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「n=1」~不自由で自由な僕たちの正解~

世界観・プロット:MOTO / テキスト編集:生成AI(加筆・修正:MOTO)


全市民が「平均リング」で管理される社会。そこでは「平均」から外れた個性は「ノイズ」として排除される。かつて愛した少女を「再調整」で失ったカイは、自ら親指を切り落とし平均律国家からの脱却を図る。「誰かが決めた正解」を壊し、人間らしさを取り戻すための命懸けの反逆劇。


第一話

16歳の誕生日の朝。レオが最初にしたことは、スマートフォンの通知チェックではなく、枕元に置かれた「平均省」からの封筒を開けることだった。
数日前、住民票の登録住所に届いたそれは、あまりに軽くて中身が空なのではないかと錯覚するほどだった。しかし、封を切ると、鈍い銀色の光を放つ「平均リング」がそこに鎮座していた。
昨夜、SNSでは「#リングデビュー」のハッシュタグが躍っていた。有名インフルエンサーが「平均律こそが真の平等」とリングを見せびらかしながらエモい動画をアップロードしていたのが脳裏に焼きついている。また、インプレッション稼ぎであろう陰謀論のようなものもたまに流れてくるが、馬鹿らしい。この平均省の施策が施行されて37年。今さらデモ活動をする者すら一人もいないじゃないか。学校でも、昨日誕生日を迎えた友人が、誇らしげにリングの装着完了画面をクラスのグループチャットに共有していた。
届いていない者はいないか。予備が必要な者はいないか。 1時間目の「総合」の授業で、教師は必ず確認するだろう。
レオは手順書に従い、左手首にリングをあてがった。
「……よし」
覚悟を決めて押し込むと、肌がわずかに焼けるような熱を帯び、脳内に何かが流れ始めた。
(聞こえますか。これはあなたの脳内に直接語りかけています。本日、あなたは国の『平均』の一員となりました。おめでとうございます。さあ、深呼吸をしてください。優劣のない世界へようこそ)
「うへえ」
レオは思わず声を漏らした。脳の裏側を直接なで回されるような、粘り気のある女の声。手順書には「初期設定時のガイダンス」とあったが、これほど侵食感があるとは思わなかった。
しかし、その不快感は長くは続かなかった。 リングが一度、脈打つように淡く発光する。すると、先ほどまでの嫌悪感が嘘のように消滅した。代わりに、テストで満点を取った時の満足感や、あるいは飲んだこともない「ビールの一口目」の喉越しを知っているかのような、奇妙な全能感に近い多幸感がじわじわと脳を満たしていく。
(……あ、これか。みんなが言っていたやつ。悪くないな)
一時間目の「総合」の授業。担任の佐藤は、教卓のタブレットをスワイプしながら、出席を取るのと同じトーンで読み上げた。
「今月、装着予定の者は起立」
レオを含めた五人の生徒が、椅子を引く音まで揃えて立ち上がる。
「番号、11AG2J37。レオ。装着確認……よし、座れ」
一人、また一人とリングの装着が確認されていく。座っている生徒の半分は、まだ十五歳でリングを着けていない。彼らは「大人」の仲間入りをしたレオたちを、羨望と少しの畏怖が混ざったような目で見つめていた。
レオは、隣の席に座っている親友のケンに目をやった。ケンはまだ十五歳だ。 さっきまで、ケンは貧乏ゆすりをしたり、消しゴムのカスを丸めたりして、いかにも落ち着きがなかった。その「雑音(ノイズ)」のような動きが、今のレオにはひどく野蛮で不合理なものに見えた。
(ケンも早く着ければいいのに。そうすれば、そんな無駄な動きをせずに済むのに)
レオの背筋は、物干し竿で括られているかのように真っ直ぐ伸びている。リングが、筋肉の緊張を最適化してくれているのだ。
「次。番号、11UF2H75。マイ」
レオの二列前で、一人の女子生徒がゆっくりと立ち上がった。彼女の左手首には、レオと同じ銀色のリングが嵌まっている。だが、そのリングは淡い発光ではなく、禍々しい赤色に点滅していた。
「……先生、あの、リングが」
マイの声が震えている。その震え方は、以前授業中に彼女が居眠りをして、寝ぼけて教科書を落とした時に見せた、あの間の抜けた、でもどこか愛らしい動揺に似ていた。彼女はよく、授業中に窓の外を流れる雲を眺めては、誰にも理解できないような空想を口にする女の子だった。
「朝からずっと、頭の中で変な音が鳴り止まなくて。苦しいんです。『平均から外れています、戻りなさい』って……」
教室の空気が凍りついた。未装着の十五歳たちが息を呑む。 対照的に、装着済みの生徒たちは、何の感情も映さない穏やかな表情でマイを見つめていた。
「マイ、落ち着け。深呼吸をして『平均』を意識しろ。国は君の幸福を願っている」
佐藤先生の声は、冷徹なまでに優しかった。
「嫌……嫌だ! 助けて!!」
マイが異常なほど取り乱し始めた。ああ、そんなに慌てたら誰がどう見ても「平均」ではないじゃないか。 装着済みのレオたちの反応は一貫していた。
「マイさん、静かに。心拍数が上がると、さらに適合率が下がりますよ」
誰かが穏やかに、教典を読み上げるような口調で言った。レオもそれに深く同意した。今の彼女は、見ていて非常に不快だ。早くこの不快感を、「正常(ただしく)」してほしい。
「嫌……嫌!!」
叫びと同時に、何か電撃を喰らったかのようにマイはその場で気絶した。 この異常な状況に、未装着の生徒たちは激しく動揺し、彼らのリングも赤黒く点滅し始めた。しかし、数分も経たないうちに、それらはまた正常を示す淡い光へと戻っていった。
「先生、マイさんが……!」
学級委員長のノゾミが声を上げると、佐藤先生は落ち着いた動作でマイのそばに寄った。
「大丈夫だ。委員長、彼女を保健室に運ぶのを手伝ってくれ。私は平均律管理委員会へ連絡を入れる」
「あの、俺も付き添います」
レオが名乗り出た。先生は一瞬不審に思ったが、男手があった方がいいと判断し、同伴を許可した。
レオと委員長は、ぐったりとしたマイを保健室のベッドへと運んだ。 保健室の白い天井の下でマイの顔色を窺いながら、レオは奇妙な違和感を覚えていた。ついさっきまで彼女のパニックを「不快だ」と感じていたはずなのに、今はただ、静かになった彼女を「正常」に戻してあげたいという義務感だけが湧いてくる。
しばらくすると、保健室のドアが開いた。 入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ「平均律管理委員会」の職員だった。彼はレオの顔を見て、慈愛に満ちた柔和な笑みを浮かべた。
「彼女のクラスメイトかな。驚かせてしまってすまない」
「あの……マイさんは、どうなってしまったんですか?」
委員長が問う。
「ああ、実はね。これは千人に一人ほどの割合で起こってしまうリングの初期不良……一種の『バグ』なんだ。彼女の心拍数が一時的にシステムと同期できなくなってしまった。君のせいじゃないよ」
職員は、諭すように続けた。
「彼女は今から、専門の施設で再調整を受ける。そうすれば、すぐにまた君たちの知っている『普通』の彼女に戻れる。元通りの生活に復帰できるから、その時はまた、仲良くしてあげてほしい」
「……復帰できるんですね。良かった」
レオの胸の奥で、カチリと音がした。リングから微量の多幸感が流れる。レオの視界から、マイの青ざめた顔や絶叫の記憶が、心地よい霞の中に消えていく。
職員たちは手際よくマイを担架に乗せ、運び出していった。 レオは保健室の窓から、彼女を乗せた白い車が校門を出ていくのを、穏やかな気持ちで見送った。
教室に戻ると、先生が職員の説明と一語一句違わぬ内容を生徒たちに話していた。それを聞いたケンが激しく動揺している姿が、レオには不快で仕方がなかった。
放課後。 レオは一人、夕暮れの帰り道を歩いていた。 街を行き交う大人たちは、皆が等しく、過不足のない幸せそうな顔をしている。かつて感じていたはずの「何かが足りない」という焦燥感は、もうどこにもない。 施設へ行ったマイも、今頃は「正しく」直してもらっている最中だろう。 そしてまた、僕らと同じ、この美しい調和の中に帰ってくる。
劣ることも、優ることもなく。 傷つくことも、傷つけることもない。
レオは、隣を歩く見知らぬ通行人と、寸分違わぬ歩幅で歩き出した。 手首の銀色のリングが、沈みゆく夕日を反射して美しく輝いている。
「……ああ、優劣のない世界は平和じゃないか」
レオは心からの、そして完璧に平均的な笑顔を浮かべて、家路についた。


第二話

「もうあれから何年になる」
「……八年、ですかね」
「どうだ。何か分かったか」
「何も」
カイはぶっきらぼうに答え、右手で左手の親指あたりをさすった。手袋の布地越しに触れる、そこにあるはずのモノの喪失感が、鈍い記憶を呼び覚ます。
「カイにーちゃん! 遊んで!」
子供たちの無邪気な声が、張り詰めた静寂を割った。泥に汚れた小さな手が出し抜けにカイの裾を引っ張る。
カイは視線を落とし、小さく息を吐いた。
「まじで? 分かったよ。じゃあ、『だるまさんが転んだ』しようか」
「わーい! だ、る、――」
「はい、タッチ」
「はやすぎ!! もう一回!」
カイの脚力は、子供の瞬きよりも速かった。カイの脚は、爆発的な速度で地面を蹴る。土煙が舞う暇すら与えない。
「また? じゃあ、もう一回だけだよ」
「うん! ……だ、」
「はい、タッチ」
「つまんない!!! もう知らない!!」
頬を膨らませ、地団駄を踏んで逃げていく子供たちの後ろ姿を見送りながら、カイは乾いた笑い声を上げた。
「あまりからかうのはやめろ。見ていて大人気ないぞ」
「はいはい、すんません」
傍らで椅子に腰掛けていた老人が、深い皺の刻まれた顔を綻ばせる。この孤児院を一人で守り続けてきた園長だ。
「話は戻るが、リングはどうしたものかな。私はもう、そろそろ百歳(ひゃく)になる。この孤児院を運営し続けるのも限界だ。そうなれば、お前さんをここに匿い続けることも難しくなる」
「百歳近くになってもピンピンしてる方が大概だけどな。……まあ、確かに。そろそろ何かが閃けばいいんだが」
園長のような高齢者は、この国の「平均」という巨大な歯車からこぼれ落ちた特例だった。
平均省の施策が施行されて三十七年。当初、平均リングの装着義務は「健全な国力」として見なされる十六歳から六十歳までとされていた。しかし、制度が血肉のように社会へ定着するとともにルールは書き換えられ、「一度装着した者は、六十歳を過ぎても死ぬまで装着し続ける」ことが義務付けられた。
園長は、三十七年前の施策開始時にすでに六十歳を過ぎていた。そのため、脳を直接なで回されるようなあの魔の手から運良く外れることができた、この国でも数少ない「リングを知らない世代」の生き残りだった。
八年前、血塗れの左手を抱えて俺がここに逃げ込んだ時、彼はすでに九十を越えていた。
園長の後継者となることと引き換えに、俺はここに匿われている。無論、本名や身元を明かせば、定期巡回に来る「平均律管理委員会」に指の欠損――すなわちシステムへの反逆の証が即座に露見する。
だからこそ、じいさんには今も現役の「園長」として、死ぬ気で表舞台に立ち続けてもらっているのだ。

