。
翌日、沙苗は循環器外科の病棟へ出向いた。渡部の姿を見つけると、軽く手を挙げて挨拶をした。
循環器外科のグループは、毎朝病棟回診をおこなっている。ほぼ毎日手術があるから、術後の患者の体調や傷の状態を確認しているのだ。そのせいで朝が早いことを、渡部は沙苗にぼやいたことがあった。
わざわざ言いに来なくても、相手は全く気にしていないとわかっていた。でも、沙苗のプライドがそうさせた。沙苗の中にある確信を、誰かに伝えておきたかった。
「おう、どうした」
渡部は屈託のない笑顔で沙苗を迎えた。
「この前のことだけど」
沙苗は真面目な口調で続ける。
「精神科、平和じゃないよ。みんな、戦ってるんだ。見えにくいけど、ちゃんと」
そう、人も、猫も。ちゃんと戦っている。己の貫きたい信念のために、自分の苦しみと戦っているのだ。苦しみだけじゃない。悔しさとか、悲しさとか、ときには楽しさとも、戦うんだ。患者だって、沙苗だって、みんな。
それは、沙苗の願いでもあった。誰もが他人と戦わず、自分とだけ戦う世界。自分の中にある強さを信じ、弱さと向き合う心を育てる。弱さは、無くしたり、隠したりするものではない。見守っていくものだ。そうして戦って、自分の弱さが秘める力を知るのだ。
渡部はしばし、きょとん、としていたが、すぐに明るい顔になって、
「そうだな。お互い大変だけど、今日も頑張ろう」
と言った。沙苗はそれで満足した。
外来には、三好康雄が来ていた。このところはずいぶん調子がいいようだ。はじめの頃は毎週受診してもらっていたが、いまは三週間に一回来てもらっている。薬も継続して服用できており、日常生活も心配なさそうだ。
「編み物を始めまして。交流会に、上手い人がいるんですよ。それで、教えてもらっています」
三好康雄は、母親が参加する認知症の交流会に、付き添いとして参加するようになった。治療が始まって体調が改善してくると、早く復職したいと焦るようになっていた。まずはリハビリしましょう、と宥め、母親の介護の手伝いからスタートすることにした。
交流会で母親と一緒に編み物を習っているうち、本人より息子の方がハマってしまったらしい。いま、自宅には手作りのアクリルたわしが溢れかえっているという。妻の困った様子が、沙苗の目に浮かぶようだった。
手を動かすこと、人と会うこと。現在の三好康雄にとって、精神的にいい影響があることは間違いなかった。相変わらず口は真一文字だが、嬉しそうな頬をした三好康雄の顔を見て、沙苗は心から安堵した。
患者を送り出し、また次の番号を呼ぶ。沙苗は数字が好きだ。正確には、合成数が好きだ。合成数とは、1と素数以外の数のことをいう。中でも、三好康雄は初診時に「完全数」だったことを、よく覚えている。
私も、たくさん割り算できる人間だったら嬉しいな、と沙苗は思った。どんな割り切れない相手も、受け入れることのできるようになりたい。それは精神科医としてだけではなく、人として、そうありたいと思った。すべてを包み込むあのパンが、沙苗の目標だった。
またひまねこ堂に行こう。あの、猫がパンを焼いているパン屋さんに。
