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惻 隠

夏の終わりの、あの得も言えぬ趣きが好きだった。

華やかな夏の花たちが、盛りを過ぎて、景色は落ち着き、空気は澄み、遠くの風景が何処までも見渡せるようになる・・・。

若い頃の過敏な私は、神経に電気が走るような透明感のある、晩夏のびりびりとした季節をこの上なく、好んだ。

八ヶ岳の麓の今住む町に移り住んでからは、それはいっそう顕著になった。

高原の町の晩夏から秋へと移る季節は確かに、人の哀愁に似た心情とも連なっていて、自然との一体を感じさせたのだ。

それがどうだ・・・

ここ数年は趣きを変えて、当地でも暑く厳しい夏を過ごせば、紅葉をろくに感じることもなく、一気に寒くなってしまう。
好きだった、と過去形で書くしかない現実を恨みたくなる。

自然豊かな場所でもそうなのだから、都会に暮らす人は、もっと季節の移ろいを実感するのも稀有になっているのだろうか?

地震や、台風や、洪水や、噴火と自然災害が絶えない日本だが、その半面、豊かな自然に恵まれていて、何より世界でも珍しいはっきりとした四季がある。

美しい国土は豊かな美的感受性を育み、それが仏教的な無常観を包摂して、移ろい行くものを愛おしむ、「もののあはれ」という感覚が生まれた。

それは何も文学や古典芸能の上だけではなく、普段の生活の中で、人々が助け合いながら生きて行くための優れた知恵として、心として、成熟して行った。

その一つが、「惻隠の情」である。

数学者で作家の藤原正彦さんの著作群を読んでいると、そのワードがよく出てくる。

惻隠の情(そくいんのじょう)とは、他人の苦しみや困難をみて自ずと心が痛む感情。
この、自ずとというのが肝心である。

もともとは古代中国の孟子の頃から言われている言葉だが、日本では武士道の中枢の感情としても伝えられてきた。

日本人独特の徳性として、もののあはれを感じる心や「惻隠の情」を人間性の最も大事なものとして「武士道」を記して、その精神を外国に伝えた新渡戸稲造はそう言う。

それが現代の日本では失われてきた、と、「国家の品格」を書いたもう二十年も前から藤原氏は嘆いている。


他方で、私は最近、看護、介護の現場で、現象学的考え方が注目されている事を、知った。

現象学は周知のとおり、フッサールが提唱し、後に形を変えながら、ハイデガー、メルロ・ポンティ、サルトルへと繋がるものである。
私も以前、現実世界への新しい見方として興味を持って触れてみたが、その奥行きの深さに立ち往生した記憶がある。

看護の世界にそうした現象学的思考を持ち出したのは、アメリカの看護学者である、パトリシア・ベナーである。

その理論の詳細は私には容易に説明できないが、榊原哲也氏などの研究に詳しい。
ベナーは主にハイデガーの説く、「関心」、「気遣い」に注目したらしい。

人の病気には、「疾患」と呼ばれる細胞、組織、器官レベルの失調の現れがあり、それらは医師によって、医学的、生理学的検査で得られる量的データをもとにして診断され、治療される。

一方で、「疾患」に対して、そうした疾患によって生じる「能力喪失や機能不全をめぐる人間的経験」を「病い」と呼ぶ。

「病い」が本人の置かれた状況、本人の抱く関心に応じて、特定の意味を帯びて経験される意味経験であるため、それらは医学的アプローチのみでは解決できない。
それを手助けするのが、「看護」、の本領であり、そのために現象学的哲学が必要となる。
それがベナーらが看護の現場に現象学を要請した端緒である。

もし、そうした思いを共有した担い手が、現時の忙しすぎる看護や介護の現場に一石を投じ、増えていくことは、私にとっても、この上ない、喜びだ。

近年、病気がちの私は医療現場との関わりも多くなった。
身近な人々にもそこで働く人も多い。
また、身近な人で、そういう施設に入る人も多くなった。
それは、私一人の事ではないだろう。
今の世の流れだ。

ところで、もうお気づきだろう。

わが国の看護・介護の世界でそうした動きが素直に受け入れられ、広がっていくとしたら、それはとりもなおさず、もともと私たち日本人にはそうした素養が備わっていたからに違いない。

そう思いたい。

それが、「惻隠の情」というものである。

西洋的な考えと東洋的な考えとは確かに根本的な違いはあるが、結果として、人間の望むものは同じなのかもしれない。

私たちの生きる未来は出来得れば優しいものであって欲しい。

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ところでところで

つらつらと思いを巡らしているうちに気づいたことがある。

私は、近年の環境の変化をくだくだと愚痴っているが、周囲の自然は無論そんなことすらしなくて、あるがままに、そこにある。
当たり前の話だ。

だが、その事に改めて感動する。

自然の中で生きるものは、それが、生命の本質であるかのように、あるがままに、今、そこにある。

たとえ、多少は以前とは違っていても、時がくれば、空は高くなり、木々は色づき、風は優しく渡る。

そういうことなのかもしれない

私もまた、それに学び、あるがままに、残された時間を、自然の中で、これまで以上にびりびりと感じて、生きていきたい。










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