「……さて、現実を見ますか」
カイは頭を切り替え、台所の床に積み上げられた、不揃いな段ボールの山に目を向けた。近隣の住民から寄せられた支援物資。市販のラベルは剥がれ、賞味期限も栄養素もバラバラだ。
カイがその山をじっと凝視した瞬間、脳の奥がにわかに熱を帯び、視界の裏側に無数の数式が強制的に浮かび上がった。
(卵が12個、消費期限は三日後。粉ミルクの備蓄在庫と、子供六人の必要カロリーの総和。算出される最短時間……)
ぐちゃぐちゃに絡み合った「生活のノイズ」が、カイの脳内で恐ろしい速度で因数分解されていく。共通項で括り、余計な項を限界まで削ぎ落とし、最も美しい「解」へと一瞬で収束させる。
「……できた。三番と五番の箱を入れ替え、卵は今日中にすべて炒り卵にする。これが、一週間分の献立の最適解だ」
指を一本も動かさず、数秒の思考だけで導き出された最短ルート。
だが、その直後。
「……っ。ああ、クソ……」
凄まじい吐き気が込み上げ、カイは台所の冷たい床に膝をついた。視界が激しく明滅する。
「たったこれだけの計算で、三日徹夜したみたいな頭痛だ……。最悪だ、もう今日は一歩も動かないぞ」
先ほどまでの天才的な手際の良さが嘘のように、カイは芋虫のように床で丸くなった。リミッターを外した脳の燃費は、恐ろしく悪い。過熱した脳が、悲鳴を上げている。
「カイ、……これを見てくれ」
床にへたり込むカイの視界に、園長のひどく震える手と、一通の鮮やかな赤い封筒が入り込んできた。
「じいさん、……なんだよ、それ。今は『1+1』の計算すらしたくないんだ…」
「平均省からだ。……特別健康診断の実施通知書が届いた」
カイの思考が、冷水を浴びせられたように一瞬で凍りついた。
受け取った封筒の表面には、平均省の冷徹な幾何学紋章とともに、恐ろしく無機質なフォントでこう印字されていた。
『長寿高齢者における平均適合性確認査察』
「……百歳を迎える者は、国の『平均寿命』を著しく乱す可能性がある。その適合性を、来週、職員が直接ここへ確認しに来るそうだ」
「なんじゃそりゃ……聞いて呆れる」
園長の声は、自らに宛てられた死刑宣告を読み上げるかのように力なかった。
国力の「平均」をどこまでも底上げし、グラフの美しさを維持したい国家にとって、生産性のない超長寿者は数値を汚す「ノイズ」でしかないのだ。適合なしと判断されれば、園長は再調整施設……いや、その年齢では処分に近い扱いを受けるだろう。そして、この最後の隠れ家も解体される。
カイは割れるような頭痛をこらえ、ゆっくりと上半身を起こした。
自由という名の、指を切り落としてまで手に入れた時限爆弾は、どうやら自分の計算よりもずっと早かったらしい。
「来週か。……計算し直さないといけないな」
手袋をはめた左手で、床のフローリングを強く叩く。
「じいさん、安心しろ。最短ルートで、この詰みゲーをひっくり返してやる」


第三話

「さて、どうしたものかな」
カイは薄暗い自室で、ひとり頭を悩ませていた。査察官がやってくるまで、あと一週間。匿ってもらってからこの八年間、あらゆる可能性を演算してきたが、平均省を黙らせる有効な手立ては何一つ見つかっていない。たった一週間で、この強固な国を変える方法なんて見つかるわけがなかった。
いっそ、この孤院の子供たちと園長を置いて、一人で逃げるか?
……いや、そんな薄情な真似ができる性格なら、今でも左手首には「過不足のない幸福」を約束する銀色のリングが従順に光っていただろう。俺はこの国を変えるために、自ら指を切り落とし、安寧を捨てたのだから。
「やーやーやー。まだ、ゲームオーバーと決まったわけじゃないようだよ」
突如として背後から響いた場違いな声。
「!? 誰だ!」
カイは跳ねるように振り返り、瞬時に腰を落として低い姿勢で構えた。全身の筋肉が戦闘態勢へと最適化される。
台所の隅、物資が積まれた段ボールの影から、一人の男がひょっこりと顔を出した。
よれよれの、いつ洗ったかもわからないシャツに、数日剃っていないような汚らしい無精髭。体型は分かりやすいほどの中年太り。年齢は四十前後といったところか。およそ「洗練された平均」を重んじるこの国の住人とは思えない、締まりのない薄笑いを浮かべている。
「……いつからそこにいた」
「君が『だるまさんが転んだ』で大人げなく子供を負かしていた時からかな」
男は悪びれる様子もなく、ポケットかクシャクシャになったガムを取り出して口に放り込んだ。クチャクチャと不快な音が響く。カイは一瞬たりとも警戒を解かない。
「あんた、管理委員会の回し者か」
「まさか。あんな、毎日同じスコアを目指して生きてるつまんない連中と一緒にしないでくれよ。僕はただの通りすがりのゲーマー……いや、『軍師』とでも呼んでくれるかな。名前はハルだ」
ハルと名乗った男は、ひらひらと左手を振ってみせた。
その左腕にはめられたリングは、規則正しく、淡い光を放っている。システム的に、彼が寸分の狂いもなく「正常な国民」であることを示していた。
「ああ、これ? 問題なく、正常だよ」
いや、これが正常? そんなわけがない。
見ず知らずの不審な男が孤児院に不法侵入し、あまつさえ国の明確な反発因子である俺と対峙しているのだ。リングのシステムが正常に稼働していれば、この異常事態を即座に検知して赤黒い光を放つはずだ。
「なぜ……この状況は異常だろ。そもそも、どうやってここを見つけた」
「覚醒してるからね。君と同じく」
「リングを着けたまま? いや、そもそも覚醒のことをなぜ知っている」
「くどいなー。時間が惜しいんじゃないの? そんなんじゃ最速タイム(RTA)は狙えないよ?」
ハルは心底面倒くさそうにポリポリと頭を掻いた。
「まあ、流石に疑問に思うか。なんで覚醒してるかはね。……なんか、覚醒したんだ。ほんと、なんか、覚醒したんだよ。本当になぜか。都合よい設定だよね」
いや、そんなことありえるのかよ。
カイの思考が拒絶反応を起こした。こちとらどれほどの覚悟を決めてリングを外したと思っているんだ。親指を、この手で切断してるんだぞ。
あの一生消えない激痛に耐えて、二度と戻らない肉体の一部を差し出して、のたうち回りながらようやく手に入れた「覚醒」なんだぞ。

それを、「なんか、した」の一言で済まされるのか?
カイは愕然とした。自分の背負ってきた絶望の重みや血の記憶が、この男の軽薄な言葉によって霧散していくような、言葉にできない屈辱が全身を駆け巡った。

「……ふざけるな。その『都合のいい』頭で、じいさんの査察をどうにかできるってのか」
「できるよ。ルールがあるところには、必ず抜け穴があるからね」
ハルはガムをパチンと噛み鳴らし、影の中で不敵に口角を上げた。


第四話

査察当日。孤児院の応接室には、肌がピリつくほどの空気が流れていた。
対峙しているのは、平均省から派遣された二人の査察官。シワ一つない漆黒のスーツを纏い、定規で測ったかのような左右対称の完璧な姿勢で、応接椅子の背もたれに深く腰掛けている。彼らの呼吸の周期すら、完全に同期しているかのように規則正しかった。
「園長先生、そう身構えないでください。我々はただの確認に来ただけです」
年嵩の査察官が、慈愛に満ちた柔和な笑みを浮かべた。その完璧な笑顔の裏側で、彼の左手首に嵌まった銀色のリングが、穏やかな青い光を一定の周期で放っている。
「あなたのような世代の方々にとって、リングの装着はあくまで『努力義務』。国は無理強いなどいたしません。……自由でいいのですよ。ただ、社会全体の調和を保つために、こうして時折、ランダムな適性検査を行う必要がある。それだけのことです」
「……分かっております。お手数をおかけしますな」
園長の声は、乾燥した枯れ木が擦れ合うように頼りなく、細かった。
屋根裏の狭い隙間、埃の匂いに満ちた暗がりの上から園長と職員のやり取りを覗き込むカイは、手袋をはめた左手の欠損部を、奥から湧き上がる鈍い疼きを抑え込むように強く握りしめていた。

(回想:三日前)

「いいかい、カイくん。あの連中が言う『努力義務』ってのは、ゲームで言えば『スキップ不可の強制イベント』だよ。お、ファムコンあるじゃん」
ハルは孤児院の片隅、物置のようになっていたスペースで、埃を被った古い家庭用ゲーム機を興味深そうにいじりながら、クチャクチャとガムを噛んでいた。
「じいさんの年齢は、国の『平均寿命』を大幅にブーストしすぎている。統計学上のエラーなんだよ。連中にとって、じいさんが生きてるだけで、国家の平均値という名の美しいグラフが歪む。だから、必ず排除しに来る。……『残念ながら』という枕詞を添えてね」
「どうすればいい。力ずくで追い返すか?」
カイの低い問いに、ハルは呆れたように鼻を鳴らした。
「計算が得意な割に、戦略が脳筋(パワープレイ)だね。いい? 敵のルールを逆手に取るんだ」

(現在:当日)

「では、失礼して」
若手の査察官が、胸ポケットから携帯型の謎のスキャナーを取り出し、園長の左腕にかざした。鈍いメタリックの質感を持つその端末が、じいさんの脈拍を拾い上げる。
「37年前にはありませんでしたよね。本当に人間の発明の力は素晴らしいです。国力が徐々に上がっているからなんですかね。我々のような職員には詳細は伝えられておらず。これを生物にかざすと、その生物の数値を参照できるのですよ。いや、失礼。生物と言ったのは、動物、主に家畜に使用するための道具でして。平均省では食にも力を入れておりまして、国民が平均的な食物を摂取することにより、身体の内から平均に近づけると考えております。その為のスキャナーなのですが、人間にも使用できることを研究開発部門で確認しております。数分で結果が参照できますのでお待ちくださいね」
ピッ、という無機質な電子音が応接室の静寂に響く。
端末の画面を見つめていた査察官が、わずかに眉をひそめた。
「……おや」
その顔から、先ほどまでの「模範的」な慈愛が綺麗に消え去った。

「……残念です、園長先生。やはり、リングなしでの自己管理には限界があるようだ。数値が、国民の健全な平均値を著しく逸脱しています。……『上方逸脱』です」
査察官の声は、一瞬にして冷徹な機械のようなトーンへと切り替わり、部屋の空気を支配した。
「このままでは、子供たちの情緒に悪影響を及ぼしかねません。本日をもって、あなたは当省管轄の『特別養護センター』へご案内することになります」
「……っ、そんな!」
園長の手がガタガタと震える。
「園長先生、ご安心ください。国は慈悲深い」
査察官は立ち上がり、事務的な笑顔を園長に向けた。
「あなたが連行された後、残された子供たちが路頭に迷うことはありません。全員の転園先、あるいは全員が16歳のリング装着の手続きが完了するまで、私たちが責任を持ってこの施設に滞在し、管理させていただきます。……今日から、私がここの『新しい園長』です」
有無を言わせぬ口調だった。園長は、もう一人の査察官に左右からがっしりと腕を捕まれ、抵抗する力もなく部屋を出ていく。窓の外、黒塗りの公用車が園長の小さな身体を飲み込み、不気味なほど音もなく走り去っていった。
庭で遊んでいた子供たちが、連れ去られる園長の姿を見て、一斉にフェンスへと駆け寄った。
「連れていかないで……!!!」「せんせい!!!」「やだ……いやだ!!!」
引き裂かれるような子供たちの悲鳴。その不規則な感情の爆発(ノイズ)に反応したのか、査察官たちの手首のリングが一瞬、禍々しい赤黒い光を放って点滅した。しかし、彼らが深く息を吸い込むと、数秒もしないうちにそれはまた正常を示す穏やかな淡い光へと戻り、子供たちをただ静止させていた。
入れ替わるように、一人の査察官が重い荷物を孤児院の廊下に運び込み始めた。それは「保護」などではなく、この場所を完全に統制するための、明確な「管理」の始まりだった。
「……おい、ハル」
屋根裏の暗闇の中、カイは隣にいるハルに対し、奥歯をガチガチと鳴らしながら絞り出すような声で言った。
「じいさんは連れて行かれた。おまけに、敵のど真ん中に居座られたぞ。……どうすんだよ」
「いやあ、こればかりは仕方ない。ここは連れていかれるのが最適解だ」

