ゲイと家族 第9回|ゲイ雑誌投稿と男同士の出会い|戸川悟
振返ってみると、自分が本当の意味で人と恋愛関係を結ぼうと行動し始めたのは、大学3年になってからだと言える。多くの人は思春期の中学高校時代に恋愛に目覚め、交際を始めるのだろうが、自分にはそうした経験は皆無だった。
以前、第4回で中学1年生時の野中君とのほろ苦きセクシャルな体験を紹介したが、それは衝撃的ではありつつも、ほぼ性の実験的な試みと言えるもので、恋愛感情を抱く交際ではなかった。
また、第5回で書いた通り、高校で映画研究部の女子、東出さんから告白されても、私は逃げ惑うばかりであったし、高校3年生時の同級生で野球部のピッチャーだった萩原君も、遠くから憧れているだけで精一杯だった。いわば奥手もいいところだった。
さらに第6回から第8回で紹介したように、大学生になってからも、クソ真面目な性格も手伝い、1年生時はフィリピンでの見聞、2年生時は左翼運動への傾倒に圧倒されていて、私には恋愛に注力する心の余裕も視野もなかった。
ゲイとして同性の誰かと恋愛をするという発想が、まだ自分には育っていなかったし、摸倣できるロールモデルの存在もなかったのだ。
今のようにLGBTが世間で喧伝され、スマホの出会い系アプリ等を通じて、人との出会いが気軽にできてしまう時代とは違っていた。
当時はゲイの出会いの手段と言えば、都会のゲイバーに通うことや、いわゆるカジュアルなセックスを求めるハッテン場と呼ばれる場所に行く以外では、ゲイ雑誌の存在が大きかった。
特定の公園、特定のトイレや映画館さらにはサウナなどのハッテン場に行く勇気もお金もない私には、とりわけ貴重な出会いの手段だった。
ゲイ雑誌は、男性の裸体のグラビアやエロ的要素が全面に出ていることが多いゲイの恋愛小説・漫画の他に文通欄があるのが特徴だった。
高校生の時、私の住んでいた北陸の町の本屋で、たまたま『薔薇族』『さぶ』『アドン』といった代表的なゲイ雑誌を目にした私は、グラビアに出てくる男性ヌードに強い衝撃を受け、相当な勇気を振り絞ってそれらをレジに持っていったものだ。
しかし東京では、ゲイタウンとして知られる新宿二丁目に行けば、あまり人目を気にせず、ゲイ男性が好むビデオなどと共に購入することができた。
私が大学生当時の新宿二丁目は、現在見られるような、堂々と1階の路面に店を構えるようなバーはなく、雑居ビルの2階以上の奥まった小部屋にカウンターがなんとかおさまっているところが多かったようだ。「ようだ」というのは、私は酒が全く飲めないため、狭いムラ空間のようなバーでマスターやお客と会話を楽しむことが苦手で、当時、ゲイバーにはほとんど足を踏み入れず、経験が乏しいのだ。
今までの人生において、ゲイバーには20回ほど友人に連れて行ってもらったに過ぎない。大学生の私は、ゲイ雑誌を求めに新宿ニ丁目のバーではなく、本屋に割とよく足を運んでいた。
当時から二丁目は週末金曜、土曜の夜ともなれば、多くの同性愛者で路上も賑わっていた。自分が一人で二丁目に行くときは、そうした人々を横目に見つつ、一直線に雑誌を求めに本屋に向かったものだ。
大学3年になり左翼運動の縛りから解放された私は、二丁目で手に入れたゲイ雑誌の文通欄を通じて、私なりに出会いの模索を始めた。
その当時、私が主に利用していた雑誌は『アドン』だった。『アドン』は、ゲイ雑誌の中では多少ゲイの権利主張を匂わせる記事も織り交ぜられているのが特色だった。
ちなみにこの『アドン』であるが、編集長の南定四郎さんは、日本のゲイリブ(LGBTの概念がまだ存在しない頃のゲイとレズビアンの権利擁護運動)の草分け的存在で、界隈では有名な人だった。
細かい経緯は忘れてしまったが、日本語教師をしていた大学生活最後の頃に、南さんが同席する集まりに参加した際に、私が英米文学専攻だったこともあり、欧米のゲイとレズビアンの解放運動の研究書である、バリー・ダグラス・アダムズの著書、The Rise of A Gay and Lesbian Movement の翻訳を頼まれ、引き受けたことがあった。
私なりに真剣に取り組んではみたのだが、そのうち私もアメリカに渡ってしまい、翻訳を完結させられなかったのが悔やまれる。結局、日本語版は出版されなかったようだ。
さて、『アドン』の文通欄の話に戻ろう。この文通欄は、リアルに理想の男性に会うための当時は貴重な手段だったわけだが、私が載せた投稿は記憶をたどるとこんな塩梅だ。
172*65*20 未来少年コナン
文系の大学生です。年上の優しい人との出会いがほしいです。語学を学ぶことが好きで日本語の講師もしています。楽しい出会いに期待してます! 一緒に街を歩けたら嬉しいです。
私は好奇心いっぱいで、外国人の投稿者に手紙を送ることも厭わなかった。英語を勉強していたのも、子どもの頃から両親と一緒によく見ていた洋画の影響で、外国に憧れを持つようになっていたことが理由の一つだった。
自分からはこんな投稿に手紙を送っていた。
173*75*38 エピクロス
東京に住むアメリカ人で哲学を教えています。快楽主義者ですが、よろしくお願いします。年下の若い人が好きです。
この「エピクロス」こと、デイビッドとは実際に半年ほど付き合った。ほかにも投稿を通じて出会い交際にまで至った人の中には、当時40歳くらいだったイギリス人の大学の英語講師もいた。彼らはいずれも流暢な日本語が話せた。
そんな出会いを経ながら、人づてに貿易商のアメリカ人で当時40代だったリックと出会った。彼はウォーターベッドをアメリカから輸入して、日本で販売する商売などをしていた。リックは日本の社会にどっぷり浸かった生活をしており、日本語の熟達度も群を抜いていたが、彼とは彼のペースに乗った形で親密な情緒的つながりが持てたのは確かだ。
リックは貿易商だけあって、交友関係は日本人を中心に広く派手であり、商売仲間から名の知れたダンサーやピアニストにまで及び、私も引き合わされる機会が多かった。
そんな彼のソーシャルライフを通じて、私は自分の憧れていた東京の暮らしを目の当たりにすることができたのだが、どこか大学生の自分には身の丈にあったものではなく、落ち着かなかった。
ライフスタイルの違いの大きさから、私の気持ちもだんだんと冷めてゆき、それを感じ取ったリックの方から別れを告げてきて、二人の関係は半年ほどで終焉を迎えたのだった。
(つづく)
著者プロフィール
戸川悟(とがわ・さとる)
1967年生まれ。ゲイ男性。東京の大学を卒業するも就職して不適応を起こす恐怖感からアメリカ中西部の田舎町にわたり、小さなカレッジで日本語講師を2年間務める。その際、社会学修士号を地元の州立大学で取得。帰国後27歳で、外務省傘下の国際協力機関に就職したが短期で退職。その後、HIV感染者やエイズ罹患者を支援するボランティア活動を経て、精神障碍者の支援を行う福祉相談員として26年間勤務している。
これまで2人の男性と長年の相方となったが、現在は独り身。生涯の伴侶となるような新たな関係を追い求めている、還暦に手が届きそうなおじさん。
