海外支援への違和感
大学時代から、海外へ目を向けて「海外の可哀想な子たちを支援しなきゃ!」と頑張る人に対し、私はなんだか違和感があった。
その違和感の正体を、いくつかの視点でひも解いていく。
なぜ海外に目を向けるのか
大学生時代から感じていたのだが、なぜ「海外だから」可哀想、になるのか。
海外の貧困層を救いたい!→日本にも貧困層はいます
海外の女の子は無理やり行為をさせられている!→日本でもそういう事件はあります
なぜ身近な日本の困りごとには目もくれず、文化も考え方も違う海外の人を「救おう」とするのか。
正直、海外に行きたいだけじゃないか?と思う。
なぜ自分の価値観が正しい前提なのか
女性に教育機会を与えないなんて許せない!
貧困かわいそう!助けなきゃ!
独裁や社会主義なんて悪だ!
人生の選択と判断に自由を与えなきゃ!
…なぜ、先進国の、資本主義の、日本の、我々の価値観が「正しい」前提なのだろうか。
日本人が「助けなきゃ!」と言っているアフリカの平均GDP成長率は2025年で4.2%と、日本なんかより高い。出生率だって「女性1人あたり5人以上」というデータがある。
…こう見ると、アフリカの方が「正解」とも言えないだろうか?
競争が働いて、男女平等に教育と労働の機会があって、女性にも人生の選択の自由がある。そもそもそれって、本当に誰もが享受しているのだろうか。
女性に人生の選択の自由がある日本は、結局結婚してもしなくても自己責任という雰囲気で不自由感を感じる女性も多い。職業だって、「親と同じ仕事」を選ぶ人が結局多いではないか。
結局、「した方が良さそうだから」「親が選んでくれたから」で結婚も就職も選択している人が多い。
また、選択の自由があるからこそ、「結婚も仕事も出産も」に苦しむ女性の嘆きが毎日のようにSNSに上がる。
…それって、自由が素晴らしいといえるのだろうか。
もちろん自由だからこそ助かった人もいるだろうが、女性に教育や労働の機会がなかったとて、それはそれで苦しまずに済んだ側面もあるのではないだろうか。
先進国の「自由」が正しい前提で、その基準に合わせようとしている点に、違和感がある。
海外支援って金持ちの道楽では?
あくまで私の周りだが、「海外支援」の仕事やボランティアをする人は、実家が太い。
そりゃそうだ。自分や親の生活資金を稼ぐ必要がないから、収入が少なくても「やりがい」だけで職業選択ができる。バレエダンサーや音楽家の実家が太いのと同じだ。
実家が太いと、もう目指すものがない。することが、社会貢献と自己実現しかない。対して、我々貧乏人は「生活を成り立たせる」「平均を目指す」「将来に向けて蓄財する」など、やることがたくさんある。
自分に対しての強い課題や悩みがないからこそ、海外に目を向ける余裕があるという側面も否定できないのではないか。
もちろんこれは悪いことではない。あくまで庶民の私が感じた違和感の結論が「出自が違うから目指すものも違う」だっただけだ。
変な活動家も実家太い人が多いが、そっち方向に行かなかっただけむしろ感謝すべきかもしれない。
発展途上って、むしろ生きやすくないか?
すまん、悪意はない。
だが、先進国である日本で貧困になるよりも、発展途上国で貧困であるほうが、まだ幸せではないか?と思うのだ。周りが貧困のなか自分も貧困であるよりも、みんなが生活に困らない国で生活に困る方が、不幸を感じやすいのではないか。
日本は素晴らしい国だと私は思う。だけど(だから)もう、目指すものがない。義務教育も無償で受けられ、経済発展も経て、男女の雇用機会も選挙権も平等で職業選択も自由な国。そのうえ治安もよく食べ物もおいしい。社会保証も恵まれているし、お金に困っても最低限度の生活費をもらえる。もうこれ以上国を挙げて目指すものがないから、「承認」や「自己実現」という高度かつ正解のないものを目指すしかなくて苦しむのではないだろうか。
対して、発展途上国は目指すものがまだまだある。清潔なインフラや安定な食料など、マズローの欲求5段階説の最下層から整えていく必要がある。生まれてきた子どもが健康に大人になる必要がある。無意味な殺し合いや暴動を生まないよう、また経済発展させるよう、教育水準を上げる必要がある。
…日本にとって「当たり前」のことが、発展途上国は「達成したら嬉しい」ことなのだ。「達成したら嬉しい」ことがあり、そのハードルが低いって正直幸せなことなのではないかと、私は思ってしまう。
だから非人道的行為も見逃して支援も打ち切りましょう、というわけではなく、みんなで貧困でこれから成長していこうという国を、そんなに憐れんで見下す必要があるのだろうかと思ってしまうというだけだ。
救いたい形をしている人を救ってるだけではないか
本当に救われるべき人は、救いたい形をしていない
…名言過ぎると思う。
日本には、まさに救いたい形をしていない「救われるべき人」が多い。
なぜなら、義務教育や児童相談所、生活保護など、救われる土壌はあるからこそ、そのセーフティネットに辿り着けない人・辿り着いても救えなかった人は、もう落ちていくだけだからだ。
恵まれている日本において恵まれないというのは、その人をどんどん攻撃的あるいは内罰的にしていき、「普通」のレールに乗れないからこそ犯罪にも手を染めやすい。もともと救いたい形をしていなかった人もいるだろうが、それはつまり最初から「救うべきひとだった」とも言える。
発展途上国であれば、人格に問題のない人も貧困に苦しんでいる。周りも貧困だからこそ捻くれる必要もなく、教えたことは素直に吸収し、施したことには素直に感謝してくれる人も多いだろう。まさに「救いたい形をしている」。
救いたいと思いやすい海外に目が向くわりに、日本で苦しむ人は救いたい形をしていないから目が向かない。それが、私の感じる違和感なのかもしれない。
やらない善よりやる偽善
とかごちゃごちゃ言ったが、私は「やらない善よりやる偽善」という言葉が好きだ。
私はただごちゃごちゃ違和感について語るだけで、ただのやらない人だ。
海外支援という行動に移す人の方が偉いに決まってるからね~。
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