ハルのあまりにも他人事のような発言に、カイの腸は煮えくり返りそうになった。胸の奥からどす黒い衝動が突き上げる。
「お前、ふざけてんのか? 俺のこれまでの8年間があったのはじいさんのおかげだ。俺はじいさんに匿ってもらえていなかったら、既にこの世にいなかったかもしれない。連れていかれることが『最適解』だ? やっぱり、あっち側なんだろ。てめえ」
カイの感情的な罵声を、ハルはひどく冷めた、現実を冷徹に見据える声色で遮った。
「おい、静かにしろよ。下にいんだぞ。国に勝つんだろ? 園長の作ったチャンスを無駄にすんなよ。君も昨日納得したろう」
ハルの言葉は、鋭利な刃物のようにカイの胸に深く突き刺さった。
「園長の作ったチャンス……?」
カイは掴みかかろうとした拳を強引に止め、屋根裏の狭い隙間から階下をじっと凝視した。
一階の廊下では、新しい「園長」を名乗ったあの若手の職員が、床に座り込んで泣きじゃくる子供たちの前に立っていた。彼は嫌な顔ひとつせず、むしろ困った子供をあやす聖者のような左右対称な笑顔を浮かべ、一人ひとりの頭を優しく撫でていく。
「いいかい、みんな。悲しむことはない。園長先生は、もっと素晴らしい場所で『正しく』なるために旅立ったんだ。君たちも、いつかその時が来ればわかる」
不気味なことに、職員の手が子供の髪に触れるたび、その子の激しい泣き声がカチリとスイッチを切ったようにピタリと止まっていく。強制的な多幸感の波が、脳内へ直接流し込まれているのだ。
「……あいつ、子供たちに何をしてやがる」
カイの歯の根が怒りで激しく鳴った。ハルは暗闇の中で、淡々と続けた。
「いいか、カイ。ここからが本番だ」
ハルが古い携帯端末の画面をカイの目の前に向けた。暗い画面の中に、位置情報を知らせる小さな赤い光が規則正しく点滅している。
「じいさんは、自分が連れて行かれることで、敵の城門を内側から開けたんだよ。それが、あの人が最後に選んだ意思表示だ。……お前がここで熱くなってバレたら、それこそじいさんの想いを無駄にすることになるぞ」
カイは息を呑んだ。
屋根裏の埃っぽい、カビ臭い空気の中で、自分がどれほど狭い視界と目先の感情だけで生きてきたかを痛烈に突きつけられた気がした。8年間、ただシステムから隠れて牙を研ぐことしかしていなかった自分に対し、あの高齢の園長は、死すら覚悟して自ら敵の懐へと一歩踏み出したのだ。
「……ハル。次の指示を出せ」
カイの声から、先ほどまでの激情が綺麗に消え去り、代わりに冷徹な殺気が宿った。
「何をすればいい。この状況で、俺が導き出せる『最短ルート』は何だ」
ハルは口の中のガムを奥歯で噛み切り、暗闇の中でようやく、少しだけ楽しそうに口角を上げた。
「話が早いね。じゃあ、まずは……。新しい園長さんにバレないようにね」
真下で、荷物を整理していた職員が、何かに気づいたようにふと天井を見上げた。
「……おや、ネズミかな?」
その濁った瞳には、人間らしい好奇心や戸惑いは、微塵も存在しなかった。
(死ぬんじゃねえよ。じいさん……!!)


第五話

「まず、ここを出よう」
ハルがガムを膨らませ、パチンと小さく弾けさせながら、事も無げに言った。
「ここを? 査察官をやるんじゃねえの?」
カイは声を極限まで押し殺し、至近距離でハルに詰め寄る。手袋に包まれた左手が、じわりと汗ばむ。
「血の気の多さは大切だけどさ……。ここで暴れても、すぐに平均省の増援が動き出してしまう。このまま戦っても分が悪い。こちらはまず戦力を揃える必要がある。物語を進めていくにはパーティーが必要だろ?」
「なるほど、流石は『軍師』様だ」
「馬鹿にしてるよね……。まあ、いいや。とりあえず、見つからないように孤児院を抜け出そうか」
「ちょっと待って、やることやってきてからでも良い?」
「見つからないようにね」
ハルはそれ以上追及せず、屋根裏の隅にどっかりと腰を下ろすと、再び古い携帯ゲーム機を取り出した。ピコピコと微かな電子音が闇に溶ける。本当にこのだらしのない男にすべて任せて良いのだろうか。

カイは音もなくキャットウォークを渡り、屋根裏の隙間から滑り降りるようにして、子供たちの寝室へと続く細い影に身を潜めた。
一階の廊下からは、新しい園長を名乗る査察官が、スチール製の事務机をギギギと引きずる不快な金属音が聞こえてくる。この場所を自分好みの「最適」な空間に塗り替えているのだ。
「……カイにーちゃん?」
衣服が擦れる微かな音とともに、暗闇の奥から声をかけてきた影があった。
ミライだった。この孤児院で最も年長の、十五歳の少女。
彼女の瞳には、まだリング特有のあの無機質な淡い光はない。その代わり、大人たちの都合の良い嘘を見抜くような、鋭く、それでいて今にも決壊しそうなほど激しく震える「不安」が宿っていた。
カイは彼女の口をそっと手で制し、廊下の査察官の動向に全神経を向けた。机の音が止まないことを確認し、ミライの肩を抱いて部屋のさらに奥、月明かりの届かない隅へと連れ出した。
「ミライ。俺はこれからじいさんを連れて帰ってくる」
カイが囁くように告げた言葉に、ミライの大きな目から大粒の涙がこぼれそうになる。それをカイは、手袋をはめた指の腹で静かに拭った。布地の無骨な感触が、彼女の頬に伝わる。
「ミライも来年から十六歳だ。この孤児院の中で一番の年長だ。じいさんや俺の代わりに、みんなを支えてくれるな?」
ミライは溢れそうになる涙を必死に堪え、唇を白くなるまで噛み締めながら、小さく、だが力強く頷いた。
「良い子だ。必ずじいさんを連れて帰ってくるから、それまで辛抱してくれ。約束だ」
カイはそう言い残すと、彼女の小さな肩から手を離し、再び夜の影へと溶け込んだ。
直後、ミライがバタバタとわざとらしい足音を立てて廊下へと飛び出し、「先生、お腹空いた! ご飯まだなの!」と大きな声で叫ぶのが聞こえた。張り詰めた空気を破る、彼女なりの精一杯の援護射撃。査察官の意識がそちらへ向くのが、空気の振動で分かった。
屋根裏の待機場所に戻ると、ハルが携帯ゲーム機の画面から目を上げ、ニヤニヤと締まりのない顔でこちらを見てきた。
「いいシーンだったね。種が、あちこちで芽吹いてる。おじさん、甘酸っぱい気持ちになっちゃった。……さて、ここを出ようか。じいさんの位置情報も途絶えたようだし」
そのハルの軽い発言に、カイの表情が一瞬で強張った。位置情報が消えたということは、じいさんの身に何かが――。
「ああ、大丈夫。園長には査察官に気付かれる前に位置情報装置を壊してくれと伝えていたから」
ハルはカイの動揺を見透かしたように平然と続け、端末をポケットにしまい込んだ。
二人は、重苦しい夕闇に完全に包まれ始めた孤児院を、音もなく後にした。裏口から滑り出たカイの左手の傷跡が、これまでにないほど熱く、激しく脈打っていた。まるで、これからの戦いを予期して肉体が歓喜しているかのように。


第六話

「そういや、カイくん。どうして国を変えたいだなんて馬鹿げた思想を持ってるわけ?」
移動中、ハルが不意に、しかしどこまでも軽薄なトーンで問いかけてきた。
街灯が不自然なほど等間隔に配置され、過不足のない光量を放つ夜道。衣服の擦れる音と、二人の足音だけが、徹底的に管理された静寂の中に虚しく響いている。
「馬鹿げたって……。まあ、そりゃ馬鹿げているよな。自分でもわかってる。俺だって18になるまでは、平均であること……優劣のない世界であることを幸せだと思っていたさ。でも……」
カイは左手の、黒い手袋に隠された空白をそっとさすった。彼の意識は瞬く間に、8年前のあの日へと滑り落ちていった。

【回想】

彼女――ユウナが「再調整施設」から戻ってきたと風の噂に聞いた時、俺は心から安堵していた。
数週間前、彼女のリングが禍々しい赤黒い光を放って点滅し、彼女が狂ったように絶叫しながら連行されていったあの光景。あれはただの悪夢で、施設で優しく「調整」されたのだと、当時の俺は信じて疑わなかった。
蝉時雨が降り注ぐ公園のベンチ。そこには、以前と変わらない見慣れた姿のユウナが座っていた。
だが、歩み寄った瞬間に、肌が総毛立つような違和感が訪れた。

以前の彼女は、いつもどこか抜けている女の子だった。
ベンチに座れば、たまにぼーっと締まりのない顔で窓の外や空を流れる雲を見上げ、気づけばそのままカクンと昼寝を始めてしまうような子だった。口を少し開けて、お世辞にも綺麗とは言えない寝顔。俺は、世界の規律からはみ出したその「アホそうな顔」を見るのが、何よりも好きだった。それはこの美しい調和の世界において、彼女だけの、愛すべきノイズ(無駄)だったからだ。
「カイくん、久しぶり。元気だった?」
気配を察した彼女が、こちらを振り返って微笑んだ。
その瞬間、カイの背筋に鋭い氷が走った。
笑顔。それは確かに、一点の曇りもない笑顔だった。
だが、その口角の上がり方は、まるで定規でミリ単位まで測ったかのように左右対称で、完璧すぎた。以前の彼女なら、笑うと少しだけ左の口角が先に上がり、細められた瞳にいたずらな光が宿ったはずなのに。
「……ユウナ? 施設はどうだった? 具合は悪くないか?」
「ええ、とても快適だったわ。私の不規則なノイズを、全部綺麗にしてくれたの。今はね、心拍数も呼吸も、全てがこの国の平均と一致しているのがわかるの。誰よりも優れず、劣っていない。すごく、気持ちがいいわ」
彼女は、ぼーっと空を見上げることも、無防備に昼寝をすることもしなかった。
ただ、物干し竿でも括られているかのように背筋を真っ直ぐに伸ばし、システムが規定した平均的な頻度で瞬きをし、歪なほどに「自然な笑顔」を維持し続けている。
「ユウナ、また今度、あの丘まで走りに行かないか? お前、すぐ転んでさ……」
「走る必要なんてないわ、カイくん。歩幅を平均に合わせるのが、一番効率的で幸福なのだから」
彼女の瞳には、もう空想の雲は流れていなかった。
そこにあるのは、システムが内側から映し出した「鏡」のような、どこまでも均一で底知れない空虚。
俺が好きだったユウナは、あの施設で「殺された」のだと、カイの脳波は非情な結論を導き出した。
俺は、そんな変わり果てたユウナの近くにいることが耐え難い苦痛に感じ、彼女と別れた。それから、高校も卒業し、気づけば独りでいることが多くなった。ユウナという色彩を失った後の世界は、モノクロの古い映画のように、急速に色を失っていった。
卒業後の進路、就職先、日々の栄養価を満たすだけの献立。全てを左手のリングが「平均的な最適解」として脳内に提示してくる。それに従っていれば、確かに苦痛も摩擦もない。だが、同時に「俺」という個の存在が融解し、消えていく強烈な感覚があった。
(俺もいつか、あんな左右対称の笑顔で、空っぽの言葉を吐く人形になるのか……?)
その恐怖が、ある夜、限界を超えた。
狭いアパートの一室。カイはキッチンから、使い古した鈍い光を放つ包丁を取り出した。
リングは特殊な未知の金属でできているようで、刃を立てても切断は不可能だった。だが、その構造を狂ったように観察し、唯一の解に辿り着いた。
「……親指さえなければ、抜ける」
物理的な激痛と、システムからの永劫の追放。
天秤にかけるまでもなかった。ユウナを殺したこの冷酷なシステムの一部で居続けることの方が、俺にとっては死よりもはるかに恐ろしかったからだ。
「……っ、あああああ!!!」
重い肉の割れる音とともに、鮮血が床を汚した。
灼熱の電撃のような激痛が脳を焼き、視界が一瞬で真っ白に染まる。だが、その直後だった。
腕からずるりと滑り落ち、床に転がって鈍い銀色の光を失っていくリング。
それと同時に、16歳の誕生日の朝からずっと脳の裏側にこびりついていた「粘り気のある女の声」と、強制的に脳内を満たしていた「多幸感」の霧が、嘘のように一気に晴れた。
「はぁ、はぁ……っ。……ああ、静かだ」
脳が、本来の圧倒的な回転速度を取り戻していく。
それまでシステムによって抑圧されていた計算能力が、ダムが決壊したように溢れ出した。部屋の隅にある埃の不規則な動き、水道の蛇口から落ちる水滴の正確な速度。あらゆる環境情報が、純粋な数値として脳内に立体的に展開される。
だが、感動に浸る時間は一瞬もなかった。リングを強引に外したのだ。平均省のメインサーバーへ異常アラートが飛ぶのは時間の問題だろう。
カイは止まらない大量の出血をベッドのシーツを引きちぎって縛り、最低限の荷物だけを掴んで部屋を飛び出した。
逃走経路の計算は、かつてないほど速く正確だった。

(防犯カメラの死角の位置は……よし……いつもよりもなんだか早く走れそうな気がする。最短ルートは、裏路地経由で南西へ……)
数日間、下水道の悪臭や打ち捨てられた廃屋を泥のように転々とした。リングを外したのだ。自分はもう、この国には存在してはいけない剥き出しのノイズだった。
空腹と出血、そしてリミッターのない脳を限界まで使い続けたことによる猛烈な疲労。
意識が完全に途切れそうになった時、ボロボロになりながら辿り着いたのが、街の外れにあるあの古びた孤児院だった。
「……おや、迷子のネズミにしては、いい面構えをしている」
そこで出会ったのが、園長だった。
園長は、血塗れで親指の根元が欠損した俺の凄惨な手を見ても、顔色一つ変えずに驚かなかった。ただ、枯れ木のような温かい手で俺を部屋へと招き入れ、湯気の立つスープを差し出した。
「ここは身寄りのない子供たちが、最後に辿り着く場所だ。指の一本や二本、気にする者はおらんよ」
その日から、俺の八年間に及ぶ潜伏生活が始まった。
黒い手袋で血の過去を隠し、いつか訪れるはずの「反撃の瞬間」のために、ただひたすらに静かに牙を研ぎ続けてきたのだ。

【現在】

「……それから八年。隠れているだけじゃ何も変わらないって、じいさんが連れて行かれてようやく気付いたんだ。ハルが来て、状況が進展してるよ。ありがとう」
カイがすべての過去を語り終えると、夜の冷たい風が、ヒューと二人の間を吹き抜けた。
ハルは口の中のガムをぷっと膨らませ、パチンと小さく弾けさせた。
「……重いね。いろいろ聞きたいことが山ほどあるけれど……その正解のない世界、僕が攻略の道筋を引いてあげる。礼はその後だ」
ハルがピタリと足を止めた。その視線の先を見据える。
「さて、昔話はここまで。着いたよ、パーティーの一人目。君が今一番会いたくないであろう、あの男の勤め先だ」


第七話

ハルが足を止めたのは、都心の無機質な喧騒から少し外れた場所にある、全面ガラス張りの巨大な高層ビルだった。平均省の広報戦略を一手に担うメディアセンター。そこには、国民の脳内に「平均であることの美徳」を毎日休むことなく刷り込み続けるための、巨大な情報発信基地がある。
「さて、昔話はここまで。着いたよ、パーティーの一人目。君が今一番会いたくないであろう、あの男の勤め先だ」
ハルの短く太い指が指し示す先、ビルの壁面を覆う巨大なデジタルサイネージには、眩しいほどの完璧な笑顔で「平均リング」の素晴らしさをアピールする一人の男のホログラムが映し出されていた。
「……シンか」
カイの口から、苦い毒を吐き出すような掠れた声が漏れた。
高校時代、常にクラスの中心で光を浴びていた男。あらゆる分野で平均から逸脱せず、そつのない優秀な成績を収め、誰からも嫌われない完璧な立ち回りで、今の「平均化社会」のアイコンにまで登り詰めた広告塔。
「平均省の飼い犬……」
カイの左手の拳が、手袋の布地をきしませてミシミシと音を立てる。
「まあまあ、そんなに睨みつけないでよ。彼が必要なんだ、僕たちの『攻略』にはね。それに、多分、カイくんの思っているような人じゃないはずだよ……きっと」
ハルはそう言うと、まるで自分の家の庭にでも入るかのように、不法侵入など慣れっこだと言わんばかりの足取りで、建物の暗い裏口へと回った。
「......開いてる......」
カイは不信感を募らせながらも、その背中に従うしかなかった。
深夜の静まり返った撮影スタジオ。最新鋭のホログラム放射機材が不気味に並ぶ青白い光の中、一人で操作端末の画面を凝視するシンの後ろ姿があった。画面の中の彼はあんなに眩しく輝いているのに、実物の彼は、背中にどこか色褪せた灰色の深い影を纏っているように見えた。
「……誰だ」
背後の微かな気配を察知し、シンが鋭く振り返る。その左手首には、全国民の憧れであり特権の象徴であるはずの「特製シルバーリング」が、皮肉なほど美しく、冷ややかに輝いていた。
「久しぶりだな、シン。いや、今は『有名インフルエンサー・シン』様と呼ぶべきか?」
スタジオの影からゆっくりと現れたカイの姿を見て、シンの整った表情が恐怖で一瞬にして凍りついた。

「……カイ? なぜお前がここに……。というか、死んだんじゃ? それに、その手……」
シンの視線が、カイの左手の手袋に釘付けになる。リングがあるはずの手首のラインが、不自然な空白になっていることに気づいたのだ。
「通報するならしろよ。お前のその立派なリングが、国家の異常を検知して即座に警報を鳴らすはずだろ」
カイが挑発的に、床を踏み鳴らして一歩踏み出す。だが、不思議なことに、シンの手首の特製リングは、穏やかな淡い光を保ったまま微動だにしなかった。
「鳴らないよ。……彼は、自分の心まで『平均』に最適化しすぎて、もう怒りも驚きも、統計学的な誤差の範囲内に収めてしまっているからね。インフルエンサーをやっていくにはそういった感情のコントロールがないとやっていけないですよね? でないと、そんな特殊な平均でない仕事はやっていけないはず」
ハルがポケットから新しいガムを取り出し、噛みながら横から平然と口を出す。
「お前ら、何が目的だ……。僕は、この国の平和を守るために……」
「平和? それとも、ただの『飼育』か?」
感情が爆発したカイがシンの胸ぐらを強引に掴み、背後の冷たい壁に激しく押し付けた。機材のコードが揺れて擦れる音が響く。
「ユウナを覚えているか。あいつは壊れたんだよ! 平均という枠に収まらなかったから、あの地獄のような施設に送られて、心まで平らに削られた! お前が毎日カメラの前で笑顔で宣伝している、その薄汚いリングのせいでな!」
「……っ、それは、彼女が適合できなかったからで……」
「違う! 適合できないんじゃなくて、あいつにはあいつだけの『形』があったんだよ! それをノイズだと言って無理やり切り捨てることが、本当の正義か?」
シンの瞳が、激しく揺れ動いた。その瞬間、彼のシルバーリングが、それまでの安定を失って禍々しい赤黒い光に点滅し始めた。
「あ、あ、……頭が……っ」
シンが頭を押さえて苦悶の表情を浮かべる。脳内にシステムからの強烈な警告パルスが流れているのだ。
「おい、カイ。やりすぎだ。彼の適合率がこれ以上下がると、ここへ平均省の連中が飛んでくる」
ハルが横から冷静に制止するが、カイは掴んだ胸ぐらを絶対に離そうとしない。その目に宿る怒りは本物だった。
「シン、お前は昔、教室で言ってたよな。『努力は一瞬、後悔は一生』だって。あの言葉、俺もずっと大事に胸に仕舞っているんだ。良い言葉だと思った。お前を素敵な奴だと思った。……今の自分を、一生後悔しないと言い切れるか? 誰かが作った正解の中で、人形みたいに糸で吊られて笑っているだけの人生を!」
シンの呼吸が激しく荒くなり、胸が大きく上下する。
「違う、あの、『0.1%の悲劇』は忘れてなんかいない……だから、この先、一生続くかもしれない、平均の鎖からこの国を救うために俺は……! うう……!!!」
叫びとともに、カイの脳波が、滾るような激しい憎しみの波となって、接触している特製シルバーリングを経由してシンへとダイレクトに流れ込んだ。
その瞬間、シンの中に強引に封じ込められていた、抑圧された過去のすべての記憶――「完璧な平均」を維持するために自ら殺し、切り捨ててきた、泥臭くて熱い人間の感情が、決壊した濁流のように一気に噴出した。
シンのリングが、あり得ないほどの出力で紫色に激しく発光した。まばゆい紫の閃光がスタジオを照らし、次の瞬間、元の静かな淡い光へと戻った。
「……ハァ、ハァ……。なんだ、これ……」
シンが糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。だが、その手首のリングは、もはや平均を監視するための国家の鎖ではなかった。彼の中に眠っていた剥き出しの「個の力」を極限まで増幅させるための、反逆のリングへと完全に向きを変えていた。
「カイ……シンはね、別に平均省の飼い犬ではないよ。聞いた? 『0.1%の悲劇』って。彼は平均省を騙すために、ずっと自分自身に強力な暗示をかけていたんだよ。いつか、この国を根底からひっくり返すためにね」
「え……」
カイが愕然としてシンの方を見ると、シンは床に座り込んだまま、やれやれとまいった顔をしてカイを見上げていた。
「ありがとうな。カイ、『努力は一瞬、後悔は一生』を今でも覚えてくれてて。俺もずっと、一生の後悔をしないために、この地獄みたいな場所で8年間努力してきたんだ。自分で努力って言うのも恥ずかしいけどよ。……彼の言う通りだ。俺は自分自身に『平均の模範』だという暗示をかけ続けて生きてきた。あまりに長く偽りすぎて、もう何が自分の本当の心かも分からなくなってきてたけどな」
「いや……てか、さっきの光、なんだよ。あの紫色のやつは!」
カイが驚愕して問い詰める。
「あれはおそらく覚醒の光。カイはリングを外したから分からないかもしれないけれど、俺のリングも紫色に光ったからおそらく。シンさん、身体から何かが溢れ出てくるような感じはないですか?」
ハルがシンの顔を覗き込む。
「ああ、なんだか、酷く清々しい気分だ。頭の中にあった重いモヤが、綺麗に取れたような。今ならなんでもできそうな、全能感すらある。……シンの左手が、俺のリングに触れてからだ」
シンの確かな言葉に、カイは息を呑んだ。
目の前にいる男は、自分が8年間激しく憎み続けていた「システムの象徴」などではなかった。誰よりも深く、誰よりも孤独な暗闇の中で、精神を削りながら牙を研ぎ続けてきた、唯一無二の同志だったのだ。
「……8年、か」
カイが絞り出すように呟く。自分はリングを外して外の世界へ逃げ出した。だがシンは、その忌まわしい鎖をあえて肌に嵌め続け、自分自身の心さえも完全に偽りながら、敵の最深部で牙を研ぎ続けていたのだ。その重圧と孤独がどれほどのものだったか、想像するだけで胸が締め付けられるようだった。
「ああ。毎日が文字通りの綱渡りだったよ。少しでも感情のグラフが統計の枠からはみ出せば、すぐにアラートが鳴る。だから、楽しい時も悲しい時も、頭の中で常に『国家の平均値』を逆算し、自分の心拍や鼓動さえも冷徹に制御してきた。……でも、ようやく終わった。お前がここにきてくれたおかげで、この歪な『暗示』はもう必要なくなったよ」
シンがゆっくりと立ち上がり、正面の巨大なモニターを見上げた。そこには、彼が今まで演じてきた「完璧な平均」の偽物の笑顔が映し出されている。
彼はその画面に向かって、静かに左手をかざした。
その瞬間、言葉にできない紫色のエネルギーの奔流がシンの指先から爆発的に放たれ、スタジオ内に並ぶすべてのホログラム機材が激しくバチバチと火花を散らした。眩しいほどの閃光が室内を走り、中央に鎮座していた巨大な情報サーバーが完全に沈黙する。
「おっと、豪快だね」
ハルが耳を塞ぎながら、楽しげに口角を上げて笑う。
「シンのリングは、個人の力を平均値へと押し留めるための抑制能力を、そのまま『個の力の増幅』へと反転、転用したんだ。きっと、これは平均であることを極限まで維持し、エネルギーを溜め込んできた彼だからこその力だね」
スタジオが深い闇に包まれ、非常用の赤い警告ランプだけが、三人の影を怪しく照らし出す。その静寂の中で、シンが力強く一歩を踏み出した。
「カイ、ハル。ここから先は、もう『平均』のシナリオにはない展開だ。僕たちが作るのは、誰にも予測できない、たった一度きりの物語……そうだろ?」
シンの瞳には、かつての従順な「優等生」の面影は微塵もなかった。そこにあるのは、長年の抑圧を完全に跳ね除け、自らの意志で立ち上がった一人の人間の、鋭くも静かな、圧倒的な熱だった。
「ああ……。やってやろうぜ、シン」

カイは左手の黒い手袋を、強く握り直した。
リングを拒絶した空白の左手と、システムの力を反転させて紫に輝く左手。二つの大いなる異端が並び立った時、巨大なメディアセンターの心臓部で、社会崩壊の序曲が静かに鳴り響き始めた。
「さて、それじゃあ第二幕といこうか」
ハルが裏口の重い鉄扉を勢いよく押し開ける。
建物の外の夜空には、このセンターの『異常事態』を瞬時に嗅ぎつけた平均省の監視ドローンが、不気味なハチの群れのように集まってきていた。
翌朝、この国のあらゆる情報媒体とデジタルスクリーンは、昨日まで国の象徴だった有名インフルエンサーによる、前代未聞の謀反の記事一色で埋め尽くされていた。


第八話

「なあ、見たかよ今朝のニュース! シンが行方不明ってやつ!!」
早朝の教室。ケンがいつもの予測不能で無秩序な動き(ノイズ)のまま、レオの席へと激しく駆け寄ってきた。
かつてであれば、ケンのこうした突発的な行動や大きな声に反応し、レオの手首のリングは即座に不快な赤黒い警告の光を放っていた。しかし、16歳になってリングを装着してからそれなりの時間が経った今、レオの脳は「ケンのノイズ」をただの背景雑音(バックグラウンドノイズ)として処理する術を学習していた。手首のリングは、冷たい凪(なぎ)のような、穏やかな淡い銀色の光を保ったままだ。
「知らないわけがない。朝からその話題ばかりだ」
レオは自らの感情を完全に排した、ガラス板のように平坦な声で答えた。
この、すべてが平らに均された平均律国家において、シンは全国民の憧れを一身に背負う唯一無二のスーパースターだった。37年前の古い記録には「芸能人」や「表現者」という、個性を極限まで際立たせる職業が数多く存在したらしいが、他者との歪な偏りを生み出すその仕事は、今ではすべて「異常な逸脱」と見なされて排斥され、殆どが姿を消した。その狂ったシステムの中で、シンだけが「平均であることの美徳を伝える象徴」として、例外的に大衆の前に輝くことを許されていたのだ。
「それにしても、行方不明って一体……誘拐か? いや、でもこの徹底された管理社会で、そんなこと不可能なはずだよな」
ケンが頭を抱え、首を傾げながら必死に考察を巡らせる。その騒々しい声を遠くに聞きながら、レオの脳裏には、今朝ベッドの中で見たニュースの断片的な映像が鮮烈にフラッシュバックしていた。
ノイズが一瞬だけ混じり、激しく歪んだ深夜の撮影スタジオ。画面が完全に暗転する直前、シンの左手首から放たれた、あの不吉で、しかし網膜に焼き付いて離れないほど美しかった「紫色の光」。そして、シンと対立するようにその背後に映り込んでいた、見慣れない不審な二人の男の影。
(あれは、決してシステムのバグなんかじゃない。シンは、あの瞬間、確かに笑いながら、自分の手で何かを壊したんだ――)
そう、思考の深淵へと意識が沈みかけた瞬間だった。レオの手首に、針で刺されたような鋭い熱が走った。
視線を落とすと、リングが彼の乱れた鼓動に同期するように、ドクン、ドクンと禍々しい赤黒い光を放って点滅を始めている。
「おい、レオ! リングが……その色、やべえんだろ!? 落ち着けよ、深呼吸しろって!!」
ケンの焦燥に駆られた声が、鼓膜の奥で遠く反響する。レオは強く目を閉じ、脳内に直接流れ込んでくる、思考を強制的に麻痺させるためのノイズに身を委ねた。
数秒の後、手首の赤黒い光はサーッと退き、心地よい、しかし人間の血の通っていない冷徹な凪が脳内に戻ってきた。同時に、レオの顔を覗き込んでいたケンの焦りの表情も、安堵へと和らいでいく。
「……悪い。少し、考えすぎたみたい。ってか、ケンといるとリングが落ち着かなくなる」
レオは筋肉の動きを制御し、力なく微笑んでみせた。ケンは申し訳なさそうに視線を落としつつも、どこか遠くへ行ってしまった親友を眺めるような、寂しそうな顔を浮かべていた。
キーンコーンカーンコーン。朝礼を告げる無機質なチャイムが響く。
担任の佐藤先生が教卓に重々しく手をつき、いつも以上に丁寧すぎるほど神経質な口調で告げた。
「はい。ちゃんと全員座ってるな、リングなしも……うん、問題ないな。その調子だ。15歳と16歳の入り混じるこの高校一年生という環境は、精神的にも肉体的にも、最も平均から逸脱しやすい危険な時期だ。ったく……平均省の施策の穴だよな。中学卒業と同時に全員強制装着にすれば、こんな余計な混乱は起こらないのに。飲酒とかに関してもそうだよな……分かりやすく誕生年度とかで一斉に区切ったら良いのによ……」
その瞬間、佐藤先生の手首のリングがピカピカと不快な赤黒い光を放った。先生はハッと息を呑み、慌てて言葉を呑み込んで話を元に戻す。きっと、国家の政治批判に足を踏み入れた瞬間の感情の揺らぎが、システムに「異常」と判定されたのだ。佐藤先生は額の汗を拭い、何事もなかったかのような落ち着いた口調を取り繕って続けた。
「……コホン。リングのない生徒ももうすぐ、リングのある、優劣のない幸福な世界が待ってますからね。もうしばらくの辛抱です。さて、今日は先月から『再調整』を受けていた生徒が、我がクラスに復帰します。マイ、入っていいぞ」
今日は、心のバランスを崩して連行されていたマイが戻ってくる日だった。
教室のドアが、人間の手によるものとは思えないほど静かに、しかし寸分の狂いもなく一定の速度(秒速)で開いた。
入ってきたのは、マイだった。
レオは思わず息を呑んだ。そこに立っていたのは、確かに見慣れたマイの姿だったが、同時に、全く別の「冷徹な物質」だった。
彼女の歩き方は、まるで見えない直線状のレールの上を滑っているかのように滑らかで、床を打つ足音を一つとして立てない。以前のマイなら、慌てて机の角に鞄をぶつけたり、自分の足をもつれさせたりして、クラス全体を和ませる温かい「不規則なノイズ」を無意識に撒き散らしていたはずだった。
「皆さん、おはようございます。ただいま戻りました」
彼女が教卓の前で、深く頭を下げる。その腰の曲げ方、静止する秒数、全ての角度は、教科書に載っている「正しい礼」そのもののレプリカだった。
そして、顔を上げた彼女の表情を見た瞬間、まだリングを付けていない未装着の生徒たちが、息を詰まらせて小さく悲鳴を上げた。
左右対称。完璧なシンクロ率で固定された顔面。
かつて授業中、窓の外を流れる雲をぼんやりと眺めていた、あのどこか焦点の合わない、それゆえに人間らしい温かみを持っていた瞳は完全に消え去っていた。そこには、光の反射すら計算された高精度のカメラレンズのような、冷徹なまでの「正解」だけが宿っていた。
「……マイ?」
ケンが、喉を震わせるような細い声で呟いた。
マイは機械的な首の動きでケンの方を向き、一瞬の澱みもなく答えた。
「はい、ケンくん。久しぶりですね。あなたの今の心拍数は、国家の平均値より 12% 高いです。速やかに深呼吸をしてください。逸脱は、不幸の始まりですよ」
その抑揚のない声は、レオがリング装着時に脳内で聞いた「リングのシステムガイダンス」と、全く同じような不気味な質感を帯びていた。
レオの手首のリングが、脳の恐怖に反応してまた鈍く脈打ち始める。目の前に立つマイの存在そのものが、レオが必死に維持していた「平均化された安寧」に対して、未知の恐怖という名の巨大なノイズを叩きつけていた。
「よし、マイ。席に着け。……さて、マイの復帰にあたって、本日は平均省から再調整者へのサポーターもいらしている」
佐藤先生の言葉に、教室内が微かにざわついた。この中途半端な時期に、しかもこんな混乱した社会状況の中で、外部から転校生や大人がやってくるなど、聞いたことがない。
再び、教室のドアが寸分の狂いもない速度で静かに開く。
先ほど入ってきた再調整済みのマイ、そして、その後ろに続くようにして、一人の女性が静かに室内へと足を踏み入れた。
一瞬にして、クラスの空気が完全に一変する。
その女性は、シワ一つない漆黒の黒スーツを美しく纏っていた。その胸元には、「再調整者支援・調整官」という文字が刻まれた、鈍い銀色のバッジが冷ややかに光っている。
だが何より異常だったのは、彼女の左手首だった。そこに嵌められたリングの色は、僕たちが付けている通常のリングとは……明らかに異なる鈍い輝きを放っていた。
「皆さん、おはようございます。本日から1ヶ月間、マイさんの学校生活への適応をサポートさせていただきます。平均省調整官の橘ユウナです」
その調整官が教室の壇上に現れた瞬間、生徒たちの手首にあるすべてのリングが、まるで一人の天才的な指揮者に従う従順なオーケストラのように、一斉に、見たこともない淡い白銀色へと変化したように感じた。完璧に整列し、背筋を伸ばしたクラスメイトたちの中で、まだリングを持たない未装着の生徒たちだけが、その圧倒的な威圧感に耐えかねて肩を小刻みに振るわせ、逃げ場を探すように視線を激しく泳がせていた。


第九話

「皆さん、おはようございます。本日から1ヶ月間、マイさんの学校生活への適応をサポートさせていただきます。平均省調整官の橘ユウナです」
調整官が教室に現れたその瞬間、室内のすべての空気が絶対零度で凍りついたかのような錯覚に陥った。
生徒たちの手元にある無数のリングが、まるで指揮者に従うオーケストラのように、一斉に淡い白銀色の輝きへと変色していく。それはシステムに対する「絶対的な肯定」を意味する色彩だった。完璧に整列したクラスメイトたちの顔には、まるで薄い仮面を貼り付けたかのような、一寸の曇りもない恍惚とした笑みが不気味に張り付いている。
その異常極まる光景の中で、未装着の生徒たちだけが、激しい不協和音の嵐の中に素裸で放り出されたように、恐怖で肩を小刻みに震わせ、視線を激しく泳がせていた。
「おい、レオ……あの女、やべえよ」
隣の席から、ケンが今にも消え入りそうな枯れた声で囁いてきた。
「あいつを見てる時の、リングを付けてる奴らの顔……よく見てみろよ。恐ろしいことになってんぞ」
ケンの言う通りだった。クラスメイトたちの瞳は、調整官の一挙手一投足に完全に釘付けにされ、そこには個人の自由意志など微塵も感じられない。それは人間という個体の集まりではなく、国家という巨大な一つの電子回路の一部に改造されてしまったかのようだった。そしてその異常な陶酔は、教壇に立つ佐藤先生も全く一緒だった。
「マイさん、前へ」
調整官の涼やかな声に促され、マイが再び教壇の中央に立つ。
彼女は、かつて放課後の誰もいない教室で、僕にだけ見せてくれた、あの少し照れたような、少し歪で愛らしかった笑顔を完全に失っていた。今の彼女が浮かべている笑顔は、1ミリの狂いもなく幾何学的に設計された「正解」そのものだ。
「調整官、私、今とっても幸せです。平均であることの本当の喜びを、ようやく心の底から理解できました」
マイの口から滑り出てきた言葉は、間違いなく彼女自身の声でありながら、合成音声のように無機質に響いた。
その瞬間だった。ポツリと、レオの頬を熱い液体が伝った。
視界が急激に歪み、一滴、また一滴と、机の上に透明な染みが広がっていく。
僕は心臓の激しい鼓動を感じながら、慌てて自分の左手を見つめた。手首のリングは、静かで美しい白銀色を頑なに保っている。エラーの点滅も、警告のノイズも、異常を知らせる微かな振動すらもない。
リングは、何一つとして異常を知らせていない。
(――じゃあ、この目から次から次へとこぼれ落ちていく温かいものは、一体なんなのだろうか)
この、全てが正しく管理された状況で、涙が出るのは……「普通」のことなのだろうか?
いや、きっとこれは、平均となって正しい幸福を手に入れたマイを間近で見たことによる、純粋な嬉し涙に違いない。
レオは止まらない涙を袖で拭おうともせず、ただ、自分自身の内側の奥深くで何かが激しく拒絶し、叫んでいるという「致命的なノイズ」の存在に、頑丈な蓋をして見ない振りを決め込んだ。
朝礼が静かに終わると、橘ユウナは佐藤先生を伴い、まるで床から数ミリ浮いて滑るような洗練された足取りで教室を後にした。マイもまた、誰とも一言も視線を交わすことなく、あらかじめ決められたレールの上を正確に走る機械のように、自らの席へと戻っていく。
教室の中に、安堵とも陶酔ともつかない、ぬるくて不気味な空気がじわりと戻ってきた。
「……おい、レオ。大丈夫かよ」
ケンが自分の机をガタリと回して、心配そうにレオの顔を覗き込んできた。ケンの顔は、恐怖でまだ青白いままだ。
レオは反射的に、机の上に丸く落ちていた涙の跡を制服の袖で素早く拭い去った。
「何が? 僕は、最高に気分がいいよ。マイがこうして、無事に学校に戻ってきてくれたんだから」
自分でも驚くほど、滑らかで弾んだ声が出た。脳の最深部でリングがじわりと熱を持ち、僕の紡いだ言葉を「正解」だと優しく肯定しているのが分かる。
「嘘つけ。お前、さっき明らかに泣いてただろ。あんな不気味な女が来て、クラス中がまるで操り人形みたいになって……。お前まで、あっち側の人間に行っちまうのか?」
ケンの必死な言葉は、今の僕の耳には、ひどく耳障りで不快な「ノイズ」にしか聞こえなかった。
彼には、まだ手首にリングがない。だから、この白銀色の光がもたらす極上の多幸感も、一切の争いのない調和の美しさも理解できないのだ。かわいそうな、哀れなケン。
「ケン、声が大きいよ。君こそ、そんなに身体を震わせて……心拍の数値が乱れてるんじゃない? そんなんじゃリングを付けた途端に、検知されて『再調整施設』へまっしぐらだよ。あ、でもそれならそれで良いのか。マイのような完璧で美しい平均になれるわけだもんね」
「……っ、ふざけんな!」
ケンが感情を爆発させ、激しく拳で机を叩いた。その乾いた破裂音が、静まり返った教室の空気に鋭く、歪に響き渡る。
その瞬間、一斉に、クラスメイトたちの視線がケンへと集中した。全員が全く同じ角度で首を傾げ、同じ「心配そうな、でも目の中に感情が一切籠っていない顔」で彼をじっと見つめている。
「ケン君、どうしたの? 何か助けが必要?」
「みんなで一緒に平均に戻ろうよ、ケン君」
口々に、まるで事前に録音された合唱(コーラス)のように不気味に言葉が重なっていく。
ケンは恐怖に顔を歪めて後ずさりし、怯えたように僕の瞳を見た。
「……レオ、お前、本気でそんなことを言ってるのか? さっきの涙は何だったんだよ。あいつの顔を見て、お前の中の何かが、確かに壊れそうに叫んでたんじゃないのか……!」
僕は、ただ静かに微笑んだ。
手首のリングから容赦なく流し込まれる多幸感の霧が、僕の思考の輪郭を優しく、完全に包み込んでいく。
「叫ぶ? まさか。……ただ、少しだけ嬉しすぎただけだよ」
僕はそう言って、自分の中に生じかけた「圧倒的な違和感」という名の蓋を、さらにもう一段深く、全体重をかけるようにして力任せに押し込んだ。
ケンの放つ拒絶の言葉を振り切るようにして、僕は席を立ち、教室を激しく飛び出した。
無人の洗面所に駆け込み、蛇口を捻って冷水を何度も顔に叩きつける。鏡に映る自分の瞳の奥は、手首のリングと同じ白銀色の不気味な光に、じわじわと濁り始めているように見えた。
(大丈夫だ。僕は正常だ。僕は、この美しい平均の檻の中にいる)
そう何度も自分に言い聞かせ、呼吸を整えて教室に戻ろうと、静まり返った冷たい廊下の角を曲がった、その時だった。
「――そんなに急いで、一体どこへ行くの? 中野レオ君」
心臓が、ドクンと喉の手前まで跳ね上がった。
冷たい壁にそっと背を預け、まるで僕が来るのを最初から知っていたかのように待っていたのは、調整官・橘ユウナだった。
教室の広い空間では気づかなかったが、至近距離に立つ彼女の身体からは微かに、人工的なほどに甘ったるい、脳を痺れさせる花の香りが漂ってきた。その香気があまりにも深く肺胞に入り込んだ瞬間、レオのリングが「過剰な多幸感」を即座に検知し、手首の皮下組織を焦がすように激しく震え出す。
「……っ、調整官。失礼しました、教室に戻るところでして」
僕は本能的な恐怖から視線を逸らし、彼女の脇を素早く通り抜けようとした。しかし、彼女は一歩も動かぬまま、どこまでも穏やかで澄んだ声で僕の動きを止めた。
「さっきの朝礼、とても素晴らしい反応だったわ。あなたのリング、教室の誰よりも美しく、純粋に輝いていた」
彼女が音もなく、ゆっくりと僕との距離を詰めてくる。
その白く細い指先が、僕の左手首にある白銀色のリングに、まるで愛おしい愛玩動物にでも触れるかのように、そっと触れた。
「でもね、システムが弾き出す数値は、どこまでも正直なのよ。白銀の光の裏側で、あなたの実際の心拍数は、国家の健全な平均値を大きく上方逸脱していた。……でも、不思議ね。私があそこで、あなたのリングを赤黒く光らせるのを精神防壁で阻止してあげたのだけれど……何か、私に隠し事でもあるのかしら? 困ったことに、私は数値を定量することはできるけれど、その内側にある感情までは正確に測ることができなくて」

至近距離で見つめてくる彼女の瞳は、すべての光を吸い込みそうなほど深い、底知れない闇を湛えていた。
「……いいえ。ただ、マイが学校に戻ってきてくれたのが、本当に、嬉しくて」
「そう。ならいいのだけれど」
彼女はフッと口角を左右対称に上げると、僕の耳元にその冷たい唇を寄せ、吐息を吹きかけた。
「放課後、平均相談室に来てちょうだい。あなたのその、美しい『嬉し涙』の本当の正体、私に詳しく教えてくださいね」
彼女の人工的な花の香りを孕んだ吐息が、耳の皮膚を撫でる。
それは優しさを極限まで装った、絶対に逃げることの許されない「査察」の明確な宣告だった。
廊下の遠い角から、こちらを怯えたように盗み見ているケンの視線に気づきながらも、今の僕はただ、糸を切られた操り人形のように、深く首を縦に振ることしかできなかった。
背後で、彼女の履いた黒いヒールの音が、コツン、コツンと、僕の破滅への秒読み(カウントダウン)のように冷たく遠ざかっていく。
僕の心の奥底、力任せに閉じた蓋の裏側で、押し殺されていたはずの「致命的なノイズ」が、今までにないほど激しく暴れ始めていた。


第十話

「やっぱ、4人だと思うんだよな」
視界の端で、ハルが安っぽいスナック菓子のプラスチック袋をガサゴソと汚らしく鳴らしながら、さも重大な世界の真理に辿り着いたかのようなドヤ顔で言った。
「え?」
俺――カイは、脳内で行っていた逃走経路の幾何学的な演算を止め、ゆっくりと顔を上げた。
限界まで加速させていた思考のギアをオフにした瞬間、現実世界の時間の流れが、鉛のように重く肉体にのしかかってくる。こめかみの奥が、オーバーヒートを起こした機械のようにズキズキと鈍く痛んだ。
「うん、4人。ドザクエだって、モソハソだって、4人でのパーティーが王道だろ?」
「……いや、ホゲモンとかは6匹とかじゃなかったか?」
「うん! だから、4人目は女の子とか良いんじゃないかな! ほら、このパーティーには圧倒的に華がないし! 女の子がいたらおじさん、もっと限界超えて頑張れそう! あ、でもいざ目の前に来たら緊張してお話しできないかもな……」
ハルは開いたスナック菓子の袋を抱えたまま、一人で勝手に照れて、だらしなく鼻の下を伸ばしている。
この小太りの男が、現在この国で最も危険な行為の真っ最中であるという自覚は、どうやら脳の構造から決定的に欠落しているらしかった。
その隣では、つい数時間前まで「平均省の完璧な広報」としての仮面を被り続けていたはずのシンが、その彫刻のように美しい横顔を歪め、心底から汚物を見るような軽蔑の眼差しをハルに向けていた。
「ハルさん、ふざけているんですか。僕たちは『平均』という名の、国家規模の巨大な怪物と戦おうとしているんですよ。華なんて……そんな無駄なもの……」
「いやいや、シン君。君は全然わかってないなぁ。効率と数値だけでガチガチに固まった組織に風穴を開けるのは、いつだってこういう『不純物』なんだよ」
ハルは指先にべっとりと付いた人工調味料の粉をペロリと舐めとり、暗闇の中で不敵な笑みを浮かべた。
「平均省の冷徹な連中は、きっと全ての行動を統計的な最適解だけで選ぶ。だからこそ、奴らの高精度なシミュレーションには『おじさんが可愛い女の子にいいところを見せようとして、限界以上の力を出す』なんていう、非論理的なバグは1ミリも計算に入っていないんだ。これこそが、平均国家への最大の反逆だろ?」
めちゃくちゃな論理だった。あまりにも幼稚で、独りよがりな妄想。
だが、このハルという男が自信満々に口にすると、それが洗練された一つの戦術のように聞こえてしまうのが、カイにとっては猛烈に癪に障った。
俺は左手の、黒い手袋に隠された欠けた親指の付け根を、無意識にゆっくりとしごいた。
4人目――。
平均のリングを無効化し、この狂った世界の「外側」に自らの足で立つ者。
俺のようなシステムの規格から外れた欠損者、ハルのような思考のバグ、シンのような極限の演技者。もし次がいるとするならば、一体どんな異端だというのか。
「……で、具体的に当てはあるのか?」
俺の低い問いに、ハルは「待ってました!」とばかりにニヤリと笑うと、手元の薄汚れた携帯端末の画面を素早く操作し、液晶の眩しい光をこちらに向けた。
「いるよ。僕らの潜伏ルートにあるコンビニの店員さん。ほら、ここ」
暗い画面に映し出されたのは、少し眠そうに睫毛を伏せながら、しかし極めて正確で無駄のない動作で商品を茶色のレジ袋に詰める、一人の小柄な女子大生の姿だった。胸元に斜めにピン留めされた名札には「ミチル」と掠れた文字で書かれている。
「……ただのコンビニ店員じゃないか」
シンが冷ややかに言い捨てる。その瞳にはまだ、徹底されたプロとしての警戒心が宿っている。
「手首のリングの光も正常な淡い銀色だ。適合率もかなり高そうだ。ハルさん、ただ自分のタイプな女の子を押し付けているだけでしょう?」
「心外だなぁ! まあ、めちゃくちゃ可愛いよね。可愛くて、いつもレジでお釣り貰うときに目を合わせるのが本当に大変なんだ。でもさ、ミチルさんは僕みたいな不審者相手でも、しっかり目を見つめて挨拶してくれるんだ。ああ、思い出すだけで可愛いなぁ」
俺とシンは、完全に言葉を失い、冷ややかな氷の目でこの目の前の汚物を見つめていた。
「……ゴホン。おじさんはね、彼女の『無駄』を極めて高く評価してるんだよ」
ハルは気まずそうにわざとらしい咳払いをすると、急に真面目なトーンを装って画面の細部を指さした。
「見てよ、この商品の詰め方。平均リングをしてたら、普通、システムの最適解で『重いものは下、軽いものは上』って脳が瞬時に判断して動くでしょ? でも彼女、たまにパンの上に重い牛乳パックを置きそうになって、『あ、いけない!』みたいな顔して慌てて入れ替えるんだよ。この『迷い』!彼女の脳が完全に平均化されていない決定的な証拠だよ!」
カイとシンは思わず顔を見合わせた。
「……ハルさん。それ、ただのバイトの業務に慣れていない新人の、よくある初歩的なミスじゃないですか?」
シンが容赦のない正論でバッサリと切り捨てる。
「違うんだよシン君! 彼女、レジのバーコードを打つ速度も日によって全く違うんだ。雨の日はちょっと憂鬱そうにゆっくり、晴れの日はテキパキ。つまり、感情のバイオリズムが日々の作業効率に直接影響しちゃってるんだよ! 完璧な調和を謳う平均律国家において、気圧や気分でスピードが変わるなんて、もうそれ自体が立派な反逆者だと思わない?」
ハルは鼻息を荒くして熱弁を振るうが、画面に映るミチルはどう見ても、大学の講義終わりに猛烈な眠気と戦いながら淡々と夜勤のシフトをこなしている「どこにでもいる普通の女子大生」にしか見えなかった。
「……ハルさん」
俺は左手の手袋のズレを直し、低く押し殺した声で言った。
「要するに、その子が個人的にタイプで、どさくさに紛れて仲間に迎え入れたいと。あわよくば、男としてかっこいいところを見せて、そのまま付き合うような甘い展開を脳内で望んでいるんだろ。てか、そもそもこれ、どう見ても店内の防犯カメラの映像……要するに盗撮だろ? 国を倒す前に、まずはあなたを警察に突き出すべきだな」
「いやいや、待て待て! 待てって! そんなわけないだろ! 盗撮の件は本当にごめんなさい! ちょっと魔が差しました! 署に突き出すにしても、まずはこのクソみたいな国を打倒してからにして! お願いだから話を続けさせてください! ……彼女ね、たまにお釣りを渡すときに『あ、5円玉を切らしちゃいました。1円玉5枚でもいいですか?』って、ちょっと申し訳なさそうに眉を寄せて聞いてくるんだよ? その時の眉の寄せ方が、こう、極めて感情的で――」
「もういいです。帰りましょう」
シンが完全に呆れ果て、冷たく背を向けた。
「待って! 待ってよ二人とも! 彼女の大学の専攻、心理学なんだよ! この効率社会において、最も忌避される『正解のない学問』をわざわざ学んでるんだよ!? 絶対に僕たちの思想に共感してくれるって! ああ、ミチルさん、今日も画面の中で可愛いなぁ……」
ハルは廃ビルの冷たいコンクリートの床に崩れ落ちるように膝をつき、液晶の中のミチルに向かって熱心に手を合わせ、拝み始めている。
「……カイ、どうする。あいつ、あのまま放っておくか」
「……いや、こいつを一人にすると、作戦を始める前にただのストーカーとして現行犯逮捕されて平均省に突き出される。そうなると俺たちの居場所も芋づる式だ」
俺は深く、重いため息をついた。
もしそのミチルという少女が、本当に「平均」という名のドーパミンの飴玉に脳を依存させず、自分の足で迷いながら生きているのだとしたら。
「……わかった。一応、これでも俺たちの『軍師』だからな。全く無駄なことはしないだろう。とりあえず、そのコンビニに行くぞ。ハルさんのただの痛い妄想か、それとも本物のノイズか、この俺の目で直接確かめる」
「やった! カイ君、大好き! 本物のミチルさんに会えるぞー!」
夜の静まり返った屋上に、ハルの場違いな歓声が響き渡る。
俺とシンは、この先行きが絶望的に不安なパーティーの行く末を激しく案じながら、重い足取りで錆びついた非常階段へと向かった。
深夜2時。管理された完全な静寂を冷たく切り裂くように、俺たちは「4人目」――ハルの主観によれば孤独な聖女、俺たちの主観によればただの女子大生――が待つ、深夜のコンビニへと歩き出した。


第十一話

「ちょっとコンビニに行きながらで良いんだけれど、僕の思いつきを聞いてくれるかな」
等間隔に並ぶ街灯の冷白い光の下を歩きながら、ハルがまた何か突飛な変なことを言い出すのではないかと全身の神経を身構えつつ、カイは短く返事をした。
「なんですか」
「この左手のリングのことなんだけどね、定義上は『優劣のない幸福な世界』を作ることを目的にしているとされている。でもさ、僕たちは国から、どの基準を以て『優劣』や『平均』と定義しているのか、その具体的なアルゴリズムは一切説明を受けていない。装着者が感情を乱してリングが赤黒く光ったら、自分が平均から外れていること、優れているか劣っているかということは、網膜への視覚情報や脳への直接的なパルスによって瞬時に『理解させられる』ように設計されている。でもさ、その大元の基準があまりにも不明瞭なんだ。で、僕が寝ずに考えた一つの仮説なんだけれど……」
ハルが先程までのふざけた道化の態度とは打って変わって、冷徹なまでの真面目なトーンで話し始めたものだから、カイとシンはまるで鳩が豆鉄砲を食らったかのように言葉を失ってしまった。ハルは眼鏡の奥の鋭い瞳を怪しく光らせ、淡々と続ける。
「これって、本質的にはただの『定量』管理だと思うんだ。これなら、シンが8年間もの間、国の目を完全に偽り続けられたことにも綺麗な説明がつく」
「……『定量』管理?」
シンが美しく整った眉をひそめる。ハルの突拍子もない言葉を、自らの脳内の辞書で高速検索しているようだった。
「そうだよ。このリング、実は僕たちの心や感情といった『質』なんて、最初からこれっぽっちも見ちゃいないんだ。奴らが監視しているのは、血中の特定の化学物質の濃度、心拍の不規則な変動幅、脳波の特定の周波数……。そういった、センサーで容易に数値化しやすい『量』だけをただ機械的に監視しているに過ぎない」
「シン、君がこれまで平均省の監視の目を完全に欺き続けられたのは、君の『強い意志』が彼らを上回ったからじゃない。君が自らのバイタルサインを、無意識のうちに『平均的な数値の範囲内』に完璧にコントロールして、定量的なシステムエラーを回避し続けていたからに過ぎないんだ。つまり、メインサーバー側から見れば、君の精神的な異常は『ノイズ』としてすら検知されない、どこまでも健全で完璧な優等生の偽装データだったわけさ」
シンの顔が、驚愕で微かにこわばる。ハルは息をつく間もなく、今度はカイへと視線を向けた。
「そしてカイ。君のリングを外した覚醒能力が、なぜ『異様に疲れやすく、すぐに意識が飛びそうになる』か。その答えもこれだ。リングという物理的な制御弁(リミッター)を強引に外したことで、君の脳の演算回路は『定量的』な安全限界を完全に突破して、常にフル回転している。例えるなら、一般家庭用の細いコンセントに、大型化学プラント用の高圧電流を無理やり流しているようなものだよ。そりゃあ、ブレーカーが落ちるのも早いよね……とまあ、話はここまで! 待っててね! ミチルちゃん! 君の白馬の王子様が今やってきたよーん!」
今さっきまで、この国家の根幹を揺るがす「定量管理の致命的な欠陥」を、冷徹なまでの洞察力で解き明かしていた天才の背中とは、到底思えなかった。ハルは、まるでおもちゃ屋に駆け込む幼児のようなだらしない足取りで、自動ドアの前へと突進していく。
「……この男の、極端すぎる緩急は、一体なんなのだろうな」
「……全くだな」
カイは呆れを通り越し、全身から力が抜けるような虚脱感すら混じった声で漏らした。
その激しすぎる情緒の緩急に激しく振り回されながら、3人は目的のコンビニの、夜の闇の中で眩しすぎるほどに白く輝く、蛍光灯の照明の前にたどり着いた。
テレレレレレーレ、レレレレレー。
深夜2時。自動ドアが開くと、重苦しい夜の空気を押し返すように、眠気を無理やり安っぽいコンビニコーヒーで押し殺したような、どこか間の抜けた少女の声が店内に響いた。
「いらっしゃいませー……」
レジにポツンと立っていたのは、ハルのスマホ画面で見た通りの小柄な女性、ミチルだった。エプロンの胸元の名札が、彼女のずぼらさを表すように少し斜めに傾いている。
彼女は、今入ってきた男たちが「親指を自ら切り落とした最凶の覚醒者」「国家を揺るがす元ゲーマーの軍師」「昨日まで国の象徴だった有名インフルエンサー」の国家転覆3人組だとは露ほども思わず、ただ「深夜にガラの悪い男たちが一気に押し寄せてきた」という、至極真っ当で平均的な警戒心をその瞳に宿したようだった。
ハルは、先ほどまでの真剣な「定量管理」の講義などどこへやら、急に身体をそわそわとさせ、整髪料もつけていないボサボサの髪を何度もかき上げると、深く深く深呼吸した。
「ハ、ハロー、ミチルちゃん。今日も過酷な夜勤? 頑張るねぇ、おじさん本当に感心しちゃうな。でもさ、こんな若い女の子が深夜に夜勤で働くのは、治安的にもあんまり感心しないなあ。ああ、もちろん君が働くのが悪いとは言ってないんだけどね、うん」
ミチルは完全に無表情のまま、ハルの焦った顔をじっと見つめた。
「……ああ、あの5円玉を切らした時のお客さん。今日は、お連れ様がいるんですね。……って、え!? シンさん!? あの、テレビに出ていた有名インフルエンサーの!?」
ミチルの反応は、この国の人間として至極当然だった。何せ、この国においてシンの顔を知らない人間など、ほぼ存在しないのだから。
ハルはシンが何か返事をしようとするのを強引に遮り、その後ろ姿を隠すように自分の中年太りした大きな身体を割り込ませて、再びカウンター越しに話し始めた。
「あはは、5円玉のお客さんって! 僕のこと覚えててくれたんだ! いやあ、実は今日はね、ちょっと君に……というか、君の脳内にある『迷い』に用があって来たんだよね」
ハルがニヤけた気持ちの悪い顔で、カウンターに身を乗り出す。認知してもらえていたことがよっぽど嬉しいのだろう。このまま放っておけば、こいつはただの不審者として勝手に通報されて捕まりそうだ。
シンが後ろからハルの後頭部を本気で小突こうとしたが、カイがそれを手で制した。カイの鋭い視線は、ミチルの手元に完全に固定されていた。
彼女は、ハルの変なテンポの会話に戸惑いながらも、レジの下から商品の棚出しの整理を始めようとしていた。
「……用って何ですか? 公衆電話ならお店の外にありますし、おにぎりとお弁当なら今さっき棚出ししたばかりですけど」
「違うんだ。ミチルさん、君は自分自身で、全く気づいていないかもしれないけれど……」
ハルがさらに身を乗り出し、バックヤードにいる他の店員に聞かれないように、その声を不気味に潜めた。
「君のその左手のリング、さっきから僕たちの前で一度も、1ミリも、その光が揺れていないんだよ」
そのハルの言葉に、ミチルは微かに両目を見開いた。いや、目を見開いたつもりだった。だが、彼女の左手首にある銀色の輪は、彼女の驚きを微塵も検知せず、凪いだ真冬の海のように、冷酷なまでに静かなリズムを刻み続けている。
「ミチルさん。君は物心ついた昔から、周りの友達たちが一斉に笑ったり泣いたりする場面で、自分だけが何一つ心に何も感じていないような、そんな決定的な疎外感をずっと持っていなかったかい?」
ハルの静かな問いかけに、ミチルは作業をしていた手をピタリと止めた。
彼女の胸の内には、生まれつき「感情」というものが存在しなかった。
嬉しい、悲しい、あるいは激しい怒り。
そういった、人間が人間であるための起伏が、生まれつき決定的に欠落しているのだと、彼女はずっと自分自身を異常者として定義し、絶望していた。
16歳の誕生日の朝、初めてこの不気味な銀色のリングを左手首に強制装着された日、彼女は全身を恐怖で激しく震わせていた。
(私は脳が壊れている異常者だ。こんな感情のない冷徹な人間がリングを着ければ、平均からの著しい逸脱として、装着した瞬間にリングが赤黒く爆発的に発光し、私はそのまま再調整施設へ連行されるに違いない)
そう覚悟して、彼女は静かに目を閉じ、世界の終わりを待った。
しかし、数分経っても、数時間経っても、手首のリングは穏やかで健全な適合の色を保ち続けた。平均省のシステムは、彼女の生まれつきの「不動の心」を、感情を排した究極の「自己安定」として都合よく処理したのだ。
「……私は、自分が壊れた異常者だと思っていました」
ミチルは、自らの細い左手首を見つめた。
「でも、このリングは私に何も教えてくれない。私の内側にある決定的な欠落も、夜毎に襲ってくる恐怖も、この冷たい機械にとっては、ただの『正常な数値』でしかないんです」
「そうだよ、ミチルちゃん」
ハルが、いつになく深く、父親のように優しい声で言った。
「さっきビルの外で話してたんだ。このリングは僕たちの『心』なんて最初から見ていない。ただの『定量』、つまりバイタル数値の表面的な変動だけを監視してるのさ。君の心拍数が24時間全く変動しないのは、システムから見れば『完璧に感情を管理された最高の優等生』に見えるんだよ。本当は、人一倍その欠落に悩み、自分を異常だと責め続けてきた、君の『質』の部分を、奴らは完全に見落としている」
ミチルはゆっくりと顔を上げ、目の前に立つハルを、そしてその後ろに静かに佇むカイとシンを見つめた。
「私の……質?」
「そう。シン君が強靭な意志で隠し、カイ君が限界突破で叩き壊したその静寂を、君は生まれつき最初から持っていたんだ。システムがノイズとしてすら検知できないほどの、深い、深い無の静寂。それは、すべてが平均化されたこの国において、最強の隠密(ステルス)性能なんだよ」
ハルはそう言うと、カウンターの上にあった茶色のレジ袋を一枚、指先で不器用に広げて彼女に差し出した。
「心理学という正解のない問いに、たった一人で向き合ってきた君のこれまでの孤独な時間が、どれだけ貴重な、かけがえのない『n=1』の物語か。ねえ、ミチルさん。その静かな心で、僕たちと一緒にこの国の『偽り』のグラフを叩き壊してみない?」
ミチルは、ハルの差し出したその不格好で、しかしどこまでも真っ直ぐな勧誘の言葉に、生まれて初めて、魂の奥底が震えるような本当の「迷い」を感じていた。リングの定量的な数値には決して現れない、彼女の魂だけの微かな震え。
「……ハルさん、もし私がこれで本当に『再調整施設』に送られるようなことになったら、あなたが必ず私の人生の責任を取ってくださいね」
彼女はフッと微かに微笑むと、胸元にピン留めされていた名札を静かに外し、白いカウンターの上にパタンと置いた。
「……わたし、行きます。この、おかしな反逆者パーティーに」
ミチルが静かに、けれど明確な個の意志を込めて告げた、その瞬間だった。
カイがそっとカウンター越しに手を伸ばした。黒い手袋に包まれた、親指を欠損したその左手が、ミチルの左手首にあるシルバーリングに優しく触れる。
カイの剥き出しの体温と、彼の中に流れる「リミッターを外した脳波」の凄まじい余熱が、冷たい金属の輪を通じて、ミチルの肉体の内側へとなだれ込んでいった。
「……っ」
激しい衝撃はなかった。ただ、果てしなく深い夜の海に、一滴の鮮やかなインクを静かに落としたかのような、どこまでも深い精神の浸透だった。
シンの時に見せたあの激しい紫色の発光とは完全に対照的に、ミチルのリングは、静かな月光を浴びた水面のように、どこまでも「透き通った白銀」へと、穏やかにその色彩を変えていった。
「あ……」
ミチルは小さく息を漏らした。
ずっと、自分は人間として異常だと思っていた。人と同じように心が波立たない自分は、この世界の「平均」という大きな美しい物語からこぼれ落ちた、出来損ないのゴミの欠片なのだと。
けれど今、カイの左手から伝わってくるのは、世界への荒々しい憎しみだけではない、同じ「外側」に立つ者としての、どこまでも温かな魂の共鳴だった。
リングは鳴らない。警報のノイズも出ない。
ただ、ミチルの網膜の視界が、水滴が波紋を広げるように静かに、鮮やかに書き換えられていった。
ふと、ミチルは目の前にいるハルの顔を見る。突然正面から見つめられたハルは、急に緊張で顔を耳の根元まで真っ赤にさせて視線を彷徨わせている。

(……この人、言葉は軽いけれど、本当はすごく緊張してる。私のことを、何があっても絶対に守らなきゃって、必死で……)
不意に、脳内に他人の思考の濁流が流れ込んできた。それは言葉という記号ではなく、もっと生々しい体温を伴った、剥き出しの「感情の断片」そのものだった。カイの左手が触れた場所から、彼らの心の奥底にある不器用な優しさが、濁りのないクリスタルのような像となって、ミチルの脳裏にダイレクトに結ばれていく。
ミチルは目を見開いた。
彼女がこの無機質な深夜のコンビニで過酷な夜勤のバイトをしていたのは、単に生活費を稼ぐためだけではなかった。
感情の起伏が極端に乏しい自分にとって、他人の笑い声や涙は、すべて理解不能な記号に過ぎなかった。だからこそ、大学で心理学を専攻し、不特定多数の「平均的な人間」がただ通り過ぎていくこの場所を、人間を学ぶための「観察の場」に選んだのだ。
(みんな、一体何を考えて笑っているんだろう。何を求めて、こんなに必死になって、システムの提示する『平均』であろうとするんだろう……)
その答えを求めて、何百、何千という人間たちの記号化された「表層」を接客してきた。だが、どれだけ冷徹に観察しても、彼女の空っぽな心に響くものは何一つなかった。
けれど今、手首のリングを通じてダイレクトに流れ込んできたのは、そんな外面の観察(データ)などではない。生きた人間の、魂の震えそのものだった。
「……ハルさん。カイさん、シンさん」
ミチルは、自分の名を呼ぶ3人の人間の「心の形」が、色鮮やかな光の粒子となって、自分の視界の空間に立体的に浮かび上がるのを確かに感じていた。
「この力……。私、分かります。皆さんが今、どれだけ強い覚悟を決めてここに立っているか。そして、どれだけ、気が遠くなるほど孤独だったか」
ハルが、まるで世界の奇跡を目の当たりにしたかのように、深く息を吐いた。
「すごいな……。定量管理を司るリングが、ミチルちゃんの『無の静寂』を最強の増幅器に変えたんだ。君は、数値化できない人間の『質』を……その心の奥にある感情の波形を、直接受信(キャッチ)できるようになったんだよ」
ミチルの手首のリングは、月光のような透明な白銀の輝きを保ったまま、まるで静かに呼吸しているかのように、優しく明滅を繰り返している。
「私、ずっと自分が異常だと思って、この深夜のレジカウンターの奥から、みんなを覗き見ることしかできなかった。でも……生まれて初めて、人と心が繋がった気がします」
ミチルはカイの右手を、自分の方からしっかりと力強く握り返した。
「もう、観察は要りません。皆さんの心と一緒に、私もこの国の『偽りの幸福』をすべて解き明かしたい」
カイは驚きに目を見開いたが、やがて彼女の覚悟を受け止め、深い信頼を込めた力強い眼差しを返した。
「……俺たちは、世界で最強の『目』を手に入れたみたいだな。頼りにしてるぜ、ミチル」
「それ、本来なら僕のカッコいいセリフでは……!?」
ハルは猛烈に悔しそうな眼をして、カイの顔をジト目で睨みつけるのだった。
深夜2時。他人の心をただ覗き見ることでしか自分という存在を保てなかった孤独な女性が、初めて他人の心と本質で共鳴し、最強の戦士として覚醒した。
コンビニの店内に流れる安っぽい有線BGMの向こう側で、徹底的に管理されていた世界の「不気味な静寂」が、今、決定的に崩壊し始めていた。
「はい。間違いありません、シンだと思われます。ええ。はい。はい。……すぐに向かわせる、ですね。よろしくお願いいたします」


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